再会 2
家の鍵や財布、スマートフォンといった貴重なものはポケットに入れていたので救われた。忘れた荷物にはたいしたものは入っていない。ただ、あのポータブルオーディオだけ気になった。古いタイプなので、もう店頭では扱っていない。
荷物を持っていないことに気付いたのは、あの日家に着いてからだった。取りに戻ろうかとも思ったが、陽太の身体がそれを拒んだ。
「最近、元気ないね」
あの日から数日が過ぎた。陽太は昼休みも公園には行かず、その姿は職場の休憩室にあった。
「はい? 」
「ここでご飯食べるようになってから元気ないよね」
手製の可愛い弁当をひろげながら軽い口調で佳保が言う。
「そんなことないっすよ。みんなで食べるの楽しいし」
そう言って、陽太はコンビニ袋からおにぎりを取り出す。
「ホントかな~。公園で彼女とラブラブしてたのにケンカしちゃったとか? 」
「は! んな訳あるはずがないでしょ」
あながち間違ってもいないので、少し動揺してしまう陽太。
「……じゃあ、もう公園には行かないの? 」
「……それは……気が向いたら」
「ふ~ん」佳保はつまらなそうな顔をして、だし巻きたまごをフォークでさした。
本当は行きたい。美月が来ているかもしれない。でも、陽太は怖かった。もし美月と会った場合、どう接していいか解らない。自分から逃げるように立ち去った美月が次の日に来ている確率は少ないけど、もし彼女がいたら何を話せばいい? また無言の世界に戻ったとして、それに意味があるのか分からない。陽太はここ数日、ずっとそんなことを考えていた。
家に帰って独りになると、あの日のことを思い出して吐き気がする。そのせいか、陽太は少し痩せた。佳保が心配するのも無理はない。
「おにぎり一つ? 」佳保が尋ねる。
「はい。食欲ないっていうか、ちょっと胃がムカムカして」
「大丈夫? 夏ばてかな? 」
「そんな感じですかね……」
「妊娠なわけないしね」と佳保が笑う。
最初は馬鹿にされてると思った陽太だったが、この冗談をきっかけに次の日公園に行く決意ができた。
晴天。久々に訪れる公園は太陽の光を浴びてキラキラ輝いて見える。木の葉も以前より青々しているように見えた。額に手をかざしながらベンチの方を見る陽太。
そこには、再会したときと変わらないままの美月がいた。汚れた服にボサボサのロングヘア。だけど、陽太の目にはそれが何故か美しく見えた。しばらく見つめてしまうほど。白いワンピースが彼女にとても似合ってることに今更気付く。
「美月? 」陽太は近づいて声をかけた。
返答はない。嫌われてしまったのかと思った陽太の視界にあるものが飛び込んできた。
スカイブルーのポータブルオーディオ。あの日このベンチに置き去りにしてしまったもの。それが美月の手の中にあった。
「美月! 」隣に座って肩に手を置く。美月はびっくりしたのか、一瞬ピクっとした後陽太の方を見た。目が合うと、美月は耳からイヤホンを外した。
「美月、それ……」
「……陽太くんの忘れ物」
「拾っておいてくれたのか」
「これ、借りてた」
陽太が感謝の言葉を口にしようとするが、美月の話にはつづきがあった。
「返そうと思って、毎日待ってたんだけど。来ないから……」
「毎日って、あの……次の日から? 」
陽太は飛び出そうなくらい目を大きく開けて問いただす。
「うん。他のものは家にある」
「ずっと、ずっとここに居たのか? 」
もはや陽太の耳に美月の言葉は入ってこなかった。あの日から何日経ったのか頭の中で計算しようとするが時の経過に鈍感になっていたため思い出せない。
「いたよ。陽太くんは居なかったけど」真顔でそう話す美月。
「ごめん! すまなかった! 」
陽太の中に色んな感情が入り乱れて、本人も訳が分からないままに深く頭をさげる。すると美月はツンと指で陽太の頭を突いた。
