第四話 世界を知る
「いや絶対やめた方がいいですよ! 店長ブチぎれますって! 今日も誰かさんが遅刻したせいで機嫌が悪いんですから……バレたら拳が飛びますよ!」
「ヘーキヘーキ、なぜならオレは頑丈だから。ほらぁ、ずっといたら怪しまれるから行った行った」
「……誰かさんの心配はしてないっすよ。してるのは店の心配です。ここの床も誰が直したと思ってんすか?」
メガはしっしっ、とスナップを効かせ、黒エプロンをした若い——クイと同い年くらいの店員を追い払う。
諦めた様子の店員は最後に「自分の名前は絶対に出さないでください」とだけ言うとカウンターへ戻る。そう、
「『とっくにお前の名前は忘れてるよ』って言いづらくなっちゃったなぁ。五文字はあったんだよなぁ——ってそれは置いといて」
名前すら覚えられていない後輩にメガが頼み、あるものを持ってきてもらったのだ。
「さぁさぁどこから教えたものかな——」
「……なぁそれって」
クイに見せつけるように——それでいてカウンターに佇む店主には見えないようにメガは持ってきてもらったそれを持つ。
目を輝かせるメガを尻目に、クイは嫌な予感を全身に感じ取っていた。
白チョークだ。
メガは躊躇いもせずそれをテーブルの上で走らせる。あっという間に白線でできた大きな四角形がメガとクイの間に描かれた。
「おいおい大丈夫なのか? メガってただの店員じゃないのかよ」
「もしかして店長に見える⁉︎ 昔から見た目だけは有能そうって言われるんだよねぇ。でも安心してくれ、オレはただの店員だ。自分の店だったらこんなことできるわけないじゃん」
「いや……じゃあまずいだろ。あの店員だってビビってたじゃねえか!」
「ヘーキだよ。水もタオルもあるんだからすぐに消せるさ」
にしても大胆すぎる。メガのイメージはこの短時間でどんどん変化していった。
それこそ最初はイケメンかつ明朗快活な完璧人間のように思えていたが……どちらかと言えばイケメンなのに破天荒なギャップ人間だ。
もうクイはメガの容姿に対する気後れはほぼない。
そうこうしてる間にもメガの手は止まらずに描き進めていた。
横に二本、縦に二本を四角形の中に書き込み、九つの四角形に分割した。
そして四角形の上に——対面するメガとクイ、お互いに読めるように〈キャンパス〉と書き込んだ。
「この超簡略化した国の全体図で説明していこう。わからない箇所があったら随時聞いてくれ。オレは人に教える才能がまったくないからな」
とは言いつつも教えることが楽しみなのか。
メガは笑顔を崩さず、手に付着した粉を叩き落としていた。
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メガが最初に教えてくれたのは〈キャンパス帝国〉——クイの踏み入れた国の名前だ。
「でもちょっと複雑でねぇ。基本は帝国って略して読むのがイマドキの主流なんだ。なぜなら帝都である国の中心部分がキャンパスって名だから。ややこしいだろう?」
「俺の故郷だとしたら国も首都も名前が日本になるってことか。うんややこしい」
時代についていけないジジババ共は帝都のことをキャンパス国と呼ぶらしい。そんな異世界のジェネレーションギャップ豆知識も交えてメガは教えてくれた。
そして帝国は周辺国と比較すると最も大きな国のようだ。
それ故に国のお偉方も管理が大変なため、大きく九つの街に分けてそれぞれに領主がいるとのこと。分けられるといっても便宜上のものらしく、壁などで仕切られているわけではない。
しかし中心に位置する帝都だけは間違っても踏み入れぬように、高く硬い壁がそびえ立っている。上流階級のものだけが住む街であり、帝国の心臓部だ。
五年ほど前にはその壁をよじ登ろうとした者もいたそうだが——あえなく帰らぬ人になったそうな。手を滑らせたわけじゃなく、撃ち落とされたらしい。
メガは九つの四角形、その中心の四角形に〈帝都〉と書き込んだ。迷いもなしに黒板の如くテーブルを活用している。
「早口で説明しちゃったけど、なんとなくイメージはついた?」
「まあ図もあってわかりやすいな。合間合間にいらん知識もあった気がするが」
「お、気づいたね。もちろんわざとさ。どうでもいい背景も一緒に知っておくと存外忘れないもんだよ」
その言葉は、素直にクイを感心させた。
「教える才能ないと言いつつテクニックを使うじゃんか。確かにしっかり覚えてしまった……メガが俺んとこの教師だったら最高だったのにな」
