豹変
淡々と語られる事実に目を丸くして、鄧令伯が九珠の方を見る。その途端、九珠は全身が燃え上がるような怒りに飲み込まれた——今すぐ律峰戒を滅多刺しにしたい衝動に駆られたが、指一本動かせない体ではどうしようもない。九珠は咳き込んでわずかな量の血を吐いた。拳すら握る力がないのだ——頬を涙が伝い、悔しさと怒りで爆発しそうになる。
鄧令伯は呆気に取られたまま律峰戒の上から退くと、九珠に向かって歩いてきた。そして九珠の前に膝をつくと、手をそっと伸ばして九珠の頬を撫でた。
ぞくりと全身が総毛立つ。九珠の顔を撫でる鄧令伯の顔は、生き別れの恋人を見つけたように甘く緩んでいたのだ。
「堕ちない李玉霞、か。それは良い……実に良い……それこそ私が求めていたものだ……!」
「おまえ……っ、なにを、いって、」
鄧令伯は息も絶え絶えに聞き返した九珠をなおも愛おしそうに見つめている。そのとき九珠は、今まで感じたことのない恐怖を感じた。
「簫九珠……そう、李玉霞だ……お前は李玉霞のように江湖剣界の帝王となるべきなのだ……そして彼女をただの女に堕としめた情だの愛だの家族だのはお前には関係ない! 全くよく出来た話ではないか!」
鄧令伯は声高に笑い始めた。天を仰ぎ、息も絶え絶えに笑う姿は正気をどこかに忘れてきたようだ。
「やはり、彼女は公孫のクズどもに染められるべきではなかったのだ。公孫だけではない、彼女は何者にも染まってはいけない。李玉霞こそは孤高の頂点、江湖剣界に永遠に君臨し、俗世に堕ちてはならないのだ」
ぶつぶつと呟きながら、鄧令伯は九珠の体を抱き起こす。九珠は強烈な嫌悪感に襲われたが、鄧令伯の抱擁は今の九珠には強すぎて逃げることも容易ではない。
「律先生、疑ってすまなかった。まさかこうもぴったり利害が一致するとは」
「何が言いたい」
律峰戒が怪訝そうに聞くと、鄧令伯はなんと「彼女を私にくれないか」と言った。
「もちろん悪いようにはしない。貴方の理想の実現に私が協力する、それだけのことだ。我々の手で、剣の女帝をもう一度立てるのだ……」
そのとき、九珠はあらん限りの力で鄧令伯に頭突きを見舞った。鄧令伯が呻いて九珠を離す一方、九珠の目の前にも大量の星が飛んだが、九珠は無理やり体を起こして来た道を引き返した。全身に力が入らず、頭もふらふらするが、今逃げないと一生囚われてしまう——律峰戒の理想と鄧令伯の妄信、この二つが織りなす最悪の檻が、九珠を捕えようと口を開けて迫ってくるのだ。
しかし、逃亡も長くは続かなかった。とうに限界を超えた肉体は言うことを聞かず、もつれる足では少しも速く動けない。九珠はすぐに追いつかれ、鄧令伯に羽交締めにされてしまった。
「はなせっ、やめろ……! 私は李玉霞ではない!」
叫ぶ声にも血が絡み、咳き込めば紅が床に飛ぶ。それでも誰か助けてくれるかもという一心で、九珠は叫び続けた。すでに喉が裂けそうだったが、この悪夢から逃げられるなら安い代償だ。
ところが、その目論見も無情にも外れてしまった——鄧令伯は苛立たしげに舌打ちすると、どこからか取り出した短刀を九珠の喉に押し当てた。
「黙れ。これ以上お父上に逆らうなら、女の次は声を失うぞ」
低い声で鄧令伯が脅す。しかし九珠はなおも反抗し、枯れた声で言い返そうとした。
「嫌だ——誰が、お前らなんかに……ッ」
言いかけたところで、左の頬に痛みが走る。鄧令伯が九珠の頬を切りつけたのだ。
九珠は咄嗟に鄧令伯の手に噛み付いた。肉を食い千切らんばかりに力を込めて歯を立てると案の定、鄧令伯が呻き声とともに再び九珠を解放する。九珠はこの隙にとばかりに逃げ出したが、よろめきながら回廊を曲がったところで誰かとぶつかってしまった。
相手は常秋水だった。九珠はそれを認めるや、何事かと眉をひそめる常秋水の後ろに這って回り込んだ。
「助けて……頼む……」
うわ言のように助けを懇願する。常秋水は何も答えずに鄧令伯に向き直ると、「一体何事だ」と問うた。
「何でもありませんよ。それよりも常大侠、その娘さんをこちらに任せてはくれませぬか。色々なことが重なって、どうにも気が立っているようでして」
鄧令伯は獣のような気迫を一瞬で引っ込めて人当たりの良い笑顔を浮かべている。常秋水は鄧令伯をひと睨みすると、低い声で応じた。
「これは俺の連れだ。適当なことを言うな」
言いながら常秋水は一歩足を動かし、九珠を隠すように立ちはだかる。だが、それもいつまで続くか分からない——きっと鄧令伯は九珠の秘密をばらすだろう。それで常秋水の気が変わりでもすれば一巻の終わりだ。
ところが、二人が睨み合っているうちに、ゆっくりと律峰戒が現れた。常秋水はやって来た男を見るなり侮蔑の色を浮かべ、吐き捨てるように言った。
「世の理を知らぬ愚か者が。負けたのは貴様自身で貴様の子ではないというに、まだ盲目を貫くか?」
「お前こそ、人の家のことに口を挟むな。俺が俺の娘をどう育てようとお前には関係ない」
かつての好敵手が一堂に会し、互いに火花を散らせている——上手くことを運べば九珠を使って龍虎比武杯の一戦を蘇らせることすらできたが、鄧令伯はそれをしようとはしなかった。第二の李玉霞を手中に収めんとするあまり、彼もまた盲目になっていたのだ。
「常大侠、さすがに今回ばかりは私も律先生の肩を持たねばなりませぬ。ただでさえ思い違いをされている律先生が我が子の教育もできないなどと言われてしまうのは全くもって心外ですからね」
「それはこいつが李玉霞に似ているからか? それとも九天剣訣を使えれば男でも女でも構わないのか?」
「九珠は俺の娘、俺のもの、ひいては我が律家のものだ。律の名を再び江湖に轟かせるために、俺は血を絶やす覚悟まで決めたのだ! 九珠が貴様らに染められるなど、ならぬ……断じてならぬ!」
三者三様に火花を散らす中、九珠は全身の力が抜けていくのを感じた。常秋水が守ってくれているからだろうか、張り詰めていた糸がぷっつり切れてしまったようだった。三人が言い争う声が不明瞭な喧騒に変わり、言葉を聞き取るための集中力も残っていない。
しかし、ここで常秋水を失うことだけは避けたい。九珠を他のどんな存在でもない、一人の対等な剣客として見てくれる常秋水の助けがなくなれば、ここに至るまでの全てが無駄になる。
「……前輩……」
九珠は最後の力を振り絞って常秋水の踝を掴んだ。常秋水は即座に体を落とし、九珠に顔を近付ける。
「……き、せん、ちん……岐泉鎮に行けば……私の、師が……います……」
常秋水の目が見開かれる。それを見届けたところで九珠は意識を手放した。




