協定
およそ二時間近くのグルワンベリエフ侯立歌劇団の公演が終了する頃には、外の陽は落ちかけていた。
夕暮れ時のエイリス中心街の街路を、マリナはサヤとフィーネの間に挟まれながら並び歩き帰途に就く。行きがけと同じような形で、サヤの右手には途上の出店で買った某かの肉の串焼き。
(今日の公演、良かったなぁ……)
エイリス分舎への帰り道にて、マリナは今日の公演内容を思い返す。
自然と、公演中に感じた心が揺さぶられるような感覚が蘇る。
自身の境遇に思い悩む王女を、新しい世界へと連れ出す女性騎士の話――それは、父にブライス家から追放されて、自分の将来への展望を見出せないマリナにとって、ある種の羨望の物語だった。
未来が見えない。わからない。決められない。そんな境遇にあった自分は、ただこれからもサヤと一緒にいたいという、願いがこれからの唯一の道標。
それは自分の心の弱さから見出した、居心地の良い逃避。それでも、マリナの願いには変わりない。
今のように、サヤと一緒にいたい。そして、あの歌劇の王女と騎士のように、自分もサヤにどこかへと連れだしてほしいと、何の展望も見出せないこの場所から全く新しい場所へとふたりで行きたいと――そんなことを、考えてしまう。
そして、自分と同じ歌劇を観てサヤはどう考えたのだろう、とマリナは思い尋ねる。
「……ねえ、サヤ、今日の歌劇、どうだった?」
そう右隣で歩くサヤに尋ねると、彼女は口内の串焼きを飲み込んで少し曖昧に笑いながら言った。
「うーん、そうだねえ……わたしが印象に残ったのは、まずは最初の騎士が御前試合する場面なんだけど、その時の構えからして――」
以下、サヤの剣術談義が続く。
主演の騎士役を初めとしてかなりじっくりと観察していたのであろう、剣撃シーンについてサヤは微細に語る。
王都にいた頃に幾度かグルワンベリエフ侯立歌劇団公演を初めとする幾つかの歌劇を観た自分でも気付かないような、微に入った剣撃解説。
「――って思うんだよねー。あー、けど、複数の敵兵と戦う場面での立ち回り方は割と参考になったかも? あのシーンは――」
「へー、よく見てるわね……」
呆れ笑顔になりながら、マリナは少しばかりの適当さが感じられる相槌を打った。
どうやらサヤは、同じ歌劇でも自分とは全く違う着眼点から出発し、全く異なる方向の感想を得たようで。自分と同じような感懐を抱くことを幾ばくか期待していたマリナにとっては当てが外れた感がなきにしもあらず。
しかしながら、そもそも今日の演目に誘ったのは、殺陣のシーンが多い作品であれば剣術に打ち込んでいるサヤでも楽しめるだろうという理由があった。その出発点から見れば、役者の動きを剣術的な観点から滔々と語るサヤの姿は、十分に歌劇を楽しめたのだろうとマリナは思い直してふっと自然な笑みとなる。
「ま、サヤはサヤなりに楽しめたってことよね。誘って良かったわ」
「あはは。そうだね。ありがとうマリナ、フィーネ。そだ、フィーネはどう思った?」
サヤは少し腰を屈めてマリナを挟んで左側を歩くフィーネに尋ねる。するとフィーネは右手の人差し指を唇の下に当てて考えるような仕草をしながら答える。
「うーん、そうだね。“吸血鬼”って言葉が使われてたのは、気になったかな?」
「あー……」
「まあ、それは……ね」
フィーネの言葉を受けて、サヤとマリナは同時に苦笑する。その反応からこの“吸血鬼”という言葉については三者とも結論が一致している模様。
“吸血鬼”。ニシムラ・アンダーソン病の患者が、人として認識されずに怪物扱いされる時に用いられる語。時には自身を人間を支配する超越者と定義して無辜の民衆を害し、時にはリズレア教における背教の魔物と扱われて抹殺される存在。
