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九珠の剣  作者: 故水小辰
第五章 玉簫無音
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伝承

 簫無唱がそう締めくくったとき、九珠は返す言葉がなかった。誰一人として、彼女にかける言葉がなかったのだ――痛ましい目で地面を見つめる清義、静かに泣き続ける江玲、そんな母と母の家、見知らぬ家族を襲った残酷な事件に呆然とするばかりの飛雕。普段なら真っ先に強気な言葉を発する常秋水でさえも、もの言いたげな唇をぐっと結んで黙っている。簫無唱が死の沈黙に憑りつかれているのだと、誰もが理解していた。一度その深淵に魅せられた者を連れ戻すのが至難の業だということも全員分かっている。


「……何故」


 誰もが沈黙する中、九珠はぐっと拳を握りしめて呟いていた。彼女の身に起きたこと、それがどれほどの打撃だったかは痛いほど分かる。しかし、幼いころからの憧れの剣客、ずっと仰ぎ見てきた生ける伝説が自らを教え導いた一方で、自分のことを死んだと形容する、その理由が理解できなかった。


「何故、ご自分のことを死者と同列に語るのですか。李玉霞が死んだと言うならば、何故私に九天剣訣を授けたのですか? 先人であることを語り、剣を語るあなたは、決して死んでいるようには見えませんでした。それなのに、何故――」


 話しているうちに鼻の奥がツンと痛くなり、視界がぼわりと歪む。頬を伝い始めた涙を止める術は九珠にはなかった。


「教えてください、師父。ご自身を死人だと言うならば、私が身につけたものは何なだったのですか? 私には剣しか生きていく道がないのです。確かに律峰戒から与えられ、強制された道ですが、その中でも自分だけの道を探せるのだと知りました。それを教えてくれたあなたが何故、ご自身の死を語るのですか? 私が見つけようとしているものは何になるのですか? 生きるための道を語ったあなたは、生きているのではないですか? 私がずっと追ってきた伝説は、そんな簡単に死んだと言えるものだったのですか!?」


 九珠はぽかんとしている簫無唱をぎっと睨みつけた。李玉霞が死んだと認めることは、簫無唱と名乗る彼女に出会ってからの修行を否定することに他ならない。それだけは絶対に認められなかった――律峰戒の血と影響を否定できないように、彼女から受け継いだ剣術や生き方も否定することはできないのだ。


「何故でしょうね」


 簫無唱は目を伏せて軽く笑った。なんでもないような口調にぽかんとする九珠の頬に、ふっと柔らかい手が触れる。涙を拭う手は少し冷たかったが、それでもなお温かく、優しかった。


「あなたが最初に剣を構える姿を見て、ああ、まだ若いなと感じたのです。若さ故に盲目で、盲目故に無謀な戦いに身を置くことを疑わない、ありがちな若者だと。ですがいざ手を交えると、若いのに剣がしっかりしている——よく鍛えられていて筋も良く、何より自分が何をしているか分かっているとすぐに感じました。律峰戒の所業は聞きかじっていましたから尚のこと意外でした。彼の教えだけで、あなたはすでに自分の道を見出そうとしていたのですから……そしてそれが合っていないことも分かりました。律峰戒のやり方では、遅かれ早かれ彼と同じ道を辿っていたでしょう」


 九珠ははっとして簫無唱を見つめた。滅多と見られない師の笑顔が、自分をまっすぐ覗き込んでいる。


「正直な話、手加減してもよかったのです。紅塵を捨てた私には地位も名声も関係ないのですから、適当にあしらって追い返すことだってできたのです。でもあなたの目を見ているとできなかった。全ての動作に全神経を注ぐあなたを相手にするならば、こちらも本気で行かなければと思ったのです……あのときのあなたは、かつての私自身のようでした。剣の道を志して様々な門派を訪ね歩いていた、幼い李玉霞のようでした。そうして巡り合い、私を導いた師尊のように、今度は私がと思わずにはいられなかったのです。それに」


 簫無唱はそこで言葉を区切ると、そこにいる全員を順番に見回した。最後に常秋水に目を留めたとき、そこには全てを見通した者の顔があった。


「それに、思ったのです。今の江湖は九珠たち若者のものです。これからの江湖を生きてゆく彼らに道標を残すことができるなら、新しい道が見えるかもしれないと。たしかに剣客の李玉霞は死にました——龍虎比武杯を制し、剣界の頂点に立ち、心から愛してくれる人と結ばれて死なれて、李玉霞の人生にこれ以上何を詰め込もうというのでしょう? 私はもう彼女にはなれませんし、人々が望む李玉霞は過去にしかいないのです。ですが簫無唱たる私には、この先残された時間がまだまだある。この才気溢れる若者を教え導くことが新たな道になるのなら、私は喜んでその道を生きましょう」


 簫無唱の眼差しが再び九珠に注がれる。それはまだ暗い竹林に最初の朝日が差し込むようだった。


「……俺はまだ辞めないぞ」


 ふと、常秋水が呟いた。いつもは無愛想な両目には、珍しく燃えるような闘志が浮かんでいる。


「俺は俺の力を江湖に示し続ける。退隠などしない」


「それもまた一つの道です」


 低い声で宣言した常秋水に簫無唱は変わらず静かな笑みを向けた。


「あるいは、自分でも分かっているのでしょう? あなたの道の終着点は、誰かに負けること——ここまで来たら、あとは決定的な敗北でもって身を引こうと、そう考えているのではないですか」


 常秋水は少しの間黙っていたが、やがて口の片端を持ち上げて不敵に笑い返した。


「やはりお前には敵わんか。だが、そんな奴が現れるまで、俺は一歩も譲らぬぞ!」

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