迷宮 4
いつも朝早く出勤する佳保が発見したのは、倉庫の片隅にマットを敷いて眠る陽太だった。
「……周防くん? 」
驚いたというよりは呆れた顔をする佳保。何の反応もない陽太の頬をペシペシと叩いた。
「んあ……だれ~? 」
「寝ぼけないでよ。浅沼です! 」
陽太はその一言に叩き起こされた。起き上がって目をこする。
「もー、なんでこんな所で寝てるのよ」
「それは……早朝出勤したんですけど、まだ眠たくて」
手で寝癖を探しながら答える陽太。
「なんで早朝出勤なんかしようと思ったの……あ、分かった。いとこちゃんとケンカした? 」
陽太は大きく首を横に振る。
「じゃあ、いとこちゃんと気まずくなった? いとこ同士とはいえ男と女だもんね」
佳保は冗談を言ったつもりだった。だが、陽太は「はい」と頷いた。
「今まで、ずっと妹みたいな感覚だったんです。でも、美月はもう子供じゃなくて、オレも子供じゃなくて、それでどう対応していいのか解らなくなって、眠れなくなって……オレはダメな奴です」
いつになく饒舌な陽太は寝ぼけていたのか美月の名前まで口に出していた。
「周防くんってつくづく真面目な人間だね」と言って陽太の隣に座った。
「なんだか悔しいな。周防くんにそう思わせられる美月ちゃんって」
「……何がですか? 」
子犬のように潤んだ瞳でしかめっ面になる陽太を見て、佳保は思わず笑ってしまった。
「なんでもない」
佳保にとってこの鈍感男を好きになってしまったことは一生の不覚だった。
「朝ご飯ちゃんと食べた? 」
「それは一応……美月にも食わせなきゃいけないから。起きてくる前に家は出たんですけど」
「じゃあ、帰りにくくない? 」
「は? 」
「今日、家に帰りにくいでしょ」佳保の声が弾む。
「でも、帰らないわけにいかないし」
おもいっきり猫背で気の抜けた表情をする陽太はゆるキャラのようだった。
「だったら私のこと招待してくれないかな? 」
「浅沼さんが家に? 」背筋がピンと伸びる。
「丁度いい機会だと思うの。私、美月ちゃんに会いたかったから」
「マジすか……」
「もうすぐ夏休み終わっちゃうし、今しかないと思うの」
陽太といっしょに帰るためとか、陽太の部屋にあがるための口実とも捉えられる佳保の提案だが、彼女は純粋に美月を気に掛けているようであった。
もともと美月に佳保を会わせてみたいと思っていた陽太にとっても都合が良かった。
しかし、そこには美月本人という大きな壁が立ちふさがっている。陽太は美月が知らない人間を怖がるのではないかとにらんでいた。しかし、その考えはあっさりと崩れ落ちた。
「え? 大丈夫なのか? 」
「平気だよ」
その日の夕方、陽太は佳保を自宅の廊下前に待たせて美月の気持ちを確認していた。
「でも、美容院で具合悪くなってたから……」
「あれは、あの人が関係している訳じゃないから」
「そうなのか……。じゃあ、呼んでもいい? 」
美月はコクリと頷いた。
陽太はそれとなく部屋を片付け、玄関に佳保を迎えに行った。
「おじゃまします」遠くで聞こえる佳保の声。
美月は正座をした。
「こっちです」
陽太が手招きをして、佳保がひょっこり顔を出した。
「わっ! かわいい~! 」
佳保のハイテンションな声に少々驚く美月。
「浅沼さん、ここ座って」と、い草に座布団を敷いた陽太は飲み物を取りにキッチンへ向かった。
テーブルにつき、美月を見つめてニコっとする佳保。
「はじめまして。周防くんと同じ職場で働いている浅沼佳保っていいます」
深々とお辞儀する佳保にペコっと頭を下げる美月。
「はじめまして。美月です」
「周防美月ちゃん? 」
「いえ……」
「そうか、いとこっていっても同じ名字じゃない場合もあるのよね。ごめんなさい」
「いえ……」
「お母さんの方のとか、お父さんのお姉さんや妹さんでも名字は変わるもんね。ホント、私ってバカだな」
そこへ陽太が戻ってきた。
「美月は母さんの妹の娘なんですよ」
嘘を語りながら麦茶のグラスとスナック菓子を乗せた皿をテーブルに並べる陽太。
「そうなんだ」
