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騎士候補生少女譚  作者: 柳生 劣情(文章)&春畑 晴燕(設定)
第十一章 鳥は堕ちた
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姉妹の刻印

 リノが中央本舎を来訪してから数日が経過した。

 “脚食(あしは)みジャック”の捜査は未だ遅々として進まず、新たな被害者も出ることもなく停滞状態となってから時間のみが経過し、そしてリノの休暇日となった。

 休暇日の正午を過ぎて夕刻に近くなる頃。王都メキオに所在する近衛騎士団医療局附属病院の一室に、リノは訪れていた。

 長期入院患者用の病室。ベッドの上には人工呼吸器を初めとする様々な管を取り付けられた男性が無言で横たわる。

 リノの父。五十を少し越えた頃だが、痩せ衰えて髪も白くなったその容貌は実年齢よりも遥か上の老人を彷彿させる容貌。

「――ということがあったのよ、お父さん」

 ベッドの脇の椅子に座りながら、リノは父への言葉を語り終え、力なく笑った。

 自分を慰めるための、気休めの作り笑い。

 リノは休暇日や仕事を早めに終えた日は父の病室を訪れ、容態確認と共に近況報告を行っているのであるが――リノの父は四年近く昏睡状態であり、彼女が一方的に意識の無い父親に語るだけの営みだった。

 詮のないことだとは分かっている。自分の心を慰めるだけの自己満足に過ぎない。だが、そうせざるを得なかった。リノがそうしたかった。父が昏睡状態となったのは、自分にも責任があるのだから――

「……ああ、そうだ、お父さん、今日はね、リナが家に来るの」

 返事が来ないはずのない父親に対し、リノは語り続ける。

「リナと会えるのは、一ヶ月ぶりかしら……? 手紙はよくくれるのだけど……そうだ、この前にリナから貰った手紙に――」

 妹の話をするリノの表情は、より一層哀切を湛えていた。

 父に話をしながら、リノは自然と四年前のことを思い出す。リナがヴォルフ家に嫁いだ後、日を経て年を越えた頃――妹が夫から受けた仕打ちを知り、ひとりで抱えきれずに父親に話し、そして、父が病室で首を括ったことを。

 発見が早く一命は取り留めたものの、父はそれ以降、昏睡状態となり意思疎通ができなくなった。

 遺書が残されていたので、自殺の原因は分かっている。リナをヴォルフ家に嫁がせたことを悔いて、リナを止めなかったことへの自責の念に駆られたことによる自殺。

 そして、父を自殺に追い込むほどの事実を知らせたのは、自分。自分が、リナのことを父に話さなければ、或いは――そんな思いが、リノの内に燻っていた。リノが意識の無い父の元に通い、返事のない父に語り続ける営みには、父親への孝心のみならず、彼女の贖罪意識が多分に含まれていた。

 リナの手紙の話をする中で、つとリノは病室にかかる時計に目を遣る。時間的には、そろそろ帰宅するべき頃合い。今から帰れば、リナを迎え入れる支度はできるだろう。

 そう考えたリノは話を切り上げ、父の動かなくなった右手を握りながらぎこちない笑みを作って言った。

「……そろそろ、帰るわね、お父さん。また、来るから……」

 返事も、手の反応もない。

 分かってはいるのだが、それでもやはり胸の内の嘆息がより一層強くなり、リノは深いため息をついた。


    *


「あれ~、リノじゃん!」

 父の病室から出て、療養病棟の廊下を歩くリノの背に、聞き慣れた声がかかる。

 明るく、軽く、それでいて不思議と軽薄な印象を抱かせない声。

 振り返る。

「ナウェルさん?」

 視線の先には、リノの想像通りの人物がいた。

 ライザ。同じ強行第四班に所属する分析官……であるが、その姿は見慣れた騎士団制服ではなく柄物のシャツにショートパンツの私服姿。ネックレスやブレスレットなど装飾品も多くつけている派手目な装いであり、彼女が警察局の騎士であるとは誰も思わないであろう。

