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九珠の剣  作者: 故水小辰
第五章 玉簫無音
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逃避

 九珠の母は全部で九人の子を生んだが、誰一人として育て切ることができなかった。夫の律峰戒が、立って歩けるようになったところで彼女の手から子どもたちを引き剥がし、剣を仕込み始めたからだ。

 暗い屋敷の中で、彼女は少しだけ特別な下女でしかなかった——飯を炊き、掃除をし、洗濯をして、律峰戒がその気を起こせば閨で相手をし、孕んでも体裁が傷付くことはない。律峰戒が全ての空間において、彼女は妻でもなんでもなかった。

 厳しすぎる訓練を見かねて口を出せば律峰戒の拳骨が飛んだ。子どもたちは彼女を母親と思って頼ることもできない。唯一の救いは律峰戒があまりに暴力を振るうと九兄妹が止めに入ることだったが、彼女自身は夫を止められないまま世を去った。律峰戒の最大の暴挙——末娘の九珠から子を産むための機能を奪い取るという決定に猛反発する彼女の姿が、九珠が覚えている最後の母の姿だった。


 焚き火が不規則に揺れる中、九珠は初めて赤の他人に裸を見せていた。全身に赤黒く広がったあざに薬を塗っているのは常秋水だ——相変わらず無口で無表情な彼からはどんな感情も読み取ることができない。しかし、鄧令伯が見せたような下心がないことだけは見て取れた。


「醜いでしょう」


 九珠はぽつりと呟いた。常秋水は何も答えず、二人の間には再び沈黙が流れる。

 常秋水は薬を塗り終えると、手際よく包帯を巻いていった。自分の衣を裂いては巻きつけていく姿に、九珠はだんだん申し訳なくなってきた。


「すみません。私のわがままで……」


「謝ることなどない」


 常秋水はきっぱり答えると、脇まで巻き上げた包帯の残りを九珠に差し出した。やはり胸は自分で巻けということなのだろう。

 二人は山中の洞窟で体を休めていた。鄧令伯の屋敷を飛び出したのが昼下がり、常秋水は意識を失った九珠を抱えてここまで逃げてきたのだ。二人の行き先は言わずもがな岐泉鎮(きせんちん)だ。


「お前は先のことを考えろ。鄧令伯も律峰戒も、このままではお前を地の果てまで追い回すだろう。討ち取るなら今のうちだ」


 常秋水は淡々と言いながら袖の中をまさぐっている。思いもしなかった発言に九珠が目を丸くしていると、常秋水は紙包みから饅頭を取り出し、食えとばかりに差し出した。


「お前はあの屋敷で鄧令伯に襲われ、律峰戒はお前にあらぬ仕打ちした。お前がどんな手段で報復しようと反論する者はない」


「ですが……」


 九珠は困惑しながらも饅頭を受け取った。しかし二人を殺すのは抵抗がある——鄧令伯のような一般人に手を出すのは憚られるし、律峰戒からも得たものはたくさんある。他の道を断たれたとはいえ、最初に剣の道を示してくれたのは律峰戒だった。少なくともその意味では、ただ身体を害されたとは言えない。

 常秋水は早くも饅頭にかぶりついている。迷ったまま饅頭を見つめる九珠を一瞥すると、常秋水は冷ややかに言い放った。


「今回は誰かに命じられて戦うのとはわけが違う。よく考えろ。生ぬるい屁理屈を並べても役には立たんぞ」


 常秋水は食事を終えるとさっさと横になったが、しばらくして思い出したように起き上がった。


「これを敷いて寝ろ」


 そう言って常秋水は上衣を脱ぎ、九珠に投げて寄越した。九珠が礼を言うそばから常秋水は再び寝転がり、今度こそ寝息を立て始める。

 九珠は言われるままに常秋水の上衣を敷き、その上に横たわった。しかし、あざに当たらない体勢を見つけて一息ついたものの、全く眠る気になれない。

 常秋水の言わんとすることは痛いほど分かった——かつて九珠は常秋水に、今まで戦った人々は皆自分ではなくて律峰戒の敵だったと語った。しかし今九珠が立ち向かうべきは九珠を害する者たち、九珠自身の敵なのだ。彼らから身を守るためには逃げ回っていてはいられない。常秋水がついていたとしても、彼らは必ず九珠に追いつき、我が物にしようと迫るだろう。


