宵闇に繋ぐ
イトとカティが十歳になる年の夏。ヤマノイ別邸に併設されている道場では、蝉時雨の白昼に薙刀の稽古が行われていた。
「せいやぁっ!」
袴姿のイトが声を張り上げながら先皮のついた練習用薙刀を真っ直ぐに突き出す。しかし相手はそれを巻き絡め、少女の右手の籠手を打つ。
「あううぅ……!」
打たれた痛みでイトは薙刀を取り落とす。表情は若干の涙目。それは手の痛みによるものではなく、悔しさと情けなさ。
「あんまり落ち込まないで、イトちゃん」
そんなイトに対して、相手となっている女性は屈んで目線を合わせ、笑いかける。
「イトちゃんは薙刀の才能があるわ。この前に来た時よりもずっと上手になっているし、この調子で続けていけば、間違い無く私より強くなるでしょうね」
「ほ、本当ですか、ヨリ叔母様……?」
イトの稽古相手は叔母のヨリ・ダイゼン。母とは二歳年下の妹であり、二十七歳。ダイゼン家の現当主。
ダイゼン家は華伝流という薙刀術の宗家であり、イトはこの春からヨリを師として薙刀の稽古を行っていた。
「ええ、本当です。騎士学校であれば、イトちゃんは成績優秀者間違い無しでしょう」
ヨリは中央女子高等騎士学校の極東武術科教官を務めていた。時間を多く取られる本業故に、王都からカラザ地区まで鉄道が敷設されているといえども、ヤマノイ別邸を訪れられるのは不定期だった。本来であればイトの薙刀教練は母がすべきところではあるが、肺病を得ているためそれは叶わず。また、ツムギとヨリの下には末妹のユイがいるが、彼女は武術はからっきしである。故に現状ではヨリが唯一の華伝流薙刀術を十全に扱える人間であり、母の頼みでイトの薙刀の出張講師を行っていた。
「では、少し休憩にしましょうか」
「はい!」
イトはヨリに一礼する。そして。
「カティちゃん、ただいま」
「うん、おかえり」
壁に寄りかかり稽古を見学していたカティの元へ向かう。
カティも袴姿。彼女もまたイトと一緒にヨリから薙刀術を学んでおり、ヨリが別邸へ来ない日はカティがイトの練習相手になっていた。但し、カティの薙刀の腕前は悪く、イトにとってはあまり有益な鍛錬にはならないのではあるが。
「あと、これ」
「ありがとう、カティちゃん」
「うん」
カティから差し出されたタオルを受け取りながら、イトは目線を上に遣って彼女の顔を見上げながら礼を言う。カティは四年の間に大きく成長した。イトの身長を大きく越し、十歳にして母のツムギやレーナよりやや低い程度の高長身。
膝に抱いて絵本を読んでいたのが信じられないなと、時折イトは思えてしまう。
「ふぅ、疲れたぁ……」
得物を薙刀掛けに預け、タオルで顔の汗を拭う。
「んん……」
ヨリに打たれた右手を握って開く。まだ、痛みはある。薙刀の鍛錬は痛みと、時には怪我が伴うものであった。痛いのは嫌い。だけど、それ以上に薙刀の稽古は楽しかった。ヨリが言うように、日に日に自分の薙刀術が上達していくのが体感できる。できなかったことや新しいことが、できるようになる。自分が成長していくことが主観的にも客観的にも示すことができる。それが、楽しかった。
「イト、痛むの?」
「うん、まだちょっと……あっ、でも平気だから心配しないでね」
「そう。よかった」
ふっとカティは笑った。やはり、自分以外はカティが笑っていることに気付かない程度の表情変化ではあるが。
そして、つと、イトは思う。カティはこれでいいのだろうか、と。
ヤマノイ家には優先して修めるべき家法たる武術がない。そのため、イトはダイゼン家の華伝流を心置きなく学ぶことができていた。
だけど、カティは違う。カティのドレクスラー家は弓術の大家である。それなのにカティは、弓術の鍛錬はせず、手習い程度の薙刀術を行っている。カティの母親であるレーナは銃を使うためドレクスラー家の本流から外れているが、それでも弓術もある程度は修めていることをイトは知っている。故に、カティはドレクスラー家の家法を母親に教わることができるはずだが……或いは、ヤマノイ別邸には弓術の鍛錬を行えるような設備がないからしないのかもしれない。
