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第三話    異世界の陽と現実世界の陰 

 1/7 start*********************************************


 月曜日、それは多くのものにとって修羅の日だ。強制的に学校へ週五出勤している俺も例外じゃない。

 だが、今日はその足取りも軽い。


 最終的に向かう先は学校だが——まずは駅が目的地だ。

 歩きで二〇分。決まって乗車する電車の時刻まで二六分。

 こんなに時間に余裕を持ったのは久しぶりだ。どうやら今日はチラチラ時間を確認して所々で早歩きをする——そんな必要はなさそうだ。


 月曜日用のボカロプレイリストをイヤホンから聞く。

 機械音声がどうも苦手なので——その曲で一番再生回数の多い歌い手をチョイスした動画たちだ。中でも月曜日用はお気に入りだけで構成していて、極端に明るくも暗くもない王道が多め。


 ここまでは時間に余裕がある以外——いつも通り。

 いつも通りだが——それにしてはご機嫌だ。

 それほど時間に追われず登校できることが嬉しいのか。だが悲しいことに毎日この時間に家を出るのは不可能だ。俺は寝覚めがチョー悪い。俺にできるのは今日のような例外の日を楽しむことだけだ。


 ——ってことでもう少し先にある自販機でエナドリを飲もう。確か前に飲んだのは一週間も前のことだし、飲み過ぎにもならない。

 朝にエナドリを買って飲めるほど時間に余裕がある——なんて幸せなんだ!