 リノと同じく今日を休暇日にしていたことは知っていたが、まさか同じ病院の、しかも長期入院患者の療養病棟で会うことになるとは流石に思いもよらなかった。

「まさかここでリノと会うだなんてね~。あはは~」

「そうですね……私も、意外です」

 ライザは笑いながら普段のように軽さを感じさせる態度を示し、リノは眉間に少しばかり皺を寄せながら若干ぎこちなく答える。

 父が長期入院していることはライザは元より強行第四班の面々には伝えていない。父が昏睡した経緯を省みると、自分の罪を告白の等しく感じてしまうが故に。

 問われれば答えるが、できうる限り触れてほしくないという思いがある。

 しかしながら、ライザはリノのそんな心境を知ってか知らずか、彼女の姿を探るように見た後に苦笑しながら言った。 

「そう言えば、リノの私服初めて見たけど……なんというか、変わらないね」

 休暇日故にリノは普段の騎士制服から私服を着ているが、その姿は白無地のシャツに細身の黒ズボン。色合いが違うだけで、その姿はジャケットとネクタイを外した警察局制服姿と殆ど変わらない。一応、女性騎士の警察局制服についてはズボンとスカートを選択できる他、嗜んでいる武芸や魔術に基づき独自改良も恕されているが、リノは常に無改造のズボン姿であった。

「そうですね。私は動きやすさ以外の点では衣服には余り拘らないので……」

「え~、勿体ないよ~! リノは地味に顔は整ってるから、お洒落すれば映えそうなのにさ~。あっ、あと表情も柔らかくすること込みで」

「はぁ……褒められているのですか、それは」

 ライザの言葉にリノは呆れてため息をつき、眉間に皺を寄せる。だが、呆れながらも彼女から切り出された話題が病院を訪れた理由ではなかったことに少しばかり安心する思いがあった。

「褒めてる褒めてる~……って、もしかしてリノ、病院から帰り途中だったりする? 何かこれから用事とかあったり?」

「はい。これから少し人と会う予定があるので……」

 ライザの問いに口を濁しながら、リノは答える。これから妹に会う。妹がヴォルフ家に嫁いでいるという話は何かの機会に彼女にしたことはあるのだが、こちらもリノにとっては余り他者に触れられたくない事柄であった。

 するとライザは少し残念そうな口調で、笑いながら言った。

「そっか。なら、引き留めるのも悪いね。じゃ、明日また職場で~」

 軽く手を振りながら別れを告げるライザの顔は、笑っていながらもどこか切実なものがあるように、リノには見えた。

 ライザ――ライザ・ナウェル=ジューコフ。

 レゼ騎士団のトップに立つジューコフ全軍総裁の一門の家系。元は“ライザ・ナウェル”という名であったが、昨年の暮れに子供のいないジューコフ将軍の後継者候補の一人として選定されたことで姓を“ナウェル=ジューコフ”に改めている。

 年齢はリノと同じく二十四歳であり、刑事部への配属も同じ時期。だが、リノや他の強行第四班のメンバーと異なり、ライザは警察局内の他の部から異動してきたのではなく局外からの異動者であった。

 同じ騎士団内でも部局ごとの独立性が極めて高く、それぞれ別組織のような実態を持つ近衛騎士団において、ライザのように局を跨ぐ異動というのは極めて珍しい。ましてや彼女が元々所属していたのは総裁官房局。近衛騎士団総裁であるカーター卿の直属組織であり、監察局など一部の特殊部門を除けば警察局ら他の部局に対する統率権を持つ中枢機構。その権限の強さ故に、総裁官房局に所属できるのは家柄と能力を認められた者であり、また、将来的にはより上位組織である軍政司令部への昇進も視野に入るエリートコース。