そのようにイトが思考する最中、道場の廊下から足音が聞こえ、入口戸が少しだけ開かれる。
「ただいまー。まだやってる?」
「あっ、お帰りなさいませ、母様!」
戸の隙間から、母のツムギが顔を出す。
ツムギは持病の検診のためにカラザ地区の町へと出かけていた。レーナはヨリが来る前から狩りに出ており、未だに戻っていない。
イトやヨリがいることを認めると、ツムギは更に戸を開いて道場の中へ。
「母様、お体の方は……?」
「ええ、大丈夫。前より良くなってるってお医者さんが言っていたから」
駆け寄るイトに対して、ツムギは安心させるように笑んで答えた。ふたりの会話の最中にヨリがイトに続いてツムギのもとに歩みを進め、カティは壁際に留まったまま。
「ところでイトちゃんの方はどう、今日の稽古は?」
「前に来た時よりもかなり腕が上がっていました。イトちゃんは本当に筋がいいと思います、ツムギ姉様」
ヨリがそう答えると、ツムギの顔がぱっと明るくなった。
「やった! イトちゃんが褒められた! 騎士学校の先生やってるヨリちゃんがそう言うならわたしも安心できるよー」
母はイトの評価を自分のことのように喜んだ。その仕種や雰囲気は、やはり娘のイトからも無邪気さや少女らしさを感じさせる。齢二十九になってもなお、母はまだ十代後半と言っても通用する風貌をしていた。
一方、叔母のヨリの外見は年相応であり、背も母より幾分か高い。ふたり並ぶと、イトから見ても母の方が年下に思えてしまう。事情を知らない第三者が彼女たちが姉妹と教えられたら、九分九厘ヨリを姉、ツムギを妹と誤認するだろう。
「ところでツムギ姉様、これからお時間を少し頂けますか……? 折り入ってツムギ姉様に相談したいことが……」
「うん。いいけど?」
先ほどの和やかな会話から一転して、ヨリの声と表情が重くなる。一方母は変わらず軽い調子であり。
「ここで話すのもなんだし、わたしの部屋に行こっか?」
そう母が提案すると、ヨリはイトの方へ顔を向ける。
「イトちゃん、ごめんなさい。ツムギ姉様とのお話しは少し時間がかかるので、カティちゃんと一緒にいったんお部屋に戻ってもらっていいかしら?」
「わ、わかりました……」
申し訳なさそうに言うと、ヨリは母を連れて道場を後にする。
「叔母様、何の話なんだろう……わ、びっくりした」
「……」
独りごちている中で後ろに気配を感じてみると、いつの間にかカティがいた。彼女は無口で物静かな雰囲気であるが、時折気配というもの自体を感じられないことがある。
「……私たちも部屋に戻ろう」
「うん」
カティが頷く。なんとはなしに手を繋ぎ、ふたりは道場を出て自室へ向かった。
*
子供部屋。五歳の頃にヤマノイ別邸へ移ってから、年齢が倍になってもなお、イトとカティは同じ部屋を使っている。互いに成長して、来たばかりの頃よりも僅かばかり手狭になったと感じることもあり。また、年を経て前のように畳に絵本を読んだりすることもなく。
イトはテーブルの上に本を広げ目を落とす。子供向けの歴史本。“グ”帝国による大陸統一史を、華々しい英雄譚を中心に描く娯楽要素の強い品。もう絵本を読む年ではなく、子供部屋の書架に収まる本も変わっていた。それでもまだ、ヒヨコの絵本だけは残っている。カティに初めて読んであげた、想い出の絵本。中を開かずとも、目を遣るだけで懐かしい想いを抱く。
一方カティは、向かい側に座りながらうとうととしていた。カティは寝るのが好きなようで、目を離すとすぐに眠たそうにする。カティとお話ししたり、双六でもして遊びたいと思っても彼女が眠そうにしていたため取りやめることも幾度かある。実は少し寂しい。
「……カティちゃん、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「う、ん……?」
イトは本に栞を挟み、カティを起こさないようそっと襖を開けて廊下へ出る。子供部屋から厠までの間には母の部屋があり――そこから叔母の声が聞こえた。
「ツムギ姉様、いつになったら王都に戻ってくるのですか?」
(ヨリ叔母様の声……?)
