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騎士候補生少女譚  作者: 柳生 劣情(文章)&春畑 晴燕(設定)
第三章 祈りの行方
8/71

母と少女と女

 その夜は、満月だった。

 女子高等騎士学校エイリス分舎。候補生学寮。

「……けほっ。うっ……んぅ、かふっ……」

 夜半の室内に、騎士候補生の少女イト・ヤマノイが咳き込む声が響く。

 その声を聞いた同室の少女カティ・ドレクスラーはベッドから抜けて洗面所で水を汲む。イトの上体を起こし丸薬を飲ませ、背をさする。

 彼女の病を抑える霊薬。肺の病。彼女の母親がそうであったように。

「大丈夫、イト?」

「……うん、ありがとう、カティちゃん……起こしちゃってごめんね」

「ううん、平気」

 イトの言葉を受け、カティが微笑む。

 但し、それはほんの僅かばかりの表情変化。イト以外では、彼女が笑んでいることに気付くことはないであろう。

 それほど、カティの表情は乏しかった。

「私、やっぱりカティちゃんがいないとダメだなぁ……」

「そんなことない」

 自嘲するイトの背をさすり続けながら、カティは否定する。

 イトは肺病の症状を霊薬で押さえ込んでいる。薬効の継続中は騎士候補生としての教練も受けられるのではあるが、あまり長期間全力で活動することを彼女はできない。

 極東武術主任教官のユキノヲが認める薙刀術の才能に、イトは肉体が追いついていない。

 エイリス分舎では、相当に無理を重ねている。日に日に咳き込む頻度が増え、時間が長引き、咳音が大きくなっている。

 それでもイトは高みを目指す。

 母の願いを叶えるために。母の無念を晴らすために。

「もう大丈夫だよ……ありがとう、カティちゃん」

 イトは背中にあったカティの手を愛おしむように握り、離す。

「――そう。じゃあ、おやすみ」

「待って、カティちゃん」

「うん?」

 自身のベッドに戻ろうとするカティの寝巻きの袖を、イトが掴んでいた。

 不安げな瞳で、カティを見上げる。カティは同期の騎士候補生の中で最も長身の少女であった。

「一緒に、寝てもらっていい?」

「うん」

「ありがとう。じゃあ、こっちに入って」

 肯んじる。

 イトは身体を左へと寄せ、空いた隙間にカティが入る。

「おやすみ、カティちゃん」

「うん」

 ふたりは仰向けに伏し、並んで眠りに就く。

「……手を、つないでもいいかな?」

「うん」

 肯んじる。

 イトの右手がカティの左手に触れ、絡め繋いだ。

「こうやって手を繋いで寝てると、小さかった頃を思い出すね」

「うん……」

「楽しかったね、あの頃は」

「……そうね」

 カーテンの隙間から僅かに月明かりが差し込む。照らされたイトは懐かしむような微笑みを浮かべる。そして、光が届かない宵闇のカティの顔には憂いを帯びていた。

 イトとカティ。

 イトの思い出せる最も古い記憶から、カティと一緒だった。

 同じ家で過ごし、同じ時を刻み、同じ景色を見てきた。

 だが、幼き日を追憶するふたりの言葉には温度差が存在していた。


    *


 十一年前。レゼ国。王都メキオ北方郊外カラザ地区。

 王都の人々より避暑地として愛好される、湖畔の森林地域であり、貴族や上級騎士の別荘が点在している。その内の一つが瓦葺きの極東風屋敷、ヤマノイ家別邸。

 一階の角に収まる子供部屋に、ふたりの少女が畳敷きの床に広げた絵本に目を落とす。

 小さな蝶が舞う薄青の長着姿の、黒いおかっぱ頭の少女。

 濃紺のフレアワンピースを着た、暗銀色の跳ねっ毛をした少女。

 イトとカティ。共に六歳の冬。

「カティちゃんは、この絵本好きだね」

「うん」

 イトの言葉を受け、カティは微笑む

 但し、それはほんの僅かばかりの表情変化。イト以外では、彼女が笑んでいることに気付くことはないであろう。

 かわいらしい二羽のヒヨコが描かれた絵本。二羽は姉妹のように仲の良い友達。お母さん鳥同士も仲良し。

 まるで、自分達みたいだとイトはカティとヒヨコ絵本を読む度に思う。カティが好きなのと同じように、イトもヒヨコ絵本が好きだった。

 カティ。

 小さくて、余り喋らない女の子。ところどころ飛び跳ねた髪の毛の雰囲気や、自分にぴったりとくっついてくるところがちょっと子犬っぽい女の子。ずっと一緒にいる、妹みたいなかわいい女の子。

