永別
律峰戒は愕然と九珠を見つめていた。落ち窪んだ眼窩からぽろりと落ちそうなほどに目を見開き、唇をわなわなと震わせている。勝手知ったる若輩者に負けたことが受け入れられないのか、九珠が父である自分の面子を度外視したことに怒っているのか——九珠には分からなかったが、少なくともその手に剣は握られたままだ。勝ったと思って気を緩めた隙を突かれないとも限らない、そう警戒していた九珠に、律峰戒は絞り出すような声で問うた。
「何故俺を殺さない」
「その必要がないからです。私は師父の教えが正しいと証を立てるために戦ったのであって、あなたを殺すつもりなどありません」
「俺がこの剣を落としても、お前は俺の首を切らぬと?」
「ええ。立てるべき証は立てましたし、剣による敗北は死と同義ではありません。これ以上の流血は不用です」
側から見ればとんだ押し問答だが、九珠は律峰戒をじっと見つめ返して全ての言葉に誠心誠意答えた。律峰戒に自ら剣を納めさせたときに初めて九珠の勝利が決まるのだ。
「であれば勝負はついたはず、なぜ剣を納めぬ?」
だが、律峰戒は依然剣を強く握ったままだ。その目は見る者を不安にさせる異様な光を帯びている。
「……あなたがまだ剣を握っているからです。私に剣を手放すことを禁忌だと教えたのはあなたですから」
九珠は警戒を強めつつ、一言一句はっきりと答えた。
そのとき、急に呵々大笑する声が響き渡った。狂気すらはらんだ哄笑が律峰戒のものだと気付いたとき、九珠は驚愕でわずかに剣を下ろしてしまっていた。
その一瞬の隙を突いて殺気が再び閃いた。間一髪で防いだ九珠に律峰戒の剣が迫る——完全に不意を突かれた九珠は刺突をいなし切れなかった。
肩口に焼け付くような痛みが走り、鮮血がほとばしる。次いで手首にも衝撃が走り、痺れるような痛みとともに九珠は剣を手放してしまった。見れば九珠の右腕の付け根には律峰戒が使っていた剣が突き刺さっている。そして九珠の剣は律峰戒の手の中にあった。
急激に血の気が引いていく中、九珠は強引に右肩に点穴を施した。痛みにも構わず剣を刺さった抜き、左手で構える。
律峰戒は狂気的な笑みをたたえたまま、折れた剣を自らの首筋に押し付けている。その瞬間、九珠は取り返しのつかないことになったことを確信した。
「簫九珠だったか、この不孝者! 貴様の師の尊い教えを何度ご高説ぶろうとも、貴様が我ら律の名に逆らい、一族を穢した逆賊であることは変わらぬぞ!」
律峰戒の絶叫が異様なほど耳に響く。九珠は鈍る四肢を無理やり奮い立たせ、律峰戒に向かって走り出した。
「やめろ——!」
こんな声が出たのかというほどの大声で九珠は叫んだ。足がもつれて転びそうになるが、無我夢中で律峰戒に駆け寄る。
それも虚しく、律峰戒は迷いなく剣を引いた。
刃が肉を裂き、鮮血が噴き出す――自らの血を顔に浴びながら、身体が後ろ向きに倒れていく。
持っていたはずの剣はいつの間にか落としていた。地面にぶつかる寸前に両手で抱き留めた父の身体は、すでに物言わぬ骸となっていた。
「そんな……父上……」
虚しいだけと分かっていても、ぬくもりの残る首に、痩せた胸に、骨の浮く手首に、命の欠片を探さずにはいられない。血に汚れた手が動きを止めたのは、探すものがないことをようやく悟ったときだった。
自らの覚悟と律峰戒の意地がもたらした結果に、九珠はただ涙を流すことしかできなかった。
***
結局、鄧令伯の死によって問剣会は立ち消えとなった。
剣客たちは三々五々と帰っていき、残された侍従たちは見ていて哀れに感じるほどに何度も頭を下げて彼らを見送っている。幾人かは門派に所属する参加者たちによって引き取られていったが、大多数は雇い主の本性と壮絶な最期によって路頭に迷うことだろう――彼らもまた騙されていたとはいえ、この一件が世間にもたらす影響は計り知れない。
「やはりうちでも何人か雇わないか? 平京にお前の名で文を送れば、厩舎の世話役くらいはさせられるはずだが」
