再会 1
ジンジンと蝉の鳴く声がする。
都心から離れた都会の田舎でもコンクリートがメラメラ揺れて見える。
カゲロウなんて言葉すら思いつかない。脳みそが溶けてしまうような猛暑日。
周防陽太の姿は住宅街の中にある公園にあった。
公園の周りを背の高い木が囲んでいて、そこだけは避暑地のような感覚である。
しかし暑さを全く感じない訳ではない。
数少ない遊具のすべり台はすべるとお尻に火が付きそうな鉄板状態になっている。ブランコの鎖部分も持てるようなものではない。
陽太は木製のベンチに座って大きくのけぞった。
汚れたつなぎのファスナーを胸元まで下げ、手でパタパタと首回りを扇ぐ。
中に着ていた白いTシャツは汗でびっしょり濡れていた。
高校を卒業してすぐに就職した陽太は今年で入社三年目の二十一歳になる。
この公園から少し離れた倉庫でCDやDVDの販売促進品を全国の店に発送する仕事をしている。入社当初、仕事は器用にこなすが、不器用な性格だったゆえに職場の仲間と上手くいかず、昼食時はこの公園で独りの時間を満喫していた。その後、職場の人間には慣れたのだが、昔の癖でついつい同じ時間にこの公園まで足をはこぶようになってしまった。
中途半端に伸びたボサボサの黒髪が太陽の光を弾き返す。
コンビニ袋には目を通さず、ポケットに手を入れる陽太。
取り出したのはスカイブルーのポータブルオーディオだった。
うるさい蝉の鳴き声をシャットアウトするためだけではない。これも彼の昼食時の日課だった。
少し汗ばんだ耳にイヤホンを押し込む。蝉に声が若干小さくなった。
慣れた手つきでポータブルオーディオの再生ボタンを押す陽太。
流れてきたのは十年前に解散したロックバンドの曲だった。ほぼ無名だったそのバンドがブレイクしたのは陽太も見ていたアニメの主題歌で、アニメが終わるとあっという間に火が消えた。世間はそのバンドを一発屋だとけなしていたが陽太は違った。
魂で歌うヴォーカルが書いた歌詞はまさに唯一無二で、例えるならピカソとアインシュタインが融合したような世界。それがハードだけど聴き心地のよいメロディーに重なる。演奏技術もそんじょそこらのミリオンアーティストよりレベルが高かった。
陽太がここまで夢中になったものは二十一年の人生の中で他にはなかった。
耳からベース音を漏しながらコンビニで買った鮭おにぎりにかぶり付く。
鮭ほぐしの塩分が暑さにちょうどいい。上あごに貼りついたパリパリ海苔をペットボトルのスポーツ飲料で流し取る。
汗をかいたペットボトルを額に乗せると小さな滝が顔を流れて気持ちがよかった。
夏の昼食なんて、こんなことの繰り返し。別に特別なことなんてなかった。
今、目の前にいる彼女に気づくまでは……。
「ん」
少女は言った。
陽太の座っているベンチから二メートルほど離れた位置に少女は立っていた。
身長は小さめでやせ形、少し汚れた白い長袖のワンピースの下に裾がほつれた青いジャージを履いている。決してオシャレとはいえないゴムのサンダル。髪型はロングヘアだが、何日も風呂に入っていないような身なりだった。肝心の顔も前髪が長すぎてはっきりとは見えない。
周りから見たらお化けのような少女。しかし陽太は特別驚きはしなかった。
さかのぼること一ヶ月前、陽太はこの少女が公園のすみに居ることに気づいた。視力の良い彼は少女の不気味な存在感に驚いた。浮浪者かとも思ったが、そんなこと思っちゃいけないという正義感の方が勝った。
次の日の同じ時間、少女は同じ場所にいた。洋服も前の日と同じだった。
そしてまた次の日も、そのまた次の日も、さらに次の日も、少女は同じ格好で公園に姿を現していた。
ただひとつ、陽太が気付いたことがあった。それは日に日に自分との物理的距離が縮まっていることだ。 おそらく一日一メートルくらいではないかと予想した。事実、公園のすみにあった少女の姿は七日後にはだいぶ前に出てきていた。少しづつ、こちらに近づいてくる少女、しかし陽太に恐怖心はなかった。少女はただ前進するだけで何も危害を加えてこない。むしろ前日と狂いのないルートを直進してくる彼女にいつしか興味を持っていた。
一昨日は四メートル前、昨日が三メートル前、ただ立ち止まり陽太を眺めていた。陽太から話しかけることもなかった。
そして今日、二メートル前。一ヶ月前と変わらぬ格好、髪だけは少し伸びた。
ただ、彼女の声を聴くのは初めてのことだった。
「ん」と、強く発音した。口は閉じている。
