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九珠の剣  作者: 故水小辰
第六章 己の道
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邪法

「鄧令伯……? どういうことだ」


 九珠は今まさに戦わせられようとしていた方の鄧令伯を振り返った。男は救いを求めるようにもう一人の鄧令伯を見つめ、両手で握りしめた剣の先は不格好に震えている。

 次の瞬間、《《鄧令伯》》が剣を放り出し、脱兎のごとく逃げ出した。


「待て!」


 九珠は迷わず飛び出し、数歩で追いついた男の襟を掴んで地面に押し倒した。押しつぶされた蛙のような呻き声とともに倒れた鄧令伯は今まで見ていた鄧令伯よりも明らかに細く、足りない恰幅を布で補っていることがすぐに分かった。


「影武者だと……?」


 いかな変装の達人とて、生まれ持った体型だけはそう易々と変えられるものではない。驚きのあまり口走った九珠の耳に飛び込んできたのは、自信に満ちた鄧令伯の笑い声だった。


「上手いものだろう。長年この稼業をしていると、一風変わった特技を持つ友と多く知り合うことができるのでね」


 九珠は本物の鄧令伯に向き直った——拘束が緩んだ一瞬の隙を突いて影武者が逃げてしまったが、九珠はそのまま行かせることにした。今は完璧な変装だけが取り柄の者にかまけている場合ではないのだ。

 鄧令伯は飛雕の構える短剣の間合いにこそ入っていないが、優位に立っていることもまたたしかだ。対する飛雕は虚を突かれたこともあってかなり呼吸が乱れている。それに弓も長剣もなく、せいぜい護身か目眩しにしか使わない短剣のみでの渡り合いとなると、悲しいかな飛雕の実力はたかが知れている。


 九珠は反射的に鄧令伯に向かって走り出していた。鄧令伯の目的は分からないが、関係のない飛雕が巻き込まれることだけは避けたかったのだ。


 迫り来る九珠に鄧令伯は一瞬顔色を変えたが、落ち着き払って九珠が出した掌底を逸らし、背中を強かに打った。予想外の動きに驚く間もなく衝撃が走り、つんのめって転びそうになる。なんとか耐えて体勢を整えたとき、鄧令伯は完全に体勢の崩れた飛雕にとどめを刺そうと手を上げていた。

 九珠は剣指を作って再び鄧令伯に襲いかかった。簫無唱も飛雕を庇って鄧令伯の前に立ちはだかったが、蔓のように巻きつく鄧令伯の掌法に動揺しているのは明らかだ。九珠が加勢しても鄧令伯の勢いは衰えず、そればかりか二人を相手により調子づいているようにさえ見える。


「お逃げなさい、汪鳴鶴(おうめいかく)!」


 簫無唱が鋭く声を上げた。飛雕はよろけながらも闘技場の外へと走り出したが、すぐに律峰戒に行く手を阻まれてしまった。


「これが例の公孫のガキか」


 律峰戒は口の端を意地悪く持ち上げ、検分するように飛雕の肩を掴む。飛雕は抜け出そうと即座に身をかがめたが、律峰戒はその体をむんずと掴んで逆に投げ飛ばした。飛雕はくぐもった呻き声とともに地面に落ち、律峰戒にのしかかられてついに身動きを封じられてしまった。


「粗末なものだな」


 律峰戒がせせら笑う声は、九珠の耳にも届いていた——今すぐにでも鄧令伯を振り切って飛雕を助けてやりたいのに、しつこく絡み付く攻撃をいなし切ることがどうしてもできない。


「鄧令伯! 貴様の獲物はすでに捕えたぞ!」


 律峰戒が声高に呼ばわると、鄧令伯は示し合わせたようにするりと攻撃を収めた。鄧令伯は驚く九珠たちを押し退けて律峰戒に駆け寄り、勝ち誇ったように笑い声を上げた。


「でかした!」


 鄧令伯はなおも逃げようともがく飛雕を律峰戒から受け取った。まだ細い首筋に手刀を食らわせ、ぐったりと項垂れる飛雕の心窩に手を伸ばす。空中で何かを掴むように五本の指が曲がり、やがてその中心に白い光が集まり始めた。