 カティはイトの母の友人の娘。イトの覚えている範囲では既にカティがそばにいて、母曰く一歳の頃から一緒に暮らしているとのことであった。五年前、南方隣国ムルガルとの戦争に出征するカティの母レーナが、友人であるイトの母ツムギに我が子を託したという。

 レーナの出征地はレゼ国最南方のキドリア地区。戦争初年と最終年の二度にわたり両国が雇い入れた牙兵(がへい)同士が激突し、多数の騎士や兵士が犠牲となった激戦地。

 キドリア地区に出征したレーナは終戦から三年間音沙汰もなく、死んだものと母は思っていた。同じキドリア地区で一部隊の指揮官を務めていたイトの父ヒデオミは、終戦直後に戦死公報が届いていたからだ。

 しかし、そのレーナが去年の秋口、不意に戻ってきた。突然現れた彼女を、母は喜んで迎え入れた。涙を流しながらレーナを抱きしめる母の姿が、イトの記憶には鮮明に残っている。

 そして、初めて会ったレーナの姿が――背中まで届く長く真っ直ぐな銀髪が、引き締まった細身の身体が、どこか氷のような冷たさを感じさせる整った顔が――イトの心に強烈な印象を刻み込んだ。

 とても綺麗な人だ、と。彼女の姿に、幼く小さな胸がきゅっと締まる感覚をイトは覚えた。

 レーナが復員してきた日、母との間にどんな話が行われたのか、イトは知らない。 

 ただレーナがヤマノイ邸を訪れて数日後に母から、これからはレーナも一緒に暮らすこと、それと同じくして、住まいを王都のヤマノイ本邸からカラザ地区の別邸へと移すことを告げられた。

 突然の話で驚いたが、王都よりも自然豊かなカラザ地区の別邸の方がイトは好きだった。そして何よりも、カティと離ればなれにならずに済んだことが喜ばしかった。

 レーナの人となりは知らなかったが、母の友人であり、カティの母であることから幼いイトには馴染みのない人物が新たに加わることへの懸念や抵抗感もなかった。むしろ、美しい彼女が生活の一員となることに、喜びめいた気持ちがあった。

 その気持ちは一年経った今も変わらず、母ツムギ、レーナ、カティとの生活はイトにとっては幸せな日々であった

「私も、好きだよ。だって――」

 イトが言いかけた所、壁に掛けていた振り子時計が澄んだ鐘音を鳴らした。目を向けると、柱時計は正午を指している。

「そろそろお昼ご飯だね……カティちゃん、行こう」

「うん」

 イトはヒヨコ絵本を書架へ戻す。カティと手を繋ぎ、ふたりは子供部屋を後にした。


    *


 レゼ国は「王族」「貴族」「騎士」「平民」の四階級制国家であるが、騎士階級内には更に三つの区分が存在している。

 最上級の騎士「上士」、上士に次ぐ「副士」、最下級の「下士」である。階級内の格差は大きく、騎士団の要職を歴任し王都に大邸宅を構えて権勢を振るう上士がいれば、地方で一般平民とほぼ変わらない生活を送る下士もいる。

 イトの生まれたヤマノイ家は、ティルベリア遠征時代の極東移民の棟梁ヒデマサ・ヤマノイを祖とする騎士の名門。極東系レゼ人では数少ない上士の一族であり、有数の資産家でもあった。

 ヤマノイ家は王都に本宅であるヤマノイ邸を構える他、最北のエイリス地区から最南のキドリア地区まで別荘地も複数保有している。

 昨年よりイト達が過ごしているカラザ地区のヤマノイ別邸は、その中で最も整えられた屋敷。元々は夏季に避暑地として用いられていた場所。故に従来常駐している人間は別荘管理を任された使用人であるタキガワ老夫妻しかいなかったのであるが、昨年の秋より彼らを含めて六人の人間が暮らしていた。

 その内の四人が、正午過ぎ座敷にて昼食を摂る。

 イトとカティ。そして彼女たちの母。襖側にはイトとカティが、壁側にはイトの母とカティの母が隣り合って座り、各々の前に食膳が供される。

 胡桃入りのパン二つ。味噌という極東伝統の調味料で味付けした山菜と茸のスープ。川魚の塩焼。豆の煮物。根菜の酢和え。湯飲みには緑茶が注がれており、並ぶ両者の間に置かれた水差しの水を入れるための空の切子も置かれている。