「ウッソほんとぉ⁉︎ 嬉しいこと言うじゃないの〜。褒めてもなにもでないぞこの〜」
「——まあその話は置いといて、じゃあここは帝都以外のどこかってことなんだよな。メガはさておきこの店のメンツはとても上流階級には見えないし」
「あらあらもっと褒めてもいいのに。オレが才色兼備な先生ならクイは熱心な生徒だねぇ」
つっこまないぞ、とばかりに仏頂面のクイ。その表情を見てメガはなぜか嬉しそうだ。
「でもその通り、ここは帝都のトイレよりも臭い自信のある酒場だからね。この街はここだ——」
そう言って左下の四角形に〈アモレ〉と書き記す。
現在地の名前が判明すると、なぜかクイの手は強く握られていた。ここに至るまでの達成感か、これからのワクワク感か、クイすら自覚していない。
「アモレってのが俺の『始まりの街』か。なら治安は良いと助かるんだけど」
「比較的……ならいいんじゃないかな? 他が外れすぎるってこともあるけど」
「なら運はいいのかな。ちなみにどのくらいハズレがあるんだ?」
「明確に近づかない方がいいって街は三つだね。——帝都を含めれば四つか。その四つを除いたらこの街が一位になるかもしれないけど」
「ハズレが多すぎる——とんだクソガチャだな。しかもこの街は評価七・五点くらいのリセマラ続行レベルだし」
「……? ちょっとクイの言ってることの意味はわからなかったけど——まあ目立たず生きていくには素晴らしい街だとオレは思うよ。治安を悪くしてるのはこの街の中でもある地域だけさ。その場所もこことは離れてるしね」
その言葉にクイは安堵する。
触らぬ神に祟りなしの精神で——面倒ごとを尽く切り抜けてきた実績がクイにはある。逆らっちゃいけない人間、口答えしちゃいけない人間を見極め——それ以外の人間には減らず口で対応してきた。主に家族に対して。
そもそも目立たないなんてのはぼっちにとって必須スキルだ。自然と身につく。クイにとって、この街には適性があるのかもしれない。
「じゃあまた少し長い説明になるけど聞いてね」
クイは黙って頷く。
そして授業中には決して見せないような集中力を発揮して、メガの説明を頭に入れた。
同大陸上には二〇ほどの国が存在し、キャンパス帝国はそのど真ん中に位置している。要は周辺国に囲まれているということだが——国同士が隣接しているようなことはない。
どの国の周りにも森、砂漠、海などの無主地な自然の壁が隔てられているからだ。
キャンパス帝国も同じく、国門の向こう側は手入れされない森であり、どこの国のものでもない無法地帯。
多くのものにとってそこは『なにをしてもいい地帯』という意味ではない。『なにをされても文句は言えない地帯』なのだ。
なぜなら問題行動を起こすのは人よりも——獣、化物、魔物だからだ。
「——って魔物⁉︎ 魔物がいるのかこういう世界はやっぱり!」
クイは思わず口を挟む。
魔物——それすなわち人類の敵。
なぜか人を襲い、人から恨まれる奴らだ。倒すことに対し微塵も罪悪感を覚えない絶対悪。
そしてなんともありがたい存在だ。
「王国と帝国の違いとか俺はまったく知らんが……帝国っていつも戦争してそうなイメージだ。しかし魔物がいるんならそんなこともないんかな」
クイは魔物という存在を必要悪と捉えていた。
人類の敵が国の周りにうようよしてるのに人間同士が争うことほど不毛なものはない。魔物がいる世界観だからこそ、人間が、国が手と手を取りあっていける。そう考えていた。
なにより、魔物がいるのならその親玉——魔王もいる。そうすると自分のゴールが見つかった気がした。
「ちょっと魔物事情について詳しく教えてほしいな。例えば魔王のこととかさ。やっぱどこの国も恐れてるんだろ? これから復活するとか攻めこんで来るとか」
異世界での目標といえば魔王を倒す——これに尽きる。それほど分かりやすいゴールはない。
女神の手紙ではああは書かれていたものの、なにか必ず理由があるとクイは考えていた。クイになにかが求められているのだ。
「あーあー、なるほど。まだそこを話してなかったねぇ。なら順序立てて話すよ。帝国の戦争事情のことからね」
「戦争事情? まさか魔物がいるってのに人間同士で潰しあってんのか? それはちょっと好戦的な世界だな……」
「いや、もう二〇年くらいは起きてないんじゃないかな。まだオレも子供の頃だから記憶はないけど」
「おー流石だ。平和が一番ってな! よくわかってらっしゃる」
クイは両手をパンッと叩いて喜ぶ。平和が一番。それは戦争を体験せずとも怖さだけは十分に教えられたクイの本心だ。
