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騎士候補生少女譚  作者: 柳生 劣情(文章)&春畑 晴燕(設定)
第十章 彼女は見えない明日を覗う
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夏の日の道標

 中央総合演習終了後の女子高等騎士学校エイリス分舎は、一ヶ月に及ぶ大規模な休暇期間が組まれていた。例年には存在しない長期休暇。中央総合演習を終えた騎士候補生達への慰労として設けられた特別休暇。

 休暇中でも勉学や自主鍛錬を欠かさない生真面目な騎士候補生も当然存在するが、ほとんどの騎士候補生達は長い休暇に羽を伸ばす。滅多にない長期間の休日を奇貨として親しい友人達と他地区に旅行する者があれば、ここぞとばかりに部屋に引きこもって趣味に没頭する者もおり、日常では有り得ないほど弛んだ空気にエイリス分舎は包まれていた。

 休暇とはいえどかつてないほど緩やかな少女達の雰囲気に厳格さで鳴らすユキノヲ教官は当然の如く顔を顰めさせていたが、その上更に彼女の眉間に皺を深く刻ませたのは騎士候補生達のみならず教官達の間にも同様の緩やかな空気が醸成されていたことにあった。

 特にエイリス分舎の長であるブラックウッド分舎長は普段よりにこやかであり、鼻歌交じりで学舎内を歩くなど率先して浮かれた姿を見せており、それに伝播する形で教官達の間にも弛んだ雰囲気が共有されつつあった

 尤も、教官達についてはレゼ国内外の要人の対応を含む国家的行事を無事に完遂したことや、エイリス分舎廃校の危機が回避されたことで肩の荷が下りたという事情もあるが、いずれにしろ上役であるブラックウッド分舎長やファンファーニ統括が折角の特別休暇なのだからと少女達が好き好きに振る舞うことを是としたため、さしもの厳格なユキノヲ教官も顔を顰める以外は能わずというところであった。

 騎士候補生も教官も、かつてないほどの緩い雰囲気に包まれるエイリス分舎の季節は夏。

 少女達の楽しき日々は始まったばかりであった。


    *


 エイリス分舎長期休暇期間の初頭。昼。エイリス地区東部極東街の甘味処“虎庵(とらあん)”。

「イト、騎士大学校への進学決定おめでとう!」

 サヤが嬉しそうに笑いかけると、イトは照れたように微笑み返す。

「ありがとう、サヤちゃん。それにみんなも」

 同じテーブルにはサヤとイトのみならず、マリナとフィーネ、カティ、ダイアナとフィリパ。彼女らに目配せをしながら、イトは頭を下げて謝意を示す。

 今日彼女らが虎庵に集まったのは、イトの騎士大学校への正式進学が決定した祝いの席。サヤの発案。中央総合演習の総大将役に任命された時点でイトの騎士大学校への推薦権獲得はほぼ確定していたのであるが、改めてブラックウッド分舎長より正式決定の文書を受けたことにはやはり格別な喜びがイトにあり、周囲も祝賀ムードになったが故に。

 テーブルの上には干菓子、水菓子、練り菓子、焼き菓子に氷菓子等々の女将が腕を振るった特別メニュー。常連であるサヤらの祝いの席とのことで代金も格安提供。勿論、どれも恐ろしく甘い。

「はい、これで全部ですっと。ダイアナちゃん達のも含めて代金は前払い分だけでいいよ」

「いや、すみません、女将さん、あたしたちは飛び入り参加なのに」

 薄茶髪に着物姿の年若の女将に、ダイアナは少しばかり恐縮しながら礼を言う。

 当初は初年次の山岳訓練で協力し合ったサヤ達五名で行う予定であったが、たまたまフィリパとダイアナも来店していたために同席に至る。

「いいっていいって。サヤちゃん達にもダイアナちゃん達にも普段からご贔屓にしてもらっているんですから」

「うん、それに女将も嬉しいんだよ。ヤマノイさんのお祝いができるんだから」

 そして微笑む女将の言葉を、隣席にいるホイッグ老人が補足する。彼はかき氷を食しつつ、孫ほどの年代の子供達の賑やかな姿を眺めながら目を細めていた。

「そうそう、お祝いなんだし飲みなさいな、“本日の主役”さん」

「あはは……ありがとう、フィリパちゃん」

 イトは少しばかり気恥ずかしげな様子を見せながらコップを持ち、おどけたフィリパからジュースの酌を受ける。

 フィリパの“本日の主役”呼びは、イトの掛けているタスキに因む。中央総合演習の懇親会と同様にサヤから半ば無理矢理“本日の主役”と“アンタが大将”と書かれた戯けたタスキを二重掛けにされていた。