陽太は慌ててイヤホンを外す。
「ん、んん」
少女は何かを伝えたいようだった。初めてのことに少し戸惑う陽太。
「……何? 」
「ん」
「えっ……? 」
「んん」
ゆっくりと少女は右腕を前に伸ばした。顔はやや下を向いている。ただ、伸ばした腕の先にある人差し指は、確実にあるものを捉えていた。
スカイブルーのポータブルオーディオだ。
陽太が一時的に膝の上に置いたスマートフォンタイプのそれを、少女は「ん」と言いながら指さし続けた。
「これ? 」
陽太がポータブルオーディオを手に持つと、うんうんと大きなうなづきが返ってきた。
イヤホンからは蝉の声に負けないほどの激しい音楽が漏れている。
「聴きますか? 」
本当はそんな気はないのに、ついいい人ぶってしまう。赤の他人、しかもどこか不気味な人間に大事なものを貸すなんてもってのほかだ。でも陽太の育ってきた時間と環境が彼にそう言わせるのだった。
少女は質問に答えることなく、突然陽太の右隣に座った。これにはさすがの陽太も生唾を飲む。
しばらく無言の時が流れた。少女は前を向いたまま微動だにしない。
「聴きますか? 」もう一度尋ねる。
前に二回頭を下げる少女に、陽太は優しくポータブルオーディオを差し出した。
小さな手がそれを慎重に受け取る。彼女の手首にリストバンドがしてあることを陽太はこのとき初めて知った。当然のごとく頭の中にリストカットの傷が浮かんだ。イジメ、自殺、虐待、ニュースや新聞でよく見る文字が陽太の頭を駆け巡る。長袖にジャージ姿なのは傷を隠すためだと考えれば納得がいった。すべては妄想にすぎないけど、とても普通の生活をしている女の子とは思えないのも事実だ。陽太以外の誰かが見ても、同じことを感じるだろう。
イヤホンを耳に装着する少女。本体のタブレット部分を真剣に見ているので、陽太が覗き込むと曲が終わったところだった。指をスルスルっと滑らせ、トラック1に設定する。
あの激しいイントロが脈打ち出す。少女の表情はうかがえないが、驚いているという感じは受けなかった。
異臭だけが気になる。生ゴミを放置しておいたときのような臭いだ。自分が汗臭いのもあるので、彼女だけの責任ではないと、陽太は心の中で言い聞かせていた。
真夏の昼間に謎の少女と公園のベンチで二人きり。二人してボサボサ頭で、汚れた格好で、BGMは蝉とロックバンドのコラボレーション。シュールな絵である。
曲を気に入ったのか、少女はポータブルオーディオを握りしめ、ずっと体勢をを崩さなかった。
陽太は仕方なく、その隣で残りのパンをかじり、同じく残りのスポーツ飲料で昼飯の全てを胃に流し入れた。途中少しむせて胸を叩いたが、彼女はお構いなしだった。
雲一つない青空を見上げる。電線がなかったら視野の全てがブルーになる。陽太は昔、そんな景色を見たことがあった。今ではまず見られない景色。遠い場所に存在する夢のような世界だ。
時を忘れそうになり、慌てて腕時計を確認する。
「やっべ、戻らないと」立ち上がる陽太。
同じタイミングで少女も立ち上がっていた。
小さな手のひらの上にはスカイブルーのポータブルオーディオ。内心、返してくれなかったらどうしようと思っていたので、安心した。
陽太はそれを受け取る。
「ありがとう」
少女は言った。そしてそのまま走り去って行った。
陽太はその光景が妙に懐かしく思えた。
鍵を開ける。
時刻は21時36分。独り暮らしのマンションの部屋は真っ暗である。
陽太はキッチンに向かい、近所のコンビニで買ってきたノンアルコールビールや豆腐などを冷蔵庫にしまった。
リビングの電気を付け、テーブルの上に散乱しているものの中からテレビとエアコンのリモコンを取り出す。テレビは特別見たい番組があるわけではないが、家の中に音がないのが寂しいので何となく付けている。寝室から寝間着代わりのTシャツとジャージを持って戻ると、大きなテレビ画面で男性キャスターとどこかの大学の偉いおじさんが日本の行く末について討論していた。内容はちっとも入ってこないが、陽太はこのコンビが気に入っている。実家にいるころ父がよく見ていた番組で、父はいつもこの二人を漫才みたいだとバカにしていた。広いリビング、でもこのコンビがいると寂しくなかった。