顔をあげる陽太。懐かしかった。施設にいるとき、よく美月はそうやって陽太の頭を突いていた。転んで泣いたときや大人に怒られたとき、おねしょをしてしまったとき、いつもそうやって慰めていてくれた。陽太は涙を必死にこらえ、美月に笑顔を見せた。美月もほんの少しでけ笑みを浮かべた。
「オレ、もう一つ美月に謝らなきゃいけないことがある」
陽太は姿勢を正して前を見た。美月は首を傾げて同じく前を向く。
「それ、ここに忘れた日の夜……美月の家に行ったんだ」
かしこまらないように注意しながら話し出した陽太。美月は少し俯いたが髪が邪魔して表情は解らなかった。
「覗く気なんてなかったんだけど……窓が開いてたから、オレ……最低だよな」
全てを伝える前に陽太の心の声がもれる。美月は更に俯いてピクリともしない。
「嫌じゃないの? あの男と……」その先は口にしたくなかった。
美月はいつかのようにポータブルオーディオをギュッと強く握りしめた。
「美月が、あの男のことを愛してるなら、それでいいんだ。家族じゃないみたいだったし」
陽太の言葉に美月は手を震わせていた。握っていたポータブルオーディオがカタカタと音を立てる。陽太はその手に優しく触れた。
「嫌なんだろ? 」そう言って前髪の奥にある彼女の瞳を見る。
美月はゆっくりと頷いた。
「じゃあ、何で? 」出来るだけ大きな声を出さないように気を付けながら問う陽太。また、黙りされてしまうかと思った。でも、美月はすぐに口を開いた。
「あそこにいるには、そうしないといけないの」
「どうして? 」
「私の居場所、あそこだけだから」
重い台詞だった。施設をでた後、美月はどうして今に至るのか、陽太には想像も出来ない。だが、目の前にいる美月が幸せではないことは理解できる。
「私は、大丈夫」
「……」
「私は、だい……」
「大丈夫じゃねーよ! 」つい大声を上げてしまう陽太。そして触れているだけだった手を握る。そして小さな声でこう続けた。「避妊してないよな? 子供が出来たらどうする? 」
陽太が言いたいことはすぐに美月に伝わった。施設で育った二人だからこそ敏感になる問題。
「オレたちみたいな子供を増やすつもりないよな? 育てられるのか? 堕ろすにしたって金がいるんだぞ。あの男は働いてないんだろ」
立ち聞きした身分で偉そうなことは言えない。でも、陽太はこの問題については放っておけなかった。美月の幸せと同じくらい大事なことだった。
陽太は中学生のとき自分の本当の母について、父からこう聞かされていた。学生服を着た若い女の子が赤ん坊を抱き、雨に濡れながら深青園の前に立っていた所を園長が見つけ、赤ん坊を預かったのだと。その話を聞いてから数ヶ月、陽太は女子高生を直視出来なかった。そして今、その本当の母が今の美月と被って見える。
「産まないよ」ポータブルオーディオを持ったまま、立ち上がる美月。
「だから、金が……」
「堕ろしもしない。戸籍がないから病院いけないし」
「へっ……」固まる陽太。
そして美月は陽太に背を向けながら言った。
「子供が出来たら、私が死ぬ」
今まで会話したなかで、一番リアルで、一番人間らしい話し方だった。陽太はベンチに座ったまま、声すら掛けられないでいた。
ポータブルオーディオをベンチに置いて、美月は去って行った。例のアパートに帰ることは解っているのに、陽太は追いかけることも出来なかった。食事をする気分にもなれなかった。ポケットからスマートフォンを取り出す。そのときはそれしか出来なかったのだ。
「周防くん、危ない! 」佳保の声で我に返った陽太は自分の頭上寸前のところで崩れてきた段ボールを押し止めた。
「すみません」
胸をなで下ろす佳保。パートのおばちゃんたちも佳保の声に驚いてザワザワしている。
