夕陽の花
マリナがエイリス地区へ到着してから三日目となった。
初日に出会ったサヤ。別れる際に、サヤは懐紙に彼女の家の住所と簡単な地図を書いて渡してくれた。
越してきたばかりで知り合いがいないと不都合だろうし、訪れた折にはエイリス地区の案内もするとサヤは申し出てくれた。
願ってもない話であり、翌日すぐにでもサヤの家を訪れたかったが、二日目はブライス家から送られてきた荷物の整理で一日が過ぎてしまった。
そして三日目の朝、サヤの家を訪れようと決めたマリナは、寮室に備え付けられている姿見の前で逡巡していた。
(服……どうしようかな……)
サヤと会うのに、どんな服を着ていけばいいのか、わからない。
今までのマリナは、使用人が用意した服をそのまま着ていただけであった。
昨日の部屋の整理においても予め手持ちトランクに用意されていた服をそのまま着ていたため、自分の意思で衣服を選ぶのは、マリナにとっては初めてのことであった。
何を着るべきか。この上下の組み合わせはおかしくないか。そもそも人と会うべき服装なのか。
マリナは悩む。
今まで、外部の人間と会う際はドレスを着ることが多かった。
家中で冷遇されてはいたが上級騎士の娘だけに社交用のドレスは複数持っており、幸い昨日ブライス家より届いた荷物にはマリナのドレスも含まれていたが……流石に大仰に過ぎ、サヤと会うのには相応しくないのではと結論づける。
サヤと会うのに似つかわしい服を着る。
彼女は外見からして極東移民の血筋で、実際に出会った時も極東装束を纏っていた。
ならば、いっそサヤと同じような極東の装束を自分も着てみようか。否、今から見繕うのは流石に遅すぎる。そも着方を知らず。
(うー、どうしよう……というか、私、なんでサヤさんと会うのにこんなに悩んでいるんだろう?)
十五歳の少女は、自分に芽生えている想いに無自覚のままであった。
*
サヤの家は、エイリス地区の中でも“極東街”と呼ばれる区域にある。
エイリス地区の中心街より東側にあり、東南に居する女子高等騎士学校エイリス分舎からは距離的には近く、徒歩で行ける地点であった。
古来極東移民が築いた町を端緒とする、石畳に瓦葺きの極東家屋が建ち並ぶ独特の空気を持つ区画。現在では極東系レゼ人以外も多く居住しており、道行く人の中には非極東系の顔立ちに着物姿という人も見かける。
王都暮らしだったマリナには、町並みや人々の姿は正に異国情緒という言葉を彷彿させる風情であった。
「ここだ……」
サヤの手書き地図を片手に、マリナが目的地に着いたのは昼食時にはまだ遠い時間帯であった。
マリナの姿は胸元に赤のリボンがある白に近い淡黄のブラウス。リボンと同色の布地に格子模様の入った膝丈のスカート。赤茶革のローファーに白のソックス。
いずれも素材は上物ではあるが、マリナにとってはほぼ平服に近い、自身からすれば当たり障りのないと思われる服装である。
眼前にあるのは他の家よりも大きく、古びた極東家屋。玄関戸の上には「イフジ不憂流 知命館」と墨書きの古看板が掲げられている。
イフジ。サヤ・イフジ。彼女の姓である。地図に書かれていた名称にも一致する。
間違い無く、サヤの家。そう思うと何故か緊張してしまう自分がいた。
意を決して引き戸に手を伸ばし、開く。
「ご、ごめんくださいっ!」
「はいはーい」
奧から軽い声が聞こえて、廊下の先から黒髪蒼眼の少女が顔を出す。
「マリナ! 来てくれたんだ」
ぱたぱたと木床を小走りに玄関へと向かうサヤは、白無地の胴着に藍染めの袴姿。
木刀を片手に持っており、剣の稽古をしていたのだとマリナは察した。
表の看板を見るに、サヤの家は極東剣術を修めた家系で道場経営を行っているのだろう。
「あの、サヤさん、今日はエイリス地区の案内、よろしくお願いします」
「うん、りょーかい。わたしのオススメの場所とか、紹介するよ」
マリナが軽く頭を下げると、サヤは前に会った時と同じようにへにゃりと笑った。