2LDK。就職祝いに両親が買ってくれた。現役の医師である父と同じ職場で働いていた元看護師の母は、もっと部屋数もあって、防犯対策もしっかりしたコンシェルジュのいるようなマンションを勧めてきたが、さすがに高卒一人が暮らすには申し訳ないし、誰かに監視されてるのも嫌だったので、陽太は職場から近いこのマンションを選んだ。家具もほとんど親が買ってくれたものだ。
コンビに別れを告げバスルームに向かう。広々とした脱衣所には大きな洗面台と洗濯機、備え付けの収納棚がある。男が一人で使うには、どこもかしこも無駄ばかりのマンションだ。しかしそんなこと親には言えはしない。
収納棚にはタオルや買いだめのシャンプーの他に下着や洋服も入れていた。単に部屋を行き来するのが面倒だからだ。
その日も陽太はいつも通り引き出しから下着を取り出し、着替え用のかごにセットすると、脱いだものはそのまま洗濯機へ入れた。夏場のつなぎ服は毎日洗濯しないと汗でカビが生えてきそうだ。
浴室のドアを開ける。大きな浴槽には申し訳ないが、陽太は夏はシャワーだけしか使わない。
豪雨に襲われたように頭から全身にシャワーを浴びるのが好きな陽太。ボサボサの髪も水を含んでしっとり艶やかになった。曇った鏡を手で拭いて、自分の顔と対面する。映し出された陽太はキレイな顔をしている。長いまつげに大きな瞳、鼻筋も通っていて、唇が少し厚い。典型的なイケメンタイプだが、その顔は両親には全く似ていなかった。
それもそのはず、陽太の両親は血の繋がった両親ではないからだ。
陽太は産まれて直ぐに生みの親に捨てられ、児童養護施設で育った。そして六歳のとき、今の親と養子縁組がなされた。
しかし、そのときの母は別の人物だった。父の幼なじみで、中学のときから交際していた人物。二人はそのまま結婚したが、子供ができないことで悩んでいた。不妊治療も難しく、養子縁組を決断した。
こうして陽太は周防家の一員になった。
だがその一年後、養母だった人は病気で急死してしまう。
最愛の人を失った父のショックは計り知れないものだった。陽太は子供ながらに父の心中を察していた。 このとき父を励まし、陽太のことまで面倒をみてくれたのが今の母である。
のちに二人は結婚。そして子供を授かった。陽太の弟だ。
正直、陽太は怖かった。弟が産まれて、本当の家族ではない自分はどうでもよくなるのではないかと思っていた。しかし、そんなことはまるで心配いらなかった。父も母も、陽太と弟の潤太を分け隔てなく、ときに優しく、ときに厳しく育ててくれた。本気で喜んで、本気で泣いてくれた。弟とも仲が良く、そこには理想の家庭があった。本当の家族があった。
プシュっと音を立てたのはキンキンに冷えたノンアルコール缶ビールだ。
まだ濡れた髪を肩にかけたフェイスタオルで拭きながら、冷蔵庫の前でひとくちだけ飲む陽太。
「くーっ! 」と声を上げる。
アルコールを受け付けない身体だと解ったのは、新入社員歓迎会のときだった。居酒屋で乾杯をしたあとの記憶がまるでなく、気が付いたら職場の事務室で先輩に看病されていた。
それから陽太はアルコールを一切飲まなくなった。しかし仕事を終えてひとっ風呂浴びたら、男なら誰もが憧れるあの場面を再現したいもの。CMやドラマで目にするプルタブ引きからの、のどごし最高アピールである。
そのため冷蔵庫の中にはノンアルコールビールが大量にストックされている。正直味などはどうでも良かった。陽太はその場の雰囲気に酔いしれたいのだ。
実家ではパントリーに本物のビールが箱で積み上げられていた。父も母もいける口なのだ。まだ十代の弟もきっとそうなるであろう。
でも自分は違う。遺伝子が違うのだから。そんな些細なことで陽太はたまに孤独を感じる。
リビングのテーブルに缶を置くと、ソファーには座らず、テーブルとソファーの間に挟まるようにして床に直接座る陽太。夏場は絨毯を代わりにい草を敷いている。都会離れした香りがお気に入りだ。六歳まで育った施設が田舎だったからであろうか。
陽太は育ててくれた今の両親には感謝仕切れないほど感謝している。亡くなった母にも同じ気持ちだ。
だけど心のどこかで彼らとの距離を感じていた。それは幸せであればあるほど、遠くに感じるような矛盾した感情で、陽太はどうしようもなく不安に駆られた。そして、そんな陽太の思いを両親は察してくれていた。だから大学へは行かず、就職して独り暮らしをしたいと話したときも、陽太がそれを望むならと、賛成してくれたのだ。
そのことを思う度、陽太はいつも胸が苦しくなる。
何故、余計なことを考えて自分や家族を傷付けてしまうのだろうか?
