迷宮 3
自宅に帰ると、美月は和室に閉じこもった。
美月の手を引きながら家路についた陽太だったが一言の会話もしなかった。下手に話しかけられる余裕がなかった。美月が発狂した姿が目に焼き付いて離れない。
陽太は美月という人間が怖かった。彼女の抱えた闇に引き込まれそうで、軽い気持ちで人助けをしてしまったことを後悔していた。
だが、一度手を出した以上、後には引けない。美月はあのアパートには帰れない。美月の居場所はここしかないのだ。
陽太はグラスに水を注ぎ、ゆっくりと水を飲む。無色透明なその液体が身体の中を流れることで、自分の汚い心を浄化してくれるような気持ちになった。
グラスを手にしたまま、陽太は和室に向かう。中からは何も聞こえてこなかった。
そっと襖をあける陽太。
何もない部屋の隅で、背を向けた美月が膝を抱えて座っていた。
「のど、渇かない? こっちに来て何か飲もう」
なんとも言えない静かな時間が流れる。
「……ごめん……なさい」とても小さな謝罪の言葉が無音の部屋に響く。
「別に、謝らなくても……」
「せっかく、私のためにしてくれたのに……」
「具合悪くなったなら、仕方ないじゃん」と陽太はわざと明るく振る舞った。
しばらくして、美月は陽太の方に振り返り正座をする。
「私ね、……ちょっと、色々おかしいの。訳ありな人間なの。陽太くん、気付いてるでしょ……私が変なの」
美月から長い言葉を掛けられたのは久しぶりのことだった。
「……ん、……まあ……」
陽太は素直に答える。しかし、美月の顔は見られなかった。
「説明すると、とてもとても長くなるの……」
「あのアパートの人間や、戸籍がないこと? 」
「……それだけじゃない。もっと……難しいこと」
そう言って美月はいつの間にか流れ出ていた涙を腕でぬぐった。その姿は迷子になった子供のようで、陽太は胸が痛くなった。
「美月」と言って、陽太は彼女の目の前に座った。ずっと俯いている美月の肩に優しく両手を乗せ、陽太は話し始めた。
「辛いことなら話さなくていいよ。美月がちゃんと生きていれば、それでいい。生活の環境変わったばかりだし、無理に色々しなくてもさ、大丈夫だから。ずっとここにも居ていいし。……話したくなったらさ、話したくなったら……そのときはちゃんと聞くから。今は……楽にしよう」
陽太は美月の頭をポンっと叩いて立ち上がった。
ワンピースにポタポタの涙が落ちる。美月は声を出さずに泣いていた。
日が暮れるのが早くなった。西の窓から太陽が沈んで、部屋は明るさを失う。
「陽太くん」
リビングの電気を付けに行こうとした陽太が立ち止まる。
「髪、陽太くんが切って」
「……オレ? いいの? 」
「陽太くんなら安心だから」
電気を付けたリビングの端に新聞紙を広げる陽太。その中央に美月が座る。ケープはないので、ゴミ袋に穴を開けたものを美月に被ってもらう。
自室の机に文房具を転がしてハサミを選ぶ陽太。
「みづき~、文房具のハサミしかないけどいいか? 」
「いいよ」
陽太は小学生が工作で使うようなハサミとくし、霧吹きを持って美月の元へ戻ってくる。
「鏡はいるか? 」
「ない方がいい」美月はハッキリ口にした。
美月の背後に立ち膝をする陽太。「うっうん」と咳払いをして床にまで続く長い髪をとかしていく。陽太も汚れないようにゴミ袋を着ている。エアコンをつけているが、風の当たらない場所にいるため少し暑苦しい。
「どれぐらい切る? 」
「六十センチ」
何でその数字なのか。陽太は色々想像を巡らせながら、今度はメジャーを取りに戻る。
普段全く使わないメジャーを六十センチまで伸ばして、美月の髪にあてる。
「こんなに切っていいのか。肩くらいまで短くなるけど」
「いいの」
戸惑う陽太とは逆に美月は平然としている。
「なんか、断髪式みたいだな……」
六十センチのところにピンで目印を作って、霧吹きの水を見よう見まねで吹きかける陽太。
