彼女の肖像
女子高等騎士学校エイリス分舎。学寮。夜。
「お母様、私、初めての友達ができたんです」
マリナは写真立ての中に微笑む母に対して、語りかけていた。
サヤ。私の、初めての友達。彼女と一緒に過ごした一日を、顧みると――ただただ、楽しかった。
ブライス家では長らく得ることの無かった「楽しい」という感情。母が文書魔術を教えてくれた時と同じ感情を、サヤが与えてくれた。
そして、美しい桜に見惚れていた自分をサヤは気づかせてくれた。
母のいないブライス家の中で過ごして行く内に失っていた感情を、人間らしさを、サヤが取り戻してくれているようにマリナには思えていた。
「今日は、彼女にとても綺麗な桜を、景色を見せてもらったんです。本当に、本当に綺麗で……」
ロッカ園に到着した時は既に夕刻であり、展望台でサヤのお気に入りの景色を見せてもらった後は帰路に就くこととなった。
帰りがけ、時間も遅いから自分の家で夕飯も一緒に食べようとサヤに誘われたのであるが、マリナは辞去した。
心惹かれるものはあった。しかし、サヤの家族に余計な手間を掛けさせることに気が引けた。
その別れ際、サヤは「また明日」とマリナに言ってくれた。それは、マリナにとってとても嬉しい言葉だった。
また、明日もサヤと会っていい。
たったひとりだけになると思っていたエイリスで自分を見つけてくれた人。その彼女との縁が、途切れずに続けられる。
明日も。願わくば、その次の明日も。その更に先の明日も。
「お母様、私、エイリス地区に来て変われそうです。お屋敷にいた時よりも強く、なれそうです」
父から見放されて赴くこととなったエイリス地区。
家から逃げ出したくて追放させることを受け入れた自分。
この最北の辺境地で、弱い自分を変えようと思った。変われそうだと、思えるようになった。
誰かと深く接することを無意識下に怖れていた自分が、もっと知りたいと、触れ合いたいと、そばにいたいと思える相手に出会うことができた。
「だから、どうか私を見守っていてください」
写真に語りかけても、言葉が母に届くとは思えない。思っていない。
それでも、自分が変われる第一歩を、常に身を案じてくれた母に報告したかった。
幼い日々の中で唯一の温もりだった母に祈りたかった。
「お母様――」
自分と母が、そして父と姉が収まっているセピア色の肖像をマリナは見つめる。六年前の、父が主催者となった王都剣術大会の際に撮影された写真。
母とマリナは何処か無理をしているような笑顔で、父と姉に至っては笑顔ですらなかった。
唯一本当の笑顔となっているのは優勝者の少女。今の自分と、ほぼ同年代であろう少女。
六年前の記憶で若干朧気ではあるが、彼女の瞳の色は蒼で――
「この人、サヤさんに、似てる……?」
不意に写真の中の少女の笑顔が、サヤの顔と重なった。
そして、サヤの姓である「イフジ」。何処か聞き覚えのある名前だった。それがはっきりと、マリナの中で甦った。
写真の中にいる少女の名前は、確か――アヤノ。アヤノ・イフジ。
「もしかして、サヤさんの……お姉さん……?」
呟かれた自身の言葉で、不意に鼓動が早まった。
エイリス地区に来るより前に、サヤと自分に接点が存在する可能性に、マリナは胸にときめくものを感じざるを得なかった。
*
翌日。午後。マリナは極東街のサヤの家へと赴いていた。小さな鞄に、家族写真を入れて。
サヤの家族のことを聞いてみたい。そして、ブライス家のことやエイリス地区へ来た理由をサヤに話したい。その最初の一歩として、自分の持っている写真の話をサヤとしたい。
できることであれば早くサヤに会いたかったが、再度ブライス家より荷物が到着したため、午前中はその整理に費やされた。
昼食は学内の共同食堂で摂り、その後、イフジ不憂流知命館へ。
「あっ、いらっしゃい、マリナ」
出迎えたサヤは小花の散らされた薄青の着物に、黒に近い濃緑の袴姿。
改めてサヤの姿を見て、写真の少女を思い起こす。髪を下ろしているサヤと、後頭部で束ねていた写真の少女という大きな違いはあるが、顔立ちはとてもよく似ているように思う。
「折角だし、あがってあがって」
