追放令嬢
大陸中西部の王制国家レゼは「王族」「貴族」「騎士」「平民」の四階級制を採用している。
王政府の要職はほぼ貴族に占められているが、騎士団関連の高官は基本的には「上士」と称される騎士階級のエリート層が担う体制となっている。
王都に居する魔術の名門ブライス家は、上士の中でも特に格の高い家柄であり、現当主のシグ・ブライスは騎士団副総裁の地位にある。
そんな家にいることが私にとっては――苦痛だった。
その理由の根源は、ブライス家の家法にあった。
ブライス家は、呪詛魔術の大家。古くは時の権力者に取り入り、政敵を呪詛により死に至らしめることで重宝され、畏怖され、のし上がってきた家系だ。
血と呪いによって名門となったブライス家。
私はそのブライス家の魔術に、馴染むことができなかった。
ブライス家の呪詛魔術は、生贄を用いている。虫や小動物、そして時には人間をも“使用”する。
私が初めてブライス家の魔術に触れたのは六歳。
屋敷の地下にて、一つ年上の姉と一緒に、父に付き添われながら行った儀式。
小動物の血と命を用いて呪を生じさせ、それを使役し対象に取り憑かせて生命を滅ぼす初歩的呪法。
初歩とはいえども人をも殺せる呪法である。
その呪法の練習のために用意されたのは生贄用と呪の憑依先用の子犬二匹だった。
父は私に生贄用の子犬を、呪印が刻まれた短剣を用いて教えた通り解体することを命じたが――私には、殺せなかった。刃を突き立てる寸前に取り落とし、その場で吐いてしまった。
罪もない動物を殺すことが、六歳の私には耐えられなかった。
あの時の、失望した父の蔑むような目を、私は忘れられないだろう。
あの時の、妹の代わりに子犬を解体して血塗れとなった姉の哀れむような顔を、私は忘れられないだろう。
姉という後継が存在している以上、私は姉の予備でしかない。そして、その役割すら全うできない娘だとあの時に父から見なされてしまった。
同時に私自身も生まれ育っていたため気付かなかった屋敷の生臭さに、父が漂わせる陰惨な臭気に耐えられなくなってきた。
それ以降、私は地下室に降りてブライス家の呪法を学ぶことはなかった。
不出来な娘に構うような時間はないと、父は判断したのだろう。
父から見放され、父の後継者として日増しに死臭が染み込んでいく姉とも会話することが無くなっていった。
そんな私に対する唯一の味方が、母だった。
母は賢くて、優しくて、美しい人だった。父が持つ死臭を一切感じさせない人だった。
母から受け継いだ翡翠の瞳が、私の持てるただ一つの誇りであり、自愛。
本が好きだった私に、母はブライス家の呪詛法の代わりに、文書魔術の手解きをしてくれた。
魔術を込めた紙に古代文字を刻むことで効果を発揮する魔術。
紙が鳥の形となって飛び、本を開くと火が出たり風が吹いたりする文書魔術に、私は魅せられた。
何よりも、家でただひとり心を許せる母が魔術を教えてくれることが、嬉しかった。
だけど。
その母も、私が十一歳になる頃には病で亡くなった。
母の形見は、翠色の瞳と、文書魔術と、一葉の写真。
かつて父が開催委員長を務めていた王都剣術大会の優勝者を招いた閉会パーティにて、工業都市クロンで作られたカメラという道具により切り取られた瞬間。
父と、姉と、母と、九歳の私。そして剣術大会で優勝した黒髪の少女の姿が写っている。
それが唯一の、私と母が一緒に収まっている肖像。
母が死んだ後でも私はブライス家の呪詛法の修練は行わず、密かに文書魔術の勉強をしていた。父がそれを気付いていたかどうかはわからない。気付いたとしても何も言わないくらいには、私に無関心だった。
十三を迎える年になる少し前、私は父から女子幼年騎士学校に入らなくていいと言われた。