 料理も準備もタキガワ媼の手によるもの。作り主とその老夫は使用人室で別に食事をしている。

「いただきます……」

 イトは小さく言い、箸を取る。パンを摘み、口へ運ぶ。咀嚼しながら、前方に座る母ツムギを覗う。

 肩までかかるセミロングの黒髪。鴇色地に白梅の小紋の着物。

 十九の時にイトを産み、今は二十五歳。しかし未だに十代半ばから後半程度に見紛う清純さ、或いはある種のあどけなさを色濃く残す、かわいらしい顔立ちの女性であった。

 背筋をすっと伸ばし、流れるような動きで箸を持った手を動かし食を進める。

 自分は母のようにはできない。焼き魚や酢和え或いは今日の昼食にはない米飯では問題ないのであるが、どうにも箸でパンを食すことだけには慣れないでいた。

 箸の使い方について母から教え込まれ、扱いが悪い時は叱られることもあるので、苦手なパン食の際はどうしても不安になってしまう。

 尤もそれは、イトを極東武門の棟梁であるヤマノイ家の跡取りとして恥じない所作を身につけさせるための母の愛情に基づくものだと、イトは認識しているのではあるが。

「ねえ、ツムギ」

 つと、ツムギの隣に座る女性が声をかける。

 黒色のシャツにズボン。背中まで届く銀髪。筋の通った秀麗な鼻梁に、髪と同じ色をした幾ばくかの鋭利さを感じさせる瞳。

 レーナ・ドレクスラー。ツムギが中央女子高等騎士学校の騎士候補生だった頃、学寮で同室だった友人であり、カティの母親。

 上士に区分されるドレクスラー家の三女。中央高等騎士学校卒業後に結婚をしたため任官しなかったツムギと違い、レーナは騎士として任官している。レーナの出身であるドレクスラー家は弓術の大家ではあるが、彼女は弓でなく、まだレゼでは普及していない機械武器「銃」を取り扱う狙撃手であった。

「どうしたの、レーナ」

「前からずっと、ツムギに言いたかったことがあるの」

「え、なになに?」

 ツムギは頬を赤らめ、レーナに対し何か期待するような目線を送っている。

 しかし。

「パンを箸で食べるの、間違っていると思う」

「はー!?」

「ひゃっ!」

 当てが外れて苛立ったようなツムギの声に、イトはびくりとしてしまう。隣のカティは胡桃パンを両手で持ってもごもご黙々食べ続けていた。

「いいんですー! 間違ってないですー! それがヤマノイ家のやり方なんですー!」

 駄々っ子のように言いながら、ツムギは不機嫌そうに頬を膨らませる。その仕種はまるで小さな女の子みたいだとイトは思ってしまう。

「はいはい、ごめんなさいごめんなさい」

 レーナは口先だけの謝罪をし、呆れたような顔をして箸でパンを食す。

 ふたりの遣り取りを見て、もしかして母が箸の使い方を厳しく教えた本当の理由は下らないものなのかもしれないという疑念が一瞬だけ生まれたが、それとは別の感情がイトにはあった。

 イトには、母とレーナの姿はまるで女同士の夫婦のように見えていた。

 父ヒデオミはイトが産まれた年に出征し、一度も帰ることなく二年後に戦死している。そのためイトは父を知らず、母と父の間にどのような交歓があるのかも知らず、夫婦の姿というものを知らない。

 しかしながら、母とレーナの間には、どこか他人が入り込むことのできない特別な雰囲気があり、イトにはそれが夫婦というものではないかと思えてしまう。

 ツムギとレーナ。

 年齢は同じ二十五歳。背丈も同じくらい。或いは僅かばかり母の方が高いかもしれないが、現役騎士のレーナの方が身体が、胸部を除いて母より全体的にすらりとしている。 

 そして両者の容貌はイトの贔屓目を差し引いても一際優れており、かつ、対比的でもあった。

 ツムギの容姿を評する言葉が「可憐」であればレーナの容姿を評する言葉は「端麗」となる。黒髪で愛らしい母と銀髪の美しいレーナ。その対比性から、ふたりが並ぶと王都に住んでいた時に観劇したグルワンベリエフ侯立歌劇団の女優達よりもきらめいているようにイトには見えていた。