休憩時間に入り、佳保は陽太を事務所のすみにある応接室に連れてきた。応接室といっても簡易的なもので、パーテーションで仕切った場所にソファーと机があるだけだ。事務の人間がたまに昼寝をするくらいにしか使用されていない場所である。
陽太がソファーに座ると、佳保から冷たい缶コーヒーを手渡された。
「冷やしたタオルもいる? 」と聞かれ、「これだけでいいっす」と陽太は缶コーヒーを額にあてた。
「今日は特に元気がないね」
「そんなことないですよ」
「あるよ。倉庫で働くには体調管理が一番大事だって、昔教えたでしょ」
佳保の真面目な説教に陽太は頭が上がらなかった。
「公園で食べるはずだったお昼ご飯もロッカーにしまちゃってたし」と言って、佳保はテーブルの上にコンビニ袋を乗せた。
「見てたっ……てか、勝手に開けたんすか……」
呆気にとられる陽太の顔を見て、佳保は笑顔になった。その笑顔を見て、陽太も心が和んだ。ぬるくなったおにぎりを手に取りビニールの包み紙を外す。
「公園、もう行くのやめたら? 」佳保は陽太と向かい合って座った。陽太の口はおにぎりでいっぱいになって喋れない。
「もう、行きません」コーヒーで米粒を胃に送り込んだ陽太は、そう断言した。
「ホントに? 」
「二度と行きませんよ」
そう言って陽太は佳保がテーブルに置いたスマートフォンをうつろな目で見た。
「浅沼さん……」
「何? 」どこか遠くを見ているかのような陽太の独特な雰囲気に呑まれそうになって、佳保は慌てて返事をする。
「戸籍がないと、病院って行けないんですか? 」
突然変わった話の内容が深すぎて、佳保は一瞬黙り込む。陽太はパンの袋を開け、それにかじりつく。
「戸籍がないって、無戸籍ってこと? 」
「はい」
あっさりしたした返事を返す陽太。
「病院には行けるでしょ。ただ、保険がきかないから費用が高いんじゃない」
「そっか」
「それがどうかしたの? 」
「いや、テレビでやってて気になったんで」
勿論そんなのは嘘だった。陽太が昼間ネットで調べたことについて、どれだけが本当のことか確かめたかったのだ。
「学校とかも行けないんじゃなかった。あー、でも義務教育なら受けられるとこもあったんじゃないかな」
「高校は無理なんですか? 」
「だったはず。無戸籍のリスクって多いじゃない。結婚とか無理だし。選挙権もないでしょ」
「他には? 」
「色々あると思うよ。この世に存在しないってことだからね」
自分で聞いたのに返ってくる言葉にショックを受ける陽太。佳保の知識もネットで調べたものと同じくらいの内容だった。
「無戸籍になる理由って、親が出生届を意図的に出さないことの他に何かありますか? 」
佳保は腕を組んで考える。
「ほとんどの場合それよね。……あとは代理出産とかかな。だって、いわゆる捨て子だって養護施設が市だか県だか国に頼めば戸籍を得られるもんね」
佳保は陽太が養子であることを知らない。学生時代の友達にも陽太は自分の過去を話していなかった。話す必要もないと思っている。実家が裕福であることをひがまれたりしても気にしない、陽太は今の家族が本当の家族であると自信満々に言える。
「出生届って、後からでも受け付けてもらえるんですよね? 」
「特例みたいな感じじゃなかった? 戸籍だって何か色々すれば取得できるんじゃない」
美月に戸籍がないのなら、自分も戸籍がなかった可能性がある。陽太はそれが気になって仕方なかった。しかし、それを親に聞くわけにはいかない。現に自分は戸籍を得ているのだ。
「大変よね、親の身勝手に振り回される子供は」
「ですね……」
陽太は話を合わせるしかなかった。そう思えるのは佳保が親に振り回されていない証拠だ。
