同室少女はすれ違う
「アーシャちゃん」
ヒメナの恋愛相談会が終了後。アーシャとヒメナの自室。
部屋の中心にある座卓の前に座るヒメナが、姿見の前に立つアーシャの背中に声をかける、
「ん、どうした、ヒメナ?」
声をかけられたアーシャはヒメナの方には目を向けず、休暇期間らしく着崩した騎士制服を整え続けている。
そのアーシャの背中に対して、ヒメナは頬を赤らめながら更に続けた。
「あのね……本当に、ありがとう」
「…………」
ヒメナの言葉を受けて、アーシャは制服を整える手を止めて振り返る。彼女の声色には、気の弱いヒメナにしてはやや強めの情動があったから。
「ヒメナ、何いきなり畏まっちゃってんの?」
少し茶化すように軽めの笑顔を作りながら、アーシャはカーペットに腰を下ろし、座卓を挟んでヒメナに向き合うように座った。
「だってアーシャちゃん、私のこと、とても応援してくれてるから……相談にも乗ってくれたし、私のためにみんなに声をかけてくれたし……」
話の内容が彼女の恋心に関するものであるが故に、おずおずと話しながらヒメナはますます頬を赤らめ、ついには口淀み視線を下方に逸らす。
「あはは! そんなん気にすんなって、ヒメナ!」
その言葉と仕草に対して、アーシャは噴き出すように笑いながら右手を伸ばし、ヒメナの髪をくしゃくしゃと撫でた。
彼女に撫でられるのに合わせ、ヒメナは目をアーシャに向ける。視線の先には、いつものように快活な笑い顔。
「あたしたち……友達なんだからさ」
そうアーシャは、笑顔のままで言った。
だが、アーシャの言葉には些かの淀みがあり、その表情には僅かばかりの翳りがあり。然れども、察しの悪いヒメナはそれに気付くことはなく。
「うん……そう、だね。私、アーシャちゃんと友達になれてよかった。大好きだよ、アーシャちゃん」
アーシャの言葉を受けて、ヒメナはにっこりと素直な笑顔を向ける。ヒメナの声と表情には、アーシャに対する好意と信頼が確かにあった――自分と最も近しい、友人に対する真心が。
「ははっ。またまた嬉しいこと言ってくれるじゃん」
そう言うとアーシャはヒメナの頭から右手を離し、立ち上がる。
「じゃ、あたしは自主訓練してくるから」
「うん、いってらっしゃい」
そう言ってアーシャは部屋を出る。休暇期間も騎士候補生としての本分を忘れていない同居人を見送ったヒメナは、ぽつりと独りごちる。
「やっぱり、アーシャちゃんは偉いなあ……休暇期間も訓練してて……さてと、私は――」
そしてヒメナも立ち上がり、窓際の机へと向かい席に着く。引き出しから色鉛筆を取り出し、机上に置いてあるスケッチブックを広げる。
そこには可愛らしくデフォルメされた猫やリス、熊などの動物や草花のイラストが色鉛筆で描かれていた。全て、ヒメナの描いた絵。
「よし……!」
そうひとり意気込むと、ヒメナは色鉛筆を持って走らせ、走らせては別の色に変えてまた走らせる。
スケッチブックの上には、動物たちのイラストと同じくデフォルメされた少女の姿が形成される。
髪色の明るめの黄色を使い、彼女の金髪を表現する。顔はある程度は単純化しているが、意志が強くて陽気な雰囲気を持った笑顔を描き出す。
自分が最も信頼している人の顔を――エイリス分舎に入ってから自分とずっと一緒にいてくれるアーシャの姿を、ヒメナは彼女なりの画風で描いていく。
「うーん、ここはこう、かな……?」
スケッチブックの中にいるアーシャの表情を直しながら、ヒメナは思い悩むように言った。しかし、その声色と違い、ヒメナの顔には楽しそうな微笑みが浮かぶ。
ヒメナは絵を描くのが好きだった。もし叶うのであれば、絵に携わる仕事に就きたいという夢があった。
だが、その希望は決して叶わないことをヒメナは知っている。
ヒメナ・ブラン。エイリス地区の下士の娘であり、父祖代々よりエイリス地区騎士団の輜重隊に奉職している家系。祖父も、父も、エイリス地区騎士団の輜重隊に所属する騎士であった。
両親はヒメナにも地区騎士団に入ることを切望している。事実上の世襲が認められる程度には情実の通用が色濃い騎士団であるが故に、現職騎士の娘であるヒメナは余程のことが無い限りは確実に地区騎士団に採用される立場にある。
それに加えて、騎士団内では見下されることも多い輜重隊ではあるが、公職は公職。その公職を望む者は下士階級は勿論のこと、上位である副士階級にもが多くいることをヒメナは知っている――友人であれば、チェリやミキコがそうだ。チェリは副士で錠前職人の娘、ミキコは下士で大工の娘。ふたりとも暮らし向きは厳しいようで、騎士団の公職を目指している。
彼女らの家のように公職に就けずに一般平民並みやそれ以下の暮らしをしている下士や副士が多くいる中で、確実に就ける公職を拒否するのは、極めて贅沢な話であり我が儘であるという認識をヒメナは抱かざるを得ない。
だから、自分は騎士団に所属する道を選ばなければならない。
だから、自分の将来の希望は叶わない。だから、絵を描くのが好きなことを、家族の誰にも話したことはない。
家族に対して叶うことのない、許されることのない夢を話せるほど、ヒメナは勇気を持っていない。しかし――
「――よし、できた」
色鉛筆を走り終わらせると、ヒメナは満足げに呟いた。