 カーブミラーにはなにも映らないな。車もいなけりゃ自転車もいない。

 なら塀で見通し最悪の曲がり道も最短ルートで曲がろう。時間に余裕がある時こそ、さらに余裕を持たせようとしてしまう。あるあるなのかな。


 おお、もう何回も通る道だがここの表札に注目するのは初めてだな。

 ……『油井』か。なんて読むんだ。あぶらい、ゆい、あぶい——井に他の読み方なんてあったっけ。



 ————。



 なんか音楽じゃない気分だ。声を聞きたくない。やめよう。なにか——環境音にしよう。


 ……これだ。嵐の音。

 月曜日の業はやっぱり凄い。気の赴くままに自分のわがままを通さないと、自分を甘やかさないと——挫ける。

 月曜日に学校へ行くのは当たり前じゃない。称えられるべき功績だ。今まで自分が当たり前と思っていただけなんだ。周りがそう思わせようとしてきただけなんだ。


 ————。



 うん、やっぱりこれだな。これから学校に行くとは思えないほど心が落ち着く。

 嵐の音ってのは非日常を思い起こせていい。小学校のとき、嵐が過ぎ去るのを学校で待ったのはいい思い出だ。


 自販機も近づいてきたし、小銭の準備でもしよう。

 あそこは釣り切れが多いからな——あったあった。二一〇円ピッタシ。

 他にも普通の飲み物を買おうかな。いや喉は乾かない自信がある。いざとなったら水道で——




 前方にジジイ。


 ヤダな。

 こんな朝っぱらから距離感分からん近所のジジイに挨拶なんかしたくない。だからされたくもない。

 しかし挨拶をされてスルーするのは論外だ。スルーした方だって嫌な気持ちになるんだ。


 それにイヤホンをつけたまま挨拶をするのも論外だ。たとえ誰に対してだって失礼だ。

 だが俺は——イヤホンを外したくない。


 道路いっぱいに右に寄るか。この道路で車同士がギリギリすれ違う現場を見たことあるし——多分幅は一〇メートルくらいあるんだろうな。

 そんだけ離れてたらジジイも挨拶してこないだろ。


 ————。



 よし作戦通り。こっちを見もしなかった。とりあえず今日の無言を貫けたってとこか。順調順調。


 だが待てよ、今日の外での初発言。どうせなら言わされるよりも自発的に言う方がいい。

 もう少し歩いた先で、あまりにも小声だときまりが悪いし、ジジイからもう少し距離をとったところで——



「さぁ月曜日。楽しくやって参りましょうか!」




 極力他人と話さず、頭の中でアレコレ思考し、自分の世界に浸り続ける。


 これがクイの日常——



 1/7 end***************************************************


 ————、


「どおおおお! おおお……ハァ……ハァ……うし!」


 気を失っていたのか、いつの間にか机に突っ伏していた。

 授業中の居眠りにも使ういつもの姿勢だ。この寝方は頬と首の痛さ具合でどのくらいの時間寝ていたかだいたいわかる。


 クイには気を失っていたのが一瞬の出来事だったと把握できた。


「とりあえず生きてる。セーフだ。それに気分も悪くはないな。特別いい感じもしねぇけど。なにか変わったことはあるかな」


 もしや亜人のような見た目に変化したのか⁉︎

 少なくとも自分の手足には変化がないと確認していると、


「結局なんだったんだあのガキは」


 後ろから流れ込んできたのは聞き慣れた言語。

 クイの首は吸い込まれるようにそっちに曲がる。


「昼間っから酒でも飲んでんのか? わけの分からねぇ喋りしやがって」


「まーまー。お前さんもちっさかった時はあんな感じで目立ちたがりだったろうよ」


「なにぉ? おれがあんくれぇの時はゴブリンの頭持って街中闊歩してたぜぇ? 全然ちげぇだろうよぉ」


「はいはい」


 クイは思わず椅子から跳ねるように立ち上がり、周りを見渡す。

 そしてさっきの話し声の主を特定した。


 テーブル席に向かい合って座っている二人の屈強な男。近くの壁に剣や大槌が立て掛けられている。

 それらが彼らが腕を伸ばせば届く距離に置いてあることから誰がどう見ても——クイの目から見ても彼らの所有物だと分かる。


 クイが見渡した光景と聞こえてくる音声の収穫は他にもある。


「で……ここ最近オーガをぱったり見なくなってよ」


「ボーディ! こっちに酒とナッツ四つずつな!」


「そうなんだ。あいつらまだ遠征から帰ってないみたいなんだよ」


「すみませんボーディさん。あのメニューの端から端まで、二品ずつお願いします」


 先ほどまでただの雑音でしかなかった店内の音が——声へと進化した。

 いや、進化したのはクイの耳なのか。それはさておきこの世界の言語が聞き取れるようになっていることに変わりはない。

 なぜ聞こえるようになったか疑う余地はない——あの液体のおかげだ。


「っっっしゃあ!! 第一関門突破ぁ!」


 不安だらけの異世界でようやく確かな一歩を前進できた。スタートラインに立てただけに過ぎないが、それでもクイは歓喜し、人目も気にせず快哉を叫んだ。


 しかしクイが好奇な目で見られることはない。もともと店内はかなり騒がしい。多少大声をあげるやからがいても気にはしないのだ。

 それが——聞き慣れない言語でないのなら。つまり、


「俺の言葉も逆に通じてるってことなのか。もう発言には気をつけよっと」


 弾んだ声に引き締まらない顔。

 そして出来もしない口笛を吹くと、クイは辺りを再び観察する。

 時間に余裕がある時もそうだが——心にも余裕ができると視野も自然と広がっていく。


 さっきは気づかなかったがカウンターに立っている顔に生々しい傷痕を残した筋骨隆々のおっさん。恐らくこの酒場の店主であり、ボーディという名だ。


 そして外に大勢の亜人がいた事実が夢幻と思えるほどに、この酒場は人間で溢れかえっていた。

 亜人らしい見た目は誰ひとりとしていなかった。


 店の壁に掛けられた板には【セイ茸のナッツ炒め】【アクスビークの丸焼き】【シーフードパスタ】エトセトラ……と横書きで掘り込まれている。


「これはこれは……文字まで読めるようにしてくれてら。やっぱ飯屋だったんだな……なら牛丼か油そばはやってねぇかな。紅生姜をぶっこんで食べてぇ……そうだ最近イライラしてるのは紅生姜を注入してなかったから——すっごい腹減ってきた」


 生命の危機を脅かされていたばかりで気づけもしなかったが、好物を思い浮かべたことでようやく自分の空腹に気づいた。

 最後に物を口に入れてからもう八時間も経つ。少食で燃費がいい自負はあるも、生きている以上抗えない生理現象だ。


「ま、その前にやるべきことがあるんですけどね。ひとつ物事がうまくいくとドミノ倒し方式で他のことにも繋がるこの快感。脱出ゲームとかでもそうだよな。俺は忘れてねえぞー手紙の存在をよ」