メガは互いのコップに水を注ぎ足すと「ハハハ」とクイに釣られるように笑い、
「二〇年より前の戦争で……帝国に逆らった国は更地になっちゃったからねぇ」
と遠い目をして続けた。その緊張感がクイにも伝わり、手を合わせたまま固まる。目は間抜けなほどにまん丸だ。
「更地……って。あ、焼畑農業的な?」
「見せしめだよ。大陸の真ん中にある国が、大陸の四隅にある国を。建造物の欠片ひとつ、生存者ひとりも残さず——滅ぼしたんだ。そんな所業を見せつけられたらどの国だって黙るよねぇ」
「こ……この国が……とんだDQN帝国じゃねえかよ。それにわざわざ四隅を滅ぼしたってことは……」
キャンパス帝国にとって——どんなに離れていても国ひとつ簡単に潰せる。すべての国が射程圏内。逃げ場はない——と、
えげつないメッセージを含んだ攻撃。そのようにしか捉えられない。
「——クイの思う通りだろうねぇ。そんなことがあって帝国は周辺国をすべて——じゃなくほとんど支配下に置いちゃった。だ・か・ら、今は平和! 誰がなんと言おうとねぇ」
「平和……うーん平和なのか。なんだかなぁ」
実際、平和な状況になるまで凄惨な過去があるのは、どの世界も同じだ。珍しくはない。
だがそれでもクイは静かに思う。
この異世界は思ったよりきな臭い——と。
自分が異世界に来たと分かったとき、最初は永住する覚悟でいた。
元の世界には雀の涙ほどしか未練がない。新天地はクイにとって不安いっぱいだがそのうち慣れてしまえるだろうと。
なので帰ることにそこまでの執着はなかった。
だが戦争の話を聞いて、気持ちはグッと帰りたい方に傾いた。
無気力で学校に行き、炭酸ジュースとスナック菓子を買って帰り、横になってネットの動画を漁る。
そんな自堕落で素晴らしい日常——これからできなくなると思うと手放すのが惜しくなる。
「……よし決めた」
「え、なにを?」
「ああ、こっちの話だ。気にしないでくれ」
「わっかりましたぁ!」
「すごい良い返事だなおい」
異世界での目標。
その最終的な目標は帰宅だ。インドアが極まった感じではあるが。
しかし簡単なことではない——だろう。帰る先はここから別の県、別の国ではない。別の世界なのだ。
とても独力でどうにかできる領域を超えている。となると、
「それで魔王だったよね、クイが知りたいのは」
「ああそうだ。人間たちで争いがないなら平和を乱すのは魔王の役割だろ? そいつの悪行やらなんやらを聞きたい」
人は魔王を倒すと決めた時から勇者となり、魔王を倒した時が終わりとなる。
その先のストーリーに価値などない。
なので魔王を倒せばクイはお役御免で元の世界に帰還できる可能性は高い。
仮に帰れなくとも、魔王を倒せばこの世界はもっと平和になって住み心地が良くなる。おまけにチヤホヤもされる。
倒せるかはさておき、魔王討伐はメリットだらけの行為なのだ。
「戦争はないって言ったけど争いがないなんてことは言ってないよ——って今はそんなこといいか。えーーっとね、不可侵条約だっけな。クイは知ってる?」
「不可侵条約? 国同士が互いの国を侵略しないって約束するやつだろ?」
「オレも詳しくないけどそんな認識だなぁ」
「……なんでそんなことを?」
「実はさ、魔王の住む国は魔王国って呼ばれていてね。魔物しか住まない国なんだ。ひとつの国として帝国が特別に認めてる」
「認めてるって……まさか……だろ? 絶対に相容れない関係じゃない……のか?」
「そのまさかさんでね。これも戦争が終わった二〇年前くらいかな。帝国及び周辺国——と魔王国は不可侵条約が結ばれたよ。もちろん帝国主導——当時の魔王を、その息子であり次期魔王の前で殺し、無理やり結ばせたんだ。聞いた話だけどね」
「おいおい帝国強すぎないか! 随分と人類がたくましい世界に来ちまったな!」
クイが異世界に呼ばれた理由は、本当にないのかもしれない。
「でもさっき魔物が国の外にウロチョロしてるって言ってなかったか?」
「あれは自然の魔物。魔王の管轄外だから殺してもオッケー、殺されたらドンマイ」
「もう人間の見えるとこに来たら殺すぞっていう条約にしか思えねぇよ。魔物を滅ぼさずに飼い殺すような選択ができるほど余裕があるみてぇだし」
「まっ! そういうわけで今はつまんないほど平和だよ! いいことだ」
その通りいいことだ。それにはクイも同意する。
「なーーんでそんなに強いんかねぇ帝国さん……俺の役目なんもねえや」
