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九珠の剣  作者: 故水小辰
第三章:瑞州常家
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謎の男

 九珠は用水路に手巾を浸し、例の付き人に渡してやった。付き人は礼を言って一番ひどい痣に手巾を当てがった――九珠たちの少し下流では飛雕が汚物まみれの手と口をすすいでいる。景気良く飲んでいたものの、どうやら飛雕はそこまで酒に慣れているわけではないらしい。


「大丈夫か、飛雕」


 声をかけてやると、飛雕はげっそりした顔でふらふらと九珠の方にやって来た。


「無理……気持ち悪い……」


「飲み過ぎだ。大人しくしていろ」


 九珠に言われると、飛雕は諦めたようにその場にへたり込んだ。どうやら先ほどの失態で少なからず悄気(しょげ)ているらしく、いつもの威勢の良さがすっかりなりをひそめている。


「先ほどはありがとうございました。お二方がおられなかったらどうなっていたことか」


 車椅子の男が丁重に頭を下げる。九珠はとんでもないと手を振って、改めて「お怪我がなくて良かったです」と伝えた。


「しかし一体、何があったのですか?」


如竹(じょちく)が車椅子を押していたら、あの男がたまたま椅子を引いたところにぶつかってしまいまして。無論ただの事故なのですが、彼が私たちのなりを見るや逆上して如竹と私を突き飛ばし、あとは見てのとおりです」


 男が侍従――如竹を振り返ると、顔を冷やしていた如竹は面目なさそうに頭を下げる。九珠は会釈を返すと、車椅子の主人に向き直った。


「ところで、先生はこちらの方なのですか?」


「ええ。郊外に居を構えております。街にもよく顔を見せていますので瑞州(ずいしゅう)の者は私のことを知っておりますし、おそらくあの男が余所から来たのだろうと」


 太腿を軽くさすりながら男は苦笑し、懐から扇子を出してもてあそび始めた。


「ときにお二人は旅の方ですかな。瑞州は初めてで?」


「ええ。少なくとも私は」


 九珠は答えながら、胸の内で食えない男だと呟いた。自分は体が不自由で侍従も腕に自信がないとなると、先の一件はかなり危険な状況だったはずだ。それなのにこの男は、まるで何事もなかったかのように落ち着き払っている。九珠と飛雕が割って入って助けたことも、普通なら命の恩人とばかりに感謝してくるはずだ。


 この男、ただの脚の悪い書生ではないのではなかろうか――にわかに湧いた予感を抱きながら、九珠は次の言葉を選んだ。


「風光明媚とはここのような場所を言うのでしょうね。修行ばかりの不粋者ですが、この街にはこの言葉が相応しいように思います」


「そうでしょう。ここは本当に美しい街です」


 男は扇子の影ですっと目を細めて言った。


「そういえば、お二人は江湖の義侠とお見受けしますが、ご尊名をお伺いしても? せっかく助けていただいたのに、このままでは満足なお礼もできません」


 来た――男の視線に嫌な胸騒ぎを覚えつつ、九珠はひとまず素直に返答した。


「私は簫九珠(しょうきゅうじゅ)と申します。あれは私の弟分で飛雕という名です」


 名前を聞いた男の目がすっと細められる。九珠はどきりとして思わず唾をのみこんだ。


「簫九珠に飛雕……もしやあの鄷都関の賊どもを退治した簫大侠と飛小侠ですか」


「ええ、まあ。ところであなたは……」


 九珠が尋ねると、男はパタンと扇子を閉じて言った。


「なに、名乗るほどのものでもありませんよ。此の生すでに廃れたりと知れどなお生きてゆかねばならぬ、ただの病人です」


 自己紹介にしては奇妙な言い方だと九珠は思った――書生は皆回りくどく言い回しを使うのか、彼がこうした口調を好むだけなのか、はたまた何か隠された意図があるのか。しかし、九珠が受け止め方を決めかねているうちに、男は侍従の如竹に合図して回れ右をしようとした。


「ああ、ときに簫殿」


 振り返りかけた男が思い出したように声を上げる。九珠が応じると、男は思わぬ名を持ち出した。


李玉霞(りぎょくか)女侠と面識はおありですか? 実はあなたに関して面白い噂を聞いておりまして」


「李玉霞? 彼女のことは名前と伝説しか知りませんが」


 九珠が訝しみながら聞き返すと、男は軽く笑みを浮かべて「そうですか」と答える。


「実は鄷都関の話を広めた老鏢師が、あなたをかつての李玉霞のようだと語っているようでして。なんでも彼女が名を轟かせた『九天(きゅうてん)剣訣(けんけつ)』にあなたの太刀筋が似ているのだとか」