“グ”帝国による大陸統一後は“吸血鬼”は人以上の超越者や人外の怪物ではなく人間であると宣言され、現在では“吸血鬼”は差別的な用語として取り扱われており、NA病患者ないしは血戸と呼ぶことが推奨されている――のであるが、リズレア教の影響が未だに根強いレゼでは帝国の方針が徹底されていない。
レゼでは現在でも血戸は“吸血鬼”と呼ばれており、リズレア教信仰に仇為す背教の徒として騎士団や教会の異端審問官による即時抹殺対象とされている――尤も、“グ”帝国統一後にレゼで血戸が確認され、殺害された事例は存在していないのであるが。
斯様にレゼでは国家として血戸を怪物扱いする気風が存在しているものの、リズレア教文化とは縁遠い極東系レゼ人のサヤは元より、帝国による領邦内での教育政策がある程度定まってレゼ国騎士教育でも取り入れられた以降に騎士候補生となったマリナら若い世代には、その気風に違和感を抱く者は少なくない。
「帝国を成り立たせるには、差別はあってはならないからね」
普段とは同じ笑顔ながらも、どことなく圧を感じる声でフィーネは言った。
帝国を成り立たせるには、差別はあってはならない――フィーネの言動からは、レゼ国民というよりも、それよりも大きな枠組みである大“グ”領邦連合帝国の人民という自己認識が強いように、マリナは時折感じていた。以前にもフィーネはレゼ国内では人間ではないと定義されている無登録民が罪無く市民から暴行を受けていた際に、帝国法における差別禁止令を挙げて制止させたことがあった。
「けど、大まかなストーリーは素敵だなって思う。特に、最後の王女様が騎士に自分を連れて一緒にお城から逃げほしいって言う場面、私は好きかな?」
「そうよね! 私もあの台詞、すっごくいいと思ったわ!」
フィーネの感想に、マリナは食いつく。自分もフィーネが挙げた場面と同じ箇所に、強く心を揺さぶられた。サヤが楽しんでくれたのは喜ばしいが、やはり語り合える相手がいると嬉しい。
「あの場面、音楽の静けさも相まって印象的よね。王女役の台詞ももちろんだけど、騎士役の表情も――」
「あ、マリナもそれに気付いたんだ? 私としては、歌詞の変更が――」
以下、マリナとフィーネの歌劇談義が続く。
歌劇の全体内容。文学作品から歌劇へ翻案するに当たってのアレンジ具合。役者の演技。舞台音楽。演出等々。果ては以前に観たことがある別の演目についての語り合い。
あれやこれやと歌劇に関する話題に花咲かせるマリナとフィーネの姿を、サヤは会話に割り込まずに微笑みながら眺めている。それに気付き、マリナは少し決まりが悪そうにサヤに声を掛けた。
「あっ、ごめん、サヤ! ふたりだけで盛り上がっちゃって……」
「ううん、いいよ。わたしにはわからない話だし。それに、マリナとフィーネが仲良いの見るのも楽しいしね」
そう、サヤは嬉しそうににこにこと笑っていた。そしてそれに呼応するかのように、左隣にいるフィーネがくすりと笑って言った。
「私達、仲良いんだって、マリナ?」
「なっ!?」
不意にフィーネが左腕に自身の右腕を絡めて身を寄せたことで、マリナは驚き声を出す。
密着したフィーネの身体から漂う仄かな良い香りが、鼻をくすぐる。肩の辺りに、フィーネの胸の柔らかさを感じる。不本意ながらも、心臓の鼓動が僅かに速まったように感じる。
唐突に身を寄せてきたフィーネに戸惑っていると、彼女はマリナの耳元に顔を寄せて囁くように言った。
「私、マリナのこと好きだから、そう言われると嬉しい♪」
「っ!?」
どことなく色香を感じさせるフィーネの声に、耳元にぞくりとした感覚が走り、速まっていた心臓が飛び跳ねる。
