前編 “水鏡の檻、心音は濁流を渡る”
溺渦湖は、夜の帳が降り切った瞬間から腐敗の層をめくりはじめる。桟橋に立った私は、鼻孔を刺す鉄錆の匂いと、柘榴酒に似た甘露の香りが織り交ざる空気を吸い込み、肺の奥で攪拌した。
——怒りも焦燥も恋心も、すべて同じ密度の水。
そう考えなければ、詩など書けないし呼吸すらできない。私——廃寺 澪火、十七歳。流行のフィルターでは覆い隠せない傷を“ことば”で焼き重ねる少女だ。
湖面は透明な棺。月光が貼りついたその鏡に、ふと自分の影が揺らいだ気がして心拍が跳ねる。濁った夜水の底から、冷たい指が私の足首を探っている——そんな妄想。《死者の脈拍》と校内で呼ばれる怪談を思い出し、唇が乾いた。
「綺麗に見える? それとも……喰われそう?」
低温の声が背後から斬り込んできた。振り向けば、制服の襟をきっちり留めた転校生、憂河 暁斗。真昼の保健室のように無菌な顔色。だが眼底に揺れる藍燐は、息絶えた祈りの残火だ。
「湖なんて鏡に過ぎない。君の言葉を落とせば、底で発酵して腐臭に変わる。怖くない?」
彼は私の掌から手帳を奪うように開く。
—退屈に酸素は払わない
—恋と怒りは同じ密度の水
落書きのような詩に目を走らせ、薄い笑みを浮かべた。
「君の心臓がこんなにも飢えているなら……夜中に湖でレコーディングしよう。そこでしか拾えない音がある」
文化祭一ヶ月前。吹きさらしの旧器材庫は私たちの練習場。薄暗いランプの下、埃を吸ったマットが音を呑み込み、**揺師 太弄**のベースが床板を軋ませる。
彼は長身の影を落とし、運指の残響で空気をねじる。
「ここで十分だろ? 溺渦湖は、去年、水泳部の二人が——」
言葉の端が濁り、水面に沈む石のように重い。
「遺体が上がらないまま、行方不明扱いのまま、って話だろ?」
ドラムセットの奥、**Doloris・Ashwyn**が毒牙のようにスティックでリムを弾く。「死人とセッション、いいじゃん。鼓動が二つ三つ増えるだけさ」
私はギターストラップを肩にかけ、導火線みたいに乾いた舌先で唇を火花にする。
「死霊の咳でも、音になるなら欲しい。——行くわ」
暁斗の藍色の視線が湖面ほど硬質に光り、太弄は沈痛な笑みを作った。
どこかで蛍光灯が切れ、器材庫は生温い闇に包まれる。ドロリスがシンバルを爪で引っ掻き、金属音が悲鳴のように伸びた。
雲膜を通した月は、血の薄膜を纏った眼球に似ていた。桟橋の板は海藻に浸された棺材の匂いを放ち、靴裏が吸いつくたびに湿った呻きを漏らす。
ランプを置き、ポータブルアンプのスイッチを入れると、心臓より重い低周波が腹腔を打った。湖水がざわり、と返す——呻きのようなコーラス。
——始めよう。
曲名『Hydrology of Heartbreak』。
太弄のドロップDが黒い底流を巻き込み、ドロリスのハイハットが泡立つ瀝青を撒き散らす。
私は叫ぶ。
> —水底の孤独を掬って君へ流す
> —心臓が滲む音を聴け
弦を叩くたび返るのは反響ではなく呻き混ざりのハモり。
「聞こえるか? この呼吸、湖底の遺体が吐き出してる」
暁斗が囁き、私の背骨を氷片が駆け上がる。
湖面に映る四つの影。そのうち私だけが欠けている。
脳が恐怖を理解する前に、桟橋が沈むように傾き、足首から氷水が這い上がった。
——違う、這い上がっているのは手だ。
骨ばった指が靴紐を解き、脛を撫で、肉を探る。
「澪火!」
太弄の叫びが耳奥で割れる。ドロリスのシンバルが悲鳴を増幅させる。しかし私は声にならない声を喉奥に詰め込んだまま、湖へ引き摺り込まれた。
水圧が鼓膜を潰し、心拍はベースラインを倍速で刻む。喉に忍び込む冷水が歌詞を流し去るが、それでも火薬の残り火が胸で罅割れる。
視界の端、飛沫を割って暁斗が身を投げてくる。
彼の指が私の手首を掴む——驚くほど温かい。けれど背後で月が**逆さに裂け、血のような光をしたたらせる裂縫**を作った。
水中なのに、彼の声は直に鼓膜を叩く。
「澪火……こっちが本当の空だ」
肺が悲鳴と恋慕で飽和し、裂縫は口を開いた。
——湖底と空を取り違えたような、黒い竜巻。《水鏡の裏側》から伸びる腕が私たちを招く。
抵抗より先に好奇心が導火線へ火を付けた。
私は暁斗の腕を掴み返し、心臓を一打強く鳴らす。
「じゃあ、歌おう。此岸と彼岸が混ざるように」
次の瞬間、世界は深藍に反転し、桟橋の木霊も、太弄の低音も、ドロリスのハイハットも、すべてが遠い水泡へ変わった。
私と暁斗を呑み込む裂け目——そこで淡く逆巻く燐光だけが、新しいリズムを刻み始める。
―To be continued.