稽古中も終始穏やかな叔母の声は、珍しく険しく、そして真剣なものであった。
叔母の様子が気になってしまい、イトはいけないことだと自覚しつつも母の部屋の前で足を止め、耳を澄ます。
「うーん、もっと体調が良くなったら……かな?」
母の口調はヨリとは対照的で軽く、どこか曖昧なものであった。
「ツムギ姉様……もう少し真面目に考えてください。確かにカラザ地区は自然環境がいいですけども、王都の方が腕のいいお医者様は大勢います。ツムギ姉様の身体を思いますと……」
「そんなに心配しないでヨリちゃん。今日だって調子が前より良くなったって言われていたし。ここにいるからってわたしの身体が悪くなるわけじゃないんだから」
「そうかもしれませんが……それに、これはツムギ姉様だけの問題ではありません。ユイはツムギ姉様のいないヤマノイ本家を一人で取り仕切っているのですよ。ダイゼン家の人間であるユイが本家の代表のように振る舞うことを分家の方々にどう思われているか……」
母が出て行った後のヤマノイ本邸には、母の名代としてツムギとヨリの妹であるユイが留まっている。戦死した父のヒデオミには兄弟がおらず、ヤマノイ本家の直系は十歳のイトのみ。本来であればヒデオミの妻であるツムギがイトを後見してヤマノイ家の家政を司るべきであるが、その全てを末妹のユイに委ねている状況である。
分家やヤマノイ家譜代の家臣との折衝に、ダイゼン家のユイが行うことの不都合や、それに伴う重圧や苦労をヨリはツムギに訴える。流石の母もその件については適当な返事もできず、黙って叔母の話を聞いていた。
「それに、カティちゃんのこともですが……」
(カティちゃんのこと……?)
叔母がカティの名前を出したことに、イトは何故かしら薄寒いものを感じた。
「カティちゃんがどうしたの?」
「カティちゃんを、ツムギ姉様はいつまで預かっているつもりですか? こう言うのはかわいそうですが……もう終戦から八年です。カティちゃんも、お母上が戻らない意味を理解できていると思います」
(ヨリ叔母様、何をいっているの……?)
ヨリの言葉に、イトは不審なものを覚えた。ヨリは、まるでレーナの存在を知らないようだった。
そう言えば確かに……ヨリが来る日は決まってレーナは狩りや所用で外出していた。自分はヨリにレーナの話をしたことがない。無口なカティが自発的にヨリに母親の話をするのも考えづらい。しかし、母が叔母にそれを伝えないということはあるのだろうか。
「イトちゃんが今年から華伝流の稽古を始めたように、カティちゃんもドレクスラー家の弓術の稽古をすべき年齢でしょう? だからドレクスラー家に帰すことが、カティちゃんのためになると思います」
「……そうだね。ヨリちゃんの言うこともわかるよ」
(え……!?)
