第五話 運
静寂に包まれたこの地では、風にふかれた枝や野草の揺れる音が木々の隙間を駆け巡る。透き通った水色の湖畔を生い茂った樹木が取り囲んでいた。
その樹木のひとつに、項垂れてもたれかかっているのは我々もよく知る人物。
「クッソが……ハァ……ハァ……幸先わっりぃ。こっからどうしたもんか」
野草に八つ当たりの踏みつけを食らわせる。
顔を照らす木漏れ日を右手で遮りながらも、踏みつけた野草と同じくらいに髪をクシャクシャと掻き乱す。
苛立ちは隠せない。
「だがバカ真面目に生きてたあの頃なら詰んでた状況でも——今の俺なら回避可能ってことは証明できたな」
——数分前に遡って解説しよう。
クイは酒場にて——不本意ながら店主の威圧により——無一文ながら料理を頼んでしまった。
料理が届いてから気づいてしまっても時既に遅し。『口をつけてないからセーフ』なんて詭弁は、あのパワー系店主に通じないだろう。
そこでクイは四つの案を考えつく。
一つ、自分が今置かれている状況を正直に話し、情けをかけさせる。
二つ、自分の所持品——学ランやスマホなどで代金の代わりにならないか交渉する。
三つ、飯代分の皿洗いをさせてもらう。
四つ、おっちゃん! ツケで! で済ます。
だがどの案にも共通して『金がないにもかかわらず酒場に入り、料理を注文し挙げ句の果てに平らげた』と自分に一〇〇%非がある愚行を店主に明かさねばならない。
中学時代までのクイならば——どんなにそれが嫌でもやる、ができた。だが今のクイは嫌なら逃げる、に慣れすぎてしまっていた。
店主の風貌に圧倒されたクイは完全に萎縮し、話し合いを避け、文字通り逃げ出したのだ。
逃げると決めたら決意は固く行動も早い。
それとなく荷物をまとめると、店内を歩くフリをして扉に近づき、店主の隙を見て店を飛び出した。最初は後方から誰かが追ってきていたが、人混みと曲がり角を利用していると、いつの間にか大きな門すらかいくぐり、街ではなく森の中へとたどり着いてしまっていた。
——そして現在、湖で優雅に顔を洗っている。
「よくよく考えてみたら監視カメラなんざ異世界に設置されてないだろうし。食い逃げごときで捜査網なんて敷かれないだろ。現実世界での食い逃げよりは全然大した問題にならない——気にするなってな」
食い逃げは確かに犯罪だ。だがここは現実世界ではない――異世界だ。その事実がクイにとって非常に大きかった。
仮に異世界で食い逃げをしようが盗みを働こうが犯罪者になろうが、元の世界に戻ってしまえばその出来事は帳消しにされる。ポイ捨て一つしたことのない善良な一市民に戻れる。
この異常な事象が、クイの感覚を麻痺させていた。もっともクイの根本がそういう人間だということもあるが。
「さぁて大体だがこの世界を把握したところで……やっぱお次はパレットだな。まぁ十中八九、俺はその力を既に持っている。あとはそれがどんなものかを把握するだけのことだ」
異世界で最初にできた友人——メガとはパレットの全貌が明かされないままに別れてしまった。そして自分で蒔いた種だが再会はかなり難易度が高い。
しかしほんの少しではあるが収穫はあった。
まず、パレットが力の名前であること。
そしてパレットが使える人間に恵まれたおかげで帝国がこの世界を力で支配している——つまりはパレットの力がそれだけ強力なこと。
恐らくパレットとは魔法の類。そう思案に落ちていた。
「俺の強みがわかればこの後も動きやすい。住むとこ探し職探しヒロイン探し。まぁ明日に怯えない生活が保証されたらそれが許容範囲! 街に戻ってパレットについて聞き込みだ!」
水滴だらけの顔をワイシャツの袖で拭きながら自己を奮起させる。やれることがあるならやってしまおうと——広大な自然の中でクイの開拓心が昂まりつつあった。
学ランを左肩に、リュックは右肩にかける。掛け声とともに街を目指して、逃げてきた道を戻る——
「——っとおおっと。スマホを忘れるところだった」
万が一にも湖へ落とさないよう、顔を洗う前にスマホは野草に被せるように置いていた。もうこの世界ではなにもできないただの置物に、ここまで慎重に扱っていたのには訳がある。
実は電源がついたのだ。
電池残量一%と絶望的な表示を見せる。それでも電池が復活したのはなにか理由があるとクイはスマホの可能性を見捨てなかった。
そして一通り弄ってみた結果、やはり電波を必要とする機能は使えないものの、それ以外の機能はこれまで通り使えた。電池切れになることもなかった。
それらの確認をしてから、クイは顔を洗っていた。
しかし、ひとつのことを考えると他の物事が忘れやすくなってしまう。今回はギリギリ思い出し、スマホを拾おうと湖の近くに戻る。
その手にスマホを握ったとき——初めてクイは気づいた。
湖の中で徐々に濃くなる影に——
「…………」
声に出さずとも、クイは心の中でおおお、と驚嘆していた。その理由はただひとつ。
その影の——規格外のデカさだ。
好奇心が勝ったわけでもない。腰が抜けたわけでもない。
だがなぜか、その影の正体が水面から顔を出すまで、クイの体は棒立ちのまま硬直していた。
そしてメガとの会話を思い出す。街から飛び出してしまったここは——なにをされても文句は言えない地帯であることを。
——ボオオオオオオオオオオォォォォォォォ!!!
