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九珠の剣  作者: 故水小辰
第四章:蘇口行
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休息

 大哥、と声が聞こえた次の瞬間、九珠はもっと大きくて強い男の手に腕を引っ張られた。

 ザバリと水飛沫を撒き散らし、九珠は再び地面に引き上げられた。痛む胸に空気を求めて本能的に口を開け、血の混じった唾をこぼしてこれでもかと咳き込む。何が何やら分からない中、誰かの手が背中に当てられて内功を注がれる。胸の痛みが和らぎ、気分が落ち着いてくると、九珠はようやく己の状況を飲み込んだ。

 飛雕が九珠をじっと覗き込んでいる。背後を振り返ると、常秋水が九珠の背中から内功を注いでいた。濡れそぼった右腕からは水滴がしたたっており、どうやら九珠を引き上げたのは彼らしい。


「飛雕…… 常、前輩……」


 出てきた声はひどく弱々しく、喉につかえて九珠をさらに咳き込ませる。しかし、飛雕がほっと全身を緩ませたのを見て、九珠はようやく助かった実感が湧いてきた。


「すまない。心配をかけた」


「本当だぜ! びっくりしたんだからな、いきなり大哥が消えて水柱がバシャーンってさ。ほんと何事かと思ったよ……常秋水ですら何が起きたか分からなくて固まってたんだぜ」


 安心したせいか、飛雕は堰を切ったようにしゃべり出した。なんでも、九珠が忽然と消えて騒然となり、常秋水すらも事態が飲み込ない中、飛雕が飛び出して九珠が立っていた場所に現れた穴に気が付いた。まさかと思った瞬間に赤黒いもやが水中で立ち昇り、我に返った常秋水が腕を突っ込んで九珠を引き上げた、というのが一連の顛末らしい。


 九珠は飛雕の話に頷くと、背後の常秋水を振り返って頭を下げた。


「常先輩の助力に感謝いたします」


「大方水に落ちた衝撃で運功が滞ったのだろう。調息してよく休め」


 常秋水は袖を絞りながら淡々と答えた。とんだ騒ぎに勝負を中断させられたというのに不機嫌なようには見えないばかりか、彼が他人を気遣う言葉を発したのはこれが初めてだ。


「はい……ありがとうございます」


 九珠はきょとんとしたまま返事をし、さっさと立ち去る後ろ姿を見送った。


「……変な奴」


 飛雕も目を丸くしてぽつりと呟く。呆然としていた二人は、「簫殿!」と叫ぶ声にようやく現実に引き戻された。

 声の主は鄧令伯だった。すっかり気が動転しているらしく、人混みを掻き分けて駆け寄る間にもつまづいて転びそうになっている。


「簫殿! ああ、ご無事でしたか……まことに申し訳ござらん、こちらの用意が至らないばかりに……」


 そう言う鄧令伯はすっかり青ざめていた。九珠が溺れ死ぬのではないかと本気で恐れていたと言わんばかりの慌てようで息を切らし、ずぶ濡れの九珠の全身を一瞥する。

 なんてことはない仕草だったが、九珠はなぜか背筋が粟立つのを感じた。今までに感じたことのない、鄧令伯という男そのものに対する警戒心がにわかに生まれる。

 九珠は無意識のうちに一歩退いていた。人好きのする鄧令伯が疎ましく感じられて仕方がない。


「……鄧先生、ご心配には及びません」


 九珠は硬い声で返したが、その声すらも自分の口から出ていないようだ。


「ひとまず部屋に戻らせていただきます。では」


 九珠は早口に切り上げると、さっさと踵を返して立ち去った。



***



 九珠にすげなく振り払われたものの鄧令伯のもてなしは翳ることなく、九珠が部屋に戻ると早くも熱めの湯と乾いた毛巾(タオル)、それに新しい衣が用意されていた。相変わらず手回しが良いと思いながらも九珠は早々に濡れた服を脱ぎ、湯を借りて体を温めることにした。

 それにしても、鄧令伯の目付きが気になって仕方がない。たった一瞬だったというのに、こちらのことが全て見透かされてしまったかのようなあの目付き——だが、蘇口に来る前も、蘇口に来てからも、九珠の振る舞いに不審な点はなかったはずだ。知廃生ですら九珠の正体には気付いていないのだから、ましてや鄧令伯が気付くわけがないのだ。


 九珠は湯を跳ね除けて立ち上がり、浴槽から出た。毛巾で全身を覆い、誰もいないことを確かめて部屋に戻る。自分の寝床を区切る衝立の裏に足早に入ると、九珠は荷物の中から替えの下着とさらしを出して素早く身につけた。用意されていた衣——何の変哲もない深衣かと思いきや、水のようになめらかな肌触りだった——に袖を通し、ようやく髪の水分を取りにかかったところで、部屋の戸が開く音がした。


「大哥、いる?」


 飛雕の声に九珠は立ち上がり、衝立の裏から顔を出した。


「なんだ」


「大哥! いやさ、けっこう派手に落ちてたから、大丈夫かなーって思って」


 飛雕は恥ずかしげもなく言うと、衝立の近くまでずかずか歩いてきた——もっとも、手前できちんと足を止めるあたりに決して不躾でない部分が出ているのだが。


「私は大丈夫だ。驚かせてすまなかったな」


 九珠は手短に答えると、再び髪の水気を拭き取りにかかった。放っておくと水滴がぽたぽた垂れてきて、これがなかなか面倒くさいのだ。


「そういえばお前は具合はどうなのだ? 今日はあまり離席していないが」


「今日はどうもないな。やっぱりあの日だけ慣れねえモン食っちまったのかな」


 首をひねる飛雕に大丈夫なら良かったと返すと、九珠は髪を拭くことに専念した。



 常秋水と知廃生は昼過ぎになっても部屋に戻ってこなかった——飛雕が卓に弓と矢を広げて手入れしている傍ら、九珠は湿った髪を乾かしながら牀の上であぐらをかき、目を閉じて調息していた。内功の流れのみに集中し、静寂に自分が溶け込むような感覚に身を任せて深く息をすると、全ての境界が消えて一体になるような錯覚がする。やがて精神が研ぎ澄まされてくると一度消えた輪郭が再び現れ、飛雕が立てるかすかな音や息遣いが肌で直に感じられる。ゆるやかに流れる大河のような感覚に一人たゆたっている時間は、今や九珠にとってなくてはならないものだった。

 ふと、誰かが部屋の戸を叩いた。強すぎず弱すぎず、適度に存在を主張するこの叩き方は、ここ鄧令伯邸の中でもとりわけ温厚な中年の下僕頭のものだ。気付いた飛雕が矢と手巾を置いて立ち上がり、扉を開けて話している声すらも手に取るように分かる。九珠はどうやら自分に用らしいと知ると、ゆるやかに内功を丹田に集め、細く長い息を吐いた。目を開け、身だしなみを軽く整えてから二人の前に姿を現す。


「何用だ」


 戸口で話していた飛雕たちは九珠の声にぱっと振り返った。


「大哥の知り合いだって人が来てるんだってさ。それで鄧令伯がお呼びみたいだぜ」


 飛雕は言いながら使用人を親指で指す。大した知り合いもいないのに、一体誰が——一抹の不安が胸をよぎったものの、九珠はそれを振り切り、身支度を整えるから待っていろと答えた。

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