 部局間異動はただでさえ稀な上に、それがエリートコースたる総裁官房局から泥臭い現場主義的な職務の多い警察局への異動というのはまさしく異例中の異例。

 だが、その理由をライザは決して語ることはない。それを問う者もいたが、彼女は笑ってはぐらかし続けてきた。

 快活でノリが軽くそれでいて本質的な部分は語らないライザは、その姿勢を自身だけでなく他者にも適用しているようであった。

 話し好きでリノも含めた強行第四班の同僚達とのコミュニケーションは欠かさず、後輩の分析官であるアイリからは特に強く慕われている一方で、他者のプライベートに関することは相手が語らない限りは触れようとしない。

 今のリノとの会話もそうだった。リノが長期入院患者の療養病棟にいる理由は問わず、そして自分がいる理由を語らず。

 そのライザの在り方は父や妹への嘆きを常に抱くリノにとっては付き合いやすいものであった。

 だから、リノも踏み込まない。笑いながら切実さを覆い隠しているように見えるライザの姿に、気になるものはないと言えば嘘になるが、彼女が自ら語らない以上、自分が軽々しく踏み込むべきではないとリノは考えた。

「ええ、また明日」

 故にリノはライザに短く返すと、踵を返して歩を進める。

 他者に踏み込まないとは言えど、彼女の明るい雰囲気は昏睡状態の父の見舞いに来た直後で普段よりも暗澹としたリノには少しばかり気持ちが軽くなる効用があった。だからもう少し彼女と立ち話をしていたかったという若干の名残惜しさは否めない。

 だけど、自分にはやるべきことがある。これから病院を出て家に戻り、そしてリナを迎え入れる。自分のただひとりの妹であり、そして、何よりも、誰よりも向き合わなければならない相手を――

「はぁ……嘆かわしい」

 廊下を歩きながら、リノは重々しいため息をついて独りごちた。

 

    *


 日が落ち空が薄暗くなる頃。リノは自室へと戻っていた。

 庶民居住地区に所在する、古びた集合住宅の小さな一室。アケローン家が破綻して、一年に満たない期間だけ妹とふたりで一緒に暮らした部屋。

 玄関にほど近いダイニングでリナを迎える支度を終えて、時計に目を向ける。そろそろ、妹が来る予定の時間であり――不意に、玄関のドアを叩く音がリノの耳に入る。

 リノは玄関へと向かい、ドアを開く。

「ただいま、お姉ちゃん」

 開いたドアのその先から耳に馴染んだ声が聞こえ、見慣れた姿が目に映る。

 リナ・ヴォルフ。名門上士ヴォルフ家へと嫁いだひとつ下の妹。

 (リノ)と同じく薄い金色の髪に薄翠色の瞳をしていて、長身の(リノ)と異なり同年代の女性としては平均的な背丈。

 黒を基調とした膝丈のワンピースには上から下へとグラデーションがかかり、暗藍色の裾には金銀の糸により星空を思わせる装飾が施されている。

 髪は一緒に暮らしていた時と同じように肩に掛かる程度に伸ばされていて、然れども、一緒に暮らしていた時とは異なり左の前髪は伸ばされ、顔の縁から鼻へと下から上へ斜めに切り揃えられている。それはまるで、顔の左半分を前髪で隠すがごとし。結婚してから伸ばすようになった、左髪で。

 表情は微笑んでいるが、その顔には幾ばくかの侘しさがあり、いつも太陽のような笑顔を振りまいていた少女時代の妹とは変わってしまったことをリノに実感させる。

 そんな妹の姿を認めると、リノはぎこちなく微笑んで言った。

「リナ、おかえりなさい」

 そう短く言って、リノは妹を迎え入れる。その短い言葉の遣り取りを、リノは噛みしめる。

 リナがリノに言った“ただいま”という言葉。それは、リナが自分の居場所をヴォルフ家ではなく、かつてリノとふたりで暮らしたこの小さく古びた部屋に定めていることを、リノに理解させていた。例えリナの肉体がヴォルフ家にあろうとも、彼女の心は常に姉妹で暮らしていた場所を求めていることを、リノに理解させていた。痛いほどに。痛むほどに。

