閑話/ある女の夢
今日もまた、幸せな夢を見る。
あたしは幸せな夢を見る。
愛し合った人と過ごせた、幸せだった時の夢を見る。
それは、あたしにとっては何よりの心の慰めであり、同時に自傷行為だった。
それでもあたしは、今日もまた、幸せな夢見る。
チサ。貴女さえいてくれれば、あたしはずっと、幸せな夢を見ることができる。
*
十七歳の夜。中央女子高等騎士学校学寮の一室。
中央本舎魔術科に所属する騎士候補生ライザ・ナウェルは、下着の上に寝間着のシャツ一枚だけを羽織ったしどけない姿で、寝室にて爪の手入れをしていた。
今まで伸ばしていた爪を短く切り揃え、やすりで磨く。予てより爪に染料を塗って施していたマニキュアも今では全て解き、以前よりも一層衛生さに気を遣う。
その姿を、寝間着をしっかり着たルームメイトがベッドの上に座りながら不思議そうに声を掛けた。
「ねえ、ライザちゃん」
やや甘めの幼さを残す声。グラマラスなライザとは対照的に背が低く華奢な体躯に、ふわふわとしたした色味の薄い髪を伸ばした姿はおっとりとした雰囲気を感じさせる。
「ん? どうしたの、チサ?」
丁度爪の手入れを切り上げた時に声を掛けられたライザは、その声の主であるチサに目を向ける。
チサ。本名はチサ・ローゼンバッハ。ライザと共に中央本舎の魔術科に所属する騎士候補生。
「ライザちゃん、爪伸ばすのやめたんだ?」
「うん、そうだけど。何か気になる?」
ライザに問い返されると、チサは少し目を泳がせた後、残念そうな困り笑顔で言った。
「えっとね、ライザちゃんの爪のお化粧、すごい可愛かったし、とても似合うなぁって思ってたんだ。だから、やめちゃうの勿体ないなぁって」
のんびりとした口調で話すチサの言葉を受けて、ライザは照れたように笑って言った。
「あはは、ありがとう、チサ」
そして、ライザはチサと隣り合うように彼女のベッドの上に座って続ける。
「いや~、実はあたしも爪を整えるの好きだから迷ったんだけどさ……けど、チサ、痛いの嫌いでしょ?」
「うん」
ライザの問いに対して素直に頷きながらも、彼女の言葉の意図をつかめずにぽやっとしているチサ。その彼女の手に自身の手を重ねながら、ライザはほんのりと頬を赤らめて言った。
「だから、爪を短くするって決めたの。チサが痛い思いをしないように、ね?」
「そうなの?」
ライザの補足を受けても、やはりチサは不思議そうに首を傾げる。チサはかなり察しが悪く、どんくさい。
チサの余りにもぼんやりとした受け答えに、ライザは呆れて声を漏らす。
「チサ~……」
だが、それが愛おしい。
「もう――!」
「あっ……」
不意に、ライザはチサに唇を重ねる。
自分よりも小柄な彼女の顎に手を添えて、少し強引に口づけをする。
躰はぷるぷると震えているが抵抗はない。このまま舌を入れてもっとチサの内に侵食したいという欲が生まれるが、押しとどめて唇を離す。
「う、あぅ……ラ、ライザ、ちゃん……?」
ライザからの口づけから解放されたチサは、呼吸を乱す。その瞳は潤み、とろんと蕩けていた。
無防備で扇情的なチサの姿と、彼女にキスをした事実が重なり、心臓が爆発しそうになほど激しく脈打つも、ライザは平静さを装ってチサに言い聞かせるように言った。
「あたしたちはさ、もうこういう関係じゃん?」
そう、あたしたちは恋人。チサとあたしは、恋人になれた。
ずっと好きだったチサと、唇を重ねるまでになった。ずっと、小さい頃からずっと好きだったチサと。
チサのローゼンバッハ家は、代々ナウェル家に仕える家系であり、君臣の間柄にある。両家の関係と、ライザとチサが同じ年に生まれたことも相まって、幼少期からずっと一緒だった。
のんびり屋で、どんくさくて、それでも心優しいチサ。一緒にいると心が安らかになるチサ。