「イトが浮かれてる」

「カティちゃん、そんなことないよ!」

 ほんの僅かばかり笑んで言うカティに対し、イトは抗議する。

 しかしながら、愉快なタスキを抜きにしても着用している着物は薄紅の桜花弁が大きくあしらわれたものであり、通常の休暇日であっても許されないであろう華美なもの。普段と違う装いをしているがために、イトが浮かれていることは明々白々であった。

 そして、寡黙なカティがイトに対してからかいめいたことを言うという事実は、イトのみならずカティもまた喜びに浮かれていたことを示すものであった。

「ま、今日くらいはいいじゃん。浮かれて上等」

 喜びを共にする彼女らふたりを見て、サヤは笑いながら言った。

 騎士大学校は騎士団幹部の養成を目的とする高等教育機関であり、そこへの進学は将来の顕職を約束されたも同義。更に副士以下の人間は進学と同時に上士への身分上昇も行われるため、副士であるイトはその対象となる。これで浮かれるなと言うのは無理があると、サヤは思う。

「けどすごいよなー、イト。中央総合演習のこと、政庁の広報にまで取り上げられてるじゃん」

 ダイアナが感心しながら、イトのことが取り上げられた地区政庁発行の広報誌を取り出す。

 そこには、中央総合演習の特集記事が組まれており、イトが中央本舎の首席であり“英雄”カーター卿の孫娘であるベアトリスを撃破したことにも触れられている。

 この地区政庁広報から、イトはエイリス地区内ではちょっとした有名人と化していた。自校の騎士候補生の大戦果を宣伝すればエイリス分舎の教育の質がアピールできると踏んだブラックウッド分舎長が地区政庁に働きかけた成果。ただし、イトの出自についてはブラックウッド分舎長の厳重な申し合わせにより記事内で一切触れられていない。

 広報誌に取り上げられたことについてイト自身も気恥ずかしいながらも、正直なところ、悪い気はしない。ヤマノイ家の栄光を取り戻すことが死に逝く母に託された自身の使命。名を挙げるという感覚に、今のうちから慣れていた方が良いとの打算的な気持ちも少なからずイトにはあった。

「確かに政庁の広報誌に取り上げられるなんてねー。しかも“小将軍(しょうしょうぐん)”だなんて格好いい二つ名までつけられてるし」

「うん、さすがにジューコフ将軍に因んだ呼び方をされるのは少し恐れ多いけど……その名前に恥じないように、頑張る!」

 サヤから広報誌でイトを評価した“小将軍”という言葉に触れられて、イトは改めて意気込む。“小将軍”という二つ名は、イトの言うとおりレゼ騎士団の全軍総裁を務めるジューコフ将軍に因んだもの。

 レゼ騎士団の頂点に立つジューコフ将軍は“グ”帝国による大陸統一戦役に従軍した“英雄”であり、レゼ国騎士で唯一帝国より正式な将軍位を授けられたことから、“将軍”という敬称で呼ぶことが習わしとなっている。

 また、ジューコフ将軍は血を吸う薙刀“卒都婆小町(そとばこまち)”を得物とすることから、同じ薙刀使いのイトをジューコフ将軍に準えて“小将軍”と広報誌で名付けられることになった。

 更に、イトに付けられた二つ名は“小将軍”のみならず。

「けど、こっちに書かれている“エイリスのハロルド”って呼び方もすごいと思うよ。色んな意味で」

「うっ、フィーネちゃん……それは言わないで……」

 いつもの涼しげな笑顔でフィーネがからかうと、イトは目を逸らす。

 “エイリスのハロルド”という二つ名の由来となるハロルド卿は西部サヴィラ地区を拠点とするハグワナーツ騎士団所属の騎士。レゼ=ムルガル戦争においては一騎打ちにてムルガルの武将六人を連続で討ち取り、“六将斬り”として敵に恐れられると同時に味方に称えられた猛将。