ヨリとツムギとの遣り取りにイトの思考が凍結される。呼吸ができなくなる。
カティが、ドレクスラー家に帰されてしまうかもしれない。カティと、もう一緒に暮らせなくなるかもしれない。カティと、離ればなれになってしまう――その衝撃が、レーナに関するヨリの言葉の不自然さを塗りつぶした。
そして叔母の意見に対する母の受け答えには、納得しているような含みがあった。母がカティのことをどのように処遇するのか。イトは会話に気を取られてしまい、そのため母の部屋に近づく人間の存在に気付かず。
「おんや、イトお嬢様じゃねえですか? こんなところで何をしてらっしゃるんですかね?」
「ひゃ!?」
不意に背後から声を掛けられる。振り向くと使用人の老婆であるタキガワ媼がいた。手に盆を持ち、上には二人分の羊羹と湯飲みがあることから、母と叔母に出すものなのだろう。
「な、なんでもないっ!」
思わず声を上げてしまったことで母や叔母に咎められることへの怖れもあり、イトは足早にその場から離れ、厠へ駆け込み入る。
力が抜けたように閉めた戸に背をもたれかからせながらイトは、小さく呟いた。
「カティちゃん……」
カティはドレクスラー家に帰されるかもしれない。もうそばにいることができないのかもしれない。
まだ決まったわけではない。だが、その可能性を思うだけでイトの心は抉られるような痛みを感じた。
*
夕刻過ぎになった頃、叔母はヤマノイ別邸を後にした。母との話が長引いたようで、結局は稽古の再開は行われなかった。ヨリはそのことをイトに詫びてから辞去していった。
ヨリを見送る際に、母から立ち聞きについて咎められることはなかった。気付いていなかったのか、それとも気付いていた上で何も言わないのか。
母と叔母の間にカティの処遇はどのようにまとめられたのか尋ねたかったが、それは叶わなかった。母が立ち聞きに気付いていないようであれば藪蛇になるというのもあるが、それ以上に自分の知りたくない答えを知るのが怖かった。それが、単なる先延ばしだったとしても。
そして、ヨリと入れ替わるようにレーナがヤマノイ別邸に戻り、それから少しして夕食となった。夕食はいつもと変わらずカティとイト、ツムギ、レーナの四人で摂っていたが、母の口からはヨリとの会話に関するものは一切出ることはなかった。
母にカティの今後について訊くことが憚られる。そう思ったため、イトはレーナに訊いてみようと考えた。母と叔母の間にどのような取り決めがされようとも、最終的な決定権はカティの母親であるレーナにあるはずだと思ったから。
夕食後、イトはレーナの部屋を訪れた。
「レーナさん、入っていいですか……?」
「イト? いいわよ」
許可を得て、襖を開き中へ入る。
レーナは銃の手入れをしている所だった。いつも通りの全身黒一色で、それ故に長い銀髪が目映い。母ほどではないが、レーナもまた二十九歳にしては若々しい容貌をしていた。真剣な眼差しで銃を手入れする姿は美しく、イトは思わず見取れてしまいそうになる。
「適当に座っていて。で、何の用かしら?」
「あの……カティちゃんのことで……」
イトはレーナの近くにある座布団に腰を下ろし、レーナは銃の手入れを中断してイトに向き合う。
「その、カティちゃんには、ドレクスラー家の弓術を教えないのですか……? レーナさん、弓術も修めてますよね。それなのにカティちゃん、私と一緒に薙刀をしていていいのかなって思って……」
母と叔母の話を伏せて自発的に疑問を持った体を装い、イトは尋ねた。それに対しレーナは意外そうな顔をし、少し間を置いて答えた。
「……あの子が望むなら教えるわ。けれど、そんなこと言わないでしょう? 私は強制して教えようとは思ってないわ。好きにさせておくつもり。弓術をしたくなければしなくていいし、薙刀をしたいのならさせておけばいい」