陽太の頭に昼間公園で会った少女のリストバンドが浮かんだ。青いリストバンドだった。
「切ったのかな……? 」
ノンアルコール缶ビールは空になっていた。
いつものベンチに少女は座っていた。
昨日と同じ格好の彼女を見ると、時間の感覚が麻痺する。
「暑くないの? 」と言って、陽太は少女の隣に座った。
昨日と違い曇っているため直射日光の攻撃はないが、気温はたいして変わらない。最後の命を振り絞って鳴く蝉の声は大きく、まるで自分の生きた証をこの世に残そうとしているみたいだ。
陽太の問いに少女は答えなかった。ただ姿勢良く座っている。
なので陽太はいつも通りの昼食タイムを始めようと、ポケットからポータブルオーディオを取り出した。
その瞬間、前を向いていた少女の顔が向きを変えて、陽太の手のひらを追い始める。長い前髪の間から見える瞳にはキラキラとしたスカイブルーのポータブルオーディオが映っていた。
一瞬戸惑ったが、陽太はその手を少女の方へ差し出す。少女はそれを受け取り、口元に笑みを浮かべた。初めて表情の変化を見た陽太は、驚きと同時に温かみを感じた。
少女は直ぐイヤホンをつけると、ササッとした手つきで音楽を再生させる。まるで長年そのポータブルオーディオの持ち主であったかのように見える。ジャージとリストバンド、そしてポータブルオーディオ、彼女にはブルーがとても馴染んでいた。
陽太は少女の左耳からイヤホンを取ると、自分の右耳にはめた。怒るかなと思った少女の口元は、また少し笑みを浮かべている。陽太はそのまま鮭おにぎりと焼きそばパンとたいらげた。異臭は全く気にならなかった。
昼食タイムが終わると、彼女はいつも「ありがとう」と言って去って行く。決まった時間に現れ、決まった時間に帰る。会話はない。
それが一週間ほど続いた。
いつものように陽太からポータブルオーディオを受け取る少女。しかし、その日は音楽を聴かなかった。飽きたのかな? と陽太は思った。だが、次の瞬間思いがけない言葉を耳にする。
「陽太くん……」彼女は言った。
陽太は金縛りにでもあったかのように、ビクっとして硬直した。それもそのはず、陽太は少女と会話をしたことがない。一方的に「ありがとう」と言われるだけで、名前は教えていない。つなぎに付けている名札にも、周防としか書いていないし、持ち物にも名前なんて書いていなかった。
「なんで、オレの名前……」そう聞くしかないが、驚きで言葉が詰まってしまう。
少女はポータブルオーディオをギュッと握りしめた。その手は少し震えている。今までには見たことのない姿はとても緊張しているようだった。
「私のこと……忘れた? 」
陽太は頭が真っ白になる。混乱した脳みそを駆けずり回って言葉を探した。
「あ、あの……、どこかでお会いしたことありましたっけ? 」ナンパのような台詞しか浮かばない。
少女はポータブルオーディオを膝に置き、両手で前髪をのれんくぐりのように開いた。
「……づき。私、美月だよ」
陽太はドキっという胸の鼓動を全身で感じた。
次の瞬間、陽太の人生の中で最も古い記憶がよみがえってくる。深海の底に沈んでいくように周りの音が遮断され、息が苦しくなる。でも、とても懐かしい匂いと太陽の温もりがそこにはあった。セピアに色褪せた場面が色鮮やかに巻き戻され、陽太の脳裏に映し出される。
「あの美月か……? 」
陽太の中に浮かんだ景色はどこか土臭い田舎の風景だった。緑の中にぽつりと家が建っている。ボロボロの民家のように見える建物。大きな庭には小さなブランコがあり、畑があり、とても大きな木があった。中年の夫婦に手を引かれて帰る場所。錆びた門には漢字で何か書かれている。
「深青園の美月だよ」
その言葉に陽太は息を飲んだ。目に熱いものを感じる。自分から彼女に気付けなかった悔しさや申し訳なさと、こんな場所での再会の感動が入り交じってこみ上げる。
「そ、……そうか、美月か」声が震えていた。
「そうだよ」
そっけない返事をして、美月は前髪を元に戻した。陽太のように感情あふれる様子はうかがえない。
「深青園か、懐かしいな」