頬がぼっと一瞬にして高熱を帯びた。
「ふふっ、マリナ、もしかして照れてる?」
「照れてない! 全く、もうフィーネはいつもふざけてるんだから……!」
叱りつけるように言いながら、マリナは絡みついたフィーネの腕を振り払おうとすると、フィーネはぱっと腕を放して悪戯っぽくくすくすと笑う。
「あはは! 本当に仲良いね、ふたり」
そんなふたりの遣り取りを見ながら、サヤは無邪気に声を出して笑っていた。
*
女子高等騎士学校エイリス分舎。騎士候補生学寮。夜。
「ふぅ……」
入浴を終えて、マリナは自室の鏡台にて濡れ髪を整えながら一息つく。
サヤとフィーネとの観劇を終えて、エイリス分舎に帰って夕食を摂り、入浴して後は適当な時間に就寝。
夕食はいつものようにサヤとフィーネに加えてイトとカティの五人。
食事の時にイトから歌劇の感想について尋ねられたら、サヤが剣術談義を初めてそれにイトが乗っかってしまった。
イトは歌劇好きでグルワンベリエフ侯立歌劇団以外のエイリス地区での公演は色々と観ているのであるが、どうにもイトはイトで、サヤと同じような視点で歌劇を観ていたようだった。
「つかれた……」
自然とマリナは独りごちる。サヤに喜んで貰えたのは良かったのであるが、外出に観劇に、その上で帰ってから一度聞いた剣術の話をもう一度聞かされるとなると、流石に疲労感を覚えてしまう。
「あれ……雨、降ってる……?」
つと、雨音が耳に入り、鏡台から窓の元へと移って外を見ると、しとしとと雨が降り始めている。それとなく眺めている内に、少しずつ雨音が大きくなっていく。この降り方では、直に激しい雨になるだろう。
雨が降る前に終わる時間帯の公演を選んでよかったとマリナが窓元から鏡台の前へと戻ると同じくして、部屋の扉が開き、サヤと一緒に浴場に行っていたフィーネが涼やかに声を掛ける。装飾の無い薄青のパジャマ姿は、シンプルであるが故に彼女の均整なスタイルを際立たせている。
「ただいま、マリナ」
フィーネの声を受けて、マリナは鏡台の前に座ったまま言った。
「お帰り。あれ、サヤは? お風呂一緒に行ってたよね?」
「ダイアナとフィリパの部屋に遊びに行くって。あ、雨降ってるんだ?」
マリナの問いに答えながら、フィーネは鏡台の前に座るマリナの後ろに立つ。彼女の顔は、いつも通りの笑顔だった。
「ええ。さっき降り始めたの。それがどうかした?」
「なんか懐かしいなって。私が寮に入った日、雨が降っていたから、ちょっと思い出しちゃった」
「……そうだったかしら」
マリナが首を傾げると、フィーネはマリナの両肩に軽く手を乗せながらくすくすと笑って言った。
「うん。マリナ、あの時は熱出していなかったけどね」
「あー、そうだったわね……」
鏡越しにフィーネと会話しながら、マリナは苦笑する。
思い出した。
フィーネの入寮日の少し前に、マリナはキセン風邪という流行性感冒を患っていた。キセン風邪の感染防止のため、マリナは学寮から医務棟の病室に移されており、その時期にフィーネの入寮日が重なっていた。
そのため、フィーネが寮に移った初日は顔合わせせずに、病平癒して自室に戻ったところ、仲がよさそうなふたりの姿を面食らったのだった。
「……あの時、本当にびっくりしたわ。サヤが知らない人と部屋ですごく仲よさそうにしてたから」
「妬いた?」
「妬いてないわよ」
「ふふっ……本当?」
過去の自分の図星を突かれて若干気恥ずかしさを覚えながらも、マリナは鏡越しにフィーネの顔を見る。
「……ねえ、マリナ。私は、サヤのこと好きなの」
その表情からは、いつもの涼やかな笑顔が消えていた。