思えばレーナの狩猟への帯同を誘う度にカティは拒否していた。吹き矢を作ってもらった時に一緒にするかと尋ねた時もカティはやはり拒否した。一方でヨリから薙刀術を一緒に教わることについては、カティは承諾していた。そして、それらについてレーナは一切カティに干渉していない。
子の自由な意思を尊重する。確かにレーナの言葉は、カティの現在の在り方を鑑みるに筋が通っていた。だが、その声にはどこか他人事を語るかの如く醒めたような、実子の話をする母親らしからぬ違和感もあった。
「……もしカティちゃんが弓術を習いたいって言ったら……やっぱりドレクスラー家に帰すのですか……?」
一番知りたいことを、イトは切り出す。
「そうね、ここには設備がないし、教えられないから……けど、私、戻れないのよ、実家に。あの子をひとりでドレクスラー家には行かせることもできないし」
「え……?」
レーナの回答は、想定外であった。言ったレーナ自身も、発言後に顔を顰めている。どうやらそれは言うべきではなく、口を滑らせたようだった。無口で表情が乏しいカティとは、やはり彼女は対照的だ。
「ま、私にも色々と事象があるのよ。イトが大人になったら話すわ」
「そう、ですか……」
レーナは笑んでいたが、その声には拒絶の色があった。
もしかしたらその事情とやらが原因で、母は叔母にレーナのことを話していないのかもしれない。
「それに私自身、実家に戻る気が無いの。ツムギのことを放っておくことができないから。だから、ずっとここにいるつもりよ」
「そうなんですね。よかったぁ……」
仮にカティが弓術の習得を望んでいても、彼女はドレクスラー家に戻すことはしない。願っていた答えを得て、思わず笑みが零れる。そんなイトの顔を、レーナはしげしげと覗き込む。
「ところで、イトはどうしてそんなことを訊くのかしら?」
「え! あ、あの……それは……」
油断した所を突かれてイトは狼狽する。彼女の様子を見て、レーナは悪戯っぽく笑った。
「言いにくかったら言わなくていいわ。私だって答えなかったし。意地悪を言ってごめんなさいね」
イトの頭に右手をぽんと置き、髪を撫でる。そして、それとほぼ同じくして入口の襖が開かれた。
「レーナ、お風呂入れるよー……あれ、イトちゃん?」
「か、母様……?」
ツムギは浴衣姿で顔が上気しており、入浴後であることを示す体をしていた。入浴はツムギが最初で次にレーナ、最後にイトとカティが一緒に入るという順番であり、次に入るレーナに知らせに来たのであろう。
「イトちゃん、レーナと何話していたの?」
「イトに銃の練習をさせようかって話をしていたの。イトはやる気もあるし、腕が良かったら私の跡を継いでもらおうかしら?」
イトが母親に聞かせたくない話をしに来たのを雰囲気で察したのか、レーナはツムギに冗談を返した。
「えー! そんなのダメ! イトちゃんはヤマノイ家の跡取りなんだからっ! レーナにあげたりなんてしないもん!」
「ひゃ!?」
母が身を屈めてイトに抱きつく。思わず高い声を出してしまう。今日で二度目。
やはり、母の振る舞いは子供っぽいのであるが、最近は母をそのように振る舞わせるレーナも母に負けていないのではという疑惑をイトは抱いている。
「冗談よ、冗談。じゃあ、お風呂いただくわね」
「もう、レーナの意地悪ー!」
くつくつと笑いながら湯支度を整えるレーナに対し、母はイトの肩の上に顔を乗せながら口を尖らせる。
まるで仲の良い女学生同士のじゃれつきを見ていると、イトの不安は一層小さくなっていった。
*
その夜は、満月だった。
ヤマノイ別邸の子供部屋で、イトとカティは布団を並べて眠りに就く。
小さな二枚の布団の合間には空白はなく、互いに手を伸ばせば届く距離。
「カティちゃん、起きてる……?」
「うん」
「今日は手を、つないでもらってもいい……?」
「うん」
小さい頃は毎日カティと手を繋いで眠っていた。今でも、毎日ではないがこうしてカティと手を繋いで眠りに就くことも度々ある。
例えば、今日のようにイトが不安を感じた日。