スケッチブックの中には、笑顔のアーシャ。デフォルメ画風であるが、我ながら彼女の雰囲気をよく捉えているだろうと、文字通り自画自賛したくなる。
「うん、アーシャちゃんを、上手く描けた」
描かれたアーシャを指でなぞりながら、ヒメナは少し寂しげに微笑む。
絵を描くことが好きと言う心内を、初めて明かせた相手はアーシャであった。そして、初めて自分の描いた絵を見たのも、やはりアーシャであった。
スケッチブックを見た彼女が、自分の絵を褒めてくれた時の喜びは、今でも胸の内にある。
いつも自分を気にかけてくれるアーシャ。彼女であれば、自分の内に秘めた将来への悩みを話せると思った。両親から騎士団への奉職を望まれていることと、絵の仕事への夢を話した時は、彼女はとても真剣に聞いてくれた上で、絵の道を応援してくれると言ってくれた。
それでも、やはり――両親の期待する道を外れる勇気は未だに持つことができず。
「アーシャちゃん、私ね、ずっとアーシャちゃんに憧れていたんだよ」
ヒメナは照れるように小さく言った。
明るくて、勇気があって、優しく自分をいつも励まし、引っ張ってくれる人。表情が暗く、臆病で、消極的な自分とは全く違う、対極的な少女。
彼女のようになりたいと、ヒメナはいつしか思うようになっていた。
アーシャに絵の道を応援されても、その道を選ぶ意気地の無い自分だけども、アーシャのように勇気ある選択をできる人間になりたいと、思うようになっていた。
中央総合演習の時に、中央本舎の総大将役に果敢に立ち向かった彼女のような、勇気ある選択をできるような人に。
「だから、私は――」
スケッチブックの中のアーシャのイラストは、本物のようにヒメナに対して明るい笑顔を向けていた。
*
昼が過ぎて夕方に近くなる頃合い。エイリス分舎槍術科訓練場にてアーシャは槍を振るっていた。
「はっ! せいっ!」
木床に足を構え、術式科教練で幾度も繰り返した槍術の基本動作を繰り返す。
アーシャはただ無心で槍を――否、無心になるために槍を振るう。だが、幾ら槍を振るって気を逸らそうとしても、消えることのない顔が胸中になる。
ヒメナ。
エイリス分舎に入った時に出会ったルームメイト。
髪も肌も瞳も、全体的に色素が薄い印象を与える姿をした、とても臆病な女の子。
そう、彼女は臆病な子。絵が好きだという自分の夢を家族にも話すことができなかった、本当に臆病な子。
そのヒメナが、恋をした。しかも、その恋心を、内に秘めずに話してくれた。
それを、あたしに――
「せいやぁ!」
大喝しながら、アーシャは胸中に浮かぶヒメナの笑顔を振り払うように槍を振るう。
私、アーシャちゃんと友達になれてよかった。大好きだよ、アーシャちゃん――
大好きという言葉があった。あたしのことを信頼してくれる、温かな笑顔があった。心が焼かれるほどの、温かな言葉と笑顔だった。
初恋の話をするヒメナは、こうも言っていた。自分の気持ちを、名も知らない初恋の相手にいつか伝えたい、と。
恋心を相手に伝える。それは、とても勇気のいることだ。その勇気ある行いを、ヒメナは望んでいる。
それは、ずっと彼女のそばにいたあたしにとっては、とても喜ばしく思うべきことなのだろう。ヒメナは臆病な自分を倦み、変えたいと思っていることをあたしは知っているのだから。
(ヒメナ、あたしは――)
だから、あたしはヒメナの恋を応援してあげたい。
臆病な自分を変えたいと願う彼女が、勇気ある行動に飛び立とうとする。その意思を、あたしは大切にしたいと思う。
そう思う、のだけれでも。そう思うべき、なのだけれども。
それでも、あたしの心は――
「せいっ……はああぁぁっ!!」
自身の思考を断ち切るかのようにアーシャは槍を振り下ろし、中空に向かって真っ直ぐに穂先を突き出す。
それでもやはり、邪念妄念は払うこと能わず。
「はぁ……」
構えを解き、アーシャはため息をつきながら肩を落とす。
「ダメだな、あたし……」
自嘲気味に呟くと、アーシャはとぼとぼと訓練場に設えられた休憩用のベンチに向かう。腰を下ろし、目を閉じる。心を落ち着けようとする。
それでもやはり、暗闇の中で浮かぶのは、ヒメナの顔。
頬を赤らめて恋心を打ち明けるヒメナ。照れたように笑いながら信頼の言葉を向けるヒメナ。
最初は、純粋な善意だった。ルームメイトになった小心な女の子を、助けてあげたいと思っていた。それが今では――
「あー……」
呻くような声を漏らしながら、アーシャは頭を抱えるかの如く閉じた瞼の上に右掌を乗せる。
(どうしてこうなっちゃったんだろう、あたしは……)
わからない。わかるはずがない。気付いたら、自分の心の中でヒメナの割合がとても大きくなっていた。
そんな詮無き自問自答を、アーシャはぼんやりとした思考で胸中に巡らせる最中、がらりと訓練場の入り口扉が開く音が聞こえた。
(うん……誰か来たんだ)
今日は訓練場に来てからずっと自分ひとりであったが、休暇期間中に自主訓練を行っている騎士候補生は自分以外にもそれなりにいる。故に、誰かが訓練場に入ってくることは奇異なことではないし、特段の関心を払うことでもない――のであるが。
「お、アーシャじゃん。休憩中?」
「ん……?」
聞き覚えのある声に名を呼ばれ、アーシャは目を開く。
「……ダイアナ?」
そこには、赤毛で長身の少女の姿があった。
(続)