「わかったのならレーナもちゃんと箸で食べて。あ、カティちゃんは無理しなくていいよ」

 ツムギが優しい笑みを向けると、カティは胡桃パンを食べ続けながら無言で頷いた。箸の持ち方を躾けられたイトとしては、カティが少しばかり羨ましい。

「……そもそもツムギ、これ、ヤマノイ家のやり方じゃなくてダイゼン家のやり方じゃないの? 高等騎士学校の時から箸でパン食べていたわよね」

 ツムギの実家であるダイゼン家はヤマノイ家に家格は劣るが上士階層の名家であり、薙刀術を代々修める家系。ダイゼン家の長女である母がヤマノイ家に嫁いだため、今は母の妹が当主をしているという。また、ヤマノイ別邸にいるタキガワ老夫妻は、母が結婚に際してヤマノイ家に呼び寄せた元ダイゼン家の使用人であった。

「もう、意地悪! 不満があるならレーナはご飯食べなくて――んっ、ぐっ……けほっ……」

 レーナに抗議する最中、不意に母が咳き込んだ。箸を取り落とし、胸を押さえる。

「か、母様(かあさま)!?」

「ツムギ、飲んで」

 動揺するイトを余所に、レーナは冷静にツムギが懐から出した丸薬を口に含ませる。水を注いだ切子を手渡し、薬を服用するツムギの背をさする。

 薬を飲むとツムギは数度咳をするがすぐに収まり、乱れた呼吸を整える。

「ありがとう、レーナ……イトちゃんも、もう大丈夫だから安心して、ね?」

 ツムギは心配かけまいとしてイトに笑いかけるが、少し無理しているようにイトには見えた。

 母は、肺を病んでいる。急に激しく咳き込むことがあり、その度に専用の霊薬を服用していた。

 症状が出た時に薬を飲めば大丈夫だと母は幾度もイトを教え諭しているが、それでも目の前で母が苦しんでいる姿を見ると怯えてしまう。

「ツムギ、余り無理をしない方がいいわ」

「うん。そう、だね……」

 先ほどまでの勝ち気な態度とは一変して、母はレーナの言にしおらしく従った。

「ご馳走様、でした……わたし、少し寝てくる……」

 母は力なく立ち上がり、座敷を後にする。食膳の上には、まだ半分以上残っていた。

 咳き込んだ後の母は、暫くの間床に伏せることにしていた。そんな母の姿を見る度に、本当に薬を飲むだけで大丈夫なのかとイトは不安に思ってしまう。

「母様……」

「……今日も山へ行こうかしら」

 イトが言葉を漏らすと同じくして、レーナは溜息をつきながら独りごちる。

 ヤマノイ別邸の裏には小山があり、レーナは時折銃を持って狩りに出かけていた。

「イトはどうする?」

「え……あの……」

 レーナがイトに尋ねる。イトは時折、レーナの狩りについて行っていた。

 イトがレーナの狩りに同行することをツムギは許していた。狩りは基本的には麓で行っていて山奥までは入らず、また、騎士候補生の同期であるレーナの腕前を知っていることに基づく判断であり、むしろ、将来騎士になる時の参考になればとレーナの狩りについて行くことに母は喜んでいた節もあった。

「ツムギが心配なら、そばにいてあげた方がいいと思うけど」

 イトが自分の気持ちを言いやすいようにと、レーナは笑いかけて尋ねる。

 確かに母様の心配はしている。だけど。だからこそ。

「行きます……」

 おずおずとしながら、イトは首肯する。

 カティは無言で酢の物を食べていた。


    *


 子供部屋でわたしは床にヒヨコの絵本を広げ、目を落とす。

 かわいらしい二羽のヒヨコが描かれた絵本。二羽は姉妹のように仲の良い友達。お母さん鳥同士も仲良しで――二羽ともお母さん鳥から愛されて、かわいがられている。

 わたしの好きな絵本。

 ヒヨコが、イトに似ていると思ったから。

 わたしの嫌いな絵本。

 ヒヨコは、わたしとは全然違うから。

 羨ましいと、思ってしまうから。

「ねえ、カティちゃん」

「うん?」

 声をかけられて振り返ると、イトは白の胴着と紺の袴に着替えていた。

「これからレーナさんと狩りに行くんだけど、カティちゃんも、一緒に行く……?」

 イトはわたしに期待しているようだった。

 少し逡巡し、答える。

「……いかない」

「そう……じゃあ、行ってくるね」

「うん」

 イトは笑いながら鞄を肩に掛け、部屋を出て行く。

 その笑顔は少し寂しそうで、わたしも少し心が痛んだ。

 イトと一緒にいたかった。

 いたかったのだけど、わたしは――


    *


 ヤマノイ別邸の裏山は、うっすらと雪に覆われていた。

「イト、大丈夫?」

「は、はい!」

 レーナとイトは連れ立って、麓の道を歩く。レーナは黒のトレンチコートに鳥打ち帽。背には長銃。イトは袴姿で裾からはブーツが覗く。肩には小さな鞄をかけ、中にはビスケット数枚と応急用の医療品が入っている。