レゼの騎士階級には兵役義務があり、上級下級問わず騎士の家の子女は一定の年齢になると騎士学校に所属し、専門の教育を受けることとなる。
但し、王都に住む最上位の騎士とそれ以外の騎士には教育格差が存在している。
王都の騎士の子女は齢十三を迎える年に、王都の中央幼年騎士学校に入学し三年の教育の後、中央高等騎士学校で二年の教育を受けるのが通常のプロセスで、更に騎士大学校、王立魔術大学校などの高等教育機関への進学も行われている。
一方で王都の最上位騎士以外の家の子女に対しては中央幼年騎士学校に相当する教育機関は存在せず、齢十六を迎える年にその土地にある高等騎士学校地方分舎で二年の教育を受けるというプロセスであり、教官養成のためにある地元の師範学校以外の高等教育機関へは門戸が基本的には閉ざされている。
ブライス家の娘である私は十三になる年には中央女子幼年騎士学校に入学するはずであったが、父は私にそれを認めなかった。
ブライス家と同格や、格下の家の娘たちがいる中央女子幼年騎士学校に通わせ、不出来な娘を衆目に晒すことを父は了としなかったのだろう。
十三を迎える頃、姉は既に女子幼年騎士学校に通っていたが、私は変わらず屋敷にいるままであった。
父は私に対して冷淡であり無関心。姉も平時は幼年騎士学校に行っていて不在。使用人達は私を腫れ物のように扱い敬遠している。
私は屋敷で独り、母が教えてくれた文書魔術の鍛錬をしていた。孤独ではあった。だが、孤独であることが心の安寧でもあった。
そして、十六になる年の三ヶ月前、私は父から高等騎士学校は王都の中央女子高等騎士学校ではなく、北方辺境のエイリス分舎へ通うように命じられた。
幼年騎士学校は通わせずとも、兵役義務がある以上は高等騎士学校には必ず行かなければならない。故に、王都から遥か遠くの僻地にあるエイリス分舎に私を入学させることを父は選んだ。
端的に言えば、私はついにブライス家から追放を宣告されたことになる。
だけど。
だけど――それは、父から与えられた言葉によって初めて得た喜びであり、安堵であり、希望であった。
あの時の私は、ただただこの家から逃げたかった。
血と屍の臭いに満ちたブライス家から、日の当たる場所へ逃げ出したかった。
*
一年と少し前。エイリス地区より南方の街道。
木板で建てられた家屋がまばらに建ち並び、開花前の山査子が生う田舎道を、一台の馬車が北にゆっくりと進んでいた。
「申し訳ございません、マリナお嬢様」
まるまると太ったちょび髭の馭者、ブライス家使用人のラッソがキャリッジに乗る少女に声をかける。
白絹のジョーゼットワンピース。翠眼に薄茶のお下げ髪。
マリナ・ブライス。十五歳。レゼ騎士団副総裁を務めているシグ・ブライス卿の次女。
「エイリスには鉄道が通っていませぬ故に、このような移動手段になってしまいまして」
「いいわよ、別に。ラッソのせいじゃないし」
レゼ国は東方の工業都市クロンとの提携で鉄道が敷設されたいた。
馬を使わず、魔術も使わず、クロンが誇る工業技術の力によって線路を列為し走る巨大な車。
東方のレゼ領とクロンを繋ぐ路線に始まり、王都メキオを中心に東西南北の主要都市を繋ぐ鉄道網が構築されている。
しかしながら、レゼ国最北の辺境エイリス地区までの鉄道は建設されておらず、王都より北部の都市イザシュワまで列車で行き、そこから馬車に乗り換えて街道を進み行くこととなった。
「ですが、辺境と言えども王都と同じく水道や電気は通っております故に、ご安心くだされ」
「そう」
その言葉に、マリナは少しだけの安心感を得る。
水道というものが作られ、井戸から水を汲む必要が無くなった。電灯というものが作られ、夜に火を灯す必要が無くなった。
いずれもクロンよりもたらされた工業技術の賜物であり、王都暮らしをしていたマリナにとって、電気や水道がない生活は考えられなかった。