 ハロルド卿もまた薙刀の使い手であることからジューコフ将軍と並んでイトの武勇に対する比喩として名を挙げられていたのであるが、その容姿は豪放磊落を絵に描いたような、見事な鬚髯(しゅぜん)を蓄えた巨漢の武人。十七歳の少女であるイトにとって、厳つい容姿の豪傑に準えられるのは光栄に思いながらも不満を感じてしまう。どうせ呼ばれるなら武勇と共にその優れた容貌も讃えられたというジューコフ将軍に因む“小将軍”の方がいいと思わなくもない。

「それにしても、イトはもう進路確定かー。わたしたちも早く決めないとね」

 言いながらサヤが困ったように笑う。

 今は夏。時を経て秋が過ぎ、冬に至れば皆エイリス分舎を卒業することになる。それまでに、自身の道筋を決めねばならない。

「そだ、カティはどうすんの? イトについていく?」

「うん。そのつもり」

 サヤの質問に対し、カティは頷く。

 騎士大学校は優秀な騎士候補生であれば身分を問わずに受け入れているが、現実として大多数は優秀な教育が受けられる王都の名家の出身者。それ故に、在学者の多くは家臣を従者として連れ歩いているという。そのような文化が騎士大学校にあるため、カティがイトの従者扱いとして騎士大学校に同行することは問題なく可能である。

「わたしはいつでも、イトと一緒」

「私も、カティちゃんがそばにいてくれるなら安心して騎士大学校に行けるよ。ひとりでいくのは少し怖いし……」

 気恥ずかしげにイトはカティに笑いかける。

 騎士大学校への入学試験は難関中の難関であり、エイリス分舎ではイト以外に進学希望者も進学できる可能性のある騎士候補生もいないという。

 今期ではただイトひとりのみが進学する中で、彼女と気心が知れているカティが騎士大学校へ同行することは教官達も推奨するところであり、カティの進路もイト同様に事実上確定しているようなものであった。

「そっか、カティも来年から王都か。フィーネはやっぱり地区騎士団に入る?」

「そうだね。私はおじい様の跡を継ぐことになるし」

 サヤの問いに、フィーネは首肯する。

 フィーネの祖父であるエーリッヒ・フォン・リスト卿はエイリス地区騎士団の総裁である。フィーネは両親は若くして没して兄弟もいないと予てより言っており、彼女がリスト家唯一の後継者となっている。故に、卒業後はエイリス地区騎士団に入って祖父の補佐を行い、将来的には騎士団総裁の地位を継ぐと見込まれている。

「だからサヤも私と一緒に地区騎士団に入ってくれると嬉しいかな」

 フィーネがサヤを見つめながらにっこりと笑む。彼女の表情からは、普段の笑顔にはない誘うような気色を感じてしまうのではあるが。

「うーん、騎士団かぁ……考えてみようかなー。あはは」

 サヤは横髪をいじりながら曖昧な笑顔で言った。

 進路はまだまだ全く決めていないサヤにとって、地元の騎士団は一つの進路選択先ではあるが――その実、魅力は余り感じていなかった。

 姉のアヤノがまだ家に居た、幼き日のことを思い出す。

 騎士と剣士の違いを教えてくれた姉。その時、姉は自分に騎士にはなってほしくないと言った。もっと自由に生きてほしいと、言っていた。

 だから、騎士になるという選択肢は、現実的な進路ではありながら自分の中ではどこか選びがたい感覚があった。そして、その時にわたしにお姉ちゃんが言ったことは――

「地区騎士団に来るのは私も賛成だよ、サヤちゃん」

 サヤが姉のことを追想しかけた時、ホイッグ老人が声を掛けた。

 彼はティルベリアとの国境に設けられた関所であるコクヤ(かん)の警備隊長であり、その職務上、騎士団についての知識もある。

「特に関所の警備は楽だよ。上官の騎士殿も起きている時間より居眠りしている時間が長いほどに。サヤちゃんも騎士団に入って関所に来るといいさ」

「ホイッグさん……それ、言っちゃっていいの? 怒られない?」

「おっとと、騎士団総裁のお孫さんの前で言うことじゃなかったな。失言だ、これは」

 冗談めいたことを言うホイッグ老人の言葉にサヤは呆れ、騎士団総裁の孫であるフィーネは無言でにこにこと笑っている。

 国境の関所という本来であれば国土防衛の要衝となりうるコクヤ関も、隣接する国が長年の朋友であるティルベリアである以上、国境警備の緊迫感はほぼ皆無であり半ば観光名所と化している。