「な、美月」目で合図を送る陽太。
「うん」と頷く美月。
早々と際どいところを突いてくる佳保に戸惑う二人だった。
「その洋服似合って良かった」と笑顔になる佳保。
「あ、美月。美月が着ている服は浅沼さんが選んでくれたんだよ」
「……ありがとう……ございます」
「私は選んだだけで、お金出したのは周防くんだから、お礼は彼に言って」
「でも、ネイルでしたっけ。あれは浅沼さんからのプレゼントでしたよね」
「あれは別に高いもんじゃないから」
二人の会話を聞きながら、美月は手の指を見つめた。ガタガタに噛んだ爪を陽太が短く切ってあげていた。
陽太と佳保の目線が美月の手に集中する。
「ごめんなさい。まだ塗ってなくて……」と申し訳なさそうに話す陽太。
「いいのよ。学校も始まっちゃうでしょ」
「……そうですね」
「ねえ、美月ちゃんはどこの高校? 」佳保は美月に問いかけた。
陽太の背中を冷たい汗が流れ、その場が凍り付いた。
「あ……美月は……その……」用意してない答えに焦る陽太。
「ごめんなさい……。聞いちゃいけない質問だったかな? 」
空気を読んだ佳保が引き下がろうとした。
「私の通う高校は田舎にあるから、名前を聞いても解らないと思いますよ」
佳保に向かい、少し口角をあげて話す美月。
「そっか、じゃあ遠いのに大変だったね」
「自分でまいた種ですから」
「私も若い時は些細なことで親とケンカばかりしてたわ」
「今でもお若いじゃありませんか」
「やだー。美月ちゃんいい子~」
美月と佳保の談笑に陽太はただ驚くだけだった。いつも無口で笑顔を見せない美月、何を考えているのかさえも解らず、話しかけることにも躊躇していた美月が相手に合わせて喋っている。
陽太は自分もそこに存在していることを忘れそうだった。
服の話、髪型の話、恋の話、陽太には入っていけない内容の話を一時間ほどして、佳保はやっと席を立った。
「長々とごめんね。美月ちゃん、またね」
そう言って部屋を後にする佳保。陽太はエレベーターホールまで見送りに来た。
「浅沼さんの力ってスゴいですね」
「私の力? 」
「美月、本当は人見知りで普段はあんなに喋らないんですよ」
「そうなんだ。でも、私スゴくないよ。喋ってはいたけど、美月ちゃんと目は一回も合わなかったもん」
それは陽太も感じていたことだった。前髪を切って初めて解った事実。美月は目を合わせてくれない。いつも口元を見ている。
「私、嫌われてるかな? 」
「そんなことないですよ」
自分も同じですなんて言えるはずがなかった。
「でも、好きな男の周りにいる女はうざいものよ」
と、名言を残し佳保を乗せたエレベーターは下っていった。
「別にそんなんじゃないんだけど……」と独り言を呟く陽太。
部屋に戻ると美月がテーブルの上を片付けていた。
「あ、悪い。オレも手伝う」
陽太はグラスを流しに持って行った。
「ごめんな美月、疲れただろ」背を向けたまま話す陽太。
「なんで? 」
「だって、嘘ばっかついていなきゃならなかったし」
「平気だよ。嘘つくのは慣れてるから」
その言葉に陽太の心臓が跳ね上がった。
「陽太くん、私の話聞きたいよね」
「……」
「陽太くんには嘘はつきたくないの」
美月は大きな窓のカーテンを閉めると、その場に正座した。
グラスを洗い終わった陽太がそっと左隣に座る。
お互いの顔を見ることはない。あの公園のベンチと同じだった。
「深青園を出るとき、私は養護施設じゃなくて、ある男の人に里子に出されたの。陽太くんは覚えていないかもしれないけど、よく園に出入りしてた人。まだ二十代だったけど、その人が私の父親になってくれた」
「お父さんだけ……? 」
「その人には彼女がいた。両親と縁を切ってまでして子連れの父と結婚した」
「お母さんになってくれたってこと? 」
美月は優しい顔でコクりと頷く。
「父も母もとても優しくて、私は幸せだった」
過去のことを思い出したのか、美月は薄ら目に涙を浮かべた。
「学校も普通に通わせてもらってた。友達もいて……」
急に辛そうな表情になる美月。でも、陽太はあえてそれを見つめるだけで何も口出しはしなかった。