力の抜けたような笑顔に、どことなく安心感を抱いてしまう。
自分はサヤのそんな笑った顔が好ましく思っているのだと、マリナは少しずつ自分の感情を自覚し始めていた。
*
サヤの家を出て、彼女の案内でエイリス地区を巡る小さな旅が始まる。
サヤが先導し、彼女の左側少し後ろにマリナが続く。
こうやって彼女と共に歩くことが、マリナには何故か面映ゆく感じてしまう。
「あの、これからどこへ行くんですか?」
「そだねー。まずは虎庵かなあ」
「トラアン……?」
「そ。虎庵。まだお昼までに時間があるからちょっと食べていこうかなって」
口ぶりからすると、飲食店なのだろう。
サヤの歩みに合わせて歩く午前の極東街。人通りは多くも少なくもなく。
着物姿の金髪の女児。フロックコートの老紳士。
年若い郵便配達夫。騎士団制服を着た若い女性。
打ち水をする中年の婦人。長い髭を生やした袴姿の男。
十代半ばほどの二人組の少女。
「あ、やっほー」
「おっすー、サヤ」
その二人組の少女の姿を認めるとサヤが声を掛け、その内のひとりが手を振り返す。
サヤよりも長身の、肩に掛かるくらいまでの赤毛の少女。袖を肘まで捲りあげた白いシャツの上に灰色のベストと、同じ灰色のスカート姿。
隣には背中まで伸ばした黒髪に眼鏡の利発な顔立ちの少女。焦げ茶のワンピースに鳶色のタイツといった出で立ちの中で赤いネクタイがアクセントとなる。
「知り合いの人ですか……?」
「そだよ。デカいのダイアナで眼鏡かけてるのがフィリパ。同い年の友達」
サヤが指さし友人の紹介をマリナに行う。
彼女の友人であれば、ここは自分も名乗り出るべきだろうとマリナは思い至ったのだが。
「あの、私は――」
「ところでサヤ、このかわいい子どなた? もしや恋人? 恋人か?」
マリナが言い切るより先に動いたのはダイアナであった。
ダイアナは素早くサヤの右隣に周り、左手を彼女の肩に回す。
「こ、こいびと!?」
ダイアナの思いもよらぬ言葉に、マリナは心臓が飛び跳ねるほど驚く。ぼっと顔が赤くなる。
「隅に置けないなー、おサヤどんは!」
「痛い! 朝から元気すぎない!?」
ダイアナは肩に回した左手でサヤの背中を茶化すようにばんばんと叩く。
「お、おサヤどんって……!」
そしてフィリパはダイアナの用いたおかしな呼称がツボに入ったのだろうか、顔を背けて笑いを堪えている有様だった。
故に幸いながら、マリナがダイアナの冗談に動揺したことにはこの場の誰も気付かず。
「違う違う。そしておサヤどんってなに?」
「いや、だっておサヤどんって顔してない、こいつ?」
人差し指を立てた右手でサヤの顔を示すダイアナ。
顔を背けていたフィリパがサヤの方をちらりと見ると、堪えきれずに噴き出してしまった。
「こいつ言うなし! そしてフィリパは人の顔見て笑うなー!」
「ご、ごめん、サヤ」
くつくつと笑いながらフィリパが形ばかりの謝罪をする。
赤面も収まり一応の調子は取り戻したものの、友人トリオのノリにマリナは口を挟まず挟めず、若干困惑気味に眺めるままであった。
「マリナ、ダイアナとフィリパも、来月から一緒に高等騎士学校に入るんだよ」
「こいつ言うなし」
ダイアナがサヤを小突き、サヤは「ダイアナなんだからそれで十分でしょ」と言い返す。
彼女たちの姿を見て、マリナは思う。
同年代の少女の中では背が高めのサヤ。そのサヤより背が高いダイアナ。フィリパは背丈は人並みだが……この場では一番大きかった。同年代平均よりも、かなり大きい。
そして自分は、ダブル最下位。
これから同じ騎士候補生となる彼女たちと自分の体格差を見て、マリナは不安を抱く。
魔術師であろうとも騎士候補生にはある程度の身体の基礎能力が必要なのでは、と。そうであらば、小柄で細身で、悪く言えば貧相な体躯をした自分は不利ではある。
否、しかしだ。姉は自分と同じような体格だが、中央女子幼年騎士学校や中央女子高等騎士学校では優等生として通っているらしい。