*
「フィーネ、何を……?」
鏡越しに見るフィーネの顔は、いつもと違っていた。常に浮かべている笑顔ではなく、真剣な顔立ちをしていた。
どこか作り笑いめいたいつもの顔とは違う真っ直ぐな眼差しを、フィーネは鏡の中のマリナの中に向けて続けた。
「私はね、サヤのことが好き。友達として……という意味でもあるけど、別の意味でも。私は、サヤと恋人になりたいって意味で、好き。私が、初めて好きになった人」
「…………」
自身の心情を真剣に吐露するフィーネを、マリナは鏡を通して無言で見続ける。
言われずとも、知っていた。わかっていた。フィーネは、サヤに恋心を抱いていることを。
だが、改めてフィーネにその心境を言葉にされると、何故か胸が強く締め付けられるような、切ない感覚を抱く。
「マリナはどう? サヤのこと、好き? 私みたいに……サヤと恋人になりたいって思ってる?」
「私……!?」
フィーネの問いに、思わずマリナは振り向いて、後ろに立つ彼女に直接顔を向けた。
「うん。正直に、答えて」
マリナと相対するフィーネの顔はやはり真剣で、声にもからかうような気色も無ければ、強要するような圧もない。ただ、マリナの本心を真摯に問うていた。
マリナは思う。自分がサヤに恋心を抱いているとはっきりと告げたフィーネに対し、自分も正直に伝えなければならい。彼女と向き合わなければならない、と――
「……私も、サヤが好きよ。フィーネと……同じ意味で」
だから、マリナは短くも正直に告げる。
サヤは、父から追い出されてひとりぼっちの自分を見つけて、笑いかけてくれた人。先の見えない自分の寄る辺であり――彼女に対する自分の心情に対して当てはめられる言葉は、まごう事なき恋である。フィーネと、同じ感情。フィーネと、同じ初恋。
端的であっても、自分の慕情を口に出したマリナの頬と心臓は、観劇の帰りがけにフィーネに悪戯されたときよりもずっと熱く、速く。
サヤ本人に自身の想いを告げたわけでもないのに、何故かサヤ本人に言うよりも気恥ずかしい思いが込み上げてしまい、マリナは咄嗟にフィーネから顔を背けて俯く。
「――そう。やっぱり、私と同じなんだね、マリナ」
「フィーネ……?」
そして、フィーネから声がかかる。柔らかくて、温かな声。顔を上げて再度鏡越しにフィーネの顔を見ると、氷が溶けたように微笑んでいた。
フィーネは真剣な顔から笑顔に戻っていたが、それはいつもの涼しげな笑顔ではなく、人間らしい自然な笑顔だった。
そして、フィーネはその笑顔のまま――然れども、その眼差しには僅かばかりの寂寥感を湛えながら言った。
「あのね、マリナ……私はね、皇帝なの」
「……皇帝?」
フィーネの突拍子の無い言葉に、マリナは思わず彼女が発した同じ言葉を繰り返してしまう。
皇帝。この大陸全土を統べる存在。全ての上に君臨する唯一の超越者。
“グ”帝国の掲げる一君万民体制下では、例えレゼ国王のような領邦君主であっても、皇帝の前ではただの万民の一人に過ぎないとされる至高存在。
「ふふっ、それくらい、私はおじい様から大切にされたってこと」
「あ……そういうことね」
フィーネの言葉に、マリナは彼女の言わんとしていることに察しがついた。
“英雄”リスト卿の孫娘にして、エイリス第一の名族であるリスト家の唯一の後継者。そんな出自を持つフィーネは、リスト卿やその周囲からさぞや大切に養育されてきたのだろう――それこそ、皇帝のように。
「おじい様は、私のことをとても大切にしてくださるの。私がお屋敷の人に対して少しでも不満そうな顔をすれば、その人を追い出してしまうほどに……だから、周りの人はみんな私を怖がっていて、ずっと私の顔色を覗っていて……」