 だからリノは妹を迎え入れる時に“おかえりなさい”と言葉をかける。それが少しでも妹の心の慰めになるのであればという想いが、その小さな言葉に込められていた。

 そしてリノは、リナの手を取って言った。

「部屋の支度はできてるから、入って」

「うん、お姉ちゃん」

 リナは嬉しそうに笑って頷く。けれども、繋いだリナの手は前よりも細く、力が弱くなっているようにリノには感じさせた。

 

    *


 妹と過ごす時間は、毎回殆ど同じだった。

 夕方にリナがリノの元を訪れ、部屋に通すとリナから騎士団や近況について話が聞きたいとせがまれて、それに応じて妹と会話するうちに夕食時となる。

 夕食は、リノが作った簡素なもの。軽めのパスタや、薄めの麦粥、簡単な米の炒め物等々。

 余り凝ったものは作れないのであるが、リナが一緒に暮らしていた時と同じものを食べたいという希望に添った結果。

 夕食を取り終えた後は、その日の夜の内にヴォルフ家から迎えが来ることもあれば、リノの部屋に泊まっていき、翌朝に迎えが来ることもある。今日は、泊まりの日。ヴォルフ家に帰らず、リノの元に泊まれる日のリナは、そうでない日のリナよりも笑顔がより昔に近づく。

 その笑顔は懐かしくて、愛おしくて。

「そうだ、リナ」

 姉妹の夕食を終えて後片付けを一通り済ませたリノは、ダイニングテーブルに着いているリナのもとに向かいながら、声を掛ける。

「どうしたの、お姉ちゃん?」

「これ、リナに食べてほしいと思って……」

 そう言いながらリノは、妹に新しい皿を差し出した。

 その上には数切れのパウンドケーキ。形が少し歪な、リノの手作り。ナルミにレシピを教えて貰い、リナの訪問日に向けて幾度か練習したのではあるが、ついぞ満足いく出来に至らず。

 それでもリナは、姉から出されたパウンドケーキを目にして、ぱっと表情を明るくさせる。

「パウンドケーキだ! もしかして、お姉ちゃんの手作り?」

 その表情は太陽の如く輝き、幸せだった少女期に近い顔をリナは見せていた。

「ええ……その、上手くできてるかどうかは、わからないけど……」

 妹の嬉しそうな反応に、多少の照れくささを感じてリノは幾ばくか頬を赤くし視線を逸らす。そんな姉の姿にリナは屈託のない笑顔を向けて尋ねた。

「ううん、とってもおいしそう! ねえ、わたしがこれ、全部食べていいの?」

「勿論。リナのために作ったのだから」

 リノはダイニングテーブルを挟んでリナの向かい側に座りながら答えると、今度はリナが頬を赤らめて表情を緩める。

「えへへ、嬉しいな。ありがとう、お姉ちゃん!」

 そう言ってリナはパウンドケーキを一切れ口に含み、食す。

「どう、かしら」

「うん、おいしい! 小さい頃、お母さんが作ってくれたよねー」

「そうね。懐かしいわ……」

 亡くなった母は、よくおやつにパウンドケーキを作ってくれた。それが自分も、妹も大好きだった。

 紡績工場の事業も順調で、母が生きていて、妹はいつも輝いていて、私は将来のことで両親と喧嘩をしていたけれども、それでも、間違いなく幸せだった時代。

 何もかもが、懐かしい。

「けど、私が作ったものはお母さんが作ったのと、味は随分違うと思うけども……」

 妹に聞かせる意図もなく、ふとリノはひとり呟いた。

 母からはパウンドケーキの作り方は習っておらず、自作のものと味は程遠いという自覚はあった。作り方もナルミに習ったため、どちらかと言えば“止まり木”の味に近い……否、そこからも遠く、余りいい出来ではないという自己評価であった。