 手に入れた道具アイテムを使うことで新たに道具が手に入る。ゲームをクリアするにはその繰り返しが重要だ。

 液体を飲んだことで言語の壁を取り去ることに成功。

 期待してなかった異世界の文字を読み取ることさえもできる。しかし——


「話せる読める——だけじゃねぇんだろ?」


 それだけではなんの力も持たないクイが生き抜ける保証にはならない。前述したとおりスタートラインにたっただけなのだ。


 だが、クイが危惧していた異世界に迷い込んでしまった説はほぼゼロだとうかがえる。この液体はまさにクイ向けの力を寄越してくれた。


 つまりフォローをしている。

 クイはその姿勢を買っていたからこそ胸を高鳴らせ、期待する。


 ——言語問題だけにあらず、この異世界を行き抜ける力をきっと授けられたはずだと。


「やあ。君はラング語が喋れないもんだと思ってたけど、そうじゃないみたいだね」


 クイの手紙を取ろうとする手がピタッと静止。数秒の間、硬直。それが解けると声の主の方を向く。


 そこには先ほどコップを持ってきた——結果的にはナイスパスだったあの金瞳の店員が立っていた。片足に重心を傾けて気だるげに。店員にあるまじき態度だ。


 しかし今は店員ではないのだろう。その証明として、店主も他の店員もつけている黒のエプロンを着用していない。


「あ、さっきの……なにか?」


「ハハハッ、急にごめん。すごい困った顔してたから休憩時間に様子見てみようかなーって感じで来ちゃった。最悪喋れなくてもジェスチャーだけで意思疎通してやろうと思ったけどねぇ。喋れるようで本当によかったよかった。じゃあここ座っていい?」


「……もうすでに座ってますけど」


 ジェスチャーのくだり、の時には。


「座っていいって聞いて断った人見たことないからさ。一応マナーとして聞いただけ。見たことある? 初対面で座らないでくださいとか言える人。オレはいないと思うねぇ」


「あ、しょ、初対面でいきなり座る人も俺は今まで見たことなかったんで……多分断る人もいるんじゃないですか?」


「ならいきなり座る人と断る人、そんな希少な組み合わせは余計に起こらないね! ハハハハハッ!」


「は、はは……」


 よく分からない結論に、顔を引きつらせながらクイは乾いた笑いで返す。コミュ力の歴然たる差をこの短いやりとりで感じとる。

 しかしクイが感じとったものはもうひとつ——


 予兆だ。

 液体を飲んでからすぐに現地の人間に話しかけられた。これぞクイの待っていた『始まり』ではないのかと。


「じゃあ自己紹介でもしようか。オレはこの汗臭い男の溜まり場で働く店員。名はメガだ」


「メガ……さん」


「短くて覚えやすいでしょ。それに呼び捨てでいいよ」


 対面するメガの顔を見つめ、クイは固唾を呑んだ。

 眉までかかったサラサラな銀髪、長いまつ毛に大きな目、加えて金色の瞳を持つ明朗快活な性格の好青年。

 常時やわらかな笑顔のまま話しているが決して中性的ではない。座り方や笑い方の細かな仕草はどれも男らしいと思えた。


 早い話、クイの知るすべての男を越えたイケメンということだ。

 仮にこれからの物語も、メガを隣に置いたらヒロイン候補を根こそぎ奪われてしまうのではと危惧するほど。

 クイはメガの容姿が異世界での平均ではないことを祈るばかりだ。


「で、君の名前は?」


「——あ、クイです! さっきはどうもすいません」


「いーよいーよ。アクイっていうんだ。ちょっと長くて覚えづらいな……略してアクでいい?」


「あ、クイ——あっ違う違う! クイ! 名前はクイです!」


「クイ? あー、()()()()()()()()()()()()。ごめんごめん」


 久しぶりの会話で早くも障害が現れる。クイにとって会話での問題は言語だけではなかったようだ。とにかく語頭に「あ」をつけてしまう。


 しかしせっかく元の世界と断ち切った異世界にいるのだ。ここまで来て隠キャ、コミュ障、人見知りの看板を背負うのは御免蒙る。

 大袈裟にでも話し方を変えてみよう——


「いやね、聞いてくれよ。俺さーなにせ遠くからこの国に来たばっかなんだけどさー、俺さ五カ国語くらい話せるじゃん? どの言語話せばいいかなーって手探りだったのよ。で、メガの声を聞いてラング語ってわかったわけなのさー的な……はははぁ」