水を纏いながら姿を現したのは——ざっと見た感じでも二〇メートル超のネッシーのような生物——化物だ。
特徴は青色の体に、赤色の横に並んだ三つの目。クリスタルのごとき輝きを放ち、ウネウネと曲がり動く——堅牢さと柔軟さが兼ね備わっている五メートル超の首。
実際の大きさ以上に、クイの目には大きく見えていた。
そんな化物が発した轟音は森中の木々を揺らして響き渡る。対峙していたクイの顔はただただ引きつっていた。
これが——自然の魔物だ。
「ああ、なんだ。まだチュートリアルも終わってねぇのにボスと遭遇ってか? ビジュアル的に洞窟の奥底にでも住処を変えたらどうですかね?」
クイの行動は早かった。だが残念、頭は完全に混乱していた。
化物に対して言葉を投げかけながら一歩、また一歩と後退する。これはいつの日かネットで調べた——熊との遭遇時に使える対処法だった。
それをなぜか異世界で未曾有の化物相手に実行していた。
一方化物サイドは三つの目でクイをじっと見つめている。表情からは意図がまったく読み取れない。
「俺だって風呂に入ってるときに野球練習後の小学生が湯船に足を突っ込んできたらそりゃ嫌だよ? でも別に俺の顔はそんな汚れてねーと思うし……なにより湖と洗顔に使った水の比率を考えたら……ねぇ? 許容範囲じゃないすか?」
また一歩後退。
現時点でのクイの位置は湖と森のちょうど中間地点だ。
一瞬のみ森の方を振り返り、その位置関係を把握するとクイの頭には冷静さが戻りつつあった。
——大丈夫、大丈夫だ。よく見てみろ。相手は水棲系の魔物だ。つまり、湖からは出られない。熊よりマシだ。もう少し、もう少しだけリードが取れたら背中を見せて全速力で逃げてやる。
沸いた希望を頼りにまた一歩後退する。
クイのポジションだけが変化していく異様な空間。
——ブルオオォォォ……
が崩れた。化物は喉を鳴らすと反るように首を伸ばす。
クイ視点、化物の顔が西日と重なった。表情から意図が読み取れないのは百も承知だが、それでもしっかり観察しようとクイは目を細める。
「——は?」
そして見えた光景は——眩しさによる見間違いではない。
——ピュルルルルルルル……
「——ちょ! ちょっと待てって! それビームじゃん! ビーム溜めてるときのエフェクトじゃん!」
奇妙な音を発生させながら化物は口をあんぐりと開けていた。その口の中には——瑠璃色に発光し、回りながら膨張していく球体があった。
クイは一目見て予期した。あの球体が——自分に向かって飛んでくると。
焦っても事態は好転しない。むしろ悪化する。それはおそらく本当のことなのだろう。
クイは幾度となく繰り返してきた後退さえ、足をもつれさせて失敗した。
草原に尻餅をつくが痛みなど感じてる余裕などない。これからクイには前例がないほどの痛みが待ち受けているのだろうから。
「ひっ……いぃぃ——」
——俺は運がいい。
ニュースで毎日見る殺人事件、死亡事故、虐待死、自殺。その中には俺と同年代、歳下の被害者もいた。
対する俺は、常に部外者でいられた。
日常で感じる不幸はゲームのガチャと人間関係くらい。大怪我を負うことも、親が離婚することも、借金に追われることも、引っ越すことも、不治の病だと告げられることもない。
漫画でよくある不幸とはまったく縁のない人生を歩んでこれた。
きっとこれからも大きな不幸なんて見舞われない。
俺は『普通』に生きるための運に恵まれているから。
だが異世界に来てから俺の運は最悪もいいところだった。いや、異世界に連れてこられた時点で俺に『普通』に生きるための運などなかったのだろう。
なにが——なにが運がいいだ。たった一六年、平穏に生きてただけのくせに。
だが別に波風の立たない人生を過ごしたかったわけじゃない。ただ生きることに疲れるような、死がチラつく人生を拒みたかった。
それだけなのに——
——ホオオォォォォォォォォォ!!!