クロンの工業技術は、確実にレゼの人々の生活を豊かにしている。
「魔術で、そういうことができたら良かったのに……」
マリナは独りごちる。ラッソには聞こえていないだろう。
魔術。
それは、人の生き方をよりよくするためのもの。世界をよりよいものに導くためのもの――ブライス家の呪法を拒絶し、魔術自体に忌避感を抱いていた幼いマリナに、母から贈られた言葉であった。
その言葉は、子供を教育するための建前や奇麗事だというのはわかっている。
人を殺すことに特化したブライス家の呪詛ではなくとも、魔術は争いに使われているし、これから自分が行く高等騎士学校でも戦闘技術としての魔術の教練が行われている。
そんな浮世離れをした言説を述べたら馬鹿げていると笑われるだろうが、それがマリナの願いであり、魔術を続ける意味であった。
「ところでマリナお嬢様」
「どうしたの?」
馬を御しながら、ラッソは心配そうに目線を送る。
「エイリス地区での暮らしは、お気をつけくださいませ。彼の地には“極東人”が多いです故に。あ奴らは何を考えているかわかりませぬ故に」
レゼ国には大陸の“極東”と呼ばれる地方に由来する人々が少数ながら住まわっている。
中央の王都では余り見られず、国土の北側、特に最北のエイリス地区に極東移民の末裔である極東系レゼ人が多く住んでいるという。
エイリス地区はレゼ北方のティルベリア侯国領と接しており、そのティルベリア侯国成立に極東移民との縁が存在している。
レゼの史書曰く、かつてティルベリアは“蛮族”が支配する地であり、度々レゼの地を侵していたという。そのような中でおよそ五百年前、レゼ王家はティルベリア遠征を行い“蛮族”を駆逐。同地に遠征の総大将となったレゼ王室の姻戚であるティルベリウス侯爵が封じられた。
これが現在まで続くレゼの友邦ティルベリア侯国が建国される流れだが、その五百年前のティルベリア遠征において、レゼ側の大きな戦力となったのは極東移民達だった。
レゼの史書では詳細は述べられていないが、極東地方の何らかの天災があり、そこから逃れた極東移民達はレゼ国まで流れ、エイリス地区に居住していたという。
後のティルベリア領と隣接する土地故に蛮族侵攻の害を直接被っていた極東移民はレゼのティルベリア遠征に積極的に協力。独自の極東武術と勇猛さから戦果を挙げ、その功績から極東移民は騎士階級に叙任されたという。その家系は現在でも存続しており、騎士階級に属する極東系レゼ人は多くいる。
しかしながら、極東系レゼ人をその独自の容姿や習俗からレゼ人とは異なる“極東人”という“異物”と見なし忌避・蔑視する人間もいる。特に極東系レゼ人が殆どいない王都でその傾向は未だに強くあった。
それは、マリナからすれば実に馬鹿馬鹿しい話であった。
例えば、ティルベリア遠征について史書で敵対者を“蛮族”と表記するように、レゼ人には古くより自民族中心主義的な気風が存在していた。
レゼ国の自民族中心主義的気風は、全ての領邦を平等に扱う“グ”帝国による大陸支配によって大分薄れてきており、極東系レゼ人に対する蔑視は旧弊に由来する悪しき差別感情であるとをマリナは認識していた。
しかし、父やラッソはそういう極東系レゼ人に対する蔑視を持っている。
自身が主催となった王都剣術大会で極東系レゼ人の少女が優勝したことに対して、父がいたく不満を見せていたことを覚えている。
冷酷な父ならともかく、使用人の中では穏やかな気質のラッソまでそういう態度を見せることに、暗澹としたものをマリナは感じざるを得なかった。
「そうね。気を付けるわ。ありがとう」
とは言えラッソとそういった話をしても無意味であるため、マリナは適当に返事をした。
「エイリス地区、か……」
遙か遠くに見えるエイリス山脈を視界に入れながら、呟く。