自分も魔術師だから、彼女たちとの体格差は気にしなくて構わない、と思いたい。
「あ、ごめんごめん、名前聞いてなかったね? 何さん?」
ダイアナはサヤから手を離し、マリナの方に屈託のない笑顔を向けて訊ねる。
「あ、あのマリナ・ブライスと申します。来月から女子高等騎士学校エイリス分舎へと通う予定です。よろしくお願いします」
「へー、ってことはこれから同級生じゃん! あたしはダイアナ・モロー。よろしくね、マリナ」
ダイアナが右手を差し出したので、それに応じて握手を返すとぎゅっと握られ、マリナはそのままぶんぶん腕を振られてしまった。
意外と、手が痛い。割と加減の効かないタイプらしい。
「フィリパ・スローンです。こちらこそよろしくお願いします、ブライスさん」
フィリパは丁寧に一礼する。
元気に過ぎるダイアナと違って、フィリパは知的で落ち着いた雰囲気である。先ほどの“おサヤどん”爆笑事件については忘れることにした。
「それで、ブライスさんとはどうしてサヤと?」
「あの、一昨日、女子高等騎士学校に行く途中、道に迷っていたところをサヤさんに案内してもらいまして――」
話ながら意外と初対面の相手にも会話ができる自分にマリナは気付く。
サヤと初めて会った時は辿々しかったのではあるが、フィリパ相手に緊張せずに話すことができるようになった。
まだサヤと出会ってから三日目なのだが、彼女が契機となり自分が少しずつ良い方向へと変わっていくように思えてくる。
「おー、偉いじゃん、サヤ」
「にひひ、まーねー」
最中にダイアナとサヤが他愛ない遣り取りを交わす。
「それで、エイリス地区に来たばかりなら案内をするとサヤさんから言われたので今日は、こうやって一緒に。私、三日前に来たばかりなので……」
「外から越してきたんだ。どこから?」
「王都だってさ」
ダイアナの問いにサヤが答えると、不意にフィリパは怪訝な表情となる。
「王都……ブライス……?」
彼女の反応に、マリナの背に冷たい感覚が走る。
「ん、どしたの、フィリパ?」
「ううん、なんでもないわ」
シグ・ブライス卿の次女。不出来と見なされ、エイリス地区に追放されたブライス家の娘。
出自を、エイリス地区にいる理由を、マリナはサヤに話していない。話すべきなのか、話せることができるのかもわからない。
サヤに対して、家族のことを隠し立てせずに話したいという気持ちはある。だが、自分がエイリス地区へと来ている理由について話すことは躊躇われる気持ちも確かに存在している。
「そだそだ、折角だし、ダイアナとフィリパも一緒に行く? とりあえず虎庵にマリナを連れていこうって思ってるんだ」
隣のマリナが表情を曇らしていることにサヤは気付かず、別の話題を切り出す。
しかしながら、彼女の提案を聞いたダイアナとフィリパはふたり揃って申し訳なさそうな顔となった。
「うわー、ごめん、今日はフィルと一緒に古物市へ買い物だから無理。まあ、あたしは荷物持ちなんだけど」
「あー、結構遠いもんね、あそこ。それなら仕方ないか」
「ごめんなさいね、お誘いはまた今度にでも。じゃあね、サヤ、ブライスさん」
「うん、じゃあ、またねー」
ダイアナとフィリパに別れを告げる。それぞれの目的地へ歩みを進める。のであるが。
「わたしたちも行こっか、マリナ。……マリナー?」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
何かを考え込んでいるかのようなマリナの様子に、サヤは首をかしげる。
「どした? 何か気になることでもあった?」
「いえ、その……」
自分の家族のことをサヤに話せるか否かを考えていた、などと言えるはずもなく。いずれにしろ、この場で話すべきことでもなく。
それはそれとして、マリナには彼女たちの会話で気になることは確かにあった。
「……さっき、ダイアナさんが言っていた古物市というのが気になっていて」