そう語る中で、フィーネの表情はいつもの笑顔に戻っていた。
「それが私はとても息苦しくて……私も、自分の表情や言葉のせいで周りの人たちを怖がらせるのがつらくて……だから、ずっと笑顔でいるようにしていたの。そうすれば、誰もおじい様に追い出されることはないだろうって」
涼やかで、飄々としていて、それでいてどこか作り物めいた、人形のような笑顔。然れども、声は表面的な笑顔に反して淡々としながらも確かな寂しさがあった。
「みんな私のことを怖がっていた……けど、そんな私にもね、サヤは自然体に接してくれた。普通の人間として私に初めて接してくれた人が、サヤ。だから私は、サヤのことが好きになったの」
そして、フィーネの表情は再度綻ぶ。サヤと接するときに、時折見せる自然な自分と同じ年相応の少女らしい笑顔。
自然な笑顔を鏡の中のマリナに向けながら、フィーネは少し照れたように言った。
「……なんて、私の話なんか、マリナは興味ないか」
「ううん、そんなことない! フィーネの気持ち……聞けてよかったわ」
いつも笑っていて、飄々としているフィーネ。悪戯好きで何を考えているかはわからないところもあるけれども、騎士としての正義感を持ち合わせている少女。
一年以上同じ部屋に暮らしていて、サヤ以外では唯一自分がシグ・ブライスの娘であると話せた人でもあるフィーネは、マリナにとっては大切な友人。彼女が自分の心内を、それも慕情を打ち明けてくれたことは、マリナにも込み上げるものがあった。
「ありがとう。マリナは優しいね。だから、私、マリナのことも好きだよ」
「えっ!?」
「もちろん、サヤとは違う意味で、だけど」
「そ、そうよね……びっくりした」
恋心を語る中でのフィーネからの突然の“好き”に焦りを見せるマリナを見て、フィーネはくすりと笑い、言った。
「私、マリナのことも好きだから、サヤと、マリナと、三人で過ごす今の時間が一番大切に思っているの。今の、三人の時間を崩したくないって」
三人で過ごす今の時間が一番大切というフィーネの言葉は、マリナにも刺さるものがあった。
自分も、同じだった。自分の将来は見えない。だけど、サヤと一緒にいたい。そんな程度の展望しか持てない自分にとって一番大切なものは――フィーネと同じく、今の時間だった。
「だからマリナ、ふたりで協定を結ばない?」
「協定?」
いきなり“協定”などという物々しい言葉が出てくるのは、ある意味ではリスト家というエイリス地区の政治の中枢であるリスト家の令嬢らしさがあった。
「うん。卒業するまで、私も、マリナも、サヤには好きだって言わない協定。今のままで、三人で過ごしていくって」
幾ばくかの気恥ずかしさを感じたのか、フィーネは鏡の中のマリナから少し目線を外して続ける。
「サヤに告白するのは卒業してから。それまでは抜け駆けしないで、今まで通り三人で過ごしたいって思ってる」
「そう……フィーネはそう考えてるんだ」
フィーネの言葉を聞き終えて、マリナはふっと息を吐き出して瞼を下ろす。
卒業するまでサヤに想いを告げず、今のままで過ごす――そのフィーネの願いは、マリナには共感を得るものがあった。
改めて、マリナは思う。
サヤと、フィーネと、三人で過ごせる今の時間。今日のように三人で観劇に行って、その前のように紅茶店やビリヤード場に行って、三人で他愛も無い話やじゃれあいをする今の時間が、マリナにとっては何よりも大切だと。
仮に自分かフィーネのどちらかがサヤに想いを告げたとしたら、サヤがどのように答えようとも、今の関係は崩れるだろう。今の緩やかで穏やかな時間を、失いたくない。