しかしなにもすることがない——というのもクイにとって好ましくない。
現実世界同様、『生きる』だけのために生きる——を継続してもいい。が、できない。
この世界にはクイを育てる義務を持った大人——親がいないのだ。現実なら学生でもこの世界ではニート扱い。
なにかを為さないと生きることすら不可能。
ひとりで生き抜く力、他力本願で面倒ごとを避けてきたクイにはそんな力を持ち合わせていない。
「ま、帝国が強いのはひとえに強いパレット持ちに恵まれたからさ。強さは量より質、じゃなきゃ周辺国が結託しても勝てないほどに——帝国の強さが膨れ上がることはなかったからねぇ。現状、帝国は奴らの力に頼りっぱなしだ」
「量より質が当たり前か。モブキャラには人権なしってとこは流石異世界って感じ——パレット? ……パレット。そうかパレット!」
「うわあビビった。どうしたよぉ急に」
いや持っていた。正しくは持っているかもしれない。
どこかに落としたせいで未完成のままだったパズルのピースを見つけた——それに近い喜びを感じ、三回も同じ単語を口にした。
パレット——それはどんな言語と文字にも対応できる力——それともう一つ手紙に書かれていた力の名前。
女神への憤怒、加えて単語だけでは理解し難いせいでクイの脳からピースが抜け落ちてしまっていたのだ。
「それだぁ! メガ、そのパレットってやつについて詳し——」
ドゴンッッ!!
刹那の瞬間、メガが消えた。
両肘をつき、前屈みになって座っていたはずのメガが——ドゴン、と景気の良い音とともにクイの眼前から姿を消した。
ぶ厚い気の板で作られているテーブルが——それも白い四角形で描かれている部分がメガの顔面によってぶち抜かれた。
その事実にクイが気づいたのは、メガの座っていた場所の隣に佇む大男に気づいてからだった。
「おいメガァ……遅刻の反省もなしにまたやってるみたいだなぁおい? 休憩してろって伝えたのによぉ……机に落書きするわ、しまいにゃぶっ壊すわで悲しいぞぉワシは!!」
壊したのはお前だ、と言葉も挟めない。
それほど怒りの感情を存分に含んだ声で、テーブルを飛び越え、床に顔半分が埋まっているメガに叱咤する。
クイは恐る恐る視点を上げていく。するとその大男には見覚えがあった。彼はボーディと呼ばれていた店主だ。
身長は二メートルを超過していて——足に、腕に、顔に、至る所へ深い傷痕がある。肌色で筋肉がたっぷり詰まってそうな体は、肩がぶつかるだけでクイを三メートルは吹っ飛ばせそうだ。
「言ってもわからない。体に教えてもわからない……お前はどうすりゃ常識を学ぶんだおい!」
そんな筋肉質な大男から垂直にゲンコツを振り落とされたのだ。
テーブルの半壊から察して衝撃の威力は見て取れる。それはどう見ても人間に使って良い力加減ではない。
メガの顔は想像もできないほど痛ましいものになっているはず——いや、生命の保証すら、
「——プハッ! ふぅぅぅ……あらら。どーもすいませーん。もうテーブルに落書きはしないのでクビだけはなにとぞ!」
あった。
それどころではない。自らの顔を床から引っこ抜くメガの顔は『無傷』——その言葉が相応しいほど異常が見当たらない。
メガの自称していた頑丈は誇張ゼロの真実だと知らさせる。
もしくは異世界では皆が共通して耐久力が高いのか。
「お前目当てでご来店されるお客様方が少なくなったら即クビだからなぁ! 肝に銘じとけい!」
「わっかりましたぁ!」
「どうせわかってねぇんだろうがぁ!! お前は返事だけだっ! だからタチが悪いっ!」
後者の方が可能性として高そうだ。
そうクイが推量したのは店主や騒ぎを聞きつけて様子を覗く客が一切動じてないからである。
メガと店主の騒動に向けて「またやったのかメガ。大変だなボーディも」「自分の店壊すなよ、おやっさーん」「まーた自分が修理しなきゃっすか……」と日常の一コマを解消するようなヤジを飛ばしている。
「あ、そうだボウズ。ここは飯屋だ」
店主の拳により、クイは一気に蚊帳の外に飛ばされた。そこで今は見に回ろうと決めてたが、またも一気に蚊帳の中に引き戻される。
「まぁ、存じておりますが」
「ここは食い物を頼んで食う所だっつってんだよ。早くご注文をしろ」
「え……じゃあ牛丼か油そばを。それと紅生姜を」
「そんなもんはございません。メニューの中からお選べ」
「じゃあ待ってもらっていいですか? メニューとかなんも見てなかったので」
警戒してない時は言いづらい内容も嘘偽りなく話してしまう。良いか悪いかはさておき、クイの癖のひとつ。
