迷宮 2
たくさんの荷物を抱えて帰宅した陽太。玄関の鍵は閉まっていた。それはアパートのドアが開けっ放しだったことをうけ陽太が美月に注意してあったからだ。どんなにセキュリティー万全のマンションでも、今時都会で鍵をかけないものはいない。陽太はポケットから鍵を取り出し、自分でロックを解除した。
玄関にドサッと紙袋の集団を置く。部屋の中は真っ暗だった。
「美月、ただいまー」
久しぶりの挨拶が胸をくすぐる。
しかし美月からの返答はない。陽太は急いで靴を脱ぎ、大量の荷物をまだいでリビングの電気を付けた。
「美月? 」
驚いた様子で振り返る美月。足を抱えて座布団の上に座っていた。
「電気、付けたらよかったのに」安心する陽太。
「電気、解らなくて」
「そっか」陽太は美月に電気のスイッチの場所を教えていなかった。しかし、探せば解りそうである。ホテルだって、いちいち従業員がスイッチの場所を説明したりしない。陽太は美月の言動がずっと気になっていた。
あのアパートでの生活の中で、何かがあったのだろうか?
「部屋の電気はここだよ」と陽太は指をさして教えた。こくりと頷く美月。
「昼飯は食べた? 」
「ラーメン、食べたよ」
「良かった。でも、ごめんなカップ麺で。明日は……あ、食いもん買ってくるの忘れた……」
やってしまったというばかりに座り込む陽太。
「いいよ」美月が呟く。「ラーメン好きだから」と続けた。
「でも、栄養が偏るから後でコンビニ行くよ」
そう言って立ち上がった陽太は、玄関から大量の紙袋を持ってきた。そして中のものを全部出していく。
「美月、手伝って」
駆け寄った美月は陽太が出したものをキレイに並べ始めた。
「とりあえず、これとこれとこれ。 脱衣所で着替えてきて」
陽太は美月に部屋着と下着を手渡した。
美月が着替えをしている間、陽太は服のタグを外したり、小物をビニールから出したりと、すぐにものを使える状態にした。
やがて着替えを終えた美月が現れる。
タオル地で作られた半袖短パンのセットアップはパフスリーブでカボチャパンツ、色は勿論水色で飾りボタンやフリルがたくさん付いている女の子らしいアイテムだった。
「……サイズ、いい感じ? 」
可愛らしくなった美月に少し鼻の下がのびる陽太。美月は黙って頷いた。
「あ、これ、リストバンドの代わり」そう言って陽太はシュシュを差し出す。
美月は受け取ったシュシュを早速手首にはめた。洋服とのバランスも良い感じである。
床に散乱したものを眺めながら美月は陽太の隣に座った。
「これ全部美月のものだよ。会社の先輩が女性が使うものを選んでくれたんだ」
歯ブラシ、コップ、コーム、ヘアゴム、シェーバー、手鏡、ポーチ、ハンドタオル、ハンドクリーム、リップ、化粧水、乳液、ヘアスプレー等々、衣類以外にもたくさんのものを購入した。佳保が選んだオシャレなものと陽太が百円ショップで買った色気のないものが入り乱れる。
「靴は玄関に置いてきたから後で見て。サンダルとスニーカーとヒールのやつがあるから」
「そんな、たくさん? 」美月が申し訳なさそうに言った。
「セールだったからたくさん買えたんだ。バッグもあるぞ」
斜めがけのバッグを陽太は美月の肩に掛けた。財布やハンカチを持ち歩くのに丁度いい大きさのバッグを手に取り、じっと眺める美月。
「みんな青だね」
「あー、美月が青が好きって言ってたから。なんていうか季節的に水色系が集まっちゃったんだよな」
「キレイ……」
長い前髪の向こうで美月の目が輝いている。陽太はそれを微笑ましく見ていた。
「美月、明日美容院行こうか」
「髪、切るの? 」
「前髪長すぎるし、毛先だってそろえてもらった方がいいだろ。嫌か? 」
髪は女の命だとかいう古くさい言葉が陽太の頭に浮かぶ。
「嫌じゃない。久しぶり」そう言って、美月は自分の長い髪に触れる。
「じゃ、後で予約入れておく」