陽太と美月は同じ養護施設で育った。年も同じで、他の児童が少なかったため、二人はいつも一緒で兄妹のように暮らしていた。深青園とは養護施設の名前である。認可外ではあったが、二人とも産まれて直ぐに預けられ、閉園するまで優しい夫婦に大事に育てられた。陽太、美月という名前も、その夫婦が付けてくれたものだ。
「陽太くん、懐かしい? 」無表情のまま、美月が尋ねた。
「懐かしいよ。ごめんな、オレ気付かなくて」対する陽太は満面の笑みを浮かべる。
「私、色々変わったから」
それは確かにそうだと陽太は思った。幼き日の美月は明るく無邪気で人形のように可愛かった。
「あの、美月は今どこで何してんの? 」
あえて聞き辛い質問をしてみる陽太。今聞かないとタイミングを失いそうだからだ。しかし、美月はその問いを拒むように、またポータブルオーディオをギュッと握った。聞かれたくないことなのだと察した陽太だったが、美月の姿を見ていると聞かずにはいられなかった。
「オレはここの近くに独りで暮らしてるんだ。職場もこの近くでさ、だから昼休みにここで飯食ってんだよね」取りあえず自分のことを話してみる。
「独りで? 」
「うん。独立したっていうのかな。成人してるしさ」
生意気な台詞だと思う陽太だった。
「陽太くん、養子縁組? 」
「ああ、六歳のとき。深青園を出てすぐだったと思う」
二人が六歳になるとき、深青園は閉園した。子供だった陽太には閉園理由はわからなかった。ただ、そこで陽太と美月の人生は分かれることになる。陽太は別の養護施設に預けられ、間もなく養子縁組がなされたが、美月が同じ養護施設に預けられることはなかった。離ればなれになった二人がこうして再会するのは本当に奇跡的なことだった。
「親、どんな人? 」尋ねる美月。
「うーん、オレには勿体ない人かな」陽太は頬杖をつく。
「勿体ない? 」
「すごく、すごく良い両親だよ。完璧っていうのかな? 実の息子と差別しないし、こんなオレを立派に育ててくれた。お世辞なしで感謝してる」
「……本当の家族だね」と言って、美月は深く息を吐いた。
本当の家族という言葉の裏に偽物の家族があることを陽太は知っていた。自分の置かれた立場を知りたくて、児童養護施設、孤児院、捨て子、養子、里親などを本や新聞で必死に調べた時期があったからだ。反抗期だったのだろう。それに気付いた両親は涙を流して叱ってくれた。そのとき以来、家族の前ではそれらの話はしなくなったが、児童虐待や家庭崩壊などのニュースを見ると偽物の家族というフレーズが頭に浮かぶのだった。
美月は偽物の家族と暮らしているのだろうか。陽太は不安になる。
「美月……」
陽太が声をかけようとしたとき、美月は人差し指をのばし、何かを指さした。
美月の指の先にあったもの、それは公園に隣接した古いアパートだった。二階建てで、公園からは通路側がみえる。一、二階ともに四室の造りだった。
「私の家。二階の階段から一番遠いとこ」
陽太は返す言葉を失った。
「そう……なんだ……」
裕福な家庭で育った陽太から見れば、そのアパートでの暮らしは貧しいものを想像させる。仮に美月が独り暮らしをしているのなら別だが、先ほどの会話からすると独りではないように思える。養護施設を出たあと、美月はどんな生活をしてきたのか、今は何をしているのか、そして、何故毎日同じ時間にここへやってくるのか、聞きたいことが山積みになる陽太。
「音楽、聞く」
そう言って、美月がイヤホンを耳にはめた。まるで陽太からの質問を警戒するかのように曲を再生させる。
最初に話しかけてきたのはそっちなのにと少しふてくされた陽太は、いつものようにコンビニ昼食を取った。それでも、いつもより右側が気になる。謎の少女が懐かしの幼なじみに変わっただけで、この公園も、座っているベンチも、うるさかった蝉の鳴き声も、陽太にとって特別なものに変わった。
こんな暑い日も、施設の庭で走り回って遊んだ。ビニールのプールを膨らませて水遊びをした。園側でスイカを食べた。美月はいつも笑っていた。陽太はその笑顔が好きだった。
だけど、今の美月は笑わない。せっかく再会出来たのに笑わない。笑えない事情があるに違いないと陽太は思った。
「ありがとう」
いつもと同じ台詞。
走り出そうとする美月の腕を陽太はつかんだ。ポータブルオーディオが地面に落ちる。
「美月、色々聞きたいことがある」