 それでも、リナは喜んでくれていた。

「そうだね。けど、わたし、好きだよ、お姉ちゃんの作ったパウンドケーキの味も」

 そう言ってリナはご機嫌な子供のように首を左右に傾げながらリノに笑いかける。

 その時、リナの左前髪が揺れて、合間から隠していた肌の部位が見えた。

(――――)

 その瞬間、リノの心が凍り付く。

 前髪の隙間から見えた、爛れた皮膚――リナは、額から目の下部に至る顔の左半分に、火傷を負っていた。

 夫に、つけられた疵痕。

 結婚してからすぐに、リナは夫から過酷な暴力を受けるようになった。

 顔を撃たれ、腹を蹴られ、時には肌を針で刺され、縄で吊し上げられ、顔は直接火で炙られて――

 リナの夫。名門ヴォルフ家当主の息子であり、近衛騎士団教育局の幹部として公職に籍を置きながら、一門の営む商業活動にも従事する有能な若者。

 だが、その能力こそ優れていたが、人格は劣悪な破綻者であった。

 リナの夫は、重度の嗜虐趣味を持つ。後から知った話であるが、リナと結婚する以前の時期からヴォルフ家に仕えていた無登録民のメイドを幾人か虐待死させていたという。

 無登録民は人にあって人に非ず。他人が買い取った奴隷でない限りは、レゼ国民が無登録民を傷つけようが殺そうが罪を科せられることはない。他者の飼うペットの犬を殺せば罪を問われるが、野良犬を殺してもレゼの法としては罪を科さないのと同じ理路。

 それでも、実際に故なく無登録民を殺傷する行為にリノは嫌悪感を拭えず、それはリノのみならず多くの騎士や貴族ら無登録民を奴隷とする社会的強者側に共通する感覚である。

 だが、ヴォルフ家の息子は気にくわない無登録民の奴隷を殺すことを、まるで戦場の武勇譚の如く堂々と語る醜悪な人物であった。

 それも、商業取引の相手にも平然と語るほどの――だから父は、ヴォルフ家の息子の残虐さを知っていた。

 だから父は、リナが家のためにあの男と結婚することについて、リナの意思を尊重すべきと苦悩に満ちた声で言った。あの時の父の絞り出すような声は、アケローン家を救うために、残虐な男に娘を嫁がせる苦渋と、無登録民の奴隷を殺すような相手でも騎士階級の伴侶を傷つけたりはしないだろうという祈りめいた希望と、それを打ち消すほどの不安と不信が入り交じっていたが故だと言うことを、真実を知った後にリノは気付かされた。

 そして、だから父は――リナが夫から虐待されているという事実を知って、自責の念に耐えられずに病室で首を括った。

 無登録民の奴隷を平然と殺すような精神性の人間であれば、自分の伴侶であっても容易に傷つけうる。その容易な予測から敢えて父は目を逸らし、リナはヴォルフ家に嫁いでいった。

 だが、あの男の本性を承知していたのは父だけでなく、リナもそうであった。何故ならば、あの男が奴隷を殺す話をする商談の場に、父の事業の手伝いをしていたリナもいたのだから。

 だからリナは、相手の残虐性を知りながらも、結婚を承諾していた。

 父も、リナも、知っていた。知らなかったのは、私だけだった。

 そして私も、リナの結婚後にあの鬼畜の正体を後に知ることになった。


    *


 ヴォルフ家との縁組後、リノは妹から頻繁に手紙を受け取っていた。

 リナの住むヴォルフ家の邸宅と、リノが住み続けていた集合住宅は同じ王都でもかなり距離があり、警察局の仕事の多忙さも相まって直接会いに行く機会を作れず、手紙が姉妹の主たるコミュニケーションとなっていた。

 リナからの手紙は、いつも似たような文面であった。父と自分の近況を知りたいと言うことと、自分は幸せに暮らしているから心配しないでという言葉。

 受け取った手紙に、リノは言語化しがたい違和感を常に覚えていた。入院していた父にもリナの手紙を渡していたが、何も語ることはなかった。ただ、父は眉間に皺を寄せて不安げな顔をするだけだった。