 九珠が求める剣の道——それは絶対に、律峰戒や鄧令伯が求めるものとは違う。誰かの二番煎じや他人の名誉ためではなく、自分が胸を張って歩くための道が九珠は欲しかった。どんな格好でどんな剣を使っても翳ることがない、自分が心の底から誇れる道。簫無唱の受け売りでも律峰戒の束縛でもない、自分が歩むためだけにある道。元はと言えば蘇口にも、それを探して赴いたはずだ。それがどうしてこうなったのだろう?


「常前輩」


 九珠がそっと呼びかけると、常秋水の寝息がかすかに乱れた。


「私には、前輩の仰る『己』はあるのでしょうか」


 起きているに違いないと見越して、九珠は大きな背中に向かって問いかける。すると深いため息の後に、眠さを感じさせない声が帰ってきた。


「……何故」


「律だった頃の私は、律峰戒の言うままに動く操り人形のようなものでした。師父と出会ってからの私は師父の受け売りです。江湖の大半にとっては李玉霞の分身のようなものですし……前輩の言うような『己』が私にはないのではないかと思うのです」


 誰かに強いられて歩いてきた道を逃れ、自分だけの道を探していたはずが、今度は別の誰かの面影を押し付けられている。おまけに鄧令伯の狂気じみた執着――こんなことはもうこりごりだった。簫九珠を一人の剣客として見てくれているのは、飛雕と常秋水くらいだろう。


「前輩は何故私を気にかけてくださるのですか? 私が律峰戒の子だからですか? それとも剣術が李玉霞に似ているからですか」


 ずっと気になっていた質問がぽろりとこぼれ落ちた。常秋水はじっと黙していたが、しばらくして「否」と答えた。


「初めて剣を交えたときに感じたからだ。お前は並居る凡才でも天才の二番煎じでもないと」


 九珠ははっと目を見開いた。同時に胸がじんと熱くなり、どんどん広がってせり上がってくるのを感じた。


「私の『己』が何か分かるか」


 逆に問いかけてきた常秋水に、九珠は涙をこらえて「分かりません」と答えた。少しでも気が緩むと泣き出してしまいそうだった。


「私は常家のはぐれ者だ。我らの本家は王都平京(へいきょう)、私も兄も本家の出だが、十五のときに爪弾きにされて瑞州(ずいしゅう)を押し付けられた。そんな私を連中の脳裏に焼き付け、否が応でも家譜に残さざるを得なくすること――誰もが私を認め、無視できないようにさせること、それが私の『己』だ。武術家の血筋でそれを成し遂げるには武の頂点を極めるしかない。お前ぐらいの頃はその一心で江湖じゅうの剣客に勝負を挑んだものだ」


 目尻がぶわりと熱くなり、薄暗い視界が歪む。一拍置いて熱いしずくが頬を流れていった。


「そして、それを成されたのですね」


 九珠は乱暴に目をこすりながら言った。常秋水は相変わらず淡々とした声で「そうだ」と答える。


「今や平京は瑞州を無視できない。ならば私が死ぬ瞬間まで、私の強さを思い知らせるまでだ」


 常秋水は傲慢にも言い切ったが、九珠はそれをただの驕りとは思わなかった。代わりに、心の中で、これが「己」かと嚙みしめていた。


「この話は終わりだ。明日岐泉鎮に入るぞ」


 九珠が返事をしないでいるうちに、常秋水さっさと話を切り上げて、今度こそ深い寝息を立て始めた。

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