美月は無言で陽太の腕を振り払おうとする。
「すまない」そう言って、陽太は美月の着ているワンピースの袖をまくった。そして「やっぱり」と小さな声で呟く。抵抗するのをやめた美月の腕には青紫のアザが幾何学模様のように連なっていた。爪か何かで引っかいたような傷もある。
「私、幸せだよ」真顔のまま美月が言った。
「嘘だ。家族か? 」
美月は鋭い目で陽太をにらみつけた。
「私には家族はいない」
「……? 」陽太の手が一瞬緩んだ隙を突いて、美月はその場から逃げるように立ち去った。
追いかければ捕まえられる短い距離。しかし陽太はその場を動くことが出来なかった。細くて冷たい美月の腕の感触が残った手を見つめる。
陽太が気になったのは美月の言葉の意味よりも、発言したときの感情のなさだった。今日、大人になって初めて会話した。昔の美月を知っている陽太は違和感を感じていた。とても短い会話だったし、自分だけかもしれないけど、美月の言葉には心がないように思えたのだ。まるでロボット、例えるならボーカロイドのような不自然さを陽太は感じていた。
腕時計を見ることを忘れるくらい気になっていた。
「おつかれさまでした」
パートのおばちゃんたちに愛想良く頭を下げる陽太。おばちゃんたちも陽太に手を振りながら事務室の脇を通り過ぎていく。
時刻は夕方五時を回ったところだ。陽太の勤めている株式会社スターフォレストは、いわゆるポスターやポップ、懸賞の当選品などCDやDVDなどの販促品を全国に配送する業務を営んでいる。陽太のいる足立営業所は主にパートの人が倉庫で働き、正社員はほぼ事務作業だ。そんな中、陽太は倉庫での現場監督をしている。ちょっと鈍くさいところのある陽太なので、おばちゃんたちには可愛がられる存在だ。
「なにを爽やかに『おつかれさまでした~』よ」陽太は後頭部をデコピンならぬズッピンされた。
「浅沼さん、まだ着替えてなかったんですか? 」
陽太と同じつなぎで立っていた女性の名は浅沼佳保、二十五歳。正社員で、陽太の教育係でもあった先輩だ。ポニーテールがトレードマークで、明るく元気で面倒見が良い。陽太と一緒に現場監督をしているため、陽太にとっては良き相談相手だ。
「着替えるもなにも、まだ掃除が残ってるの。誰かさんが昼休み延長しちゃったからね」
佳保はわざとらしく自分の肩を揉んだ。
「そんな、延長だなんて……たかが五分ですよ」と小声で返す陽太。
「たかが! 五分もあったらカップ麺が作れるし、仕事の一つくらい片付くのよ」
「えっ、なんでカップ麺が先なんすか? 」
「そりゃ仕事一つより、食べることの方が大事だからかな? 」
「ですか? 」陽太が首を傾げる。
「いいから、さっさと掃除道具持ってきて! 」
二人はいつもこんな下らない会話をしている。内容はバカバカしいが、いつも笑顔が絶えない。パートのおばちゃんたちも二人の即興コントを楽しみにしているのだ。
段ボールがいくつも積み上がった薄暗い倉庫を陽太と佳保が丁寧に掃除する。掃除を怠ると佳保に怒られるため、陽太は細かい所まで念入りに取り組む。
「まだ、あの公園で食べてるの? 」ほうきを片手に尋ねる佳保。
「へっ? 」
「昼ご飯よ。独りで食べてるんでしょ」
「あ、まあ……」
最近は独りじゃないが、そのことはあえて言わなかった。
「独りになりたいって気持ちも解るけどさ、気をつけなさいよ」
「何がすか? 」
「身体よ、身体。こんなに暑いんだから熱中症にもなりかねないじゃない」
佳保は鈍感な陽太に呆れてため息をついた。
立ち止まって少し考える陽太。
「……そうですね。浅沼さん、休憩室ですか? 」
「そ、そうよ。クーラー効いてるし、パートさんたちにおかずもらえるし」
「オレもそうしよっかな」
佳保は陽太に顔を隠して笑みを浮かべる。そして「そうしなよ」と強気で返した。
しかし、陽太の頭の中は美月のことでいっぱいだった。佳保の声も届いていない。ただ、明日あの公園に行くのが不安だった。もう美月は来ないかもしれない、自分が美月を傷付けたかもしれない、そんなことばかり考えてしまう。
陽太も毎日欠かさず公園に通っていた訳ではない。雨の日や冬場の寒い日は佳保たちと休憩室で和気あいあいとしていた。ただ、不審な少女として美月が現れてからは休みの日でも足を運んでいた。
