影
九珠は頭を殴られたような心地がした。図星だからか、どす黒い怒りが腹の底からふつふつと湧き上がってくる。
——そう、兄妹の実力不足は他ならぬ九珠自身がよく知っていた。凡才に呪縛のような剣では名を馳せることなどできないというのに、九珠も含めた全員が、自分こそが律峰戒の野望を実現せんと身の丈に合わない覚悟を決めていたのだ。結局江湖にとっては吠えまくる犬が入れ替わり立ち替わり現れただけに過ぎなかった上、犬どもはちょっと鼻っ面を叩いてやるとすぐに怯えて姿を消した。律峰戒の悲願も兄妹の野望も、外から見れば所詮その程度のものだったのだ。
それでも、文字通り血の滲む鍛錬を積んだ末の敗北だ。九珠たちは何度殴られ、何度蹴られ、何度罵られたか分からない。動けなくなった兄を看病したこともあるし、あまりに厳しい修行を咎めた母親から逆上した律峰戒を兄妹全員で引き剥がしたこともある。そして母親を守れば裏切り者とそしられ、一発ずつ拳骨を腹に入れられるのだ。そんな日々の行く末が、「実力不足」——あの年月を、腕がものを言う江湖では最も残酷な一言で片付けることなど九珠にはできなかった。
現に、今も彼らは律峰戒の呪縛に囚われている。それは律姓を捨てたはずの九珠もそうだった——外野の評論はあの苦しい日々、負わされた痛みを否定する言葉に過ぎない。縁が切れれば消える過去などありはしないのだ。
もはや周囲の声など頭に入ってこなかった。全てが黒いもやに飲み込まれ、溶け込んでいくように不明瞭だ。その中心には少女が一人、熟れ切らない身体を抱いて、肌を覆う白い傷痕をぼんやりと見つめている——
ふと、パリンと音がして手のひらに刺激を感じた。ぼんやりしたまま手を見下ろすと、九珠は茶杯を握り潰していた。ばらばらに砕けた破片が皮膚に刺さり、衣に、床に、ぼたぼたと赤いしみができる。
「簫さん!」
江玲の切羽詰まった声が九珠を現実に引き戻した。途端に痛みが九珠を襲い、たまらず開いた手から破片が落ちる。江玲の動転した声と陶器が床を打つ音とで何人かが異変に気付き、好奇がさざなみのように広がっていった。
「おや。簫殿、如何されましたか?」
離れたところに座る鄧令伯までもが騒ぎに気付き、九珠をまっすぐ見つめてきた。
「いえ……その、申し訳ありません。茶器が」
九珠はしどろもどろに答えながら頭を下げた。ここまで取り乱してしまう自分に驚いていた——決別し、名も捨てて、すっかり違う道を歩んでいるとばかり思っていたが、根幹では何も変わっていないのだ。
「茶器などいくらでも替えが効く。それより今は傷の手当てをいたしましょう。あの独創的な剣を振るう手だ、大切にしなければ」
鄧令伯は人波を掻き分けて自ら九珠の方へと歩いてきた。血の垂れた床に膝をつき、皆が好奇の目で見る中で自らの手巾を九珠の傷にあてがう。
「あの、そこまでしなくとも」
九珠が慌てて止めようとすると、鄧令伯は穏やかな笑顔で「なんの」と答えた。
「今薬と包帯を取りに行かせていますゆえ、簫殿はしばしそのまま。手巾はそのまま差し上げましょう。かような小物はいくらでも替えが効きますゆえ」
金持ちらしいのか寛大なのか、鄧令伯は一部の未練も見せずに立ち上がった。衣に血が付いているのもお構いなしだ。
「ほお……なかなかやるではないか」
「どんな奴かと思っていたが、たいした懐の持ち主だぜ。中原一の金持ちってのも頷ける」
「がめついだけの守銭奴にはこんな真似出来っこねえものな。こりゃ本物の大人物だぜ」
堂々と席に戻る鄧令伯を賞賛のざわめきが追いかける。江湖じゅうの剣客が集まるというだけで集った侠客たちが、鄧令伯その人を認め始めたのは明白だった。
「では皆様、どうぞ議論の続きを」
鄧令伯は何事もなかったように告げて席に着いた。しかし侠客たちは今しがた起きたことに気を取られたまま、誰もがのろのろと視線を交わしている。
そんな折、誰かがダンと卓を叩いた。天板を叩き割ったのかという音に全員が振り向くと、常秋水が拳を卓に文字通りめり込ませていた。
常秋水が一同をぎろりと睨む。途端に皆の間に戦慄が走った。ずっと仏頂面で話を聞いているだけだったこの場で一番強い男が、場違いなほどの殺気と怒気を漂わせているのだ。
「これ以上くだらん茶番を続けるつもりなら俺は帰る」
常秋水は低い声で言った。皆言い返すことも取り繕うこともできず、常秋水の次の出方を見守っている。
「過去だの何だの御託を並べたいだけの輩は要らん。最強の剣客をこの場で決めるというのであれば、貴様ら全員で俺と勝負しろ。誰であれ勝てた奴に最強とやらをくれてやる」
常秋水が言い終えた途端、驚きと困惑が全員の口から吹き出した。堰を切ったような騒ぎの中、九珠は手巾を持ったまま、呆然と常秋水を見つめていた。
「なんてことを言い出すの。たしかに一理あるけれど……」
江玲も事態が飲み込めず、顔に手を当てて考え込んでいる。九珠が知廃生の姿を探すと、知廃生は広げた扇子の上から諦めの視線を弟に送っていた——九珠と目が合うと、知廃生は「もう手遅れだ」と言うように首をゆっくり横に振った。こうなれば常秋水は止まらないということを、誰よりも知っているからこその諦めだった。
「鄧令伯!」
喧騒の中、常秋水が声を張り上げる。鄧令伯はびくりと肩を震わて弾かれたように常秋水に向き直った。
「明日ここにいる全員を俺と勝負させろ。机上の空論よりも実戦の方が余程役に立つ」
提案というよりも命令だった。鄧令伯は目を白黒させながら頷くことしかできない。
ふと、鄧令伯の目が常秋水が砕いた卓へと泳いだ。
常秋水はそれを見て取ると、虫の死骸でも見るような目でこう言い放った。
「卓子とて替えが効くのであろう」




