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九珠の剣  作者: 故水小辰
第六章 己の道
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李玉霞

 李玉霞が現れたという噂は瞬く間に伝わった。


 蝋燭や提灯の明かりが回廊を埋め尽くし、庭に立つ簫無唱の姿を浮かび上がらせている。誰もが寝巻きのまま、髪も整えず、現れた女を一目見ようと集まっているのは一目瞭然だった——そして案の定、ある年齢以上の者たちは簫無唱を見て顔色を変えた。李玉霞の再来なんてとんでもないという興奮のざわめきがそこかしこで上がる中、簫無唱は涼しい顔で堂々と立っている。九珠は思わず、気を揉んでいるのは自分一人だけなのではないかと考えてしまった。それほどに皆が浮き足立ち、不埒な侵入者に興味津々なのだ。


 鄧令伯は寝巻きの上にもう一枚羽織り、誰よりも身だしなみを整えてはいたが、隠しようのない寝ぼけ眼が江湖の渡世人たちとの最大の違いだ。ところが、簫無唱を一目見た途端、欠伸を噛み殺していたのが一転誰よりも爛々と目を輝かせた。


「李玉霞! 本当に君なのか?」


 鄧令伯は一声叫ぶと転がるように庭に降りてきた。簫無唱はふっと口角を持ち上げたが、目元が全くといっていいほど笑っていない。


「いかにも、私は李玉霞その人です。そしてこの簫九珠こそは私の弟子、この江湖で唯一私の九天剣訣を受け継いだ者です」


 ざわめきがより大きくなり、簫無唱に集まっていた注目が九珠に向けられる。やっぱりそうか、どうりで、何かあると思ったと好き勝手にささやく群衆の中で、九珠は黙りこくっている常秋水の姿に気が付いた。

 あらかじめ会っているせいか、常秋水の顔にはこれといった驚きもない。常秋水は九珠の視線に気付くと、鄧令伯の後ろをあごで差した。


 九珠は鄧令伯に視線を戻し、すぐ背後の回廊に目を凝らした。明かりもなく、ほぼ真っ暗な中にたしかに人がいる——壁に寄りかかっている人影に合点がいったとき、ドクンと嫌な動悸がした。


 忘れるはずがない。あの陰鬱として剣呑な空気感は律峰戒のものだ。人の輪から少し離れたところからことの成り行きを見物しているのだ。

 しかし、鄧令伯はそこに誰もいないかのように簫無唱に話しかけた。九珠にもほとんど目をくれず、李玉霞当人を前にしてはそれ以外の人物には微塵の興味もないと見える。


「なんと——簫殿があなたの弟子とは。どうやら武林も狭くなったようですな」


「予想はしていたのでしょう? こんな会を開き、剣術には一家言あると豪語するあなたのことです、気付かなかったとは言わせませんよ」


 簫無唱の言葉に回廊の群衆がばつの悪そうな顔をする。彼らは彼らで、九珠と李玉霞の関係は絵空事に等しいとたかを括っていたのだ。


「今日私が来たのは我が弟子のためです。そこの物陰にいる御仁と一緒になってこの子の秘密を出汁にして、随分と痛めつけてくれたそうではないですか。九珠が私の徒弟である以上、落とし前はつけてもらいます」


 簫無唱が鄧令伯の背後の暗がりに目を向けた。夜中の竹林に差し込む月光のような眼差しにつられてか、ハッと低い笑い声とともに隠れていた男が姿を見せる。

 それはやはり律峰戒だった。九珠がいない間に身なりを整えたらしく、物乞いのようだった風貌は幾許かの威厳を取り戻している。傲岸不遜な態度は腐っても龍虎比武杯で頂点を競った男、凄みのある目付きは居並ぶ剣客をたじろがせるに十分だ。


「誰かと思えば、公天の(亡霊)ではないか。俺はあれを貴様に弟子入りさせた覚えはないのだがな」


「残念ながら、九珠は己の進退を自ら選択する能があります。それすらもままならず、冥府の縁に必死でしがみついて落ちないように耐えている父君とは違い、まだこの江湖で生きていく力を失ってはいませんよ」


 簫無唱は律峰戒の威嚇も歯牙にもかけない。力で下と分かっている相手に払うべき敬意などたかが知れているのだと、九珠は実感せずにはいられなかった。


「貴様! この俺を侮辱するか!」


 律峰戒が声を荒げる。が、足音も荒く飛び出そうとしたところを鄧令伯に止められてしまった。


「律先生、この場ではどうかお控えください! 今は皆さまお休みの時間ですし、また明日、夜が明けてから改めて決済の場をご用意しましょう。李殿も、それでよろしいですかな?」


 鄧令伯はいかにも混乱を避けたそうな顔で告げた。その実全員が起き出しているのだが、やはり主催としての体裁を保ちたいのだろう。

 果たして簫無唱が同意すると、固唾を飲んで見守っていた群衆は残念そうなざわめきとともに三々五々散っていった。この場で簫無唱がかつての技を披露するかもしれない、かの李玉霞の剣技をこの目で見れるかもしれないという期待を全員が抱いていたことは明白だ。


「おい、李玉霞様のお部屋を用意しろ。この場で一番のお客様だ、粗相をした奴は即刻クビだと思え。それから明日の朝一番で大工に連絡を。力自慢の奴らを集めて夜のうちに瓦礫を退けておけ……」


 鄧令伯は寝ぼけ眼の使用人たちを捕まえて矢継ぎ早に指示を出している。回廊の隅で遠巻きに集まっていた使用人たちは指示が飛ぶごとに去っていき、程なくして鄧令伯も含めた全員が散っていた。


「大哥!」


 ふと、回廊から呼ぶ声がした。振り向けば飛雕が手を振りながら駆け寄ってくるところだった――常秋水の姿はすでになく、鈴なりだった群衆も回廊の隅に江玲が控えているのみだ。


「……二伯」


 飛雕は九珠に話しかける前に包拳し、簫無唱にぺこりと一礼した。簫無唱が驚いたように目を見開いたが、飛雕はそそくさと九珠に向き直り、道中は大丈夫だったかと尋ねた。


「ああ。心配をかけたな」


「いいんだって。鄧令伯が上手いこと誤魔化してたおかげでこっちも平和だったしさ」


 飛雕はそこであたりをうかがい、声をひそめて告げた。


「だけど、律峰戒の姿は初めて見た。この場にいる全員がそうだと思う……鄧令伯が黙ってたんだろうけど、誰も噂にもしてなかったし、大哥の話がなかったら俺も奴がここにいるなんて信じていなかったはずだ」


「そうなのか」


 九珠は相槌を打ったが、どうにも気分が重かった。九珠を孤立させるため、九珠に逆らう意志を失わせるためなら、律峰戒はあっさり秘密をばらすだろう。そうなれば――


「案ずることはありません」


 ふいに簫無唱が口を挟んだ。九珠の胸の内を見透かすようなまっすぐな視線には、彼女の江湖人としての自負が溢れんばかりに輝いている。


「たとえあなたの秘密が公にされたとて、あなたが強さを示す限り誰もそこにつけ込むことはできません。この私が保証しましょう――江湖においては腕が立つことが一番の正義です。腕さえ立てば、性別など枝葉の些末に過ぎません」

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