これからあの場所で暮らしていくのだと思うと――あれほど出て行きたかった家に対して、僅かばかり郷愁めいた感情が生まれてしまい、振り返る。
そこにはただただ、古い家屋と山査子の木がある田舎道が続くのみだった。
*
昼過ぎにエイリス地区に到着したマリナは、トランク一つを膝においてただひとり小さな広場のベンチに座っていた。
「……完全に迷ってしまったわ……」
不安と自嘲が入り混じる、溜息めいた声をマリナは漏らす。
エイリス地区へついた後、ラッソは「旦那様よりエイリス分舎までご同行するよう申しつけられています故に」と言っていたが、ひとりで大丈夫だからと頼み込んで帰ってもらった。
騎士団副総裁の娘が家から追放された上に、使用人に付き添ってもらってエイリス分舎への入校手続をするというのは極めて情けないように十五歳のマリナは思ってしまった。
要は、つまらない見栄を張ったのである。
騎士学校は学寮も備える大きな建物だというぼんやりとしたイメージがありすぐに判別できるだろうと考えていたが、エイリス地区は意外と背の高い建物や広い敷地を持つ施設が多く、中々見つからない。
一応、地図は持っているが現在地がわからない以上、どうしようも無く、途方に暮れるしかない。
(それにしても……)
何とはなしにベンチから立ち、周囲に目を遣る。街路には瑞々しい木々が建ち並び、開花する桜がマリナの視界に広がる。
綺麗、だった。
石畳ばかりの王都では見られない景色だった。
エイリス地区は草木の多い肥沃の地だと知ってはいたが、想像以上だった。
もう少しここでぼんやりとしながら桜花を楽しむのも悪くないかもしれないと、若干自分を誤魔化し始めてきた時、不意に後ろから声を掛けられる。
「あのー」
「は、はい!?」
振り向くと、肩当たりまで伸ばされた黒髪で蒼い瞳をした少女がいた。
薄紅色で花の模様が散らされた織物を纏い、綺麗な紫色をした、縦に折り目の入った裾口の広いズボンのような履物。確か、着物と袴という極東の伝統装束。
年齢は、自分と同じくらいだろうか。
「もしかして、女子高等騎士学校に行く方ですか?」
「え、あ……はい、そう、ですけれど、も……?」
少女の問いに、マリナはたどたどしく答える。
思えば、母が亡くなってからの四年近く、使用人以外とはまともに会話をしたことがない。
エイリス地区への旅路の最中でラッソとは普通に会話できたのではあるが、初対面の少女に対しては上手く言葉が発せられずにいた。
「実は道に迷っていたりします?」
無言で頷く。
名も知らぬ相手に自分の恥を晒すことで、頬が熱を帯びてくる。
「やっぱり。この時期はたまにいるんですよねー。エイリス地区外から来て迷っちゃう人」
少女は蒼い眼を細めて、へにゃりとしたと笑顔となった。
その笑顔にどことなく、マリナは安心感を抱いてしまう。
母の死以降、マリナが他者から向けられる感情は蔑み、憐憫、敬遠といったものばかりであり――それらの一切が、少女からは感じなかった。
「もしよかったら、案内しましょうか? わたし、場所わかるんで」
「え……あの、お、お願いします!」
だから、名前も知らない少女の申し出をマリナは反射的に承けてしまった。
それが、彼女との出会いであった。
*
袴姿の少女に案内されて、マリナは無事にエイリス分舎に到着することができた。
マリナが途方に暮れていた小さな広場からは意外とすぐ近くにあり、少女とは道順以外の会話を碌にすることもなく別れた。
エイリス分舎内にも美しい桜が植樹されており、桜並木の渡り廊下から教官棟へ入り、今は分舎長室の応接用の椅子にマリナは座っている。
向かいには青墨色の法衣を纏った丸眼鏡の老婦人、ブラックウッド分舎長がテーブルの上にある入学書類に目を落としている。
「お父上のブライス卿より聞いています。学寮はご自由に使っていただいて構いません」