これからもずっと、終の時まで一緒にいたいと願える人。
「チサとあたしは恋人なんだからさ……だから、そろそろ……」
「そっか、わたし、もうライザちゃんとは友達じゃなくて恋人だもんね……けど、本当にわたしでいいの、ライザちゃん?」
やはりチサは察しが悪い。爪を短く整える意図をそれとなく理解させようとするライザの言葉を受けて、別の方向への問いをチサは返す。
だが、彼女の表情に不安感を見て取ったライザは、話の筋が逸れたことについては一切触れずにチサに笑顔を向けて言った。
「そんなの、いいに決まってるじゃん」
そう言って、ライザはチサを抱きしめる。安心させるかのように。離さないように。
チサに想いを告げ、恋人になった。その時、チサはとても喜んでくれた。自分もずっと好きだったと。それでも、チサはライザの恋人になることへの躊躇いも同時に告白した。
それは、ナウェル家が魔術師の家系であることへの躊躇い。
レゼの騎士階級では、家名の存続に際して自身の子供を必ず最重要視する訳ではなく、様々な事情から自身の子を為さずに血縁家系から養子を迎えて家名を存続させる家も少なからず存在している。
ナウェル家の本家筋にあたるジューコフ家も、現当主であるジューコフ将軍は七十に届く年齢であるが一度も伴侶を持たず子も為さずで、ナウェル家を含む複数の分家から後継者候補を選定しているという状況であった。
だが、そのような中で実子相続を絶対視する例外の家系の一つが魔術師の家系。魔術が親から子へと血を通して子々孫々と伝達される性質上、魔術師一族は実子を後継者にすることを最重要視する。
そのため、魔術師一族であるナウェル家に属するライザは、本来であれば同性と結ばれることは許されない立場。しかも、ナウェル家は代々数多くの王立魔術大学校卒業者を輩出している魔術の名家。
故に、ライザの家系のことを、チサは彼女と恋仲になることに対して今でも気に掛けている。だが――
「あたしはナウェル家を残すつもりはないから、チサは気にしなくていいんだって」
ライザは抱擁を解き、チサの両肩に手を置いて安心させるように笑いかけて言った。
「もう、ナウェル家はあたし一人の家なんだから、あたしのしたいようにするって決めたの」
ナウェル家の血を継ぐ人間は、もはやライザしか残っていない。兄弟はなく、両親は既に没している。
ライザの両親は父母共に王立魔術大学校を卒業したエリート魔術師であり、レゼ=ムルガル戦争では精鋭魔術師団の白梟魔道騎士団に所属して出陣し――そのまま二人とも戦死した。
ムルガルとの戦争初年の、ライザが七歳の時のこと。故に、自分が家法の魔術を子に継がせる役目を放棄しても、咎める者はない。ライザ自身も、家名や家法の魔術を存続させたいという思いは持ち合わせていない。成績こそは及第点を維持しているが座学にも魔術にも身が入らない昼行灯のライザにとっては、家の存続よりもチサの方が、チサと一緒に生きていく方がずっと大切なのだった。
「あたしのしたいことは、チサと一緒にずっといることだけだから」
「ライザちゃん……わたしも、同じだよ? これからもずっとそばにいたい……」
そして今度は、チサの方がライザを抱きしめる。自身を安心させるかのように。離れないように。縋るように。
チサもまた、ライザと同じ時に両親を亡くしている。薬師であったチサの両親もレゼ=ムルガル戦争では軍医として戦地へと赴き、そのまま帰らぬ人となった。
両親を亡くしても、高家格の上士であるナウェル家には長年の家臣や使用人は多くいるからライザは何不自由なく暮らしていけた。家臣の娘であるチサも、両親を亡くしたためにライザと同じ屋敷に住むことになった。
