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九珠の剣  作者: 故水小辰
第六章 己の道
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旅路の先

 うららかな陽気が降り注ぎ、冷え切った空気をわずかに温める。

 九珠は瑞州へと入る船のへりに一人佇み、腰に巻いていた白い布をじっと見つめていた。



 思い出されるのは兄たちの暗い顔ばかりだ――主の棺とともに帰ってきた九珠を、律家の兄弟たちは始めこそとんでもない騒動で出迎えた。しかし、九珠が蘇口でのことを淡々と説明するうちに、八人の兄たちは皆じっと押し黙ってしまった――久しぶりに揃った九人の兄妹のうち、圧制に耐えられた者は誰一人いない。殴られ、罵られ、かといって死ぬことも許されない地獄の日々は、皆に等しく影を投げかけていた。

 葬式を挙げ、埋葬し、墓標を掘る間、兄妹は必要最低限のことしか会話を交わさなかった。そして最後に九珠が発つときになってようやく、長兄が九珠に問いかけた。


「これから、どうするのだ」


 九珠は兄たちの顔を順番に見回した。暗い顔には一様に戸惑いと迷いが見え隠れしている。


「私は師のもとに帰る」


「あの岐泉鎮とかいう田舎町か」


 やや乱暴に声を上げたのは六番目の兄だ。九珠を連れ戻すために出向いた結果群衆の前で恥を晒したのだ、その後彼が受けた仕打ちは想像するに容易い。


「ああ」


 九珠は怯むことなく答えた。そもそも九珠には怯む理由がもうない。


「だがその前に瑞州に寄る。常秋水の邸宅に招かれているのでな」


 常秋水の名を出せば案の定、兄たちが一斉にどよめいた。律家の現状を作った遠因たる人物と親交を持っていること自体が、彼らにとってはあり得ないことだ。


「大哥、二哥。父上が亡くなったからには、私たちはもう何にも縛られず自由に生きられるはずだ。武術で生計を立てることもできるし、他の道を選ぶことだってできる。もう父上の野望に従う必要もない……私たちは、自由の身になったんじゃないのか」


 九珠の言葉に、長兄と次兄は揃って目を伏せた。言われずとも分かっていると、全身が語っているようだ。


「そうだろう? 三哥――」


「そうだな」


 返事がないのを見て取り、三番目の兄に話しかけた九珠を、長兄がぽつりと遮った。


「我々は皆自由だ……だが、どこへも行けはしない。特に俺たちのように人生で父上しか知らない身では、今更どうしようもないんだよ」


 諦めたような言葉を語りつつ、頬には涙が伝う。九珠は呆気に取られて兄を凝視した。


「父上から逃げられなかった俺たちは、一生あの人の存在を背負い続けないといけない。五弟くらいは何とか嫁ももらえるだろうし、七弟や八弟は用心棒の仕事があるかもしれないが、律峰戒の名がどこへ行っても付きまとうだろう……お前しかいないんだ、小妹。好きなように羽ばたいていけるのは」


 九珠は頭を殴られたような心地がした。たしかに、末っ子の九珠と長兄とは親子ほども年の差がある。終わりを意識し始めたところに突然自由を言い渡されても、あるのは諦観とやり場のない苛立ちだけだろう。


「大哥の言う通りだ。九珠」


 返す言葉を失った九珠の肩に、次兄がそっと手を重ねる。


「お前は強くて聡い。常秋水とも知り合えたならこの先どうとでも生きていける。だから、お前は自分のことだけ考えろ。捨て置かれた俺たちのことは忘れて、自分のことに専念すればいい。お前一人でも逃れられたなら、俺たちだって浮かばれないことはないだろうさ」



 寂れた屋敷、うらぶれた兄たち、諦めの言葉。もう会うことのない兄たちが最後に見せた顔が頭から離れない。九珠は指の腹で布を撫でると、丁寧にたたんで懐に仕舞った。

 ――やはり、あの家からは逃れられない。律家の存在はこれからも、九珠の中でくすぶり続けるのだろう。九珠は小さく鼻をすすると、冬景色の瑞州に目を向けた。きんと冷たい空気の中にも穏やかな気品が漂い、町の美しさを全く減じさせていない。


 船を降りると、いつか九珠を春秋荘まで案内してくれた梅凛が待ち構えていた。相変わらず愛想のない彼女に案内されるままに町を歩き、淡雪を頂く門をくぐって常家春秋荘に足を踏み入れる。

 通されたのは知廃生の寝室だった。寝台には寝間着姿の知廃生が起き出しており、脇の椅子には簫無唱が腰かけている。

 九珠は拱手して一礼したが、挨拶もそこそこに座るよう促された――ちょうど三角形を描くように、空いた椅子がぽつんと残されている。


「すまないね。こんな格好で。平京ほどではないとはいえ、冬の寒さは病躯にこたえる」


 知廃生が困り眉で言った。一方の簫無唱は穏やかな口調で道中のことを尋ねてきた。


「特に何もありませんでした。スリを一人捕まえたくらいでしょうか」


「良い心がけだね。不平があれば義を以て正す、侠客としてあるべき行いだ」


 知廃生がうんうんと頷く横で、簫無唱は表情をぴくりとも変えない。簫無唱は「九珠」と切り出すと、


「実は、あなたがいない間に決めたことがあります」


 と告げた。


「鳴鶴のことです。江玲がことを伝えるために傲世会に戻り、あの子は今私が見ています。部屋の中くらいなら動き回れるようになりましたが、体力も精神力も弱り切っています。武功をも完全に回復するとなると、彼の年齢以上の時間がかかるでしょう」


「そうですか」


 九珠は静かに頷いた。大英雄になると眩しいほどの覚悟を持っていた飛雕にとっては、回復の見込みがあるとはいえやはり酷なことだろう。


「ですが一人だけ、彼の回復に手を貸してくれるであろう御仁がいます。世外(せがい)剣謫仙(けんたくせん)の話を聞いたことはありますか?」


「……東の孤島に住んでいるという、仙人のことですか?」


 九珠は訝しみながら聞き返した。たしかに、東の海に浮かぶ孤島に武術の達人が住んでいて、その卓越した武功と世俗に関わらない姿勢から世外剣謫仙と呼ばれているという話は聞いたことがある。だが、その存在は伝承や伝説にしか登場せず、李玉霞よりも現実味がない。おおよそ簫無唱の口から出るとは思えない人物に、九珠は首を傾げずにはいられなかった。


「あの方は古今東西の武術に通じているだけでなく、兵法、占卜(せんぼく)、道法、そして医術の達人でもあります。まさしく森羅万象を掌握していると言っても過言ではありません。もし受け入れてもらえるならば、鳴鶴が早くに武功を取り戻すことも叶うでしょう」


「そうですか……ですが、その方は本当に実在するのですか?」


 会ったことがあるかのように語る簫無唱に、九珠はますます首を傾げるばかりだ。

 果たして簫無唱は力強く頷いた。


「もちろんです。世外剣謫仙こと雲逍遥(うんしょうよう)様は、私に剣の真髄を授けたお方――あなたの大師父に当たるお方です」




                       ――『九珠の剣』第一部 完――

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