穏やかに微笑みながら、ブラックウッド分舎長はマリナに言った。
エイリス分舎への正式入校より前に、住まいとして学寮を使用することをマリナはラッソより伝えられており、ブラックウッド分舎長は改めてそれを認める形となった。
「荷物は後日届くと連絡を受けています。長旅だったでしょう、部屋は整えてあるのですぐに休んでも構いませんよ」
「はい、ありがとうございます。あと、その……」
「どうしましたか? 遠慮なく言ってください」
口ごもるマリナを、分舎長が促す。
「父の立場上、難しいかもしれませんが……できれば、騎士候補生になった私を特別扱いしないでほしい、です……」
入学前より学寮の使用を許可されていること自体、結構な特別扱いではあるが、それ以上の待遇を受けることにマリナは気が引けていた。
ブライス家から実質追放された自分に対して、誰かに余計な気を遣わせてしまうことへの後ろめたさを感じてしまいそうだから。
そして、より一層自分が惨めに思えてしまいそうだから。
「ええ、ええ、わかっていますよ。貴女の希望に添うようにしましょう」
マリナの言葉を聞いてブラックウッド分舎長は、穏やかに首肯する。
彼女がそう願うことを既に、ブラックウッド分舎長は予測しているようであった。
「マリナ・ブライスさん。貴女のような何かしらの事情を抱えた子が毎年、エイリス分舎へと来ています。どうか、エイリスの地で貴女の良き道が見つかりますよう、私たちも協力していきます」
教え諭すように、ブラックウッド分舎長は続けた。
「これは、余計なことかもしれませんが……貴女は、人に接することへの躊躇いがあるように見えます。何処か、人と深く触れ合うことへ恐れを抱いているように」
「……!」
ブラックウッド分舎長の言葉がマリナの胸に刺さる。彼女の言葉は、的確だった。
屋敷にいた頃は、父と、姉と、使用人から向けられる侮蔑や憐れみに怯え、彼らに接することに恐れのようなものを感じていたのは事実。
先の道案内をしてくれた悪意のない少女とも、上手く会話ができなかったのは自分自身が他者に接することへの不慣れと、他者から家にいた時と同様の感情を向けられることへの恐怖がマリナの心の中にある故に。
ブラックウッド分舎長は対話した僅かな時間で、自分の内に澱むものを見抜いているようにマリナには感じられた。
「どうして貴女がそう思うようになってしまったのかは、私は問いません。ですが、貴女の部屋には正式入学後にはルームメイトが入るでしょう。一番長く一緒に過ごすことになる相手です。その彼女と、まずは良き関係を築くことから始めなさい」
言い終えるとブラックウッド分舎長はにっこりと笑む。教え子に対する、親愛の笑顔だった。
「……ありがとうございました、分舎長」
辞令的ではない、心からの謝意をマリナは示す。
「では、後の手続はこちらで行いますので、退室してください」
「はい。失礼しました」
マリナは立ち上がり一礼し、分舎長室を辞去した。
*
分舎長室を後にし、教官棟の廊下を歩きながらマリナはブラックウッド分舎長の話を反芻する。
ブラックウッド分舎長の言う通り、自分は人に接すること、人と関係を築くことへの恐怖に近い躊躇いを持っている。
このエイリス地区で暮らしていく中で克服すべき課題を、到着早々に突き付けられる形となった。
それは、良いことなのだとマリナは思った。
父から事実上放逐される形で来たエイリス地区。屈辱感はある。だが、それ以上にブライス家から逃げ出せることへの喜びがあった。
そんな弱い自分を、変えたい。亡くなった母に誇れる自分で在りたい。エイリスへ来たのは逃げるためではなく自分の人生をより良いものにするためだと、胸を張りたい。
そうマリナは、ブラックウッド分舎長との会話から考えていた。
「あ……こ、こんにちは」
