決別
時が止まったような中、棒状のものがボトリと落ちてきた。衝撃で捻じ曲がり、血だまりを作るそれは鄧令伯の右腕だった。鄧令伯という主人の意識からは逃れているというのに、五本の指は打ち合いの間に欠けた剣を未だに握りしめて離そうとしない。
皆が一斉にどよめき、後ずさった。だが簫無唱たちにはその声は届いていない。
「これで終わりです」
言い放った言葉は冷ややかで、幽鬼が憑依しているようだった。
「あなたの血と死を以て我が一門への弔いとします。己の引き起こした因果について、地獄でよく考えなさい」
冷ややかな双眸には、口元を真っ赤に染め、呆然と己を見上げる鄧令伯が映っている。簫無唱はわずかに眉をひそめると、そのまま剣を引き抜こうとした――
その瞬間、簫無唱の動きが止まった。簫無唱がぎょっと目を見開き、なおも剣を引いたが、ぴくりとも動かすことができずにいる。
その原因に気付いたとき、九珠は愕然とした。鄧令伯が、まるで剣を体内に押しとどめようとするかのように剣身を握りしめているのだ。手のひらから鮮血がぼたぼたと垂れているというのに、その目は痛みなど気にならないというふうにまっすぐに簫無唱を見つめている。
「ああ……李玉霞、我が女帝……」
鄧令伯は恍惚と呟きながら、あろうことか簫無唱に向かって一歩踏み出した。さらに一歩、もう一歩と近付くたびに剣がより深く刺さり、簫無唱の顔には明らかな嫌悪と恐怖が浮かぶ。
「やはりあなたは強い……それでこそ李玉霞だ……」
鄧令伯は血みどろの手を伸ばし、ついに簫無唱の頬に触れた。
小さく息を飲む声に続いて、閃光が弧を描く。簫無唱が血塗れの剣を衆目に晒したとき、鄧令伯の身体がばらりと崩れた。
残された腕、両足、そして頭部。全てを切り取られた胴が垂直に落下し、その周りを埋めるように四肢が降り注ぐ。頭部だけは衝撃で跳ねたのちに、簫無唱の爪先に当たって上を向いた。
その顔は依然、崇拝してやまない偶像を前にした狂信者の喜びを満面に湛えていた。
一部始終を見ていたというのに、まるで悪夢を見ているように現実味がない。簫無唱がふらりとよろめいたところで九珠はようやく我に返った。
「師父!」
大慌てで駆け寄り、地面に倒れ込む前に師の体を抱き留める。簫無唱は顔面蒼白で、今にも気を失ってしまいそうだ。
「終わった……全て……然様……寧弟……大哥……」
「師父! 私です。九珠です。しっかりしてください!」
簫無唱はぼんやりと虚空を見つめ、うわ言を繰り返している。九珠が必死で呼びかけると、簫無唱はようやく九珠に目を向けた。が、先ほどまでの気迫はどこに行ったのか、全く焦点が合っていない。
「行きましょう、師父。お休みにならないと」
九珠は言いながら簫無唱の背中に腕を回し、脇を支えて立ち上がった。追いついた江玲に反対側を支えてもらい、引き上げようとしたそのとき。
「待て」
底冷えのする声に、九珠はぎくりと動きを止めた。反射的に伏せた顔をおそるおそる上げると、いつの間にか目の前に律峰戒が仁王立ちしている。
「俺がいつ、李玉霞をお前の師と認めた?」
律峰戒が九珠を見下ろす。全身の毛が逆立ち、冷や汗が背中を伝ったが、九珠は逃げ出したい気持ちをぐっとこらえて口を開いた。
「あなたの承認など必要ない。私がこの方に教わりたいと心から感じて受け入れていただいた、それが全てだ」
毅然とした態度を保とうにも、律峰戒を前にしては声も体も震えてしまう。あの頃の影がにわかに広がり、心を曇らせてしまうのだ。
「戯け!」
案の定、律峰戒は雷のような声で怒鳴った。
「律峰戒の子として剣を取っておきながら、課された命を忘れたと抜かすか!? お前はこの俺以外の誰にも剣を習うことは許されておらん! 我ら律の名を再び江湖に轟かせると誓ったことを忘れたか? 律白剣譜こそは江湖剣界で最強の剣術であると知らしめるのではなかったのか!」
早鐘を打つ心臓に追い打ちをかけるように、律峰戒の言葉が耳を揺さぶる。九珠は今や取り乱さないようにするだけで精一杯だった――言い返そうと思った言葉は全て喉元で止まり、律峰戒の剣幕に押しつぶされそうになる。
――やはり、この男から逃れるのは簡単ではない。この男と親子という繋がりを与えられた時点で、一生外すことのできない足枷を付けられたも同然なのだ。
「……律白剣譜は、」
ふと、隣で弱々しい声がした。縋るように目を向けると、簫無唱が焦点の合わない目で律峰戒を見つめている。
「私の九天剣訣に敗れました。九珠はあなたに合わせる顔がないと、狂ったように泣いていましたよ」
九珠は目を見開いた。いきなり押しかけてきた見ず知らずの若造の確執を、簫無唱はあっさりと見抜いていたのだ。
「律峰戒。あなたの律白剣譜が天下一になれないのは、ひとえにあなたの固執によるものです。固執によってあなたの剣は鈍り、鈍った剣を無理に教えられた子どもたちもまた固執に囚われ、あなた以下の剣を振るう――こうなっては、律白剣譜の価値は三流以下です。少なくとも九珠は私のもとで真理に気付き、己を立て直すことに成功しました。我が子の無能を貶す前に、まずはあなた自身が固執を捨てて剣と向き合いなさい。話はそれからです」
言葉を紡ぐうちに簫無唱の声に強さが戻ってきた。同時に、九珠の中で小さく光るものがあった。
それは暗闇を照らす蝋燭のようだった。小さな明かりだが、強く、暖かく、九珠を励ますように胸の内で輝きを増していく。
一方の律峰戒は舌打ちすると、唐突に右手をぶんと振って構えた。閃光が迸り、手の中に抜き身の剣が現れる。
「剣を抜け、律九珠!」
律峰戒が声高に命じた。
「そうまでして俺に背くつもりなら剣を抜け。貴様の師とやらが正しいかどうか、お前自身の剣で証を立ててみよ!」