サヤは前に会った時と同じように力の抜けたような笑顔でマリナを迎え入れる。
「あの、お邪魔します……」
「あー、そんなん言わなくていいよ、家にはわたし一人だけだし」
「ひとり……?」
サヤは明るい調子で言いながら、紙張りの引き戸を開けて居間に通す。
藺草で編まれた床板に、平べったいクッション、足の短い丸テーブル。
サヤはマリナに座布団の上に座るように促し、向かい側へ自身も座りながら続ける。
「うん、ひとり。わたし、ひとりで暮らしているの。お父さんはわたしが生まれた年にムルガルとの戦争で戦死して、お母さんも同じ年に病気で、ね」
「え……?」
サヤはにへらと笑いながら事も無げに言った。だから自分は両親の顔を知らない、と。
「それで、今までお祖父ちゃんとお姉ちゃんの三人で暮らしていたんだけど、お姉ちゃんもわたしが十二歳の頃に家を出て行っちゃって、今では行方知れず」
サヤは変わらず笑顔で続ける。ただ、姉が家を出ていったことを述べた時だけ、彼女の笑顔に一瞬の陰りが見えた。
「で、お祖父ちゃんも、去年病気で死んだんだ。だから家はわたしひとり」
「そう、なんだ……」
マリナは言葉が継げなかった。
サヤが姉以外の家族と死別していたこと。その姉もいなくなってしまったこと。
それを笑顔で語ること。その笑顔の中に、陰影を見てしまったこと。
「あっ、でもわたしは全然平気だから心配しないで。お金はお父さんの戦争恩給が月々入るし、お祖父ちゃんの残してくれたお金もあるし。それに、ダイアナやフィリパ、ホイッグさんや虎庵の女将さんもいるから特に寂しくもないし」
サヤは困り笑顔で補足する。しかし、マリナにはサヤの言葉には何処か空疎な、違和感めいたものを感じていた。
マリナに余計な心配を掛けまいとした言葉なのはわかる。だが、それとは別の所でサヤの言葉には中身が抜けているように思えてしまった。
それをマリナは追究することはできず。できるはずもなく、サヤは言葉を続ける。
「ただ……」
「ただ……?」
「お姉ちゃんには会いたいなってのは本音」
そしてまた、サヤの笑顔にまた陰が生まれる。
お姉ちゃん。
姉の話をする時だけ、サヤの纏う明るげな雰囲気に変化が生じている。
「あっ、ゴメンゴメン、一方的に話しちゃって。今日はどしたの? またどこか案内する?」
「ううん、違うんです、私、今日は……」
サヤの姉が写っていると思われる写真を見せに来た。
それを、姉以外の家族とは死別したという話をしたばかりの彼女に言えるだろうか。姉の話をする時だけ、陰の差す彼女に言うべきなのだろうか。
マリナは躊躇する。逡巡する。想起する。推察する。
サヤの姉。彼女の肉親で、唯一存命している人。その人のことを口にする時だけ、サヤが陰る存在。
それはきっと、サヤが姉に会いたがっているのではないだろうか。
だから、もしこの写真にいるのがサヤの姉であるのなら、彼女の心の慰めになるのかもしれない。
そうマリナは結論づけ。
「――サヤさんに、これを見せたいなと、思って」
鞄の中から写真を出し、卓袱台の上に置く。
それを見たサヤから、笑顔が消えた。
*
「お姉ちゃん……?」
サヤは写真を両手に取って、見つめている。
彼女の言葉と反応から、写真の少女、アヤノ・イフジは間違い無くサヤの姉であった。
俯いているため前髪で遮られ、サヤの表情は窺えない。
「でも、どうしてマリナがわたしのお姉ちゃんの写真を持っているの?」
サヤの視線が写真から、マリナへと向く。彼女は力の抜けた笑顔でもなく、明るい色もなく、ただ真っ直ぐにマリナを見つめていた。その蒼い瞳には射竦めるようなものがあった。
サヤの疑問は、当然のものであった。尋ねられることは、想定できていた。
だから、マリナは心の内で決めていて。
「それは――」
マリナは語る。
自分がブライス家の娘であること。母のこと。姉のこと。父のこと。
サヤの家族のことを知って語るべきだと決めた。
ブライス家の魔術のこと。それを受け入れられず、六歳の時に父に見放されたこと。
サヤに知ってもらいたいと願った。
母から魔術を教えてもらっていたこと。血の匂いの消えないブライス家で、母の魔術授業は唯一心安らかにいられた時間であったこと。