——ブチッ
突然、テレビの主電源を切ったような音が店主の頭から流れた。
——え、今の音ってなんだ? まさか頭の血管がブチ切れた音……聞こえるもんなの⁉︎ それにこれは⁉︎
店主のゴツい体の周りに——黒い靄が吹き出てきた。
まるで店主の感情を表すようなほどドス黒い靄。それがジワジワと広がっていく。
それを受けてクイの顔は一瞬にして青くなる——そこからの行動は早かった。さっき確認した壁にかけられたメニューを目に通し、
「メニューを見てな——」
「セイ茸とナッツ炒めで!」
店主のテキストボックスが全文字表示される前に回答。
するとみるみる店主の顔が変わっていく。ボウズを見る目から客を見る目へとわかりやすく変貌。黒い靄も店主の体に戻っていくように消える。
足を組み——なぜか毅然とした態度で椅子に腰掛けているメガを店主は指で差す。
「こいつよりは常識があるようで助かる。少々お待ちしてろ」
「は、はい。お願いします」
「オレはまだ休憩時間残ってるんで話してますね〜」
手を振るメガを睨み、怒りをぶつけるように舌打ちをすると店主はカウンターへ向かった。
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嵐は過ぎ去った。
「災難だったね。ビビったでしょ。でもまぁあの人はいつもああだから」
まだ放心状態のクイに、災難の張本人であるメガがフォローをいれる。
頭から流れた切れる音や黒い靄について、特に語らないのを見ると本当にこれもいつもの光景なのだろう。
「いやいやしかし酷いもんだねぇ。一時の感情で店を壊すとか信じられないよ」
「信じられないのはアンタだろうよ。あんな怪物店主がいるのによくもまぁやったな」
へへへ、と鼻下を擦って得意げにするメガに「いや褒めてないわ」と釘を刺す。
「さてさて、チョークの存在も隠せたし、テーブルに落書きはしないって約束したから——」
ふいに黙り、壁をジッと眺めるメガになにかを悟る。
圧倒的に嫌な予感を。
「いやもう無理して描かなくていいよ。壁に落書きしたら入り口が増えるぞ」
「お、その発想はクイもオレと同じことを考えてたんだな!」
「違う。読みやすいんだよアンタの考えてることが」
「そんなわかりやすい性格してるかなぁ?」
呆れてクイは目を細める。
もうメガの人間性をクイはほとんど理解していた。それとともに無意識化でメガのことを下にも見始めていた。
それは態度にも現れ、両手をズボンのポケットにいれて話す。
「ったく人は第一印象で決めつけちゃダメだってことだな……ん?」
「第一印象ね。その言葉、何度も言われすぎて最初から数えとけばよかった——って思ってる言葉だよ。で、どうしたの?」
「……ポケットにスマホがあった」
「…………ごめんリアクション取れないや。なにそれ」
「俺も取れねぇよ……今気づいたし」
黒のケースをつけた黒の端末。正真正銘クイのスマホだ。
まさかリュックサックではなくポケットの中に入れていた——ただのそれだけで異世界に物を持ち込めたのか。
がっかりはしない。むしろクイにとって追い風だ。
「見たことないブツだね。もしかしてクイの故郷の?」
「んん、そうだよ。優れものでね。難しい計算を一瞬でしたり、時間を正確に測ったり、いろんなことをメモしたりできる万能アイテムだ」
「へぇ、シンプルにすごいや! 他にもなにかできるの⁉︎」
「できることはたくさんあるけど……そうだな、これはメガも驚くぞ。なんとこれを通して遥か遠くの人と会話することができる——仕組みは全然わからないけどすごい機能なんだ!」
「じゃあ〈遠方石〉と同じことができるんだ。クイの故郷版はいろんなことができてすっごいや。それに石にはまったく見えないし」
「そう! 遠方石と同じことができる優れ……同じことができる⁉︎」
クイは椅子ごと勢いよく後退する。
「既にこの世界……この国にあるの? 遠くの人と話せる機か……アイテムが」
「あるあるバッチリあるよ。オレも持ってる。ええっと——ほらこれ。遠方石っていうんだ」
メガの懐から出てきたのは丸く薄く——水切りに最適な石だ。
「最近は使ってなかったけど……こう……こうやって魔力を繋いだ遠方石同士はどんなに遠くにいても声が伝えられるんだ。仕組みはオレもまったく知らないけどね」
——魔法。
初めて見たそれは――クイの想像以上に煌びやかなものでも禍々しいものでもなかった。