レゼ=ムルガル戦争よりも前から見知った中ではあるが、共に両親を失った侘しさを共感し合い、埋め合いながらライザとチサは生きてきた。
ふたりで寄り添いながら生きてきて、そしてあの戦争から十年経った十七歳の少女ふたりは恋人になっていた。
これからもずっと、そばを離れずに生きていくという誓いを互いに立てて。
「約束するよ、チサ。何があっても、あたしはチサを離したりしないから」
そう、チサを安心させるように言葉を告げる。その裏で、結局爪の話はできなかったなとライザは内心で苦笑していた。
*
そしてライザとチサが高等騎士学校を卒業して四年が経った。
ライザは卒業後、近衛騎士団総裁官房局での公職を得て、チサは薬師として民間経営の大規模な薬局に職を得ていた。
進路はそれぞれ異なっていても、ふたりの在り方は変わらず。チサはライザの恋人としてナウェル家の屋敷に同居していた。
私室は、高等騎士学校時代と同じく一つの部屋で、ただベッドの数は二つから一つになっていた。爪を整えていた意味もチサは十分理解していて、今ではちょっとした笑い話。
だが、昼行灯の如く過ごしてきた高等騎士学校時代とは異なり、ライザは総裁官房局では勤勉に働いていた。それも、夜遅くになってもなお、自室の机に向かって書類相手に唸るほどに。
そんな多忙そうな彼女に対し、チサはカップに注いだホットミルクを差し出す。
「ライザちゃん、ミルク、温めておいたよ」
「いや~、ありがとう、チサ。助かる~」
ライザはホットミルクを受け取り口に含むのを認めると、チサは心配そうに言った。
「ライザちゃん、大分疲れてるね……大丈夫?」
「あはは~……正直、ちょっとしんどいかも?」
口調こそ軽いものであるが、きっと表情には疲れの色が見えているだろう。
総裁官房局での仕事は、勤続年数を経るごとにきつくなっていった。
ライザが総裁官房局に公職を得たのは、チサと過ごす時間を確保するためだった。
同じ近衛騎士団でも、現場実務的な警察局は某かの事件発生の度に昼夜問わず仕事が入るから論外、監察局は得体の知れない場所で関わりたくなく、内勤中心の部局でも教育局は変わり者の王族が壟断しているが故に無茶振りが多く激務等々と他の部局と比較した上で総裁官房局を選んだ。
事実、最初の一年二年は仕事が少なく楽であった。仕事を早く終わらせれば、その分だけチサと過ごす時間が増えるからと職務に熱心に取り組んだ。だが、三年、四年と仕事がどんどん増えていき、勤務時間中に捌ききれないものは許可を得て自邸に持ち帰って対処するようになった。
こんなことであれば、ジューコフ一門と仲が悪いグラント家が治めているが故に多少の居心地の悪さはあろうが、ほぼ暇を託っていると噂される銀獅子騎士団に任官した方が良かったという思いもなきにしもあらず。
しかしながら、自邸での残務の整理であっても、チサがそばにいてくれれば大分気は楽になる。それでもやはり、体力は浪費するのであるが。
「ねえ、ライザちゃん、ちょっと休む?」
「うん、そうだね。少しだけ休憩しよっかな」
そう言うとライザはホットミルクを飲み終え、チサと連れ立って部屋に設えられている大きめのソファへと向かう。
チサがそのソファに座り、ライザはチサの太ももの上に頭を乗せて身体を横たえる。
「ふ~、癒やされる~」
冗談っぽく言いながら、ライザはチサの顔を見上げながら笑いかけた。
膝枕。細くて柔らかいチサの脚は心地よく、視界には彼女の可愛らしい顔が入る。冗談っぽく言っているが、本当に癒やされる。疲労感がどんどんと薄まっていく。
こうやってチサの存在を肌で感じられるひとときが、ライザにとって最も幸福な時間だった。
「膝枕するくらいでライザちゃんが元気になるなら、好きなだけしてあげるよ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん。それじゃ、今日は少し甘えよっかな?」