 故にホイッグ老人曰く、コクヤ関の警備隊の仕事はティルベリアとエイリス地区を往来する行商人や旅行者の通行許可と観光案内が主であるという。

 観光案内が主な仕事というのはホイッグ老人の冗談半分の表現であるが、事実、ティルベリア国境には盗賊も出没しておらず、その空気は平和そのもので赴任している兵士や騎士は暇を託っているのが実情である。偶にある仕事も市街地での騎士や兵士達の支援任務で本来業務に関わるものではないという。

「まあ、冗談はともかくとして、騎士や兵士が暇なのは平和の何よりの証拠だよ。だから私だってこうして度々虎庵に来て、サヤちゃん達と話ができるんだ」

「うー、確かにホイッグさんの言うとおりだけどー……」

 ホイッグ老人の言葉に納得しながらも、サボりを肯定するような言説に釈然としない様子を見せるサヤ。

 サヤとホイッグ老人の会話が一区切り付いたのを見て、ダイアナがつと口を開く。

「ねえ、サヤリーニョ」

「誰がサヤリーニョだ。そしてどしたの?」

「あたしはさ、卒業したらレゼを出て行こうかなって思ってるんだ」

「えっ、マジで!?」

 進路についてのダイアナの予想外の発言にサヤは驚きの声を上げる。

「ダイアナちゃん、本気なの?」

「うん……うん?」

 無論、サヤのみならずイトやカティまで驚いた様子を見せていた。

「本気。卒業したらフィルと一緒に外国で暮らすって決めてるの」

「ダ、ダイアナ!? 何を……!」

 そして、最も狼狽する姿を見せたのが、ダイアナから引き合いを出されたフィリパ。驚き戸惑うフィリパに対し、ダイアナは照れたように少しばかり頬を赤らめて言った。

「ほら、約束したでしょ、卒業したら一緒に外国に行こうって。あたしも色々調べてるんだよ、どこがいいかなって。候補としてはティルベリアかクロン市あたりだけど……ま、そこはこれからふたりで決めてこう、ね?」

「覚えていて、くれたんだ……ありがとう、ダイアナ」

 そう小さく呟くと、フィリパの頬がダイアナ以上に赤らんでいった。その瞳は涙こそ零さぬものの歓喜で潤む。

 普段飄々としてしているフィリパがあまり見せない、年頃の少女らしい姿。

(フィリパ、良かったわね……おめでとう!)

 そんな彼女に対し、マリナはひとり心の中で祝福する。

 フィリパが、自身の未来について思い悩んでいたことを、許嫁がいて、卒業したら結婚させられることを、マリナは知っていた。フィリパの事情を知ったダイアナが、彼女に対して卒業したら一緒に外国に行こうと言ったことも、知っていた。

 ダイアナの言葉をフィリパは信じて縋りたいと思いながらも、その一方で不安を抱いていたのであるが――この瞬間、ダイアナはフィリパとの約束を大切にしていたことを知った。

 だからマリナは心の中だけで祝福する。ただ自分にだけ悩みを打ち明けてくれた、同じ魔術師の友人であるから。

 ただ、そんな事情を知らないサヤはダイアナの言葉を聞いて独りごちた。

「外国かぁ……いいなー。わたしも旅立ちたいなぁ……」

 その発した言葉でサヤが思い描くのは、姉の姿。五年前に失踪し、それ以降音信不通となった姉の姿。

 今、どこにいるのか、生きているのかすらわからない。

 だけど、姉はきっと生きていると、サヤは確信している。あんなにも強い姉が、最強の剣士である姉が死ぬはずがないという、絶対的な信頼に基づく確信。

 そして同時に、姉はもうレゼにはいないのだろうという直感がサヤにはあった。それは、血の繋がった姉妹としての勘でもあり、姉がかつて自分に言った言葉に依っていた。

 自由に生きてほしい――例えば、レゼを出て、諸国を漫遊して剣者と戦う武者修行の旅ができるような生き方。

 そう語る姉は笑っていたが、どこか寂しそうだったことをサヤは今でも覚えている。だからその時に、サヤは言った――お姉ちゃんと一緒に、修行の旅に出たいと。

 それは、本心でありながら、何故か寂しそうな姉を慰めたいという幼心。今にして思う。姉の言った自由な生き方の例え話は、彼女自身の夢であり、騎士団に入ることを祖父から期待されていた姉にとっての叶えがたい夢だったのだと。