「ありがとう、カティちゃん」
イトの右手がカティの左手に触れ、ふたりを絡め繋ぐ。
「ねえ、カティちゃんは――」
物心ついた時から一緒にいるカティ。
自分はずっとカティと一緒だった。カティがいない生活など、想像できなかった。したくなかった。その可能性に触れるだけで、半身を引き裂かれるような思いを抱いてしまう。
そして、カティがいなくなれば、レーナもいなくなってしまうこともイトにはつらかった。
六歳の頃にレーナが作ってくれた吹き矢は、結局は全然成長の兆しが無くてすぐにやめてしまったけども、今でも大切に取って置いてある。
カティは妹のようで、レーナはもう一人の母親、或いは女性の父親のような存在。自分にとっては母親のツムギと同じくらい大切な人たち。
レーナはカティも、自分自身もドレクスラー家に帰らずここに留まると言っていたが、カティ自身の気持ちも確かめたかった。
安心を、確認したかった。
「ドレクスラー家に行きたいって思うことはある……?」
「ないわ」
「どうして?」
「イトと、一緒にいたいから」
その言葉が、イトが最も望んだものだった。
心の内にある最後の不安が霧散する。窓から入る月明かりが、とても美しく見えた。
「私も同じだよ」
「そう」
小さく短い返事だが、声には温かさがあった。
「カティちゃんもレーナさんも好きだから、私もふたりとずっと一緒にいたいよ」
「……うん」
少し、間があった。
どうしたのだろうと思い目線を向けるが、カティの顔は陰になっていて見えていない。それでも、カティがここにいたいという意思を示してくれたことが、イトにとっては最も安心できるものであった。
「変なこと訊いてごめんね。おやすみ、カティちゃん」
「うん」
目を閉じる。カティと自分を繋ぐ手の力を少しだけ強める。温かい。この温かさを、イトは手放しがたく感じていた。
*
イトの手を繋いで眠るのが、わたしは好きだった。
小さい頃には毎日一緒に、年を経ると毎日とまではいかないが、こうしてイトと手を繋いで寝る夜は度々あった。
こうやってイトの手を繋いで、温もりを感じることがわたしは好きだった。生きていて唯一安心することができる時間だった。
思えばわたしは、母から温もりというものを感じたことは一度もなかった。母はわたしに愛情どころか、一切の興味すらも持っていないようであったからだ。
母。レーナ・ドレクスラーという名前の人。その顔を知ったのは、わたしが五歳の時だ。
わたしは、一歳の頃より母からヤマノイ家に預られていた。ヤマノイ家に来るより前の記憶は、わたしの中には残っていない。ヤマノイ家に来る前はどんな生活をしていたのか。父はどんな人なのか。わたしは知らない。わたしを養育してくれたツムギさんからも、それを教えてもらえなかった。彼女がそれを知っているのかどうかすらも、わたしにはわからない。
わたしは自分の出自を知ることもなく、王都のヤマノイ本邸でツムギさんと、そして彼女の娘のイトと暮らしていた。
イト。わたしと同い年の女の子。いつも綺麗な着物姿の女の子。そして、とても優しい女の子。血の繋がらないわたしを、イトは妹のようにかわいがってくれた。
わたしがまだ文字を覚える前の頃、イトは小柄なわたしを膝に乗せて絵本を読み聞かせてくれた。
かわいらしい二羽のヒヨコが描かれた絵本。二羽は姉妹のように仲の良い友達。
「私たちも、こんなふうに仲良くなれたらいいね?」
そう言ってわたしに笑いかけてくれたイトの顔が、優しい声が、温かくて柔らかい身体が、わたしの原風景となっている。
イトがそう言ったように、幼いわたしもイトと姉妹のように仲良くなりたかった。
そして、実際にわたしたちは姉妹のように暮らしていた。わたしとイトは同じ子供部屋で寝起きし、同じ絵本を読み、ツムギさんと共に同じ食卓を囲んだ。
ツムギさんは、実子であるイトとほとんど同じようにわたしを養育してくれた。騎士の家の子供として身につけるべき修養も、イトと机を並べてツムギさんから教わった。