 九珠は驚きのあまりあんぐり口を開けてしまった。九珠が使うのは律峰戒直伝の律白剣譜と簫無唱に教わった「有剣無名剣」のみだ。九天剣訣のことはもちろん知っているが、実物を目にしたことは当然なく、ただ江湖の伝説のひとつとして知っているに過ぎない。男の言う老鏢師とは秦亮だろうが――そして彼の歳ならば李玉霞の活躍を肌で知っている可能性が高いが、彼がなぜそんなことを言っているのか九珠には皆目見当もつかなかった。


「しかし、それはあり得ないはずです。彼女については、本当に巷で言われているようなことしか知りません」


 困惑しながらも反論すると、男は九珠をじっと見つめたまま「そうですか」とだけ答えた。


「まあ、その鏢師が勘違いしている可能性もあるわけですしね。病人の戯言と思って流してください」


 男はそう告げると、九珠と飛雕を残して如竹とともに去っていった。

 九珠は釈然としないままその背中を見送った――ずっと横で見ていた飛雕も同じように感じたらしく、まだ少し青い顔を小難しそうに歪ませている。


「変な奴もいたもんだな。俺たち若い世代は李玉霞のことなんて昔話程度にしか知らないのに」


「ああ。それにあの男もただ脚が悪いだけではないらしい」


 飛雕の言葉に同意を示しつつ、九珠は男の言った言葉を反芻した。「此の生すでに廃れたりと知れど」という部分がどうにも引っかかるのだ。それこそ江湖の昔話に出てきたような響きの言葉だ。


「飛雕。あの書生の名乗りの文句に聞き覚えはあるか?」


 九珠の問いに、飛雕は「それなんだよな」と答えて頭を掻いた。


「あの文句、絶対何か隠してるよな。此の生すでに廃れたりと知る……どこかで聞いたような……」


 ぶつぶつ呟く飛雕と一緒になって九珠も眉間にしわを寄せて考え込んだ。たしかにどこかで聞いた言い回しなのだが、それがどこか思い出せない。律峰戒から聞いたあれこれの噂話や恨みつらみ、さらには自分の耳で聞き知ったことを頭の中に並べても、腑に落ちる答えは見つからなかった。


 ふと、ガリガリという音が飛雕の方から聞こえてきた。九珠が振り向くと、飛雕が落ちていた枝を拾って地面に「|知了此生已廃《此の生すでに廃れたりと知る》」と書いている。みみずがのたうち回ったような、書画の才があるとはお世辞にも言い難い九珠ですら苦笑するような六文字を見るともなしに見つめていると、ふいに脳裏に閃くものがあった。


「知廃生……」


 九珠はぽつりと呟いた。次いではっと目を見開く。


知廃生(ちはいせい)だ! 車椅子にあの名乗りは間違いない!」


 この言葉に飛雕も弾かれたように地面の字を見つめ、「まさか⁉︎」と叫んで飛び上がった。


五招妙手(ごしょうみょうしゅ)の知廃生⁉︎ そんな達人が俺たちごときに何の用なんだよ?」


 知廃生――またの名を「五招妙手」、中原武林に名だたる掌法の使い手の中でも一際奇抜な戦法で知られる男。彼は過去の戦いで経脈を断たれ、車椅子なしでは日常生活を送ることもままならないが、復帰をかけてより一層内功を鍛える中で五招だけなら以前と遜色ない――あるいはそれを上回る実力を身につけた。彼を打ち破るには五招をかわし切って限界を迎えさせるか、より強力な技を使って五招のうちに決着をつけるかのどちらかしかないが、常人離れした内功に支えられた五つの技はまさしく百発百中の必殺技だ。その腕は達人と呼ぶに相応しいもので、九珠や飛雕のような若輩者はまず勝ち目はない。

 まさかの出会いに九珠と飛雕は顔を見合わせ、次いで弾かれたように走り出した。



 如竹が車椅子を押していった方向は分かっているが、二人にはそれ以外の手がかりはない。ところが、如竹が姿を消した曲がり角を勢いよく曲がった途端、二人の目の前に一人の少女が現れた。

 小柄な痩躯に細身の剣を佩いたその娘は膝を折って一礼するとこう言った。


(じょう)家の主より、簫大侠・飛小侠お二方を春秋荘まで案内するよう仰せつかって参りました」

  

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