 だから、姉が家から出奔したのはその夢を叶えるためなのだろうという思いが、サヤの胸中にあった。きっと、姉はレゼを出て今でも各地を渡り歩いて剣者と戦っているのだろうという空想が、サヤにはあった。

 そして、自分もいつか姉のようにレゼを出て、彼女の跡を追いながら剣の腕を磨く旅に出たい。その旅の中でいつか、姉と再会して――そんな、ぼんやりとした願いをサヤは密やかに思い描く。

 それは、ダイアナみたいに具体的にどこへ行くかなんて決めてない。そもそも姉がどこに行ったのかすら見当も付かないし、姉の出奔に対する自分の推察が当たっているかもわからない。

 祖父が残した家を捨てることや慣れ親しんだ人々と別れることへの忍びなさや路銀の調達を考えると悩ましいし、もしかしたら姉がいつか家に戻ってくるかもしれないという可能性を考慮すると実行しがたいという思いも否めない。

 幼稚で、妄想じみた夢。それでも、それがサヤの確かな願いには違いがなかった。

 高等騎士学校卒業後すぐでなくとも、いつかは姉と一緒に諸国漫遊武者修行の旅をする――それが、幼きサヤが抱いて今にも続く原風景的な願い。

 口には出さずに抱き続けたぼんやりとした願望が、友人達の進路を聞く中でつい口に出てしまう。それをフィーネが耳聡く聞きつけて言った

「サヤも外国に行くの? だったら私もついていこうかな?」

 無意識的に思わず口に出た言葉について尋ねられ、サヤは誤魔化すように笑って言った。

「いや、そうとは限らないけど……てか、フィーネ、その場合は騎士団どうするのさ?」

「うーん、おじい様にあと五十年くらい長生きしてもらって、もっと頑張っていただくとか」

「おじい様に対して無茶振り過ぎない!?」

 あっけらかんととんでもないことを言うフィーネに、サヤが思わず突っ込みを入れる。

 斯様に賑やかに将来について話し興じる子供達の姿を見ながら、隣席のホイッグ老人は優しい笑みを浮かべて聞いていた。

 

    *


 夜。エイリス分舎学寮。

「うぅ……」

 入浴を終えたマリナは寝間着に着替えてベッドに座り、少し呻きながら腹をさする。

 腹の調子が、よろしくない。

 原因はわかっている。昼に行ったイトの進学祝いで出された虎庵の菓子。 

 虎庵の菓子はやたらと甘く、ある程度食すると胃の中がぐるぐるするような感覚に襲われる。

 虎庵についてはエイリス地区に来たばかりの頃にサヤに連れられて、その時からあまりの甘さに苦手意識を抱いており、今でも克服できずにいた。一応、塩気の利いた菓子もあるが、それらの風味を完全に消し去るほどの甘さ。

 自分と同じくカティもまた、甘すぎて苦手だと以前に言っていたが、外出時にイトがいつも誘うので常連化しているという。その上、外食する時はいつも虎庵なのはきっとイトが好きで行きたがっているのだろうと考えたカティは、虎庵の菓子が苦手だと知られて彼女に余計な気を遣わせないように普段より多めに食べる健気さまで見せていた。

 とてもではないが、自分にはできない。

 フィーネは表情を変えないためわからないが、少なくともサヤやイトは好きらしく、フィリパやダイアナ、ホイッグ老人らが常連であることを鑑みると極東民族やエイリス地区出身者の口にはあの甘すぎる菓子が合うのだろう。