母が、死んだこと。
サヤに隠すことが耐えられなくなった。
父に中央女子幼年騎士学校への入学を許されなかったこと。屋敷の中で、独り母の教えてくれた魔術を研鑽してきたこと。
そして、高等女子騎士学校へ入学する年齢となり、エイリス地区へ放逐されたこと。
全てをサヤに、打ち明けた。
サヤは何も言わずに聞き、最後に一つだけ言葉を添えた。
「マリナは、お母さんに大切なことを教えてもらったんだね」
ふっと、懐かしむような笑顔がサヤの顔に宿る。
「わたしはね、お姉ちゃんに教えてもらったんだ。お姉ちゃんは、わたしの剣術のお師匠様」
サヤには五つ年上の姉がいる。自分にも、一つ年上の姉がいる。
アクア・ブライス。父の後継者。ブライス家の次期当主。
「お祖父ちゃんはお姉ちゃんを後継者って決めていたから、わたしには何も教えてくれなくて」
自分と似ていた。
父は姉を後継者と決めていた。ただ、自分の場合は父はブライス家の呪法を教える意思はあり、自分がそれに馴染めなかったという違いがある。
「だから、お姉ちゃんに剣を教えてもらっていたんだ。お祖父ちゃんはやらなくていいって言ったけど、わたし、剣術が好きだったから。お姉ちゃんに剣を教わっている時間は、わたしにとっては本当に楽しくて――」
自分の場合は母だった。
ブライスの呪法に依り魔術自体を忌避していた自分に、魔術を、魔術の楽しさを教えてくれたのが母だった。
「……こうやって話してみると、ちょっと似ているね、わたしとマリナ」
サヤはへにゃりとした笑顔となる。マリナの、好きな顔。
サヤの言う通り、自分とサヤの境遇は何処か似ていて、そして、サヤと自分は違っている。
自分は、サヤみたいに家族のことを笑いながら語れない。語ることができなかった。
サヤだって、家族のことで哀しみや寂しさを持っていたのだろうとマリナは思う。
顔を知る前に両親を失ったこと。姉が出奔したこと。祖父が亡くなったこと。
家族を失っても大丈夫だから心配しないでと語るサヤに感じた空疎な違和感は、おそらく、きっと、彼女の中にある割り切れないものを抑えているからなのだろうとマリナは思った。
そんな彼女が、すごいと思った。
「写真持って来てくれてありがとう、マリナ。お姉ちゃんの顔を見ることができて嬉しいし、お姉ちゃんのこと話せて良かった」
自分も、サヤみたいになれるだろうか。姉の、家族の話をできて良かったと言える日が来るだろうか。
わからない。
だけど、だからこそ、もっと彼女のそばにいたい。彼女を見ていたい。彼女の心に触れたい。その想いが、マリナの中で強くなった。
*
サヤは感謝の言葉を述べながら、写真を卓袱台の上に置く。
「そんな、サヤさん、お礼なんて……」
「んー……」
マリナの言葉を受け、サヤは何かを思いついたような顔をしながら言った。
「そだ、マリナ、わたしからちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
「お願い……?」
「わたしのこと、そろそろ名前を呼び捨てにしてほしいかな。サヤさんって呼ばれるの、やっぱり慣れないや。あと、喋り方も、そんな畏まったようなのから変えてもらえると嬉しいかも?」
サヤはにまにまとしながらマリナを見つめている。からかいの意も含まれているが、多分の本気も見て取れる。
「サ、サヤ……?」
言うと案の定顔に熱が帯びてくる。
気恥ずかしい。胸がどきどきしてしまう。だけど、今度からは上手く言えそうでもあった。
「あと、ちょっとこの写真借りていい?」
「いいです……ううん、いいけど」
まだ、口調が安定しない。要努力。
サヤは姉の写る写真を持って部屋の隅にある鏡台の前に座る。
「写真見ていたら、髪、お姉ちゃんみたいにしたいなって」
言いながら鏡台から黒い布紐を取りだす。手を頭の後ろに回し、髪を束ね、結ぶ。
「あの、サヤ、これって……」
「うん、お姉ちゃんがいた頃は、髪を束ねてもらっていたけど、わたしは不器用だからねー。写真あればできるかなって思ったけどダメだった……」
サヤの髪は所々跳ねており乱れきっていた。
髪を束ねる箇所もかなり右にずれており、写真の中のサヤの姉とは大きく異なる。