美月のような状況に追い込まれたら、そんなのんきなことは言えないだろう。陽太の頭の中は美月のことでいっぱいだった。公園には二度と行かないと決めた。それは、もう二度と美月とは会わないということだ。
だけど、まぶたを閉じれば彼女の姿がちらつく。耳にも彼女の力ない声が残っている。気になって、気になって、仕事もまともにこなせない。
陽太には見えた。このまま先の美月の人生が。世の中から追い出された彼女は、あの家に閉じ込められ、人形のように扱われ、中年の男との間に子供が出来たら、そっと死んでいく。もともと存在のない人間がいなくなっても、誰も気付かない。誰も悲しまない。
青白い手で手首を切るのか? 高いビルから飛び降りるのか? 薬を買う金はないだろう。美月に穏やかな死はない。苦しんで死んでいく。そして、天国にさえもいけない。
陽太は昔、母に教えられた。自殺した人間は地獄に行くことを。
死後の世界は別にせよ、今のままでは美月の人生は最悪なものになる。それこそ救世主と運命的な出会いをしない限り未来は絶望的だ。
「救世主ね……」陽太はポツリと呟いた。
そこは夜になると表情を変える場所。もう、二度と来ないと固く決めたはずだった。でも、陽太の足は嘘をつけない。気付けば導かれるように公園にたどり着いていた。
まるで陽太の不安とシンクロするように、高くて大きな木がザワザワと葉を鳴らす。いつかの夜よりも月がキレイでスポットライトのように木の隙間から陽太を照らす。
手荷物はなかった。だけど陽太は何か重たいものを背負っている気持ちになる。ベンチに腰掛け、肩から大きく深呼吸する。胸に当てた手はジワッと汗をかいていた。
別に救世主を気取りたい訳ではない。ただ、自分の知っている人間が見殺しにされるのを知ってて見過ごすことが陽太にとって耐えられなかった。放っておけばアパートから変死体なんてニュースを見る度、気分が悪くなるだろう。
だから陽太は美月を救出することを選んだ。幼なじみということもあるし、彼女には聞きたいことがある。
陽太は時計も見ずに、じっとアパートの美月の部屋を見ていた。
しばらくすると部屋のドアが開き、派手な服の女が出てきた。美月の母親であろう人物だ。陽太はこのときとばかりに立ち上がった。
ミッションスタートである――。
陽太はアパートの階段の陰に隠れると、静かに女が階段を下りきるのを確認する。女がアパートから離れたところで、今度は自分が階段を一気に駆け上がった。
全身で心臓の鼓動を感じる陽太。でも、もう迷ってはいなかった。呼吸を整え足を踏み出す。短いはずの廊下なのに、やけに長く感じた。
美月の部屋のドアを前にする。窓の隙間はそのままだったが、もう覗く必要はなかった。
漏れてくるのは中年男の荒くえげつない息づかいだけだった。陽太は目をつぶり、深呼吸をする。悪いことをする訳じゃないと己に言い聞かせるのだ。
ゆっくりとドアノブを握る陽太。何の根拠もないが、鍵はかかっていない自信があった。そっとドアノブを回し、少しだけドアを開ける。生ぬるい風と共に、かいだことのない酷く不快な臭いが流れてきた。息をとめ、音を立てないように室内に入る陽太。玄関近くにあった棚に身を隠す。裸の男は背を向けているため、全く陽太に気付いていなかった。
どうにかして美月にだけ自分の存在を知らせたかった陽太は、頑張って手を伸ばし美月の白いワンピースを引き寄せる。そしてそれを美月の視界にだけ入りそうな高さで振った。
他人の性行為を目前にし興奮する気持ちを抑え、陽太は必死にワンピースを振り続けた。
「……! 」
「……どうした……? 」
突然体勢を変えた美月に戸惑う男。
美月は気の緩んだ男の拘束を解き、身体を起して陽太の方を見た。前髪の隙間から大きく見開いた目が確認できる。突然のことに驚きを隠せないといったところであろうか。