 そして、腹の不調は虎庵の甘すぎる菓子のみならず。

「ふぃー、気持ちよかったー」

「あ、お帰り、サヤ」

 入浴を終えて部屋に戻ったサヤに、マリナは声を掛ける。灰無地の浴衣姿に下ろした濡れ髪。肩にはタオルを掛けて、右手には巾着袋を吊していた。

「フィーネは?」

「まだお風呂入ってる。よっしょっと」

 髪をタオルで拭きながらサヤもベッドの上に腰を下ろし、マリナに背を向けるように座る。

 そして下を向き巾着袋をがさごそと漁る。

「……?」

 そのサヤの様子をマリナが訝しむと、突如サヤはごろりと身体を倒して寝転がり、マリナに逆さまの顔を向けた。

「マーリーナー?」

「ぶふっ……! サ、サヤ、なによ……それ……!」

 サヤの顔には鼻眼鏡が上下逆さまに付けられており、額にもう一つ鼻を持つが如き珍妙な姿になっていた。

 不意打ち気味にそれを見せられたマリナは思わず噴き出してしまう。 

「おっ、笑った笑った」

 マリナが噴き出したことを認めると、サヤは腰を上げて鼻眼鏡を外しながら、マリナに向き合うように座り直す。そして、ふんにゃりと笑いかけながら言った。

「マリナが元気なさそうだから笑かそうと思って。もしかして、なんか悩んでる?」

「え……!」

 サヤの言葉に、どきりとする。

 図星であった。

 実際、折角のイトの祝いの場であり、フィリパについても祝福すべき報告があったにも関わらず、マリナの気分は憂いがあった。

 彼女の腹の調子の悪さは虎庵の甘すぎる菓子に依るもののみならず、その憂いが反映し、マリナの体調を僅かばかり悪くさせていた。

「……進路、どうしようかなって」

 イトの進学祝いの場で盛り上がった進路の話。マリナだけは、その話に入ることができなかった。

 騎士大学校へ行くイトと彼女に従うカティ。外国へ行くダイアナとフィリパ。明確な進路を決めかねながらも騎士団という選択肢が提示されるサヤ。

 それに比べて自分は――何も、なかった。

 イト達のように目標がなく、サヤのように進路の可能性も見出せない自分を、マリナは憂う。

「あー、やっぱり。マリナだけ話さなかったもんね、あの時」

「気づいていたんだ……」

「当たり前だよ。ずっと一緒に居るんだし。フィーネも心配してたよ」

 サヤがへにゃりと笑う。エイリスに来た初日の、たったひとりで心細い中で笑いかけてくれた時のことをマリナは思い出す。

 あの時と同じで、ひとりで抱えるのは重すぎる。そう思ったマリナは、口を開いた。

「あのね、サヤ――」

 マリナは、自身の思いの丈を吐露する。

 エイリスに来て以来、ブライス家から一切の便りがなく、父が自分をどうしたいのか全くわからないこと。

 そして自分自身に何も見いだせず、どんな道を進んでいけばいいのかわからないこと。

 自身の不安をマリナは語り、サヤは黙ってそれを聞いていた。

「私、何をしたいのか、どうすればいいのか、全然わからないの。それに、中央総合演習の時に――」

 マリナは続ける。

 自身の境遇をより思い悩むようになったのは、中央総合演習が契機だった。

 中央総合演習で突きつけられた、姉と父の存在。エイリスでサヤ達と過ごす中で久しく聞くことなく、忘れることができた名前。

 姉のことは、中央総合演習で戦ったレスリーから。彼女の言に依れば姉はしっかりとブライス家の呪詛魔術を継承しており、昨年の中央本舎の首席であったという。おそらく、今は騎士大学校か王立魔術大学校へ進学しているのだろう。

 改めて、マリナは思った。自分と姉は、大違いであると。ブライス家の後継者として家法の呪詛魔術を継いだ姉と、家法に馴染めずに追放された自分とは、大違いだと。

 そして、何よりもマリナが衝撃を受けたのは、中央総合演習に父が出席していたことであった。

 父が騎士団全軍総裁であるジューコフ将軍の代理として中央総合演習の賓客として出席していたことを、マリナはエイリス分舎へ戻った後にブラックウッド分舎長から知らされた。

 ブラックウッド分舎長曰く、レスリーとの戦いは、端緒から決着まで他の賓客達と共に観覧室で父は見ていたという。

 だから、父は自分の存在をはっきりと認識していた。自分が同じ場所にいることを知っていた。

 知っていたはずなのに――父は自分に会うことも、声も掛けることもせずに、王都へ去っていた。

 そう認識したマリナは、愕然とした。話を聞いた時に、頭が真っ白になってしまった。

「お父様が何も言わずに帰ったことを知って、私……すごいショックだった。その時に、気づいたの。心のどこかで……頑張ればお父様に認めてもらえるのかもって思っていたんだって」