 喋ってて気づいている。

 ただのイキり口調なだけだと。


「そりゃ大変だったね! 言語も違うくらいの国となると遠路はるばる来たってことか。ちょっとラング語がおかしいわけだねぇ」


「あ、いや今のは——」


「大丈夫だよ意味は伝わってるから。母国語じゃないのに上手上手。よっぽど勉強と練習を重ねてきたんだねぇ」


「…………」


 クイは唇を噛んで押し黙る。悪気はないどころか気を使ってくれているのがしみじみ伝わるからだ。


「でもクイはおっちょこちょいだな——あれアクだっけ?」


「クイであってます」


「クイであってたか。——でもクイはおっちょこちょいだな。あの見せてきた手紙はラング語で書かれてたんだからそこから推測できそうなもんだけどねぇ」


 クイであってるんだから言い直すなと内心で思いつつ、話題に出た手紙を思い出した。

 そうだ。メガはクイよりも先に、クイ宛ての手紙を読んでいる。内容によってはまずい事態になる可能性も考えられる。


 顔をしかめるとクイはメガに低い声で問いたださんとする。


「手紙……見たんですか?」


「ん? 見せたんじゃんクイが。なにを言ってるんだい?」


「——仰る、とおりだぁ……」


 ぐうの音も出ない。あの時、メガに見せたからこそ液体を飲む決断に至れたのだ。

 頭の上にハテナマークが浮かぶような顔をするメガが見るに耐えない。我ながらアホすぎる質問をしたと後悔する。


「オレは昔から本を読む機会が多くてねぇ。だから悪いんだけどさ、その手紙全文読んじゃったよ。——そうだ! 感想も言おうか」


「いや……大丈夫です」


 悪いのは日本語じゃなくラング語で手紙を書いたバカだ。

 しかし兎にも角にも手紙を読まなくては同じ目線の話もできない。


 手紙を握るとテーブルの上へ叩きつける。


「あの……俺まだ手紙を読んでなくて。ちょっとここで読んでもいいですかね」


「もう読んでるみたいだけど」


 あの……と口を開いた時には。


「断る人を見たことないんで」


「——オレもだ。ハハハッ」


 意趣返しを食らったことにご満悦なメガ。

 手紙に目をやるクイにこれ以上声をかけるのは無粋だと判断して、店員——メガにとっては仕事仲間に向かってタメ口で水を頼んだ。



 ——クイ・シラジラ様へ。


 手紙の一行目がこれだ。せめてこの一文だけでも読めたら、この瓶と手紙が自分に宛てられた物だと確信が持てたのに。

 そんな不満を思いつつも手紙を読み進める。



『私の世界へようこそ!

 特に理由はありませんがあなたをこの世界へお招きさせていただきました!

 そして特に理由はありませんがあなたがこの世界で生きていけるようにパレットとどんな言語や文字にも対応できる力をあげちゃいます。

 お招きした時点で上記の力を与えることも出来たのですが、今回は同梱しているそこの贈り物を飲んでいただくことで力が手に入るようにさせていただきました。もちろんそこには深い理由……はなく特に理由はございません。

 質問はありますか?      ありませんね!