「だっ、誰だお前は! 」美月の様子を見て男も陽太の存在に気付く。
慌てて立ち上がろうとする男。
もう、引き返せない――。
「美月、来い! 」と玄関から手を伸ばす陽太。
しかし美月はその場で動揺し、恥ずかしささえ忘れてる。
仕方なく陽太は土足で部屋に入り、布団に座り込んでいる美月の腕を掴んだ。
「なっ、……待て! 」と言いながら男は自分の下着を探している。
不安そうな美月に対して、陽太は強く優しい眼差しで大きく頷いた。大丈夫だよというメッセージを受け取った美月は立ち上がる。そして足下にあった男の下着を遠くに蹴り飛ばした。
「なにしてやがる! 」男は裸のまま二人に襲いかかった。陽太は美月の盾になって、そのまま男の下腹部に一発蹴りを入れる。
「あああああ……ああ…!」膝から崩れて悶絶する男。
それを横目に陽太は美月の手を引いて部屋を出た。廊下に出ると、美月が裸なのも忘れて無我夢中で走った。美月も必死でそれに着いていく。
階段を下りて人通りの少ない裏道へ入る。民家の間を迷路のように進む。すると遠くから男の大きな声が二人の耳に届いた。
「ふざけやがって! もう二度と戻ってくるなー! 」
好都合だと陽太は思った。
美月は陽太に繋がれた手を震わせながらしゃがみ込んだ。月の光に照らされた美月の白い肌が美しく、何日も風呂に入っていないことが嘘のようだ。触れたいという思いを殺して、陽太は持っていたワンピースを優しく彼女の首にくぐらせる。美月はゆっくり袖を通した。
「ごめん。勝手なことして」
「別に……」
美月の小さな声が陽太の後悔という気持ちを膨らませる。
「あっ! 足! 」陽太は今更にして美月が裸足だったことに気付く。元は裸だったのだ。しかし、そんなこと気にしていられないくらい必死だった。
「靴、取ってくるよ。あと、荷物とか……」
美月が首を横に振る。
「だよな……。無理だよな」戻れば殺されかねない。
真実はどうであれ、陽太は誘拐をしたのだ。無理矢理家から連れ出されたことを美月が警察に言えば終わりだ。あの男や母親らしき女が通報する可能性もある。
「乗って」そう言って陽太はしゃがんだ。手を後ろにひらひらさせている。
「おんぶ? 」
「そう。その足じゃ歩けないし」
「平気だよ」
「遠慮するな。このまま裏道通って帰るから人目に付かないし、美月軽そうだし」
陽太は美月が恥ずかしがってるのだと思った。
「平気だよ……」と後退る美月。
「おんぶ、嫌? 」陽太は振り返る。
美月は首を横に振った。
「じゃあ、オレが嫌なのかな……? 」前を向いて目線を落とす陽太。
「違う」
その一言は美月との会話の中で一番早い返事だった。
気を遣ってくれたことに温かみを感じる陽太。
「私、臭いから」
意外な答えに陽太は思わずクスクスと笑ってしまった。
「臭い、移るから」
「そんなの気にしなくていいよ。オレも汗臭いから同じだ」
そう言って、陽太はまた手をひらひら動かす。おいでおいでの合図だ。
美月は戸惑いながらも、ゆっくり陽太の背中に身を預けた。細くて白い腕が首元に絡まる。柔らかな体重を感じたところで、「ヨッ」と声をかけて立ち上がる陽太。
細い足をしっかり掴んで歩き始めた。
臭いなんて全く気にならなかった。それより陽太が気になったのは、目の前にある手首である。リストバンドをしていない美月の両手首に自傷行為の痕とみられる傷がたくさんあった。中には深く切ったであろう傷もある。
しかし美月は今、ここに生きている。
耐えがたい苦労をしてきたに違いない。死んで楽になりたいと思った日も一度や二度ではないであろう。それでも美月は生きることを選んできたのだ。
「頑張ったんだな、美月」
「えっ? 」
「何でもない」と言って軽やかに歩みを進める陽太。
人気のない道を月だけが追いかけてくる。そっと二人を照らしながら。