少女が美月と分かった今、自分の行動が運命的なものに思えてくる。
助けを待っていたのか? 陽太の脳裏にあの複数のアザが浮かんだ。
「あれ、まだ居たの? 」
更衣室から着替えをして化粧も直した佳保が出てくる。陽太はいつも着替えないで帰るので佳保より職場を出るのが早かった。しかし今日は出入り口の扉の前でスマートフォンをいじっている。
「浅沼さんを待ってたんですよ」
ドキっとして顔が赤くなる佳保。
陽太には佳保の期待とは裏腹な計画があった。それは帰りにあの公園に寄ることだ。しかし公園は陽太のマンションとは反対方向で佳保が利用する駅に向かう道沿いにある。佳保に公園で目撃されて怪しまれるのは困ると思い彼女が帰るのを待ち伏せていた。
「オレ、駅の方で買い物するんで、途中まで一緒に帰りませんか? 」
佳保は斜め下を見つめて「うん」と首を傾げた。
昼の顔と夜の顔は違うということは人間以外にも当てはまることを、その日陽太は知った。毎日昼食で訪れる名前も知らない公園に日が陰った今立っている。昼は都会のオアシスとして木々に囲まれ癒やしを提供する場所も、夜になるとその木のせいで灯りが遮断され、更にざわつく音で気味の悪い暗闇を作り出している。いつも座っているベンチに手荷物を置く陽太。ベンチの周りも薄暗く、道路から離れているため人の気配もしない。隣接する住宅から灯りがこぼれているが、数はわずかだ。だが、そのわずかな中に美月の指さしたアパートがあった。
二階の階段から一番遠い部屋。陽太はその部屋に灯りがついていることを確認した。通路側に窓がある。おそらく台所の窓だろう。そのアパートで灯りが付いているのは、その部屋と一階の一室のみだった。住人が社会人なら職場からの帰宅途中、学生ならまだバイトをしている時間帯。そう決めつけるのはアパートで一家が暮らすことを想像できない生活をしてきた陽太ならでわだ。
陽太は荷物をそのままに、一歩、また一歩とアパートに近づく。まるで灯りに吸い寄せられるように足が進む。そして気付けばアパートの目の前にまで移動していた。公園とアパートの境には簡単にまたげるブロック塀しかなく、一階の住民が出入りしている足跡が残っている。陽太は思い切ってアパートの敷地に入ってみた。ブロックをまたいだだけなのに世界が違うように思えた。同時に自分が悪いことをしているような気持ちにもなった。
一階の廊下をゆっくり歩いて階段の真下にやってくる陽太。茶色のペンキで塗られた階段は所々錆びて穴が開いている。一段目はコンクリートになっていて、陽太はそこに足を踏み入れた。階段はアパート裏の路地に面しているため街灯の光で明るくなっている。不審者だと思われたくない陽太は、音を立てないように気を付けながら一段抜かしで素早く階段を上りきる。手すりをつかんだ際、汗で湿った手に剥がれたペンキが付いてしまったので、汚れたつなぎに手を拭った。
陽太は急いで二階の廊下に入る。光から逃れるためだ。二階の廊下も一階の廊下と同様で薄暗い。廊下の天井部分に電気はなく、部屋からこぼれる灯りと公園の外灯が通路を照らしている。
一番奥の美月の部屋までは数メートルしかないのに、陽太にはそれがとても長い距離に思えた。踏み出す一歩に勇気が必要なことをこんな場所で実感する。陽太はそのまま忍び足で前進していった。
廊下には住人の所有物であろうものがたくさん置いてある。傘やバケツ、鉢植え、古くなった子供用の自転車も置いてあった。
美月の部屋の一歩手前で陽太は足を止めた。喋り声が聞こえたからだ。ただハッキリとは聞こえないので内容は解らない。立ち聞きなんて悪いことだと思いながらも、美月のことが気になって最後の一歩を踏み出す陽太。木製のドアはのぞき穴がひとつ、ドアノブの中心に鍵穴があるタイプのシンプルなものだった。表札には真田と書いてある。
「真田美月……」陽太は小さく呟いた。
女性の声が大きく響いて、焦った陽太は窓の下の影っている場所に身を隠した。
「だから、そいつのこと何で風呂に連れて行ってないわけ」
「オレは連れて行ってる」
中年の男女が口論している。美月の声はしなかった。
「だったら何で臭いのよ。見た目も汚いし」