端的に言えば、大失敗である。
「うーん、やっぱりお姉ちゃんみたいにはできないなぁ……」
二つの意味で、とマリナは付け足そうと思ったが、やめた。
それとは別のことを、少しばかり勇気を出して言ってみた。
「そ、その、私、やってあげようか……?」
「え、いいの? じゃあお願い!」
サヤが期待するかのような眼差しとなる。
マリナはサヤの後ろについて髪に触れた。さらりとした黒髪が、掌に掬われる。丁寧に整えているような感じではなく、自然的で本来的な質感の良さ。
「櫛、使ってもいい、かな……?」
「うん、いいよ」
整えやすいように梳り、写真の中のサヤの姉を想起しながら後ろ髪を束ね、前髪も少しばかりいじり、完成。
鏡の中のサヤの顔はぱっと輝いた。
「すごい! マリナすごい!」
「そ、そうかな……?」
「ありがとう、マリナ!」
サヤに喜んでもらえたことは嬉しい。
だけども、心の何処かが僅かだけ、ささくれ立つようなものをマリナは覚えてしまった。
サヤを笑顔にしたのは自分だけども、その根底にあるのは姉の存在だった。マリナはアヤノにほんの僅かばかりの嫉妬を抱いてしまった。
*
マリナとサヤがお互いの家族の話をした日から、数週間が経った。
その間、マリナがサヤのもとへ訪れる日もあれば、サヤがマリナのいる寮を訪ねることもあった。
サヤだけでなく、ダイアナやフィリパ、虎庵の女将さんや常連のホイッグ老人、その他にも極東街に住む人々ともサヤを通じて交流し、見知った仲になっていった。
自分は、確実に変わっている。
人と接することに、深く触れ合うことへ恐れを抱いているようだとブラックウッド分舎長から指摘されていたマリナ・ブライスは、サヤとの出会いで大きく変革していた。
勝ち気で、時折辛辣で、臆病な性根を自覚しているが故に強がりで意地っ張りで見栄っ張りな、そして少しばかりやきもち焼きな少女が、ブライス家から解き放たれた“マリナ”というひとりの少女が形作られた。
そして高等騎士学校へ正式入学するまで残りごく僅かの日――
「サヤ、髪はどうする?」
「ん、お願い、マリナ」
サヤの自宅の居間。鏡台の座布団にサヤが座り、その後ろにマリナがつく。
最初に髪を整えた日以来、サヤはマリナに髪を結んでくれるように幾度かお願いをしていた。マリナはいつもそれを受け、サヤの髪を整えることが日課に近くなっていた。
サヤの黒髪をマリナは手慣れた動きで梳り、後頭部で束ね、総髪に仕上げる。
「はい、できたわよ」
喜びと誇らしさを冗談めかしてサヤの頭をぽんと軽く叩くと、鏡の中のサヤはマリナに視線を向けて微笑んだ。
「ありがとう。にしてもマリナ、ずいぶん変わったね」
「そう?」
「うん。マリナ、最初は堅苦しい喋り方だったし、少しびくびくしていたし」
「……人見知りだったからね、私」
「それが今ではダイアナのめちゃくちゃなノリに着いてこられるようになったんだもんねー。すごい進歩」
こうやってサヤと普通に会話するだけでなく、ダイアナやフィリパとも名前で呼び合う仲となっていた。特にフィリパの方は魔術師の家系同士と言うこともあり、殊更話が合う。
とは言えど、自分にとって最も大きな存在は――
「わたしは好きだよ、今のマリナ」
「な、何言っているの、サヤ!?」
突然の言葉に頬を赤くして慌てるマリナに対し、サヤはからかうように継ぎ足した。
「明るくなったし、話しやすくなったし、それに、わたしの髪も整えてくれるしね」
「最後のはサヤが不器用過ぎるからでしょ! 自分でできるようになりなさい」
なんて言ってはみるけども、そのままのサヤでいてほしいと言う本音がある。
「あはは、そうだね。けど、まだまだだし、騎士学校の寮はマリナと同じ部屋だといいなー、なんて」
「そうね……私も、サヤと一緒の部屋がいい……そうじゃないと、いつもみたいに、サヤの髪を整えてあげられないし」
照れ隠すように、マリナは鏡の中のサヤから目を逸らす。
幸いながら、マリナの願いは結果として叶えられることとなった。但し、そこには自分とサヤと、そしてもう一人の少女も住まうことになるなど、マリナには思いもよらない未来でもあった。
(第二章 了)