 得体の知れない違和感を覚えながらヴォルフ家の妹と文通する中で、ある日、普段とは異なる郵便物がヴォルフ家から届けられた。

 手紙ではなく、大判の封筒。差出人の名前はリナだが、筆跡はリナとは異なっていた。

 訝しみながら封を開けると、中には大量の写真があった。

 その全てがリナの写真――苦痛に顔を歪ますリナの写真。

 それは、凄惨な虐待の記録。

 顔に痣をつけて涙を流しながら、怯える妹の写真。裸にされ、縄で吊されて身体中を傷つけられた妹の写真。

 両手と両脚を拘束されて、虚ろな表情で床に打ち捨てられた妹の写真。焼き鏝を顔の左側に押しつけられて泣き叫ぶ写真。

 愕然とした。我が目を疑った。それでも、間違いなく妹の姿だった。

 脳が弾けて粉々になったうように、思考が白んだ。

 叫んだ。猛った。その場で写真を全て燃やし、嘔吐した。

 何故。どうして。そんな言葉が頭を巡り、沸々と怒りが込み上げ、溢れ、止まることは能わず、気付いた時には夜になっていて、私はヴォルフ家の屋敷にいた。

 リナを取り戻す。それしか無かった。

 だが、現れたのは妹を傷つけた鬼畜。リナの夫は、リノの姿を認めるとニヤニヤと笑って言った。

 その表情が見たかった。妹を玩具にされた姉がどんな顔をするのか見てみたかった。だから、写真を送ってみた。姉妹の両方を弄んでみたかった。まさかすぐに乗り込んでくるなんて、思った以上に愉快だ。

 意味が、わからない。言っている意味が、わからない。

 言葉は通じるが、どうしてそんな考えができるのか、わからない。

 わかりたくもない――もはや家も自分の立場も、全てが霧散した。

 怒り、狂い、リノは腰に帯びた剣を抜いてリナの夫を斬り伏せようとした――だが、すぐにヴォルフ家の配下の騎士達に取り押さえられた。

 ヴォルフ家の郎党に取り押さえられ、屋敷から引きずり出されたリナに対して、その男は嘲笑しながら言った。

 妹をなぶり者にされた姉の顔を見られた礼に、今日のことは不問にする。リナには明日にでも、そして時々には会わせてやる、と。

 その言葉通り、次の日にリナはリノの部屋を訪れた。

 まだ左の前髪は目元に届く前の、生々しい火傷の痕が露わとなった妹の姿。

 リノはこのままヴォルフ家に帰らず、離縁すべきだとリナに言った。だが、リナは姉の言葉を拒否をした。

 リナは言った。

 ヴォルフ家と縁を切ったら、負債肩代わりは帳消し。父の入院費の援助も打ち切り。そして、現状ではリナの夫の一存で不問とされたヴォルフ家でのリノの行為を罰して、公職追放がされると。

 だから、自分は全然平気だし、お父さんには元気になってほしいし、お姉ちゃんにも憧れていた騎士を続けてほしいから、離縁は行わないと。

 自分のことは気にしなくていいと、自分がどんな目に遭おうとも、お父さんやお姉ちゃんが傷つく方がつらいから、そのままでいいと。

 そう姉に告げるリナは、リノに心配しないでと小さく笑顔を向けるが、その顔には幸せだった時の太陽のような光はなく、ただ目の前の姉に対して自身の苦しさを糊塗しようとする暗い優しさがあった。せめて、姉には憧れていた騎士のままでいてほしいという妹としての切実な願いがあった。

 耐えられなかった。

 妹が夫から余りにも非道な扱いを受けていることも、自分たちのためにその境遇を是として耐えていることも、妹の犠牲の上で今の生活が成り立っているという事実も。リナが、優しすぎるのも。

