敗北
九珠が父から教わった剣の要訣のうち、最も重要なものは「地面に膝をつかず」「剣を握り続ける」の二つだった。
地面に膝をつくという動作は相手への服従を示すもの、例えば仕官している者が皇帝に謁見する場合、これをしないと即刻死刑だ。しかし江湖で剣の技と己の極限を競うなら、服従は即ち敗北を意味する。敗北の先には死があるのみだ。
だから、決して地面に膝をつくな。そして剣を手放すな。剣を手放すということは目の前の勝負を諦めることと同義、諦めの先にあるものも敗北だ。
――即ち、死だ。
九珠の脳裏に暗く光る双眸が閃く。父親の声が幽鬼の呼び声のように耳にこだまする中、九珠は真っ二つに折れた剣を唖然と見つめていた。
何が起きたのか分からなかった――無我夢中で剣を振るっている最中、不意に剣が押さえられたかと思うと次の瞬間には爆ぜたのだ。とっさに顔を覆い、衝撃に乗って後退したときにはこの有り様だった。だというのに折れた剣には刃こぼれひとつなく、女も傷一つ負っていない。
岐泉鎮に住む女の隠者はただならぬ剣の腕前を持っているらしい。噂を頼りに居場所を突き止め、勝負を挑んだが、まさか剣を折られるとは思いもしなかった。麻痺する思考に印を捺すように動悸がし、鳩尾に嫌な感覚が広がっていく。それなのに、九珠が剣から視線を動かすと、女は顔色ひとつ変えずにただじっと直立していた。白い袍には少しの染みもなく、高く結った黒髪にも一分の乱れもない。彼女はただじっと、月夜の竹林のような静謐さを湛えた視線を九珠に向けている――その目はある種の達観をはらんでいるようで、若々しい容貌に反してひどく年齢を感じさせた。
「あなたは――」
急に隠者が口を利いた。九珠はぎくりと身を固くして、役立たずになった剣を構え直す。
「律峰戒の子でしたね。律九珠」
凪いだ湖にさざ波が立ったような声だったが、九珠にとってそれは嵐の高波に他ならない。九珠は乾ききった喉にわずかな唾を流し込むと、突如雄叫びを上げて彼女に襲いかかった。
折れたとはいえ、剣はまだ手の中にある。残った刃で叩き斬るか、切り口の角を刺しこめば――
しかし、女は九珠を制した。剣を持つ右手を抑えられ、首筋に剣指を添えられて、九珠はまつ毛の一本すら動かすことができなかった。
息もまともに吸えない緊張の中、女は静かに告げた。
「剣を真に鈍らせるものは固執です。迷いは解ければ糧となりますが、固執は害しかもたらさない」
次の瞬間、全身を押さえつけていた圧迫感が消えた。隠者が九珠を解放したのだ。彼女はあろうことかそのまま九珠に背を向けて、庵の入り口へと歩き出した。
「おいでなさい、律九珠。あなたに新しい剣の道を見せてあげましょう」
彼女はちらりと九珠を振り返り、一言告げてまた歩き出す。さっさと庵に帰っていくその背中を、九珠は呆然と見送っていた。
女は小屋の中に消えた。ふいに訪れた静寂の中、そよ風が周囲の竹林を揺らす。風は立ち尽くす九珠の頬を撫で、途端に一片の虚しさが胸に生まれた。
力が抜けた手から剣が落ちる。次いで込み上げてきた衝動に任せて九珠は腹の底から叫んだ。何度も、何度も、喉の奥に血の味が滲んでも叫び続けた。そうするうちに虚しさが全身に入り込んで涙が溢れてきたが、九珠は泣きじゃくりながらも枯れた声で叫んだ。
が、いつまでもそうしていられるはずもない。咳き込んだ拍子に地面に紅が飛び、くらりと視界が回転したかと思うと、九珠は地面から横向きに庵を眺めていた。
扉が開き、女の隠者が驚いたように駆けてくる。九珠はふっと目を閉じて、あとは何も分からなくなった。