「風呂へは行くけど入ってこないんだろ」
体勢を組みかえたかった陽太は窓枠近くの壁に手伸ばす。すると、あることに気付いた。曇りガラスで作られた窓が十センチほど開いていたのだ。陽太はおそるおそる頭を上げ、その隙間からこっそり部屋の中を覗いた。
「は? どういうこと? 」
最初に目に飛び込んできたのは四、五十代くらいの女性の姿だった。茶髪のロングヘアーで化粧が濃い。そして随分と派手な服を着ていた。
「だから、男湯と女湯に別れるだろ。オレは女湯でこいつが風呂に入ってるかは確認できねんだよ」
男の方は床に座っているらしく陽太の視界には入ってこなかった。
「ホントに? あんた、そんなことも出来なくなったの? 」
赤い口紅が男じゃない方向に向けられたのを陽太は見過ごさなかった。しかし、その問いの返答はない。
「お前が一緒に行ってやりゃいいだろ。一応、娘なんだし」
「何、その他人面。私が拾ってやんなきゃ、あんただって生きてられなかったくせに」
美月の複雑な家庭環境が見えてくる。陽太は唾をを飲んだ。
「……つーかお前、仕事は朝までだろ。何で昼過ぎまで帰ってこねんだよ」
「帰ってきたくないわよ、こんなむさ苦しいところ。店ならエアコン効いてるし、シャワーもタダだし、オーナーが仮眠室で寝ててもいいって言ってくれてるのよ」
美月の母親であろう女は上から目線で発言する。
「だけど、お前がいないから、オレがこいつの世話しなきゃなんねーんじゃねーか」
「することないんだからいいじゃない」
「オレだって仕事探してんだよ」
「長続きしないでギャンブルばっかしてるくせに」
男はその後何も言い返せなかった。
「もう、あんたと話してるのも疲れる。仕事いってくるわ」
と、女が動き出したので陽太は慌てて階段を駆け下り、アパートの裏に隠れた。しばらくするとバタンとドアが閉まる音に続いてコツンコツンとヒールが階段を下りてくる音が響いた。陽太がそっと頭を出すと、さっきの女が階段の下でスマートフォンを覗いている。そして顔を上げて振り返った。その一瞬、陽太は女と目が合った気がしたが、女は何事もなかったように目の前の路地を足早に歩いて行った。
陽太は胸に手をあて深呼吸する。こんなリアルにスリリングなことは久々だった。同時に色んな情報が頭に入ってきて興奮している。情報を整理するより好奇心の方が勝り、陽太はまた美月の部屋へ向かった。美月を心配しているのか、単に興味があるだけなのか解らなくなっていた。
あの窓の隙間にもう一度陣を取る。当たり前だが女はいない。
「風呂に入らねえってのは、身体の傷を気にしてか? 」
さっきまで女が立っていた場所に今度は男が立っている。黒髪の短髪、無精ひげが生えていて目つきが悪い。体格がよく、黒いTシャツを着ていた。
「それとも、お前なりの抵抗ってわけか? 」
女が居たときより口調が威圧的になっている。
「臭くなれば、汚くなれば、オレから逃れられるとでも思ってんのか」
陽太は言葉を発さない美月が気になった。
「そんなの気になんねーんだよ」
大声ではないが挑発的な喋り方が陽太までも苛つかせる。美月は本当にここにいるのか? 陽太は美月がこの部屋が自分の家だと騙したのではないかと思っいたかった。
「お前が女をやめない限りヤレんだよ」
陽太の視界から男の姿が消えた。ドスンと何かが倒れるような音がして、男の喋り声もなくなった。まさかと思いながら陽太はゆっくり腰をあげ、隙間から部屋の中を見た。
一瞬、陽太の呼吸が止まった。目にした光景がそうさせた。
「……オレがもっと汚してやる」
美月の身体は男の下敷きになっていた。敷きっぱなしであろう布団に美月が押し倒された形になっている。男は美月の首を浮かせて、その唇に自分の唇を重ねる。一方的に激しいキスを繰り返されても美月は何の抵抗もしないで男に身体を委ねていた。首筋を舐められても、無理矢理服を脱がされても、無抵抗で言葉も発しない美月。まるで男が人形遊びをしているようだ。乱暴に抱かれる美月の姿を見て息づかいが荒くなっている自分に気付いた陽太は慌てて窓から離れ、手で口をふさいだ。思考回路が暴走して吐き気がする。
直ぐさまその場を離れる陽太。公園に荷物を置いたことも忘れて家路を急いだ。