 胴着袴は魔術繊維が使用されているため、外見以上に丈夫かつ防寒効果がある。少なくとも、ヤマノイ邸の裏山を歩く程度であれば何ら問題はない。

 獲物は、麓近くの雑木林に住むレゼキジという鳥。近年レゼに入ってきた“グ”帝国の伝統医学知識によると、肺の病にはキジの肉が効くと言う。“グ”の伝統医学におけるキジとレゼキジが同一であるかはわからないが、母の病に効く可能性があるならばとレーナが時折捕ってきた。

「手、繋いであげようか?」

「あ、あの……ありがとうございます……」

 差し出されたレーナの左手を、イトは右手で握る。寒いのに、何故か顔がぼっと赤くなってしまった。

「ツムギ、良くなるといいわね」

 レーナが優しげにイトに語りかける。

 イトがレーナの狩りについていくのは、母のために何かをしたいという気持ちによるものだった。ただ母のそばにいて心配するのでなく、具体的な何かをしたかった。母のために狩りという具体的な行動をするレーナを手伝いたかった。

 そも狙撃手であるレーナにとってキジ狩りは一人でこなせる仕事である。イトが鞄に入れている物品も少量であり、レーナが持ったとしても不都合はない。むしろイトが同行することで、レーナは彼女が怪我をしないよう気を配っており、イトの存在は端的に言えば足手まといに他ならない。しかしそれでも、レーナがイトを咎めることは一度もなかった。

「あの、レーナさん」

「どうしたの?」

 前からずっと、レーナに尋ねたかったことをイトは口にする。

「レーナさんは南方でムルガルと戦っていた時は、父様(とうさま)と同じ場所にいたのですよね……?」

 父の話。

 イトの手を引き力強く麓道を歩くレーナの姿に、母との間に特別な何かを感じさせるレーナの姿に、イトはふと父恋しさを覚えてしまう。だから、尋ねたくなった。

「…………そうね、同じ戦場だったわ、イトのお父様とは」

 幾ばくかの沈黙の後、レーナは口を開く。その銀の瞳は何処か遠く、山の先よりも彼方を見ているようだった。

「私も、イトのお父様も、同じ最南のキドリア地区で戦っていたわ。けど、別の部隊。だから、戦争中は会ったことはないの」

 無口なカティとは違い、レーナは饒舌だった。

「でも、顔は知っているわよ。高等騎士学校の時に見たことがあるの。まあ、直接話したことはないけど」

 レーナはイトに目を向ける。鳥打ち帽と前髪で目元に影ができているせいか、少しだけ、ほんの少しだけレーナが哀しんでいるように見えてしまった。

「ツムギはイトのお父様とは騎士候補生の時に知り合ったの。どうにもツムギに一目惚れしたみたいで、婚姻を申し込んで、ツムギもそれに応えて……」

 レーナの表情は変わらなかった。

「卒業までの間、ツムギからよく彼の聞かされたわよ。何度も会ってたみたいだし。ええ……優しそうな人だと思ったわ。ツムギのことをきっと幸せにしてくれる人だってね」

「レーナさん……」

 レーナはイトに微笑みかける。だがそれは、どこか作ったような笑顔だった。

「そう言えばイトは、どちらかというとお父様の方に似ているわね」

「父様に、ですか……?」

 母より父に似ている。イトはレーナだけでなく、ツムギや使用人のタキガワ翁からも言われたことがある。父の顔は知らないが、彼女たちが揃って言うのだからそうなのだろう。

 そして、カティも多分、自分と同じく父親似の女の子。

 カティは、母親のレーナと余り似ていない。真っ直ぐで透明感ある銀髪のレーナと、同じ銀髪でも灰色に限りなく近いくすんだ髪色で跳ねっ毛のカティ。ふたりの容姿は大人と子供の差を考慮した上でも大きく違う。だから、カティもきっと自分と同じだろうと思った。