 それでは今後、私が必要と思えば会いに行きます。その時まではどうぞお好きなことをしててください。

 例えば私の差し上げた能力で無双(笑)とか俺TUEEE(爆笑)とかハーレム(苦笑)とかです! ではでは~』


 以上、女神アーテでした——そう締め括られていた。




 —————————。



「お、その様子だと読み終わったみたいだね」


 怪訝な顔を出し惜しまないクイを見て、メガは悟ったようだ。この手紙を既読済みなので心中を察している。

 手紙の両端に引っ張り、今にも引き裂きそうなクイを見兼ねたメガは——急いでコップに入った水を飲み干す。


「メガさ……はこれを読んでどう思ったんですか」


「なにも。八割ほどは内容チンプンカンプンだしねぇ。神に名前をつけてるなんて珍しい宗教だなってことくらいかな。この手紙、クイの視点からだとありがたい言葉なわけ?」


「まさか……ムカつきが上限突破で手紙を切り裂いて店中転がりまくって雄叫びあげたい気分ですよ」


「見てみたい気もするけど、人間として生きていきたいなら感情は抑えないとねぇ」


 恐らく女神の肩書きは本当なのだろうが。

 神に対して——殴りたい——と罰当たりなことを思ったのは初めての経験だった。人に対しては幾度となく思ってきたが。

 わかりやすくクイを煽り、怒らせようとしている意図が見え見えの手紙。

 もしそうなら効果は抜群だが、クイがトサカにきているのは幼稚な煽りではない——


 この手紙の文字をそもそもクイが読めないことだ。


 煽る気満々なこの手紙を、最初クイが読めないように設定するのは少し違和感がある。

 液体を飲んでから手紙を読むと想定して書いてるのなら——液体を飲むように勧めているのはおかしい。

 またここまで煽り口調な文にもかかわらず「見えましたか?」や「お味はどうでしたか?」などといった液体を飲んだことを想定した言葉はなにひとつとしてなかった。


 つまりここから推測できることはひとつ。

 読めない言語で手紙を書いた——これは女神のおっちょこちょいではないかと。


 クイ自身に己は無責任な人間だと自覚がある。だがそれを超える無責任を目の当たりにしたのは初めてだ。

 悪意ある煽りよりも、お調子者の天然の方がタチが悪く許せない。


「ふざけやがって——」


 この異世界での明確な目的はまだなにも定まっていない。

 だがやりたいことはひとつ見つかった。


 必要と思えば会いにいきます——だと?