 だから、リナがヴォルフ家に戻っていった後に、耐えきれなくなった私はリナの現状を父に話し――自殺に追い込んだ。リナを悪鬼に嫁がせた後悔を綴った遺書には書かれていなかったが、或いは、自分が死ぬことでリナをヴォルフ家に縛り付ける鎖を一つでも解きたいという想いもあったのかもしれない。だが、もはや父の口から真実の想いを聞き出すのは不可能だろう。

 いずれにしろ、父は昏睡状態となり、妹は悪鬼に虐げられ続け、自分の手に残ったのは騎士という職務だけだった。

 幼い頃から夢見ていた騎士。

 本来であれば家を継ぐ長子の自分の代わりに、妹が家業を継ぐことで得た騎士の地位。妹がヴォルフ家の息子から虐げられ続けることで成り立っている騎士の地位。

 それでも、自分がどんなに酷い目に遭っても、続けてほしいとリナから願われた騎士の地位。

 だから、私は騎士らしくあろうと決意した 妹を犠牲にして得た騎士としての人生だからこそ、自分の信じる騎士としての正義に忠実であろうとしていた。

 小さい頃に憧れて、妹にそうなってほしいと願われた正義の騎士であろうとした――だが、それも三年前の路面電車爆破事件捜査の挫折で霧散した。妹を犠牲にした自分でも具体的な誰かを救える騎士になれるという望みは、潰えることになった。

 リナの犠牲への報いも、その時に出会ったナルミへの想いも、貶められた。ただただ、嘆きが渦を巻き、罪悪感に心が埋め尽くされた。

 故にこそ、未だに残るリナの顔の火傷は、リノにとっての罪の刻印(スティグマ)となった。

 自分の夢のために妹を犠牲にした罪であり、妹が犠牲に報いるような騎士としての在り方を貫けなかった罪。リナの火傷の痕を見る度に、リノは自身の罪を突き付けられたような冷たさを覚え、心が凍り付く。


    *


「わたし、大好きだよ、お姉ちゃん」

 告げられるリナの言葉に、罪の刻印(火傷の痕)に凍て付いたリノは気を取り戻す。

「リナ……?」

 凍った心を溶かしながら妹に言葉をかけると、リナは笑いかける。

「パウンドケーキ、とってもおいしいもん」

「そう……喜んでもらえて、良かったわ」

 妹の言葉を受けて、リノは安心したかのように言って小さくため息を漏らす。

 結婚当初よりは少なくなったものの、リナは今でも暴力を振るわれている。父と、私のために。

 だから、せめて、自分と一緒にいる時間は、リナに少しでも喜んでほしい。

「ねえ、お姉ちゃん、覚えてる? お母さんのパウンドケーキ、一緒に食べた時に、わたしがどうしてももっと食べたくて、それで、お姉ちゃんが半分わけてくれたことあったよね?」

 一つ目を食べ終え、二つ目のパウンドケーキに手を伸ばしながらリナは言った。彼女の言葉を受けて、リノは首を傾げながら言った。

「そんなこと、あったかしら……?」

 その言葉にリナは幼子のように口をとがらせながら、抗議するように言った。

「あったよー! すごく小さい時だったからお姉ちゃんは覚えてないかもだけど、わたし、すごく嬉しかったから覚えてるもん!」

 そして、リナは懐かしむように微笑んで、リノに告げる。

「お姉ちゃんは、小さい頃からずっと優しかったよね……今日もわたしのために、パウンドケーキ作ってくれたし……本当に、大好きだよ、お姉ちゃん」

 素直な、偽ざる愛情の言葉。自分を犠牲にすることを厭わないほど大好きな姉に対する、妹の純粋な思慕。

「リナ……」

 その言葉を受けて、リノはやはり目を逸らす。

 妹の純粋な愛情は、リノにとってはつらかった。その笑顔と好意が、リノにはつらかった。

 自分がそれほどの愛情を妹に向けられるだけの価値があるのか、リノにはわからなかったから。

 妹を救うことも、犠牲に報いることも、正義を貫くこともできない、こんなにも罪深くて愚かな自分にそんな価値があるのか、リノにはわからなかったから。


(続)

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