「西北にある市場ことだよ。色々と珍しい魔術道具が売られることもあるから、フィリパがたまに顔を出すみたい。あの子、魔術師の家だし」
「え……」
フィリパは魔術師。自分と同じ魔術師の少女。
改めて、彼我の体格差を顧みる。
「……エイリスの人って、ずるい……」
自然と、マリナは恨みがましい呟きを口に出す。
マリナの言葉はサヤには認識されなかったが、彼女が何か言ったことは気付いたようで。
「ん、どしたの、マリナ?」
「あっ! な、なんでもないです」
どこかおかしなマリナの姿に、サヤは再度首をかしげた。
*
ダイアナたちと別れてから十数分後、目的地である「虎庵」に到着した。
虎庵というのはカフェの名称だとマリナは知った。尤も、サヤの言葉で表現するとカフェではなく甘味処というらしい。
戯画化された虎の模様のある暖簾をくぐり、サヤが引き戸を開く。
「女将さん、こんにちはー」
「あら、いらっしゃい、サヤちゃん」
店内にいた二十代半ばくらいの薄茶色の髪をした女性が、サヤに声を掛ける。
衣服は極東装束である着物だが、顔立ちは極東系ではなかった。王都では見ることは無いが、エイリス地区の極東街ではしばしば見かけた姿である。
他に客はおらず、店内は彼女のみ。
「そちらのお嬢さんは初めてだね。いらっしゃいませ」
「ど、どうも、こんにちは……」
マリナは女将に軽く会釈し、サヤに促され入って左横のテーブル席に向かい合って座る。
「わたしはいつものお団子でー。マリナはどうする?」
「あ、えと……」
テーブルの上にあるメニュー表をサヤから渡される。
アンミツ。クズモチ。モナカ。ミタラシダンゴ。コクヤオコシ……マリナにとって知らない単語ばかりであり、どのようなものか想像つかない。おそらくは極東の伝統菓子なのだろう。
メニューにはアンミツの横に「当店お勧め」と書き添えられているので、それにしてみようか。
「私はアンミツでお願いします」
「はい、みたらしと餡蜜ね。かしこまりましたっと」
女将が注文を受けているところ、入口の戸が開かれ新たな客が来店する。
「どうも。席は空いてるかね?」
「いらっしゃい。まだ早い時間だから空いてますよ」
入店したのは青墨色の簡素なジャケットとズボンに同色の制帽、レゼ国の兵卒制服を身に纏う、がっしりとした体格の白い口髭に細目の穏やかそうな老人だった。
「あー!」
その老人を見て、サヤが声を上げる。
彼女の顔はにやけており、その声にはからかいと、親愛を感じさせるものであった。
「ホイッグさん、またサボってる!」
「おお、サヤちゃんじゃないか。ああ、私は餡蜜で頼むよ」
「はい、かしこまりましたっと」
ホイッグと呼ばれた老人は愉快そうに笑いながら右隣のテーブルに着き、注文を行う。
全員分の注文を受けた女将は、厨房のある店奧へと向かっていった。
「マリナ、ホイッグさんはコクヤ関の警備隊長。わたしのお祖父ちゃんの友達なんだ」
コクヤ関とは、エイリス地区最北にある巨大関塞である。
ティルベリア侯国領とレゼ国領を繋ぐ唯一の街道に聳える交通の要衝。ティルベリア遠征以前に北方“蛮族”の侵入を防ぐために建設された五百年以上の歴史を持つ史跡でもあり、現在はエイリス地区の観光名所の一つとされている。
レゼ国とティルベリア侯国の領土はエイリス山脈に分断されており、そのエイリス山脈は極めて険峻、かつ、通行道が未整備なためレゼとティルベリアを往来するには必ずコクヤ関を通る必要がある。
その国境拠点に配置された警備隊を統率するのがホイッグ老人である。しかしながら。
「まあ、警備隊と言っても、壁の修理と観光案内が今の私たちの仕事みたいなものさ」
ホイッグの言葉には自嘲は一切無く、それを心から喜んでいる風であった。
「そんなこと言ってて万が一敵が攻めてきたらどうするの?」
「ティルベリアがかい? 五百年の友邦が? サヤちゃん、それは有り得ないさ。仮に攻めてきても、私みたいな戦力外の老いぼれがいなくたって問題ないだろうしね」