「中学に入ってすぐ、父が事故で死んだ」
床に一粒の涙が落ちる。
「母も私もとてもショックで……。だけど生活するために母は昼だけでなく夜も働くことになって、私のために必死になってくれて、でも……その頃、学校で理科の授業でカエルの解剖があって……」
息づかいが荒くなる美月。手にギュっと力が入っていた。
「美月……? 」思わず声をかける陽太。
「大丈夫……」
美月は大きく深呼吸する。
「カエルの解剖が私の中で眠っていたある記憶を蘇らせてしまって、とても恐ろしいことで、その日から学校に行けなくなっただけじゃなく、外にも出られなくなった。それが、あのアパート」
「え……中学のときからあそこに居たのか? 」
「父が死んでから、あのアパートに引っ越したの。金銭的に余裕がなくて」
「そうだったのか」
そのとき、陽太の頭にあの女の姿が浮かんだ。
「お、お母さんって……もしかして今もあのアパートにいて水商売してる? 」
美月は悲しそうに頷いた。
「私が引きこもりになったせいで母の仕事に対する気力を奪ってしまったの。他人の子供を養うために犠牲になってしまったんだから仕方ないけど、私に対する扱いも変わってしまって」
「今、アパートにいる男は? 」
「母の恋人。店の常連だった人」
知られざる事実がいっきに頭に攻め込んできて、陽太は身震いがした。
しかし、本当に震えが止まらなくなるほどの事実を知るのは、まだ先のことだった。
「……ごめんね陽太くん、久々にたくさん喋って疲れたみたい」
「無理するなよ」
「晩ご飯はいらない。もう寝るね」
そう言ってゆっくりと立ち上がる美月。ふらふらと和室へ歩いて行く。
「美月、大丈夫か? 」
陽太の声に振り返る美月。
「あ、もうひとつ言っておかなきゃ」
「何? 」
「私、普通の人間じゃないんだ。でも障害者でもない……。たまにとてもおかしくなるの。自閉症に似ていて、でもそうじゃなくて、……壊れたロボットみたいな感じ」
そう言うと美月は和室の襖を閉めた。
陽太は言葉が出なかった。美月の言っていることを理解出来るわけもなかった。
ただ、今夜はその襖を開けてはならない。そんな気がした。鶴の恩返しに出てくる雪女を美月に重ね合わせていた。
クレセントの月が窓の外に姿を現す。陽太は夕飯に食べた冷凍のオムライスを思い出した。
美月の分も温めて和室の前に置いておいたが、食べる気配はなく十二時を過ぎた。
陽太は机に向かい電気スタンドだけを灯している。机の上にはレポート用紙が一枚。そこには美月が放った言葉が箇条書きにされている。
イスを前後にゆらゆらと揺らしながらペンで額を叩く陽太。その目は、どこか遠くを見ているようだった。
美月が里子に出されたこと、その父親がすぐに結婚して母親ができたこと、父親が亡くなったこと、母親が美月を育てるため水商売までして働いたこと、美月が不登校になったこと、それが原因で母親との関係が悪化したこと、それは陽太にも理解できた。
ただ引っかかっているのは美月が不登校になった原因だ。水商売をしている母親が原因でイジメにあったなどが理由なら納得がいく。でも美月は違うことを言っていた。
「カエルの解剖……眠っていた恐ろしい記憶……」
グロテスクな映画でも思い出したのか? しかし、それくらいで外出出来なくなるのはおかしい。
「おかしくなる……自閉症……ロボット……」
いくら考えても陽太には解らなかったが、美月が大きな不安を抱えていることは確かだ。
親の住むアパートから美月を引きずり出した。陽太には美月を守らなければいけない責任がある。
美月に女を感じ眠れなくなった昨日が遙か昔に感じられる。
美月と再会してひと月も経っていないのに、一緒に暮らして一週間も経っていないのに、陽太はその責任に押しつぶされそうになっていた。
結婚の覚悟まで考えたが、戸籍のない彼女とでは結婚も出来ない。
そもそもなんで戸籍がないのか。そんな疑問を何度も繰り返すだけだった。
陽太はスマートフォンを手に取り、ある人物のSNSにメッセージを送った。