まずは背中のあたりの髪をグーの手で束ねてハサミをあてる。緊張でハサミを持つ手が震える。そしてやっとの思いでハサミを動かすが全く切れない。
「やっぱり文房具のハサミじゃ切れないのかな……」
「力入れて切ればいいよ」
「バッサリいく? 」
美月は頷いた。
陽太は髪を持っている方の手から少し力を抜いた。そしてハサミを持っている利き手の方に力をこめる。
ジャキッと音がして髪がぱらぱら揺れる。それを数回繰り返し、陽太の手に長い毛束が残った。
「なんか、勿体ないな」
毛束を見つめ呟く陽太。彼はロングヘアの女性が好みだった。背中まで短くなった美月の髪。しかし六十センチまではまだ十センチほどある。
ここからは少しずつ丁寧に切らなければ毛先が汚くなってしまう。陽太は長い毛束を傍らに置き、作業を再開。目印にあわせてゆっくりとハサミを入れる。
地道に数ミリずつ、とても丁寧に。新聞紙の上に黒い髪が積み重なる。
「なんか、懐かしいな」
陽太に喋る余裕が出てきた。
「深青園にいたとき、園側で髪切ってもらってたじゃん」
「……そうだね」
「夏になると、オレ坊主にされてさ」と陽太は笑う。
「似合ってたよ」
「そうか? 」
決して裕福ではなかった。だけど、深青園と呼ばれるその養護施設はとても温かみに溢れていたことを陽太は記憶している。普通の民家にしか見えない木造の平屋建て。庭だけはとても広くて、毎日駆けずり回っていた。
「あそこに預けられてたのって、オレと美月だけだっけ? 」「力くんもいた」
「あ~、あの体格の良かった力くんか」
「親が迎えに来て居なくなった」
「そーいえば、さよなら会とかやったな! 」
当時のことが少しだけよみがえっきて興奮する陽太だが、ハサミだけは冷静に動かし続ける。
「副園長が力くんに内緒でケーキ作ってさ、オレたちも飾り付けとか手伝ったよな」
「……副園長って、民子さん? 」
「そんな名前だったっけ? 」
「深青園の園長は深川洋三、その妻が民子さんだよ」
美月はそっけなく話す。
「良く覚えてるな。オレ全くだ……」
そのとき陽太は、美月は単に記憶力がいいだけとしか考えられなかった。
後ろの髪をキレイにそろえると、今度は前髪に取りかかる。あえて長さを聞かず、まゆのあたりにハサミを入れる陽太。美月はじっと目をつぶっている。
あらわになる美月の美しい顔。長いマツゲ、薄い唇、ノーメイクとは思えない艶のある肌。
まるで人形かマネキンのように整っている。
「終わった……」
前髪をぱっつんにそろえ終わる陽太。その声に、美月はゆっくりと目を開く。
その瞬間、陽太は心臓の音を全身で感じた。
美月の大きく潤んだ瞳が陽太を見つめている。目線こそ合わないが、その目力に心が奪われそうになる。
「キレイに切れた? 」
「……う、うん」
これまで陽太は美月を妹のように扱ってきた。ずっと深青園からの延長で、同じ屋根の下にいても家族同然。アパートでの淫らな姿を見ても、助けようという気持ちが勝って妙な気分にはならなかった。だから一緒に住んでも大丈夫だと思えたのだ。しかし今、彼女の真の姿を見て心が激しく揺れ動いている。
そう、妹なんかじゃない。最初から妹なんかじゃなかった。陽太はこの日初めて、美月を女性として意識した。
「ありがとう」
顔の筋肉が動くのをはっきり見たのも初めてだった。今まではどこか電話で会話をしているような感じがした。
「いや……。風呂入ってこいよ、細かい髪、洗い流さないと」
そう言って、陽太は床の片付けを始めた。
「うん」
美月は和室に着替えを取りに行った。
新聞紙の上に無造作に置かれた長い髪の束を手に取る陽太。そばに落ちていた輪ゴムでそれをひとくくりにする。そして自らの口元に近づけた。
いい香りがする。女性用のシャンプーに変えたからか? それとも……。
陽太は我に返って首を振った。慌てて切った髪を新聞紙に包みゴミ箱へ入れる。
「夕食、作らないとな! 」
大きな声で自分に言い聞かせるように言った。