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九珠の剣  作者: 故水小辰
第五章 玉簫無音
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風雲

 夜明けから歩き通してようやく岐泉鎮に着いたのは、すっかり夜が更けた頃だった。九珠は常秋水を先導するように灯りの漏れる通りを歩き、唯一の宿屋の前で足を止めた。


「ここにお前の師がいるのか」


 怪訝そうに問うた常秋水に、九珠は素直に否と返す。


「いえ。少し事情が複雑なので、まず前輩をお通ししていいかまずは確認しなければ……」


 ところが、九珠の説明が終わらないうちに常秋水は踵を返した。振り向きざまにむんずと九珠の手首を掴み、案内しろとばかりに引きずって歩き出す。


「そんなもの俺の知ったことか。お前はお前が会うべき者のことだけ考えておけ」


 相変わらず常識の通じない男だと九珠は胸のうちで独りごちた。いくら彼が天下一の剣客とはいえ、俗世と最低限の関わりしか持たない簫無唱が会いたがるかどうかは極めて怪しいところだ。断られたらどうするのだろう、食い下がりはしないだろうかとにわかに不安に襲われつつも、九珠は曲がり角に来るたびに寂寧庵への道を答えざるを得なかった。せめてもの抵抗に今から行く場所は尼寺の所有だと伝えたが、男の格好をした九珠が出入りしているのだから自分が行っても問題なかろうと一蹴される始末だ。


 熟睡している市を過ぎ、しんとした静寂をかもしだす念安寺の門を過ぎ、二人はやがて町外れの竹林に足を踏み入れた。怪訝そうに目線を寄越す常秋水に、九珠はこの道で合っていると伝えた。


 常秋水を止めることはすでに諦めている。ただ、簫無唱が断ったらどうしよう、常秋水が彼女の話を聞かなかったらどうしよう、そもそももう寝ている時間なのではないか——止めどなく噴出する疑問をひとつずつ打ち消しながら、九珠はついにがらんとした空き地にたどり着いた。

 暗がりの中、ぼんやりと石卓の影が浮かび上がる。九珠はここで待っているよう常秋水に言い置くと、胸騒ぎを抑えながら戸を叩いた。


「師父。私です」


 沈黙。少し間を置いて、閂を外す音が聞こえた。

 中から現れた簫無唱は白い夜着の上にこれまた白い上衣を着ていた。簫無唱は少し驚いたように九珠を見たが、すぐに静かな声で「戻ったのですね」と言った。

 それは残雪を崩れさせる太陽のように九珠の心に染み込んだ。途端に涙が溢れ出し、九珠は何も言えないまま膝からへたり込んでしまった。


「どうしたのです?」


 これには簫無唱も驚いたらしく、慌てて地面に膝をついた。温かな手が肩をさすっているが、それで話せるわけもなく、息を吸って吐くのがやっとだ。


 ふと、九珠の後ろで常秋水が口を開いた。様子が急変したのを見て駆けつけたらしい。


「蘇口にこいつの父親が現れ、無体を働いた。その上鄧令伯が下卑た本性をこいつに……」


 常秋水も相変わらずの無愛想さで話し出したが、その声はぷつりと途切れてしまう。ようやく落ち着いた九珠がはてと振り返ると、常秋水は暗がりにいる簫無唱にじっと目を凝らし、幽鬼でも見たような面持ちでこう問うた。


「……李玉霞か?」


 ——李玉霞だと? 

 九珠は驚きとともに簫無唱を見上げたが、彼女はじっと常秋水を見つめている。交わる視線は明らかに、互いの手の内を知る間柄のそれだった。


「久しいですね。龍虎比武杯以来でしょうか」


 沈黙ののちに、簫無唱はそう言った。

 口元にうっすら浮かんだ笑みは、好敵手を前にした武芸者のそれだった。

 江湖を騒がせた伝説の女剣客、九珠が散々なぞらえられてきた偶像は、九珠に新しい道を授けた張本人だったのだ。



***



 簫無唱は蝋燭に火を付け、夜だというのに温かい茶を淹れた。共に座るのは常秋水と簫無唱——長年姿をくらませていた李玉霞その人だ。とんだ現場に居合わせてしまった衝撃で、九珠は泣けばいいのか笑えばいいのか分からなくなっていた。


「成る程、やはりお前だったか。こいつに剣を仕込んだのは」


 最初に口を開いたのは常秋水だった。簫無唱は平然と茶を啜りながら「見事なものでしょう?」と笑っている。


「九珠は筋が良いですし、鍛錬に耐え抜く力もある。それに何より、剣に対して求めるものが明らかです」


「だから九天剣訣を仕込んだのか?」


「ええ。彼女は私自身が認めた李玉霞の継承者ですから」


 好敵手同士だからこその空気が二人の間に流れている。九珠は肩をすぼめ、簫無唱の自信に満ちた笑みを見ていた。簫無唱がこんな表情をするところは見たことがない。


「お前はこいつに過去の自分を押し付ける気か?」


 対する常秋水はいつも通りつっけんどんだった。だが、誰が相手でも無愛想な話ぶりが変わらないというだけで、怒りや不満は見受けられない。


「まさか。私はただ、この子ならと感じただけです。私が授けたこと、あなたから学んだこと、身につけた全てを糧にしてくれれば十分です。先人とはそうあるべきだと思いませんか? 常秋水」


 簫無唱はさらりと答えると、九珠を見てにこりと笑った。まるで数十歳若返ったような笑みだった——が、簫無唱はすぐに笑みを消して九珠を見据えた。


「ですが、九珠があなたを連れて突然戻ったのは大事です。事と次第によっては私も喜んで紅塵を踏みましょう。蘇口で何があったのですか?」


 簫無唱がすっと顔を引き締める。九珠は居住まいを正し、問剣会でのことを話した——入場のための試練、集まった剣客たちの議論、常秋水との勝負に、律峰戒が現れたこと、そして鄧令伯の本性。九珠は止まることなく全てを話し、終わったときには空が白み始めていた。


「そうでしたか。本当に、よく戻ってくれました」


 簫無唱はそう言うと、深いため息をついた。


「……鄧令伯がまだ私に執着していると知っていたら行かせなかったものを。ごめんなさい、九珠。あなたには悪いことをしました」

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