陽太がポケットからスマホを取りだそうとしたとき、キュルキュルっとお腹の鳴る音がした。美月が無言で頬を赤らめている。
「……飯、買ってくるか」と笑う陽太。
「ラーメンでいいよ」
「いや、米食ったほうがいいっって」と立ち上がる陽太。
すると美月は陽太のズボンの裾を引っ張った。
「私も……」
俯いている美月に、陽太はそっと手を差し出す。
「近くだから一緒に行こう」
陽太は美月の手を握って引き上げる。昨日、彼女をあのアパートから連れ出したときのように。まだ一日しか経ってないのに随分と昔のことのように思えた。
美月は買ったばかりのバッグを肩からぶら下げると、真っ直ぐ玄関に向かった。紙袋の中からサンダルを取り出し、指でそれに唾をつける。
「あ、懐かしい」ポツリと呟く陽太。
養護施設にいたとき園長に教えてもらったことのひとつだ。夜に靴を下ろすときは魔除けのために唾をつけなければいけない。いわゆる迷信である。施設で新しい靴を買ってもらうこと、ましてや夜に出かけるなんてことはほとんどなかったが、園長が出かけるときにそれを教わったことは覚えていた。
「あー、忘れてた! 」
陽太は大きな声を出してリビングに引き返すと、佳保から貰ったギフトボックスを手に戻ってきた。
「これ渡さなかったら明日浅沼さんに怒られるとこだった」
「アサヌマさん? 」
「オレの上司。これ、美月にプレゼントだって」
小さなギフトボックスを受け取った美月は飾りのリボンをそっと外し包装紙を丁寧に剥がして白い箱を開けた。
「マニキュア……って今は言わないんだっけ」
箱の中には夏らしい水色と白のネイル液が二本入っていた。
美月は黙って箱の中を覗いている。
「せっかくだから、塗ってみるか? 」
そう軽い口調で話しながら、陽太は美月の手を取った。そして瞬時に嫌な空気が流れる。
小さく細い美月の指はとてもキレイだ。しかし爪先はガタガタと歪んでいる。小さい子供が爪を噛んで出来るあの状態と同じである。
「美月、もしかしてまだ……」
陽太は覚えていた。美月は幼い頃、嫌なとこがあるとよく爪を噛んでいた。園長夫婦に怒られたときや、誰かとケンカした後、嫌いなおかずが出たとき等、爪を噛んでむしっていた。
「違うよ。爪切りがなかっただけ」
美月は静かに否定した。
「そうか……」陽太はそれを受け入れることしか出来なかった。
「じゃあ、帰ったら爪切ろうな」
「夜なのに? 」
夜に爪を切ると親の死に目に会えない。そんな迷信も園長から教わっていた。親なんて最初からいないのだから死に目に会えなくて当然の二人。だけど、この迷信の大事なところは親の死に目ではない。夜に爪。よづめ。世詰め。世を詰める、つまりは人生を縮めるという意味になる。人生が短ければ親よりも早く死んでしまう。そんな迷信なのだ。
「それじゃ、明日にするか。髪もキレイになるし」
陽太は無理に笑顔を作った。
自分で美月をアパートから連れ出したのに、自分が美月を助けようと思ったのに、陽太は美月のことが少し怖かった。アパートの人間との関係や身体の傷の原因も未だ分かっていない。ましてや戸籍がないことも判明する。尋ねたいが、それが難しい。
あのどこか冷酷な表情、冷めた口振り、ロボットのような喋り方、再会したときから様子がおかしかった。人間というより人形のようで、昔の元気な面影はどこにもなかった。
この美月は、本当にあの美月なのか。陽太は思った。
翌日、仕事を終え帰宅した陽太は美月を連れて予約しておいた美容院を訪れた。
面倒くさがりな陽太は自宅から近いその美容院を行きつけにしていた。三十代の少しチャラい男性美容師が一人で切り盛りしている。
外観はガラス張りで、今時のオシャレな雰囲気をかもし出している。陽太がドアを開けるとカランコロンと小さなベルの音が鳴り響いた。
「いらっしゃい」