 光が強くなるにつれて、気絶した飛雕の顔がどんどん土気色に変わっていく。先に事態に気付いたのは簫無唱だった。


「おやめなさい! 邪法を使うとは何事ですか!」


 何が起きても平然と凪いでいる簫無唱が、全身から怒りを滲ませている。九珠はハッと我に返ると、鄧令伯に向かって剣気を放った。

 悪逆非道、外道の極みと評され、玉石混交の江湖で誰もが忌み嫌う邪教、天曜日月教——その内部で一体どんな修行が行われているのか九珠は知らなかったが、もし鄧令伯が使っているのがなんらかの方術であるならば、術者を攻撃することで飛雕を救える可能性は上がる。淡い望みを託した一撃はしかし、傍に控える律峰戒によってあえなく弾かれた。


「弁えろ」


 律峰戒が低い声で唸る。何度浴びせられても慣れることのない冷酷な目線が己を貫いている——途端に九珠は足がすくみ、根が生えたように立ち尽くしてしまった。簫無唱が自身を追い越して鄧令伯に襲いかかってからようやく硬直が解けたものの、嫌な動悸がおさまらない。


 簫無唱はまっすぐに鄧令伯を狙い、間に入った律峰戒をも数手で退けた。簫無唱はそのままの勢いで鄧令伯に掌底を向け、光を集めている最中の鄧令伯を一撃のもと跳ね飛ばす。簫無唱は鄧令伯には目もくれず、素早く飛雕に点穴をして脈を見た。柳眉を寄せ、宙に浮いたままの光を飛雕に戻そうとした簫無唱だったが、光は抵抗虚しく鄧令伯の方へと漂っていった。


「ああ……なんてこと……」


 簫無唱が悲痛な声を上げる。九珠は鉛のような体をどうにか動かして簫無唱に駆け寄ったが、腕の中の飛雕はぐったりと目を閉じて動かない。


「師父」


 九珠はどうにか声を絞り出した。簫無唱から飛雕を受け取り、嫌な予感を確かめるように力なく垂れる手首を持ち上げる。内側に指を沿わせると、弱々しい脈拍だけが伝わってきた——そして、本来ならば滔々と流れているはずの内功がほとんど感じられない。微弱な流れは残っているものの、これでは武功のできない市井の民とそう変わらない状態だ。


「天曜日月教の秘術です……対象が身につけた武功を全て奪い取り、廃人にしてしまうという」


 簫無唱が重々しく告げる。九珠は雷に打たれたような心地がした——英雄になると息巻いていた少年が負うには、あまりに重すぎる枷ではないか。


「完成する前に止められたのが幸いでした。これならまだ手の施しようがあります。ひとまず鳴鶴を部屋に移しましょう。……まずはこの不届者に制裁を与えねば」


 九珠は「(はい)」と答えて飛雕を抱え上げた。そこで初めて群衆に目を向けた九珠だったが、皆が一斉に顔を伏せ、明後日の方向を見、あからさまに九珠の視線を避けたではないか。


 九珠はやや面食らったものの、理由は容易く想像がついた。一連の流れを受けて皆が己の義侠心と悪名高い邪教の技を授けられた鄧令伯と敵対することを秤にかけ、後者の方がより危険だと判断したのだ。

 情けない、そんな思いが脳裏をよぎったが、もとより彼らに貸しを作ってまで対処できないことでもない。九珠は唾を飲み込むと、足早に歩き出した。


「……やれやれ。天曜日月教を忌み嫌う心はあるのに、凶行の被害者を助ける気概には欠けるときたか」


 ふと、人垣の中から温和な声がした。見れば車椅子に乗った知廃生が、扇子の要を額に当てて呆れ果てた様子でかぶりを振っている。


「簫殿、こちらへ。彼は私に任せて、今は自分のことに専念しなさい」


「ですが、どうやって……」


 知廃生はわざと声を張り上げ、半ば無理やりに九珠を呼び寄せた。半信半疑で膝の上に飛雕を乗せると、知廃生はぱちりと片目を瞑り、九珠にしか聞こえない声でささやいた。


「大丈夫だ。部屋には秋水もいるし、彼と交代で私が看病することもできる。それに我が常家は、邪教の輩が手を出せるような手合いではないのだよ」


 知廃生は九珠の腕を励ますように叩くと、横の男に車椅子を押すよう頼んだ。


「なに、病人に手を貸すだけではないか。もしそれで君が狙われることがあれば、私が直々に出向いて思い知らせてやろう。喧嘩を売る相手と味方に取り込む相手はよく見極めねば、だろう?」


 返答を渋った相手を急かすように、知廃生は声を張り上げた——あの弟にしてこの兄あり、腕に覚えがある彼らには小手先の脅しは効かないのだ。

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