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九珠の剣  作者: 故水小辰
第五章 玉簫無音
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過去

 簫無唱の一言に、九珠も常秋水もはっと目を見開いた。鄧令伯が一人で暴走しているだけならまだしも、執着されている本人がそれを知っているとなると話が変わってくる。


「どういうことだ。お前と鄧令伯はどういう関係だ?」


 訝しげに問う常秋水の横で、九珠は問剣会に参加すると告げたときの簫無唱を思い出していた。九珠には何も起こらないと自分自身に言い聞かせるような口調は、やはり気のせいではなかったのだ。

 簫無唱は暗い顔でため息をつくと、


「鄧令伯は私の……言うなれば崇拝者です。あの頃は私も彼も若かった」


 と言った。


「鄧令伯が江湖と関わりを持つようになったのは、商売で一線を超えてしまったからだと聞きます。実際に、武功も何もないけれど世渡りだけはずば抜けて上手いと当時の江湖では言われていました」


「たしかにその話は俺も聞いた。龍虎比武杯に来ていたのもその繋がりだったか?」


 常秋水が相槌を打つと、簫無唱も頷く。どうやら若かりし日の鄧令伯は、一般人ながら江湖にどっぷり浸かっていたらしい。


「逃げ場を失った彼を庇ったのが行脚僧だったと聞きます。その僧侶が出場していて、自分はそのおまけだと鄧令伯自身から言われました。ですが彼は付き添いとは思えないほどあちこちに声をかけていて、私もその中の一人でした」


「最初は何と言われたのですか?」


 九珠が尋ねると、簫無唱は「当たり障りのないことを」と答える。


「どんな武器を使うのかとか、腕に自信はあるかとか、そんなことを誰彼構わず聞いて回っていましたね。私も『勝てると思うか』と聞かれましたが、かなりきつく答えました——当時の私は気位の塊のような若者でしたから、何の武功もなくて江湖のことも知らない平凡な者とありきたりな話をするのが耐えられなかったのです」


 そんな場合ではないというのに、九珠は思わず「気位の塊のような簫無唱」を想像してしまった。若さゆえなのだろうか、しかしそれで十分すぎる実力があったのだから自信満々でもおかしくはない。


「あの時出ていた僧侶というと、少林の大師と天曜日月教の怪僧ではなかったか」


 常秋水の指摘に、簫無唱はこくりと頷いた。


「そして当時彼を匿っていたのは天曜日月教だとか」


「天曜日月教というと邪教の一派ではないですか。まさか、奴は邪教と通じているのですか?」


 九珠は驚きのあまり口走ってしまった。天曜日月教は江湖に跋扈する悪党の半分以上と関わりがあると言われているほど悪名高い。そして今の鄧令伯の勢力を考えると、両者が本当に繋がっていたときの影響は計り知れない。

 これについては簫無唱は肯定も否定もせずに、静かにこう答えた。


「あくまでも私が公孫に嫁いでから聞いた噂では、です。鏢局は商隊を警護することが多いので、特に名の知れた商人の噂はよく入ってくるのです」


「お前が公天にいた間、鄧令伯とはどうだったのだ? 接触はあったのか」


 常秋水が尋ねると、簫無唱は静かに首を横に振った。


「いいえ。私と公孫然(こうそんぜん)——公孫家の次男です——の婚姻が決まったときはそれはもうしつこく攻撃してきましたが、婚儀を終えてからはめっきり現れなくなりました。公天が盾となっていたこともあるでしょうが、私はそれ以上に彼が諦めたのだと思ったのです」


「奴のところの商隊を公天が護衛したことは?」


「私がいた間では一度も。断ったという話もありませんでしたし、やはり向こうが避けているのだとばかり……」


 簫無唱はため息をつくと、明るんできた窓の外に目をやった。


「正直、九珠が鄧令伯のところに行くと言ったときに不安はあったのです。私にとっては思い出したくもない相手ですから」


 簫無唱がばっさりと言い放った言葉に、九珠は頷かずにはいられなかった。問剣会での様子を思えば、往時の執着も凄まじいものだったのだろうと容易に想像がつく。


「ですが、彼が過去を割り切っている可能性に賭けてしまいました。九天剣訣を授けると決めたときから、九珠に付きまとう影や人々については常に考えていたのに」


 静かに語る簫無唱の顔に朝日が差す。光と陰影で二分されたその顔は、まるでかつての栄光と孤独の残響に分かれているようだ。


「出ていってはどうだ」


 沈黙の中で常秋水が口を開いた。


「鄧令伯と律峰戒の前に出ていって、思い知らせてやるのだ。九珠の師はお前以外にあり得ないと」


 常秋水らしく強引な、しかしまっすぐな敬意のこもった言葉だった。簫無唱はそう言うだろうと予想していたかのように軽く笑うと、「悪くないですね」と言った。


「何にせよ彼らにはツケを払ってもらいます。李玉霞の弟子をこんな目に遭わせたのですから、当然の報いです」


 しかし、続けてそう言った簫無唱の目は笑ってはいなかった。力強く血がたぎるような眼光は世を捨てた者のそれではなく、江湖という荒波の最中で今も揉まれている者の光だ。 


 ふと、外で誰かが戸を叩いた。切羽詰まったように短く、何度も叩く音に三人の注意は否が応でも引き寄せられた。


「見てきます」


 九珠は反射的に立ち上がったが、簫無唱が押し留めるように肩に手を置いた。


「今は何があるか分かりません。私が出ましょう」


 簫無唱はすっと踵を返し、白衣を翻して戸口に向かった。九珠はじっと耳をそばだてて低い話し声を聞いていたが、ある名前を聞きつけた途端に驚きのあまり飛び出してしまった。


「飛雕? あいつもここに来ているのですか?」

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