メガの髪がほんの数秒ほんの少し逆立つ。そしてメガの体の表面上から浮き上がってくる黄緑色の光を――手に握られた遠方石がすべて吸収すると、石の表面に黄緑色の渦巻が彫り込まれた。
画面越し、次元越しで幾度となく目にしてきた。
それにも関わらずそれは――魔法は強くクイの心を打った。
「ほい、起動完了っと——どうしたのクイ? 涙がちょちょぎれてるけど」
「なんの涙なんだろうな……あぁ俺本当に来たんだって思うと……感慨深いもんがあって。魔法なんだよな、それ」
「ま、魔法ってもんでもないよ? ただ魔力を遠方石に通しただけ。魔力を持たない人間なんてこの世にいないからクイでもできるよ」
この世界ではごく普通に扱われているのだろう。蛇口を捻れば水が出ることに現代人が驚かないように。
クイが目を擦ると涙はすぐに止まった。反射的な力で出た涙だったのだろう。
「誰でも魔法が使えるのか。夢があるなぁモブにも優しい異世界……俺は悪い側面ばかりを見すぎていたのかもしれないな」
「もーだから誰でも魔法が使えるなんて言ってないよ。オレも魔法は使えないし……何度でも言うけどこんなん魔法でもなんでもないよ。ただ魔力を通しただけ」
「積極的に夢を壊しにくるなよ……だいたい言いたいことはわかったけどさ。ようは口はみんな持ってるけど口笛はみんなできるもんじゃないみたいなことだろ?」
——ヒュウウ
それだ、とばかりにメガはできてない口笛を吹きながら、指で銃を撃つ仕草をする。
——ヒュウ
クイもまたできてない口笛で返すと互いの顔に笑みが浮かぶ。
「クイもできないの⁉︎」
「メガもできないみたいだな」
ハハハ、フフフ、と笑い合う。
クイが誰かと笑いを共有するのは中学生以来だ。苦笑いでも愛想笑いでもない心の底からの笑いで。
——ブルブルブルッ
生温い空気を一変させるように遠方石がメガの手中で震える。
「おおっと、起動させていきなり着信か。こりゃ絶対怒ってるな」
「相手が誰かわかるのか?」
「まーね。遠方石はあらかじめ登録してる人としか話せないから。これは業務用で渡されたもので、その相手としか通話できないんだ」
「そこは結構不便そうだな……てか怒ってるってもしかしてずっと電源切ってたのか?」
「五年くらい懐にしまわれたままだったからねぇ。彼が開幕になんて言うか当ててしんぜよう。そうだなぁ、『生きてんなら遠方石はずっと繋いどけバカ!』とかかなぁ」
「いいから早くでなよ。怒ってる人を余計に怒らせてるぞメガ」
クイの言葉にメガは「それもそうだね」と返すと渦巻模様に手をかざす。
一瞬にして黄緑色の溝は黄金色に変化。そして、
「はい、もしもし。お久しぶりさん——もしもし? オレオレ、メガだ——」
(テメェ! くたばってねぇなら遠方石くらい常時繋いどけクソボケェ!!)
小さく大きな罵詈雑言が遠方石から漏れ出た。メガは嬉しそうにその声を聞くと手で遠方石に蓋をする。
それでもなにを言っているかわからない程度に声が漏れている。
「ハハ、会わない間に嫌なことでもあったな。口の悪さがレベルアップしてるよ」
「アンタと深く付き合ったら神経すり減りそうだってことはよくわかったよ。俺は顔も知らぬその人に同情する」
「厳しいなぁ。ま、いいや。ちょっとごめんねクイ。彼と少し話さないと」
クイが「どうぞ」と促すと同時にメガは遠方石を右耳に当てた。体を捻らせクイの方に左耳を向け、遠方石の先の人物と会話を始めた。
――この間に少し整理をしよう。何か忘れてることはないか。
大まかにだがこの異世界を概括すると、
魔法あり亜人あり魔物ありの王道ファンタジー――とは少し違う。というよりは目的がない。魔王はその存在意義を疑う程の体たらく。戦争も終結し今は嵐の過ぎ去った後。
そもそも誰に何を頼まれているわけでもない。異世界とはこんなにもやることのないものなのだろうか。
「やりたいこともないしな。ほんと連れてくる人間間違えすぎだろ。特に理由もなしに連れてきたなら特に目的もなく平凡を生きてみるのもおつかな」
これまで漫然と生きてきた、空っぽな人間。
ただ生存意欲のみが肥大化した。無趣味無価値な。
肘をつきながら瞼を徐々に閉じていく。クイが考えているのは自己嫌悪――ではない。
自分の目指している理想像だ。
2/7 start***************************************
独りぼっちの高校生活。
強迫観念から入ったバトミントン部もすっかり幽霊部員となり、学校に行くくらいなら本当に死んでしまおうかと思っていた七月初め。