 それならこっちから会いに行ってやる。そして、


 ——ぶん殴る。


 そう胸に刻んだ。


「最近はそういう類のふざけた詐欺が流行ってるみたいだからねー。友達から聞いた情報でオレはまだ会ったことないけど」


「え、詐欺?」


「そうだよ。その手紙ってさ、あの瓶に付いてきたんだろ?」


 メガが親指で示す先には、テーブルの脇に追いやられた空の瓶がある。


「ただの水を不思議な力だの魔除けだの言って売りつけるんだよ。この手紙も信憑性を高めるための演出なのかな。いくらかかったの?」


 それは違う——とハッキリ分かる。既に効果が出ている以上本物と認めないわけにはいかない。

 だがメガがその結論に至るのも当然だ。クイは鴨にされた旅行者と思われているのだろう。


 このメガの質問にも、適当な文言で誤魔化そう。そう思ったが、


「——忘れました」


「そうか。まあ起こったことをクヨクヨしててもしょうがないもんね」


「いえ、そうじゃなくて」


 このまま糊塗してても――ダメだ。


 クイは未だに、この世界のことを知らない。中世ヨーロッパ風で異種族のいるファンタジー世界だとしか知らない。

 ここは逃げの誤魔化しではなく、攻めの誤魔化しでいきたい。


「——そうだ。実はメガに頼みたいことがあるんですけど……まだ時間ある? よければ聞いてほしいんだ」


「今はまだ時間あるよ。だけど——」


 メガは即答してから、空のコップを瓶の横に置いてクイの顔をじっと見る。


「……頼まれるかどうかは物によるなぁ。安請け合いはしない主義でさ。でも話してよ」


 メガの雰囲気が変わったとクイは感じた。特段怒ってる様子でもないが。

 クイは鉄道オタクに電車の話を振ったような、アニメオタクに今期の覇権アニメを聞いたような、それに近いことをしでかしてしまった気分だ。


「なにせ明日から死ぬほど忙しくなる用事があって——それこそ多分誰にも会えないくらいにね。まあ、だからなにかができるのは今日だけなんだ」


「だ、大丈夫です。この席だけで終わる頼みですから」


「オッケー、でももし断っちゃっても悪く思わないでね」


「大丈夫です。では——」


 先ほどまでの柔らかい表情と相反したメガの試み顔にたじろぐ。

 しかしクイは既に背水の陣だ。逃げられない。突き進むのみ。


「どうも俺は部分的に記憶喪失になってるみたいで。色々と教えてほしいんですよ」


 自分には大事な箇所を隠しながら話を進める才能がある。

 クイはそう自己評価した。



 ——客の喧騒で溢れる中、クイの座るテーブルには暫時沈黙が訪れていた。


 そこそこ気まずい状況で、クイは背中合わせに座っている客の食事音だけをひたすらに聞いていた。聞かされていた。

 容姿を目にしてはいないが、恐らく太った女でハンマーでも武器にするのだろうとクイは考える。

 なぜなら背後に座っているのは——メニューの端から端までと漫画でしか見たことない頼み方をする客だからだ。

 それが店内唯一、女の声だった。


 メガの応答待ち中に気が逸れてしまい——それに背後の客への好奇心が上回ってしまい少し振り返る——、


 その刹那、「なにを言うかと思ったらねぇ」と前から返事がきた。


「記憶喪失……それも部分的にだって?」


「はい。だから瓶も値段とかいつ買ったとか——本当に買ったのかすら覚えてないんですよ」


「なら君の名前も本当はクイじゃないのかな?」


「——え?」


「だから——あの手紙はクイ・シラジラって人に向けて書かれたんだろうけど。君は経緯は分からずとも手紙を所有していた。一文目に書いてある人名なんてすぐ目につくだろうし、だから君は手紙の内容は読まずともクイという名前だけは手に入れていた……そしてそれが自分の名前だと思った。そんなところかな?」


 口調は変わらず冷たいまま。クイを疑っているかは分からない。

 だが名前への指摘は正鵠を射ていた。とてもクイの言葉を戯言だと切り捨てた人間から放たれる推測ではない。


 冷たい口調なのはそれだけ真摯に話している証明なのかもしれない。


「なるほど……でも俺の名前は間違いなくクイです。それにこの通りラング語だって忘れず話せますし」


「そっかー。でもそれなら特に困らなそうだけど。部分的って言っても大したことじゃなさそうだねぇ」


「大したことはあるんですよ」


「——なら部分的ってなにを忘れてるの? 忘れてるものすら忘れてたらいくらオレでも手遅れだよ」


 その言葉を待ってました——とばかりにクイは椅子から飛び上がり、


「この国のこと——すべてです!」


 頬杖をついていたメガの顔と手が離れる。なにを言ってるか分からないといった面だ。

 だからクイは追撃を仕掛ける。


「この国のことなーんにも覚えてないんです! 多分入国してそんなに経ってないと思うんだが……」


「それは部分的の範疇なの⁉︎ 大部分すぎるよ! ゴッソリ抜け落ちてるじゃん!」


「と言われてもどんだけ忘れてるかも分からなくて……本当に気づいたらこの国に居たって状況なんです。故郷時代のことまでは覚えてるんですけど」


「…………」


「なんで俺がこの国に居るのかも分からない。でも多分理由はあると思うんですよ。それを思い出したいんです」


 嘘だらけの言葉だが誠心誠意に訴えた。

 話しかけに来てくれた人をそれだけの存在で終わらせない。とことん糧とする。


「だから心機一転! この国のことについて知りたいと思いまして! できる限りでいいんでこの国、この世界についてお教えいただけないでしょうか!」


 テーブルを下に押し込むように手をつき、メガに向かって九〇度のお辞儀。目を強く瞑って、メガの返答を待つ。

 メガが気持ちよく快諾する流れを望みながら。



 ——しばらくすると、メガのため息が聞こえた。


「荒唐無稽だねぇ……」


 酷く——酷く冷たい声色にビビりながらも顔をあげた。

 そして見てしまった。あの豊かな表情ではなく、能面とも言えるしかめっ面を。


 ——この頼み方じゃダメなのか。


 確かにこの国についてなんの情報もないのは事実だ。

 だがその過程はまったく違う。もはや別ストーリーを語ったと言っていい。

 そのせいでメガに薄っぺらさを感じ取られたのか。しかし——


 現実の——本当のストーリーの方が荒唐無稽なのだ。


 そんな反省をしつつ、クイは唇を噛みしめる。もはやクイとメガの間に言葉は交わされない。

 再度メガはため息を漏らす。呆れさせてしまったのだ。


 クイはただ、ポット片手に空のコップへ水を注ぐメガを見つめることしかできない。


「記憶喪失だからこの国について教えて……か。ハハッ、そりゃいい」


 嘲笑うようにメガは言うと——



「面白い頼みだ! いいよっ、ぜひ受けようじゃんか!」


 クイのコップにも水を注ぎ入れた。

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