第8話 乳母
マルト=メートルとお考えください。
さて、お嫁に来たのはいいけれど、今までバタバタしていてよくわかっていなかった。
この家、牧場の農夫とはいっても、かなり裕福な方らしい。
それはそうか、ドラゴンなんて国の軍か貴族かすごくお金持ちの商売人くらいにしか売れないわけで、それなりの規模で商売をやっているらしい。
この家だって伯爵家ほどじゃないけれど結構広い。
使用人だってマチルダだけじゃなく、他にも何人かいるみたいだ。
マチルダは通いの使用人だ。
といってもほとんど同じ敷地内に家があるんだから住み込みとそう違わないけどさ。
実際住み込みの使用人もいるみたい。
「マチルダ、やっぱり家の奥さんとしては朝食の準備とかするんだよね? 私、料理やったことないんだけど……」
なにしろ、竜騎士は貴族の中でも末席扱いといえども貴族は貴族。
調理人はいたことはいた。年取ったおばあちゃんだったけど。
「それは私たち使用人がやりますわ、ご心配なく。さ、それこそお食事の時間ですわよ」
そう言ってマチルダがドアを開けると。
そこにはびっくりするほどきれいな顔をした少年が立っていた。
「わっ!」
びっくりして声を出してしまう。
「おはよう、ミントさん」
私の旦那様ではないか。
これから牧場の仕事をするのだろうか、ラフな作業着みたいな服を着ているけれど、これはこれで似合っていて可愛い。
「おはようございます、ルパート様」
「様はいらないって! 僕は貴族とかじゃないんだ。もう一回ちゃんと呼んで」
「えっと、ルパート……おはよう」
「うん、おはよう!」
笑顔で言うルパート。
可愛い……。
「ミントさん、昨日はゆっくり眠れた?」
「うん、眠るのは得意だから……」
「あはは! ミントさんって面白いね! でもまだこの家に慣れていないだろうし、マチルダ、前から言ってたけど君をミントさんの専属にするからさ、僕の……妻を、」
妻、っていった瞬間に顔を真赤にするルパート。
「妻をよろしくね」
「もちろんですわ」
そっかー。
私は妻なんだなー。
全然実感ない。
「ミントさんに嫌なことするやつがいたらすぐに僕に教えてね! やっつけてあげるから! ……ホントはさ、新婚旅行にでも行くところなんだろうけど、僕がまだ子供だから……。僕が一人前になったらミントさんの好きなところどこでも連れて行くから!」
まあそりゃそうだよね、十歳の男の子と旅行したところで新婚旅行って感じにはならないし。
「今日は朝ごはん食べたら牧場に連れて行ってあげるよ! ミントさん、ドラゴンって見たことある?」
「間近でみたことはないかも」
「すごくかっこいいよ! 僕が牧場や村を案内したげる!」
★★★
すごく、びっくりした。
想像以上に広かった。
そして、地形もさまざまだった。
牧場っていうから、てっきり牛や馬の牧場みたいに一面に広がる草原みたいのを想像していたけど、そんなもんじゃなかった。
そこにあったのは、まずは鬱蒼とした森。
広さは……これ、どのくらいあるんだろうか、とても一日で人間が歩いて回ることなどできそうもないほどの広さ。
それだけじゃない。
森を抜けたところには地面が割れて崖のようなところになっているところがあった。
地割れの幅は数十マルト。
深さは百マルトほどもあるだろうか。
その崖の途中にいくつか洞窟のように穴があいていて、そこにドラゴンは住み着いているようだった。
もちろん、あまりに広すぎて私みたいな貴族の娘だった人間が徒歩で歩き回るなんて絶対に無理!
だから、特別に品種改良された大きな馬に二人乗りでここまでやってきたのだ。
私が馬を御すことなんてできるわけもないから、手綱はルパートが握っている。
で、私はその後ろで旦那様のベルトを握ってるってわけ。
ドラゴンどころか馬に乗るのも初めてなのだ。
馬の体高は私の身長より頭ひとつ分以上高くて、ルパートに手伝ってもらってやっとこさよじ登った。
馬に乗ると視線がかなり高くなる。
下手すると目の高さが平屋の屋根と同じくらいになるから、高所恐怖症な人には無理だろうな。
私は高いところ好きだからだいじょうぶだけど。
「ミントさん、怖くないかい?」
「う、うん、大丈夫……ルパートにつかまってるから」
まだ十歳、未成熟の男の体はまだ小さくて、頼りない気もする。
「ふふふ、貴族の娘さんってみんなが乗馬やってるわけじゃないんだね」
「そりゃそういうのもいるよ? 乗馬を趣味してる貴族って多いし、社交の場になったりするから。でも私は馬は戦争の道具だから、といってお父様が乗るのを許してくれなかったの」
実際に戦場に出ていたお父様だったからこそ、その悲惨さを知っていて私には乗馬をさせたくなかったのかもしれない。
「でもこれから覚えてもらうよ! じゃないとこの牧場、徒歩だと一日でドラゴンの元にたどりつけないからね」
「ドラゴンの元って、あの崖の穴?」
「まさか、あそこはドラゴンたちのプライベート空間だから挨拶もなしにはいったらあっという間に焼き払われちゃうよ。ミントさんも気をつけてね、あそこの崖は世界一危険な崖だから」
「で、どこでドラゴンと会うの?」
「ちょうど、ついた。ここだよ」
まずは崖から離れた森の中。
そこに、広めの空間があり、大きな水たまりがあった。
ルパートは首にかけていた横笛ーードラゴンフルートってよばれているらしい、なにそれ?ーーを取り出すと、唇にあてて拭き始めた。
それは、曲だった。
雄大な自然を思わせるような壮大な曲。
ドラゴンフルートの音色は森を抜け崖まで届いているそうだ。
しばらくして、一頭の巨大なドラゴンが、高い木々が生えているさらにその上を、大きな翼をはばたかせ、ゆったりと飛んできた。
濃い緑色のうろこが全身を覆っている。
見るだけで恐怖を与えてくるようなどでかい頭部、その目は残虐さを覚えさせるほどぎらついており、その口には光沢のある鋭い牙。
全長十マルトはあるかと思われるような、巨大な黒光りする翼。
やばいやばいやばい!
これ、近づいただけでも戦意喪失だよ。
逃げることもできない、どうぞ私の体を今日のおやつに差し上げます、と心の底から言いそうになったくらいの、人間では絶対にありえないくらいの畏怖を感じた。逃げる気力もなくなってどうぞ私を食べてくださいと地面に寝転がる以外のなにができようか。
私達の前に降り立って、その感情の読めない真っ黒な瞳で私を見つめるドラゴン。
本能的に私の体が意思とは無関係にガタガタ震えてきちゃった。なにこれ……。
「あははは、怖いよね、ミントさん。でも大丈夫だよ。この方は僕の乳母でもあるんだ」
「は?」
あまりにも予想外のワード――乳母――がでてきたのでびっくりして私の体の震えがとまった。
今度は硬直したんだけどね。
「紹介するよ、この方は僕の乳母にして師匠、ギーアルさんだ」
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