ホイッグの言う通りティルベリアは五百年の友邦であり、常にレゼと行動を共にしていた。その在り方は、友邦よりも属国と評すべき国家である。
建前としてはティルベリア侯爵家を主権者とする独立国家であるが、侯爵家はレゼ王家の家臣を祖とする一族であり、代々レゼ国の方針に従った政策及びレゼへの朝貢を行っていた。
大陸統一戦役の折にレゼと共に“グ”帝国に不戦帰順し、領邦間平等を謳う大“グ”領邦連合帝国に両国が組み込まれた現在でも、レゼとティルベリアの関係は旧来のまま維持され続けている。
また、ティルベリアの農産品や工芸品はエイリス地区のそれとほぼ同様であり産業・文化としての独自性も乏しく、レゼ=ティルベリア間の交易は殆どなされていない状況である。
それ故にティルベリアをエイリスより辺境の“レゼ最北地区”と呼ぶ冗談も存在している。
「ぬー、そうやってサボる口実を作るー!」
「はっはっは、サヤちゃんは手厳しいな。これは将来サヤちゃんが私の上司になったら、こってり搾られるかもしれないねえ」
レゼには軍事組織が大きく分けて二つ存在する。
マリナやサヤら騎士階級が属する「騎士団」と、平民階級の兵士で構成されている「兵団」である。
兵団は騎士団の下部組織であり、有事の際は兵卒として騎士の指揮下に入る他、平時においても兵団長職以下要職は騎士が就くこととなっている。
騎士階級と異なり平民階級は徴兵が行われる戦時以外は兵役義務が無く、平時は志願採用による少数の職業兵士が国境や都市の主要施設の警備や騎士団の指揮の下で警察活動を行っている。
このホイッグという老人は兵士職の平民であり、騎士とは異なる制服及び階級章を身につけている。
「まあ、いいじゃないか。私らがサボったり無駄飯食らいになる方がいいんだよ。平和が一番だ」
「それもそうだね。あはは」
レゼ国はおよそ十五年前まで南方の隣国ムルガルと戦争状態であった。
主戦場となった南方地区は未だに戦時の空気が残っていると聞くが、しかし、そこから遠い王都は既に戦争を忘却したかのような緩やかな空気となっていることをマリナは知っている。
況んや北方辺境のエイリス地区をや。
「ところで、こちらのお嬢さんは? 見ない顔だね」
ホイッグは細い眼を更に細めながら、マリナに声を掛ける。
「一昨日から王都からエイリス地区へと越してきました。よろしくお願いします」
「おお、王都から。そうか……そうですか。」
老人はマリナの言葉に、某かの意味を見出しているようであったが、それ以上は何も言わなかった。
それと同時に、女将が盆を持って戻ってきた。
「はい、お待たせしました。サヤちゃんはみたらし。お友達ちゃんとホイッグさんは餡蜜ね」
マリナとサヤの双方に緑色の液体が入った厚手のコップが出され、サヤの前に丸いものが刺さった串が三本乗っている角皿が置かれた。上には黄金色のタレが掛けられている。メニューにもあった「ミタラシダンゴ」なるものらしい。
次いでマリナの方に透明の蜜糖が入ったガラス細工の器が置かれる。中にはカットされたフルーツと桜桃、赤エンドウ、透明のゼリー、赤茶色のペーストが盛りつけられている。サヤ曰くゼリーは「カンテン」、ペーストは「アンコ」という名前とのこと。
見た目は涼しげで、透明なカンテンとガラスの器、フルーツの色合いが対比的で目を楽しませてくれる。
「食べてみて?」
サヤに促され、マリナは匙を持ち、まずは「アンコ」を掬い口に運ぶ。彼女の姿を、サヤはにやにやしながら眺めていた。
「どう、おいしい?」
「……初めての味」
甘い。とても甘い。そして、舌触りが独特。
サヤには申し訳ないが、少し苦手かもしれない。
*
虎庵での軽食の後、まずは極東街を巡ることとなった。
虎庵以外の茶店や飯屋、小間物屋を紹介して貰った他、通り道にフィリパとダイアナの家もあったため、サヤがそのことを教えてくれた。