瑠璃色の球体エネルギーは膨張を止めると、化物の口から怒涛のごとく放たれる。
一回りも二回りも大きいそれは、尻を地につけたまま動けないでいるクイに向かって無慈悲に直進。
「——つっつううううあああああうううう!」
まだ着弾はしていない。クイは目を閉じて歯を食いしばったまま、声にならない悲鳴を上げ続ける。
まるで現実から目を背け、駄々をこねるように。
嗚咽の正体は——死への莫大な恐怖。
——死んだら消える。世界が消える。死んだ忘れる。すべて忘れる。次はどうなる? 次なんてない。どこで目覚める? もう目覚めない。輪廻転生。極楽浄土。あるのか。ないのか。もう死ぬ。次の瞬間か。この次の瞬間か。いつか途絶える。この思考も途絶える。くる。くる。くる。くるくるくるくる——
「おバカ! なにしてるのよ!」
「うっげぐっ!」
突然——ワイシャツの襟を掴まれ、後ろに引っ張られる。
死への覚悟は何者かの手によって中断させられた。力づくで。頭と気持ちに整理がつかぬまま、力のままにクイの体は後方へほっぽり出された。
クイと入れ替わるように球体エネルギーの着弾地点に立っているのは、クイよりも少し低い身長の少女だった。肩の下まである鮮やかで柔らかそうな橙色の髪が、後ろ姿しか見れないクイにもその人物が女性だと判らせた。
なにより、その後ろ姿には見覚えがあった。
「八〇%《エレク・ボルドスピア》ッ!」
少女の右腕まわりから黄色のオーラが流れ出る。
煙のように形を持たない黄色は、一瞬にして槍の姿を創造し、少女の右腕の動きに合わせて球体エネルギーへ射出された。
バチバチと閃光を飛び散らしながら両者の投擲物がぶつかり合う——
化物と少女の遠距離攻撃対決、突き抜けたのは少女の放った黄色の槍だ。その威力は球体を爆裂させただけでは収まりきらず、化物本体へと直撃。
——ボォルルルル……
「むうう——とてもあたしの攻撃が効いてくれてる風には見えないわね。さすがウエッシェル湖のヌシさん……とてもあたしが単独で敵う相手じゃないみたい」
極太の首に黄色の槍がクリーンヒットしたことで多少の声をあげるも、外傷は見受けられない。
だが怒りは存分に買ったようだ。初めて表情から意図が読み取れる。
化物の三つ目がすべて、少女を睨み付けているのだ。
「うーんまずいわ。こうなっちゃったら仕方ないわね……後ろのあなた、目を閉じてくれる?」
化物に対面したまま振り向かずに、少女はクイに声を掛ける。
「——もう閉じたかしら?」
「いや、ちょっとこのデカブツを前にして目を閉じるのはちょっと……」
「大丈夫よ、あなたを助けるためにここに来たんだから。安心して目を閉じてなさい」
「いや無理だって! 一瞬裸になるタイプの変身でもするのか知んないけど、この状況で——」
「もう! お口も閉じてなさい! 目を閉じないとあなたが困るんだからね!」
「————!」
少女に談じこまれた通りに、クイは両手で目を抑え、パクッと口を閉じる。あなたが困る——その自分を思いやってくれた一言だけで少女を信用することにしたのだ。
それにどうせ自分にこの状況を覆す力はない。大人しく従った方がマシな結果になると——クイはここにきてようやく冷静な決断ができた。
目を閉ざしたクイの姿を少女は振り返って確認する。そして再び化物の方へ向き直り、
「じゃあいくわよ。イエローパレット……」
少女の呟いた言葉はクイの耳まで届かない。
だが大まかな情景は盗み見ていた。指の隙間からこっそり少女を覗くと、その掲げた右手にはまたも黄色のオーラが集まっていた。
そして少女は、化物に向かって突き出した右腕の肘を左手でしっかり掴む。左腕で少女は自身の眼前を覆うように。
その姿から、前触れを感じ取ったクイは覗き見をやめた。
「二〇%《フルフラッシュ》ッッッ!」
——ボオオオオオオオオオオ!!!
眩い閃光が化物と少女の中間で生じる。
その光は四散して——湖へ、森へ、空へ、そして化物の三つもある角膜へと突き進む。
あまりの光の強さは、両手で目を覆っているクイでもまぶたと手の向こう側でなにが行われたか想像がつくほどだ。
それよりも少女自身がフラッシュと言ったことで確信を持ったのだが。
「さぁ、今のうちよ。ほら行きましょ!」
少女はクイの左腕を抱きかかえて森の中へと連れていった。
もっとも当人は——顔を洗っていたら化物に遭遇し、死の覚悟までしようとしてたのに突如現れた少女に助けられるといった——上下移動が激しいジェットコースターのような五分間を過ごしたことで既に頭は回っていない。
腕に感じる柔らかな感触にうつつを抜かすことも叶わず。少女に連れてかれるがままに森を進んでいった。
走りながらも、ようやく頭の整理が追いついたクイは口角を緩め——
「前言撤回——やっぱ俺は運がいい」
笑いながら、そう呟いた。