生まれて初めてずる休みをした。一日だけ。
その一日で——価値観が変わった。
親の教育の賜物か、ずる休みは禁忌だと感じていた。
テストで悪い点を取ることも、友達を作らず独りで学校にいることも。
だがその休んだ一日、ずっとベットに寝転がっているだけの一日でふとクイは思った。
——自分は誰のために生きてるんだろう。
ずる休みをして、テストで悪い点を取って、ぼっちで学校を過ごして——親に心配をかけたくない。
そんなプライドがあった。見栄を張りたかった。そしてその対象は親だけではない。
世間だ。
だから自分の学力ギリギリの高校に入った。
できるだけ上のレールを歩もうとした。
誰に見られるわけでも期待されてるわけでもないのに、世間が自分を見ているような気がして。
窮屈だ。
他人の目に縛られながら生きるのは。自分のためだけに生きれたら、生きることだけに専念できればどれだけ楽なことか——
見られている見られている見られている——
思われている思われている思われている——
考えられている考えられている考えられている——
ずる休みをした次の日。キョロキョロと話せそうな人を探すのを止めた。
そして決意を胸に、自席でスマホだけと触れ合った。
これからは自分の世界で生きる。
誰になにを見られて——なにを思われて——なにを考えられても知ったことじゃない。どんなに下のレールに移ろうが知ったことじゃない。
自分の感じたこと、それがすべての世界で生きる。他人はNPCだと思えばいい。
自分という存在のランクが低いことを自覚し、開き直る。
低ランクの視界は驚くほどに自由で選択肢に溢れていた。他人に合わせる必要のない、自分の価値観、思想がすべての世界。
周りの顔色を伺うことは止め、代わりに色んなものに目を向けてみた。
空、雲、木、建物、看板、そして自分がもう交わらないと決めたクラスメイト。
客観的に見るそれらは——まるで漫画のような干渉のしようがない作品に思えた。作品には僻みも羨みも妬みも感じない。
別次元のものだから。
こんな生き方は他者から見れば哀れまれるような悲しい生き方かもしれない。
だがクイにとっては自分を救ってくれた生き方であり、クイしか理解できなくていい心地よさがあった。
生まれ変わったクイは生きる楽しさをどんどん発見——それは同時に死への恐怖に変貌する。
色んなものを見て、色んなことを考えたいのに、死はそれを取り上げる。二度と自分の世界に浸ることができない。
それを強く拒んだ結果、生存意欲が肥大化した空っぽな自分至上主義人間の出来上がりとなって——
今のクイに至る。
2/7 end********************************************
「わかったわかった名前は覚えとくよ。でも三文字もあるから忘れるかもしんないけどね——はいはい。じゃ今度会ったらそのヤバい顔とやらを見せてくれよ——ハハハッ」
メガの通話中、ひとつの収穫があった。
朗報ではなく悲報——この異世界に来てからそんなのばっかだ。
それはスマホが使えないこと。
ボタンを押しても一寸たりとも反応しない。電波がないならともかく、電池がないのだ。今日は一日中——充電池を付けながらスマホを使っていたというのに。
だがクイは不思議と感情が揺さぶられない。
先ほどまでなら異世界に対し不満爆発だったり殺意を覚えてたりしただろうが。今は謎の精神的余裕がクイの感情をセーブしていた。
クイはまだ気づかない。
自分が排除した誰かとおしゃべりする行為が——自分の心に余裕を持たせてくれた事実を。
「はーい。じゃあ切るね——」
口を開けたまま、メガはクイの方に視線をやると遠方石に「あー待って」と声をかけた。
「パレットについて知りたいって子が今いるんだけどさ。——そうそう、オレ持ってないじゃん? ここは使えるお前の立場からなんか情報とか一言とかないか? ——ああ、ねぇクイ」
突然の矛先にクイは体をビクッと震わせる。
「クイってパレット持ってるの?」
完全に失念していた。
そしてメガは覚えてくれていた。店主のパンチで吹き飛んでいたパレットのことを。
「多分持ってると思います」
「多分? 使ったことは?」
「使う……ないです」
「持ってると思うけど使ったことはないって」
メガは再び遠方石に向けて語りかける。
その先の人物はパレットを持っていて、それでいて使えるらしい。
使うものであるのならクイの想像通り——魔法のような戦える力の可能性が高くなっていく。