律峰戒と鄧令伯の死から数日後、九珠たちが帰る際に、知廃生が諦めきれないというふうに口にした。しかし車椅子を押す常秋水はフンと鼻を鳴らして取り合おうとしない。二人は何度も話し合いをしているようだったが、九珠には興味のない話だった。
否、今の九珠は無関係の人間の進退にまで興味を持つどころではなかった。肩の傷もまだ痛むが、それ以前に怪我と心労で九珠は今朝まで臥せっていた。飛雕も意識は取り戻したが、布団の中でぼんやりするばかりですっかり覇気を失っている。簫無唱たちも満身創痍の若者二人に気を使ってか、遠巻きに固まって何やら相談している。
そんな彼らに、ひとまず瑞州の春秋荘に行こうと提案されたのが今朝のことだった。
「鳴鶴のこともありますし、ここは知先生のご厚意に甘えましょう。しばらくは体を休め、英気を養わなければ、修行にも悪影響が出てしまいます」
心なしか、簫無唱がいつもより柔らかい口調で話しているような気がした。彼女もかなり消耗していたはずだが、それを全く思わせないのは九珠たちが落ち込んでいる手前だからか。
「……律峰戒のことは残念です。まさかあのような挙動に出るとは、私や常秋水にさえ予想が付きませんでした。それにあなたが手を下したわけではないと、居合わせた皆が分かっています。気に病むことはありません」
返事がないのを気遣ってか、簫無唱は九珠の隣に腰かけた。肩に置かれた手の温かさが染み入るようで、同時に埋められない虚しさを浮き彫りにする。
「……父は、」
九珠は消え入りそうな声で言った。
「私の武術の才を初めて認めた人でした。そのせいで不当な扱いも受けましたが……それでも、私は父から受け継いだものを蔑ろにしたくはないのです。私に剣というものを最初に教えてくれたのは、父以外の誰でもない。あの方の子として生まれたことが全ての因果の始まりであるなら、私は甘んじてそれを受け入れます……父との関係を否定することは、今の私を否定することですから」
良くも悪くも自分は律という家に頼っていたのだ。九珠はそのことを身に染みて感じていた。あんな男に恩義など感じる必要はないと言われるだろうが、あの男から自分が生まれ、剣客としての一歩を踏み出したことに変わりはない。そして、今開けている道も、律峰戒なしに開くことはなかったのだ。
「私も瑞州には赴きます。ですがその前に、父の棺を家に持ち帰らせてください。兄たちにも、私から話を付けます。もう家の名誉も律峰戒の威光も関係ない……私たちは皆、自由になったのだと、私の口から伝えたい」
「まったく。お前がここまでお人好しだとは思わなかった」
沈痛な空気を破ったのは、常秋水のぶっきらぼうなため息だ。生家を嫌う彼にとっては、たしかに九珠の気持ちは理解しがたいのかもしれない。
「だが、律峰戒との手合わせは良かった。私や他の連中が相手のときとは比べものにならないほど鋭く、確実で、確固たる信念に満ちていた。あの剣は往時の李玉霞に勝るとも劣らぬ。今なら、もう誰の受け売りでもない『己』が見えているのではないか?」
常秋水の言葉に、九珠はぱっと目を見開いた。簫無唱と江玲も目を丸くし、知廃生に至っては見せびらかすように息を飲み、口元を扇子で隠している。
「……はい。あのときのお言葉、それに師父の教えも、あの勝負で全て体得しました」
九珠は喜びがむくむくと湧いてくるのを感じながら、一言一句はっきりと答えた。先達、それに飛雕の手前だからと高揚を抑え込もうとしたが、口元が勝手にほころんで笑みがこぼれてしまう。
いつぶりかも分からない、心からの喜びだった。
常秋水もまた、そんな九珠を見てふっと笑みをもらした。
「これで終わりではないぞ。驕傲に酔いしれ、自らを見誤る奴からこの江湖では死んでいく。私も李玉霞も知廃生も、皆その境界を見極めてきた。気を抜けば、すぐに他の連中に寝首を搔かれる。そのことをゆめゆめ忘れるな」
声高に告げた常秋水の目にもまた、隠しきれない興奮がのぞいている。そして好敵手を前にしたときの興奮を肌で感じられぬほど、九珠も青くはない。
「はい!」
九珠は腹の底から声を出した――ここからが、簫九珠の本当の道の始まりだ。