「うむ……」
教官棟入口近くの廊下にて、つと、前方から雪のように白い肌をした濃紺の袴姿の美しい女性が歩いてきて、すれ違い、会釈する。
おそらく、エイリス分舎の教官なのだろう。
王都ではほぼ見ることのない極東装束を、ここでは目にする。
ここまで案内してくれた女の子も着ていた衣装。
彼女の顔が、不意に浮かんだ。
名前も知ることもなく別れた少女。もう会うことも無いのだろうと思うと、何故か胸を締め付けられるような痛みを覚えた――のであるが。
「え……」
「あっ、来た来た!」
教官棟を出ると、入口近くに袴姿の少女がいて、マリナに手を振っていた。
自分を道案内してくれた、黒髪で蒼い瞳の少女。
「私のこと、待っていてくれたの……?」
「そだよ。これからどこかに泊まるんでしょ? また道迷うかもしれないし、案内してあげるよ」
少女は明るく言うが、マリナは彼女に申し訳なさを覚えた。
「あの、私、ここの寮に住むんです、今日から……」
マリナの回答を承けて少女は一瞬きょとんとし、すぐにへにゃりと笑う。
「ありゃあ、そうなんだ。早とちりしちゃったね、わたし。あはは」
少女は気遣いが無に帰しても全く気にしていないような素振りであった。
彼女の笑顔を見ると、釣られて笑いそうになってしまう自分がいた。
「わたしもね、来月からここへ通うんだ」
「え!? そう、なのですか!?」
少女の言葉に、胸が少しだけ高鳴った。
これからこの少女と一緒に候補生生活を送ること、もしかしたら彼女とルームメイトになれるかも、などと無意識に期待を抱いてしまう。
「わたしも騎士の家だからねー。あんまり自覚はないけど」
にへらと笑いながら、少女は腰を曲げてマリナの目線に合わせる。
マリナが小柄で、彼女は同年代の少女たちよりも背が高めのため、割と身長差はある。
「あっ、名前を言ってなかった。わたしはサヤ。サヤ・イフジ」
「イフジ……?」
何処かで聞いたことのある名前だったが、思い出せない。
「あの、私はマリナ・ブライスです。これからよろしくお願いします、イフジさん」
「うん、よろしくね、ブライスさん」
特にブライスの名に反応しないあたり、自分と騎士団副総裁が父娘だということなど、サヤは思いもしないのだろうとマリナは認識した。
それはマリナにとってありがたくもあり、サヤを騙しているような罪悪感もあった。
「けど、“イフジさん”って、ちょっと慣れないかな? 名前で呼んでくれると嬉しいかも?」
何か期待するかのような目で、サヤをマリナを見ていた。
彼女の期待するところ。それは。
「……サ、サヤ、さん……?」
辿々しく、サヤを名前で呼んでみる。
言い終わった後、顔がかっと熱くなった。
マリナの言葉を聞いて、サヤはへにゃりとした笑顔を見せた。
「んー、さん付けしなくていいけど、ま、いっか」
ずっとブライス家の屋敷にいたマリナには、およそ友と呼べる存在がいなかった。
母のいない家には、自分に失望して蔑む父と、哀れむような視線を送る姉と、父や姉以上に遠慮がちに接する使用人しかいなかった。
誰かと接することに怯えて恐がり、避けていた自分に対して、真っ直ぐに向き合ってくれた同年代の少女は、サヤが初めてだった。
彼女と、もっと仲良くなりたい。
「なら、私のことも、名前で……呼んで、ほしい、です……」
マリナ自身が自分の口から発せられる言葉に驚愕し、最後の方は消え入るような小声となってしまった。
顔はさっきよりも格段に火照っている。サヤから見たら、とても真っ赤になっているだろう。
「んー、じゃあ、マリナ、でいいかな?」
「……は、はい!」
家族以外の人から初めて、名前を呼び捨てで言われたマリナ。
くすぐったくて、恥ずかしくって、とても嬉しくて。
そして、とても――とても胸にときめくものを感じていた。
(続)