 カティの父親。名前も、階級も、今生きているのかどうかすらも、イトは知らない。カティ自身も知らないらしく、レーナも母も一切語ったことはない。

 そして、それには触れてはいけないという気がイトにはしていた。根拠はなく、ただ子供心にそのことを尋ねてはいけないという予感めいた何かがあった。

「イト、静かに。耳を塞いでいて」

 つと、レーナは足を止めてイトから手を離し、背負っていた銃を素早く構える。イトにはわからないが、獲物を見つけたようだ。予め貰っていた耳栓をして、更に両手で耳を覆う。

「…………」

 銃を構えるレーナの凛とした立ち姿に、イトはドキドキとしてしまう。風に揺れる銀糸の髪にうっとりとしたものを見つけてしまう。無音の世界で、レーナの姿をずっと眺めてみたいと思ってしまう。しかし、その願いは叶わない。

 暫くして、雪の山中に銃声が響いた。レーナが消音改造しているため通常の銃より遥かに音が小さいが、間近にいると耳を塞いでいても音が鼓膜に届く。

 レーナが手で耳を戻して良い旨のサインを送る。

「レーナさん、どうですか!?」

「よし。仕留めたわ」

 ふっとレーナは満足げな表情を見せた。

 獲物の姿は確認できないが、自分が同行した範囲では、少なくともレーナが失敗したことは一度もない。だから今回も確実に成功しているだろう。

「格好いいなぁ、銃……」

「イトも銃を撃ってみたいの?」

「え……? い、いいんですか!?」

「駄目よ。危ないし」

「そう、ですよね……」

 しょんぼりするイトを見て、レーナは笑って言った。自然な笑顔だった。

「けど、その代わりに帰ったら別のことを教えてあげるわ」

「別のこと……?」

「ええ、帰るまでの秘密。さ、獲物を捕りに行くわよ、イト」

 レーナはイトの手を再び繋ぎ、撃ち落とした獲物がいるであろう方角へと歩みを進めた。


    *


 ヤマノイ別邸に戻ったのは、夕方だった。

 レーナは仕留めたレゼキジを持ち帰り夕餉用としてタキガワ老夫妻に渡した後、少し待つようにとイトに言い添えた。

 寝室を覗くと母は穏やかな眠りに就いていた。子供部屋に行くとカティも絵本を開きながらうたた寝をしていた。彼女を起こさないようにひとりで本を読んでいる内に、レーナに声をかけられて庭へと向かう。

 レーナが渡してくれたのは、竹筒と木の枝を削って鏃をつけた数本の矢。手製の吹き矢。既に庭木には、レーナが木板に墨書きした即席の的が掛かっていた。

「銃とはかなり違うし、余り格好いいものでもないけど……まあ、似たようなものよね、狙撃だし」

 苦笑するレーナに使い方を教えてもらい、吹く。的に届く前に落下して失敗。もう少し的に近づいて吹く。失敗。

 失敗。失敗。また失敗……を繰り返すこと数度。ついに一矢が的の中心よりも少し下に命中した。

「や、やったぁ!」

「上手じゃない、イト」

 はしゃぐイトの頭を、レーナは微笑みながら撫でる。

 子供だましの玩具。銃と吹き矢では全く以て勝手が違う。それでもイトは嬉しかった。的に当てたことだけではなく、レーナが自分のために手ずから用意してくれたことが嬉しかった。そして、レーナに褒めてもらえることが何よりも嬉しかった。

「ツムギには内緒よ。ツムギは薙刀教えたいって思っているのに、私がイトに飛び道具を仕込んだなんて知られたら、ふたりとも叱られるから」

 レーナは右手の人差し指を立てて口に当てながら片目をつぶり、茶目っ気のある表情をする。

 娘のカティとは違い、彼女は表情豊かだった。

「はい、レーナさん。母様には内緒です」

 イトも口に右手の人差し指を当てて、片目をつぶる。

「イトはいい子ね。ツムギとは大違い」

 レーナはくすくす笑いながら、もう一度、イトの頭を撫でる。

 本当に嬉しかった。母に褒められる時よりも、何故かレーナに褒められることが嬉しかった。幸せだった。

 母とカティとレーナとの生活に、イトは幸福を感じていた。父親がいないことに対する寂寥感が無いと言えば嘘になる。だが、悲嘆に暮れるほどのものをイトは感じたことはない。

 ツムギとレーナが、かわいらしい妹のようなカティが、父のいない寂しさを埋めて余りあるものをイトに与えてくれている。

 この幸せな日々が、ずっと続くことにイトは何の疑問も抱いていなかった。


(続)

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