年を経るとイトだけが極東式の立ち居振る舞いや礼儀作法、生け花や茶の湯などといったヤマノイ家の後継者としての教育もされるようになった。イトとわたしは完全に同じ扱いをされていたわけではないけれど、それは当然のことだと幼い身でも理解できていたし、不満もなかった。そも、ヤマノイ家に預けられた子供であるわたしに対して、ツムギさんは十分すぎる扱いをしてくれていることは実感できていた。だから、ツムギさんには感謝してもしきれない。
しかし、わたしの心には寂寥と羨望があった。
イトが読んでくれたヒヨコの絵本。二羽のヒヨコには、優しい母鳥がいる。
イトにはツムギさんがいた。だけど、わたしには、母はいない。
わたしを養育してくれたツムギさんの恩情は理解できている。ツムギさんが何不自由なくわたしを育ててくれているのは、わたし自身がよくわかっている。
それでも、やはり、眼前でイトとツムギさんの間にある、決して自分では立ち入れな母娘の交わりを見ていると、顔も知らない母を恋しく思う気持ちが芽生えていった。幼いわたしは母親と一緒に暮らし、愛情を受けられるイトが日に日に羨ましくなった。
だから――わたしが五歳になる年、母が戻ってきたことが嬉しかった。自分の、自分だけの母親が戻ってきたことが単純に、そして純粋に嬉しかった。
わたしは母が戦地から復員してきて初めてその姿を知ることになった。長く真っ直ぐな銀髪と、髪と同じ色をした瞳。すらりと引き締まった身体。通った鼻筋に薄色の小さな唇。
綺麗な人だった。ツムギさんがイトに母の愛を注ぐように、わたしもこの美しい母親から愛されることを期待していた。
なのに。
なのに、母はヤマノイ本邸を訪れたその日も、その次の日も、その次の日も……わたしに目を向けることはなかった。わたしに話し掛けることもなかった。もとより喋るのが苦手なわたし自身の気質に、母の態度に困惑したことも重なって、わたしから母にどう声を掛けていいのかもわからず、できなかった。
およそ、イトとツムギさんの間にあるような母娘の関係は、わたしと母の間には存在していなかったのである。
そして、母が戻ってきてから少しして、ツムギさんからこれから母も一緒に暮らすこと、生活場所を王都からカラザ地区の別邸に変えることを教えてもらった。これから一緒に暮らすこと自体、母から直接わたしに話されることはなかったのだ。
わたしは母から愛されるどころか、一切の興味を持たれていないことを理解した。五歳にして、絶望を知った。母と向き合うことが、できなくなった。母のそばにいて、自分が彼女から一切の興味を持たれていないことを実感するのが苦痛でしかなかった。イトは母に懐いていて、一緒に狩りに行くことも誘ってくれたが、わたしは母のそばにいることが嫌だった。
そして、同じ日にわたしは――ツムギさんを初めて怖い人だと思ってしまった。わたしに投げかけられたツムギさんの言葉と、ツムギさんの目に、わたしは恐怖心を抱いてしまった。それ以降わたしは、ツムギさんの顔をまともに見られなくなった。あの日以降も、ツムギさんは今まで通りわたしに接してくれているのに、否、変わらず接しているからこそ恐怖心を持ち続けてしまった。そして最大の恩人に、そのような思いを抱いてしまう自分自身がとても嫌だった。
わたしは母と一緒にいることに絶望を思い出して苦痛を感じていた。わたしはツムギさんと一緒にいることに恐怖を思い出して自己嫌悪を抱かざるを得なかった。
だから、わたしにはイトだけだった。
イトだけが、わたしを見ていてくれた。イトだけが、わたしを好いてくれた。イトだけが、わたしに心の安らぎを与えてくれた。
イトだけが、わたしを温めてくれた。
だからこのイトの手の温もりを、わたしは絶対に手放したくないと思っていた。
これからもずっと、イトのそばにいたい。そして、イトのために生きたいと願っていた。
(続)