「……いいわ。約束する。卒業するまでお互い抜け駆けは無し、よね」
だからマリナは、フィーネの言う協定に賛同する。
それは、未来への展望が無い自分にとっては消極的であり逃避的な選択であるが、今が続いてほしいという幼稚な願いを代償するような魅力があった。
マリナの首肯を聞いて、フィーネはにこにこと笑いながら両手でマリナの肩を揺さぶってじゃれつくように言った。
「ありがとう。マリナ。大好き♪」
「ちょっと、フィーネ、もう……!」
悪戯するフィーネに対して呆れるようにマリナは笑う。白金色の髪を持つ、美麗な印象を与えるフィーネが、今は少しかわいいと思えてしまった。
しかし。
「ふふっ。もし、サヤより先にマリナに会っていたら、私、マリナと恋人になりたいって思ったかもね?」
不意にフィーネは、肩に乗せていた両手をマリナの身体の前に回してもたれ掛かり耳元で甘く囁いた。
「――――!?」
帰り道の時よりも一層甘美な色香が漂うフィーネの囁き声により、耳元を起点として全身にぞくりとした感覚が走る。
自分の小さな背中に、フィーネの大きな胸の柔らかさを感じた瞬間、心臓が爆発するかの如く跳ね上がり、頬が火を噴いたように熱くなる。
鏡の中の自分は完全に赤面していて、フィーネは普段通りの涼やかな笑顔に戻っていた。
「マリナ、やっぱり照れてる?」
「照れてない! このエロ女っ!」
マリナが怒鳴りながら両腕を振り払うと、フィーネは楽しそうにくすくすと笑っていた。
*
女子高等騎士学校エイリス分舎への入寮日は雨の日だった。
学校側との諸々の手続きを終えて自室となる部屋に向かう頃には、もう日も落ちて夜となっていた。
予め聞いていた話によると、私の部屋は三人部屋だという。ふたりは既に入寮済みだが、ひとりは病気で今は医務棟に移っているという。
だから、今日顔合わせができるのはひとりだけ。少しだけ残念。
「……この部屋かな」
自室となる部屋に到着した私は、ネームプレートを確認する。
“サヤ・イフジ”と“マリナ・ブライス”――これから私と一緒に、二年間同じ部屋で過ごす人。果たして彼女たちは、私に対してどう接してくれるだろう。
入学手続きを担当した分舎長の老婦人のように、私がリスト卿の孫娘なのだと知ったら、やはり阿った態度を取って作り笑いを向けるのだろうか――
「こんばんは。どなたかいますか?」
「はーい、いまーす。今開けますねー」
意を決して私が扉の向こうに声を掛けながらノックすると、明るい声が返ってきた。
ぱたぱたとした軽快な足音が近づき、寮室の扉が開く。
部屋から出てきたのは、黒髪を後ろに束ねた、蒼い瞳の女の子だった。顔立ちからすると、極東系だろう。
「今日から入寮するフィーネ・フォン・リストです。よろしくお願いします」
私が黒髪の少女に軽く会釈をすると、彼女は右手を差し出してへにゃっとした笑顔を見せた。
「わたしはサヤ・イフジです。よろしくね、フィーネさん」
彼女が私に向けたのは、自然体の笑顔だった。
おじい様に追い出されることを怖れたお屋敷の人たちが決して向けるはずのない、自然な笑顔。
周りの人たちを脅かさないようにと私がずっとしていた作り笑いとは違う、ありのままの表情。
彼女の柔らかな笑みに、凍り付いていた感情が、私の顔が、溶け出していく。
「うん、これからよろしくね。サヤさん」
そして私は、差し出された手を握り、笑ってみる。
作り笑いが張り付いた顔では少しぎこちないかもしれないけど、私は自然に笑うことができたと思う。止まっていた私の心臓は、ときめくように脈打ち始めた。
その雨の日が、私の恋の始まりだった。
(第十二章 了)