とはいえど、余り長時間すると終わった後にチサは痛そうな素振りを見せるので、そこそこに。そんなことを考えていると、つと、チサが声を掛ける。
「あ、そうだ、ライザちゃん」
「うん?」
「明日ね、ライザちゃんに話したいことがあるんだ」
その言葉を発するチサの頬は、ほんのりと赤らんでいた。
「そうなの? 気になるなー。明日とは言わずに今教えてよー」
「ううん、秘密。けど、ライザちゃんはきっと喜んでくれると思う……かな?」
のんびりとそう言うと、チサは幸せそうに笑った。それはきっと、自分だけでなくチサにとっても喜ばしい話なのだろうと理解できた。そして、彼女の態度から今言わずに明日言うことに意味があるのだろうと察し、ライザは言った。
「そっか。じゃ、楽しみにしてるね。明日はなるべく早く帰るようにしよっと♪」
「うん、早く帰ってきてね。待ってるから」
そう言って優しい表情をする、幸せそうなチサを見て思う
明日チサは、あたしに何を話してくれるんだろう。楽しみだなあ。気になるなあ。
チサが話したい内容に見当は全くつかないのだけど、それを言う時のチサは、きっと今よりもずっと嬉しそうな顔をするんだろうなあ――
*
チサはあたしに、何を話してくれるのだろう。そうずっと思い続けていた。
今でも変わらず、そう思っている。
だって、あたしの時間は、あの夜からずっと止まったままになったのだから。
だからあたしは、幸せな夢を見る。
チサと一緒に過ごせた、幸せな夢をずっと、見続ける。
*
「ん……?」
夕刻の病室。カーテンから漏れる夕陽の光を受けて、ライザは目を醒ます。
「あちゃ~……寝てたかぁ……」
腰を上げて、自分が病床の脇にある椅子に座りながら眠りに落ちていたことに気付き、ライザは自嘲気味に独り漏らす。
「はぁ……」
そして、深いため息をついた。
夢を、見ていた。
七年前の、チサと恋人になれた騎士候補生時代の夢。
三年前の、チサと一緒に暮らすことができた自分が最も幸せだった頃の夢。
だから、この胸は切り裂かれたように痛む。
「ごめんね、チサ。そばにいたのにうっかり寝ちゃった」
病床に目を向けて、その上に横たわるチサに向かってライザは申し訳なさそうに苦笑する。
だが、返事はない。
チサ。三年前に、全身を焼かれて、両脚を失ったチサ。
意識は戻ることなく、顔は火傷で爛れて変わり果て、身体中に管を繋がれてただ生かされているだけのチサ。
クロン市からの技術を導入した近衛騎士団医療局附属病院の処置を以てしても、ただ生かしておくことが精一杯のチサ。
もうあの頃みたいに、幸せな顔を見せることはない。あの頃みたいに、優しい声を発することはない。あの頃みたいに、膝枕をしてくれることなど叶わない。
それでもチサは、チサだ。あたしがただひとり愛した、チサ。
「チサ、寝てた時にあの日のこと、夢に見ていたんだ。チサが、あたしに話したいことがあるって言ってた夜のことを」
その次の日に、チサは身体中を炎に包まれ、両脚は破壊された。チサが乗っていた路面電車が爆破されたことで――
「ずっとあたし、気になってるんだ。チサが何を話したかったのかなって」
三年経った今でも、その答えはわからない。だから、ずっとあたしの時間は止まったまま。
「だから、今でも待ってるんだよ? チサが、話してくれるのを」
返事はないことはわかっている。
それでも、自分にはチサしかいない。チサしかいないのだから――そうライザは、力なくチサに笑いかける。
顔こそは笑っていたが、その心は凍ったままだった。
三年前から、今でもずっとライザの心は凍て付いたままだった。
(続)