待ってましたとばかりに声をあげた美容師は背が高く彫りの深い顔、ロングのドレッドヘアでアロハシャツに似たカラフルな柄のシャツにタイトなデニムパンツを着こなしている。
昔でいうところの、いわゆるカリスマ美容師といった感じだ。
「……あ? 」
その美容師が目を見開いて陽太のほうを二度見した。正確には、陽太と手を繋いでいる美月を見て驚いているといったところだ。
「陽太くん、そちらの方はもしかして彼女? 」
「いとこだよ。田舎から出てきたんだ」
陽太と美月は事前に嘘を用意していた。
「陽太くんにこんな可愛い彼女がいたなんて意外だな」
「いとこだって! 」
その日の美月は淡い水色の優等生風シャツワンピースを着ていた。
「ムキになるなよ~。何ちゃん? 」
「美月……美しい月」
美月が少し陽太の後ろに隠れたので、陽太が代わりに答える。
「美月ちゃんか~。あ、今日は美月ちゃんのカット? 」
美容師は美月の長すぎる前髪を見て尋ねる。
「うん。あと時間があればオレも」
陽太のボサボサ頭もメンテナンスの時期である。
「はいはい。準備するから、どんな風にしたいか決めておいて」
陽太は待合場のソファーに美月を座らせ、ヘアカタログを手渡した。
「どんな感じがいいかな~」
真剣になって見ているのは陽太のほうである。美月はずっとしかめっ面で店内に飾ってあるインディアン風の置物やポスターを眺めていた。
「なあ美月、このモデルの子の髪型よくない? 」
「……この曲嫌い」
返ってきたのは質問の答えではなかった。店に静かに流れるレゲエ調の音楽が苦手らしく、美月は指で耳栓をしている。
「そんなに気になる? BGMってこんな感じじゃない。いつも聴いてる曲の方が騒がしくて嫌になる人多いと思うけど」
「いつものは好き」
美月は持っていたバッグの中からポータブルオーディオを出そうとした。
「おまたせ! 美月ちゃんカモン」と手招きする美容師。
陽太が先に立って手を差し出す。美月はしぶしぶバッグを閉じ、その手を握って立ち上がった。陽太は席まで誘導して美月を鏡の前のイスに座らせる。
片手に持っていたヘアカタログを開いて美容師に説明する陽太。その表情は浮かれていた。一方の美月は鏡をじっと見つめている。それは鏡の中の自分を睨んでいるようにも見えた。
「美月ちゃん、こんな感じでいい? 」
美容師がヘアカタログを美月に見せる。黒髪のストレートなロングでぱっつん前髪のクールそうな美女が微笑んでいる。
「陽太くんの趣味なんだけどね」
「いや、美月に一番似合うかなと思って」と焦る陽太。
美月はコクりと首を前に倒した。
「じゃ、決まり」
美容師はなめらかにケープで美月の身体を包み込む。
慣れた手つきでサラサラと髪を触ると、くしで長い髪をといていく。
そしてくしをハサミに持ち替える。カチっと音が鳴り、鏡には光に反射したハサミと真剣な表情の美容師が映し出された。
そのときだった――。
「うっ……」えずいたような声を出し、美月がイスから離れた。
ドンと鈍い音がして、雑誌を読んでいた陽太が振り返る。
「ぅあああああああああああああ~! 」
美月が発した声は悲鳴というより雄叫びに近かった。
驚いた美容師は命であるハサミを床に落としてしまった。
「あああああ~! 」と叫びながら、美月は目の前の鏡を細い腕で殴っている。
「みっ……美月? 」慌てて近寄る陽太。
美月は力をなくしたかのように足から崩れ落ちると、床に座って苦しそうに胸を押さえていた。
「救急車呼ぶか? 」と問いかける陽太に大きく首を振って答える。
「だって苦しいんだろ? 保険証なくても現金で……」
「違う……違うの……。病気じゃない……」
美月はゆっくりと深呼吸を繰り返す。眼には涙が溜まっていた。陽太は硝子に触るように優しく美月の背中に手をあて、そっと上下になでた。
状況を掴めない美容師は困惑している。
「美月、帰ろうか」
美月は陽太の腕に触れ、「うん」と返事をした。