彼女たちの容貌は極東系では無いが、極東街に居するモロー家もスローン家も極東作りの武家屋敷であった。
次いで極東街から足を延ばし、エイリス地区中心街を訪れる。
中心街もまた、女子高等騎士学校エイリス分舎より徒歩で訪れることが可能な距離であり、サヤ曰く中心街と極東街の土地勘を押さえておけば、エイリス分舎での暮らしには不自由がなくなるだろうとのことである。
中心街には政庁舎や裁判所、エイリス地区騎士団軍営といった地区政官公庁が所在する他、多くの商店や地方貴族の大型邸宅が存在している。そして何より目を引くのがエイリス大時計塔。公会堂に附属する、エイリスで最も背の高い建造物である。
官公庁舎や邸宅が最新鋭に建て替えられている王都とは異なり、全体的に古めかしい煉瓦造りや木造の建物が多い、趣のある街であった。
サヤの案内のもと、マリナはエイリス地区中心街の様々な場所を見聞する。
ティルベリア遠征記念館。初代ティルベリア侯爵と五百年前の極東移民の棟梁であったヒデマサ・ヤマノイの銅像が目を引く外観。地区政庁が観光名所としてプッシュしている様ではあるが、サヤ曰く大して面白くもないらしく、中には入らなかった。
昼食時間に訪れたロフクカフェ。バケットに加工肉や野菜類、魚介類などを挟んだ軽食が人気の店。複数種類のメニューがあり、店舗からテイクアウトして屋外のベンチでふたりで並んで食べた。
カミエ古書市場。マリナの要望でサヤが案内してくれた中心街にある古書店密集地域。幾つかの書店の店先では稀覯本を確認できた。辺境と呼ばれる土地故に期待していなかったが想定以上の品揃えで、マリナは心躍るものがあったが、サヤが少し退屈そうにしていたため長居は行わなかった。今度、ひとりで来てみよう。
エイリス地区立極東美術館。極東系移民の画工や陶工の作品が展示されているという。刀工による古刀・名刀も収蔵されておりサヤ曰く見所のある場所だそうだが、残念ながら休館日であった。
そして、最後に訪れた場所がサヤ一推しの場所。ロッカ園。
元々はエイリス地区騎士団総裁を代々務めているリスト家の私有庭園であったが、現在ではエイリス地区に寄贈され、公園となっている。
園内にはやはり桜の木を始め様々な草木が飢えられている他、小川が流れ、高台が造成されている。
夕暮れの中、サヤの後について高台を登ると展望台があり、そこから園内は勿論のこと園外の町並みも眺めることができた。
「きれい……」
夕焼けの下の古風なエイリス地区の町並み。異国情緒を醸し出す極東街の遠景。
そして特に目を惹くのが、園内を流れる川沿いに植樹された枝垂れ桜。
どれも、王都では見られない眺望であった。
「でしょ? ここがエイリス地区で一番桜が多い場所なんだ」
隣のサヤが自慢気に笑う。
展望台の周囲にもまた、桜が植樹されている。
「マリナと初めて会った時、桜の花を見ているようだったから、好きなのかなって。だから、わたしが一番綺麗だと思う夕暮れ時に、ここへ連れてきたかったんだ」
「え……?」
自分が桜の花が好きなのだと、意識していなかった。
思い返せばあの時、道に迷った不安の中で自分を誤魔化すかのように、自然とエイリスの桜に見とれていた。
その行動は本質的に自分が好んでいることを意味していて、サヤはそれを見抜いていたのだとマリナは結論づけた。
自分でも分かっていなかった自身の心を、サヤが分かっていてくれたことが、こそばゆく、そして、どこか嬉しい。
「では、改めまして――マリナ・ブライスさん、ようこそ、エイリスへ!」
夕陽で茜色に染まったサヤが、マリナに笑いかける。
同じくしてざっと風が吹く。景色の中で彼女と同じ色に染まった花びらが舞い散った。
綺麗だった。
とても、綺麗だった。
夕陽の中で風に舞う花が。
本当に、綺麗だった。
夕陽の中で笑う少女が。
自分に笑いかけてくれるサヤが、何よりも美しく、愛おしくマリナには見えていた。
(続)