微かに遠方石から声が漏れる。だが内容はまったく聞き取れないことを把握すると、クイは焦らずメガが伝達してくれるのを待つ。
「————オッケー、じゃあねぇ〜」
メガは投げやりに遠方石を耳から離す。渦巻きの溝は既に黄緑色に戻っていた。
「さてと——お待たせ、えっとね」
メガは咳払いをすると、
「これまでパレットを使ったことがないなら諦めろ。使えないヤツが使えるようになることはないからな。もう何年も生きてきて偶発的にもパレットを出せたことがないなら、お前にはパレットがなかったってことだ」
メガらしくない口調。遠方石の先の口調を真似て伝達してるのだろう。
なんとも薄い情報だ。知りたいことはそうではなかったのに。
「——だってさ。冷たいやつだよ本当。五年経っても変わらないねぇ、人ってやつは」
「あのさ、メガはパレットを持ってないけど、その友達は持ってるんだよな?」
「まあね。別にオレは欲しかないけど、周りは持ってるやつばっかだったねぇ」
チャンスだ。
クイが知りたいのはパレットの存在そのもの。どのような力でどのようなことができるか——だ。パレットを持ってないメガでも教えられる情報。
それだけでも聞いておきたい。
「あのさ。メガの知ってるは——」
「あい、セイ茸とナッツ炒め。遅れてすまんな。サービスのオレンジジュースだ」
——っっこいつは! 話の腰を折ることばっかしやがって!
もはやパレットの話を切り出すと割り込んでくるようプログラムされているんじゃないか、と疑うほど——完璧なタイミングで現れる店主。
気が大きくなりクイは店主を睨むが、店主は既にメガを睨んでいてクイなど視界に入っていなかった。
「よぉ、メガよぉ」
「どうしました店長? そんな顔してるとまた血管が切れちゃいますよ?」
「——ワシの表情は読めるのに時計は読めねぇのかおい……もうとっくに休憩時間なんざ終わってんだよ! テメェで気づかねぇかおい!!」
またも筋肉質な肌から血管を浮き上がらせて怒号を放つ店主。
クイは一瞬にして睨むのをやめて素の顔に戻った。
店主の顔をメガはぼうっとしばらく見る。
続いてカウンターの奥、壁にかけられた木造の時計へ目を移すと、
「ゲ、すいませーんすぐに準備しますね」
慌てた素振りとそれに一致しない冷めた表情をしながらもメガは席を立つ。
本当に大物だな、と思いつつメガを見つめる。その視線に気づいたのかメガはクイの耳元に顔を近づけ、
「ねぇ、オレは役に立った?」
小声でクイに問う。その冷たい口調がメガの性格とまったくマッチしてなく、背筋が少し凍る。
そして反射的に「もちろん」と返していた。
「そりゃよかった」
メガはニッコリと笑うとスタッフルームらしき部屋の前まで駆け足で向かう。その入り口で再び振り返り、
「さよなら。またどっかで会えたらいいね。もう友達だから!」
手を振りながらそう告げると、扉の向こうへ消えていった。
「やっと行きやがった。じゃ、ごゆっくりとおくつろぎしやがれ」
カウンターへ踵を返す店主の口調を心の中で——どこぞの橋の神父代理か——としっかりつっこむ。
そして半壊したテーブルに並べられたセイ茸とナッツ炒め——オレンジジュースに対し遠い目を向けた。
「こんなテーブルでどうやってくつろげと……肘を置くことすらためらうってのに。このテーブルで飯食えって頭おかしいだろ。気になんねーのか」
メガは気にすることもなく手やら肘やらを置いていたが。
「で。あの古臭い置物が時計か。——初見じゃ長針と短針、どっちがどっちかわかんねぇな」
針の先が鳥の頭と鉤爪。長さに違いは見当たらない。
頭が長針、鉤爪が短針なら——二時七分。
鉤爪が長針、頭が短針なら——一時十二分。
多分後者だ。
「設計上長針の方がグルグルするだろうし鉤爪が長針だと思うんだがなー。頭の方がグルグル回ったら作ってる途中で考え直すと思うし」
自分の感性を押し付けるような推理で、今の時刻は一時十二分だと断定する。
そして一通り考え事を終えると、深いため息をついた。
「友達か……あんなにできなかったもんがパパッと作れるとは。異世界ってスゲーなやっぱ」
上の空な状態。メガの去り際の違和感が拭えないことに呆然とする。
思い返してみればメガは時々、別人のような雰囲気を放つ時が——
「アッ!」
思わず声に出して、あることに気づく。
「メガにお礼言うの忘れてた」
クイが一文無しで注文してしまったことに気づくのは、この発言の五秒後だった。