 友人と組んだ多対一の戦いながらも、中央本舎の上位五席相手に勝利したことを父はしっかりと見ていた。自己評価としては十分すぎる戦果。それでも、父は会うこともせずに帰って行った。

 王都から追放されたといえども、親と子供。だから、どこかしらの情が父にはあって、それに縋れるという甘えがあることに、マリナは気づかされた。そして、父の行動からその可能性は潰えたことをマリナは思い至った。

 親子の情を当てにすることは、十七歳の子供にとって年相応の当然の意識。

 だが、それでもマリナは自罰的になる。一度見捨てられた娘を、父が迎えに来るなどと、とんだ甘えた妄想なのだと。ブライス家に帰りたいかと言えば肯定しがたいが、それでも父に某かの道を提示してもらいたかったなどと、都合の良すぎる話なのだと。

「もう私、どうすればいいのか、本当にわからなくなっちゃった……明日のことなんて、考えたくない、今がずっと続いてほしいなって、そんなことしか考えられないの……」

 それがマリナの真実だった。

 サヤと、フィーネら気の置けない友人達と過ごすエイリスの日々が、マリナにとっては最大の幸福だった。

 この幸せな時間を手放したくない。いつまでも続いてほしい。けどそれは、叶わない。

 わかっている。だけど、わかりたくない。直視したくない――そんな自分の弱さを泣きそうな声で告白するマリナの手を、サヤはすっと握り笑いかける。

「わたしはさ、マリナが将来どうするかって口出しする立場にはないけど……できれば、マリナとこれからもずっと一緒にいたいなって思ってるよ」

「え……」

 突然のサヤの行動と言葉にマリナは心臓の跳ね上がりそうになる。頬が自然と熱を帯びていく。

 ずっと一緒にいたい――思わぬ言葉に、マリナはときめく。

「サヤ、それって……」

「マリナだけじゃなくてフィーネとも一緒にいたいと思ってる。できればイトやカティ、ダイアナやフィリパも、今みたいに一緒にいれたらいいなって」

「あー……そういうことね」

 続く言葉を受けたマリナが一息ついて、自嘲気味に微笑む。

 ときめいて損したと思いながらも、それはそれで嬉しいと思ってしまう。

(あれ……? けど……)

 そしてマリナは自覚する。 

 ときめいて損した、などと考えられる程度には自身の心が軽くなっている。

 それはきっと、相手がサヤだから。父から捨てられて、エイリスでひとりぼっちになった自分を最初に見つけてくれた人だから。

 そのサヤが、今がずっと続いてほしいというマリナの叶わぬ願いに似通った気持ちを抱いていることを知れたから。

 だから、彼女と笑顔は、マリナにとって喜びであり、癒やしであった。

「イト達にはイト達の夢や理由があるから、これは単なるわたしの我が儘なんだけどさ、せっかく仲良くなったんだし、バラバラになるのは寂しいなって」

「サヤ……」

 へにゃっと笑うサヤの姿に、マリナの内に小さな願いが芽生える。

 未だ明日が見えず。自分の去就が決められず。それでも、卒業してもサヤと一緒にいたいという願い。

 幸せな今の完全な継続は無理でも、それならば、或いは――

「ま、そういうわたし自身はまだどうするか決めてないけどね、あはは……だけど、もしマリナが最後まで進路を決められなかったら、わたしと同じところを選んでくれたら嬉しいなって」

「ふふっ、いい加減ね、全く」

 自然な笑顔で、マリナは言った。

 未だ明確なものは見えずとも、自分の道標を見出すことはできそうだった。

 どのような道であろうとも、これからもサヤと同じ場所へ――そう考え至った時に、マリナの憂いは完全に消失していた。

「けど……ありがとう、サヤ。話を聞いてくれて。考えてみるわ、サヤの言葉」

「いいえ、どういたしまして」

 サヤは変わらず、へにゃりと脱力したような笑顔で返す。

 自分を導いてくれた出会いの日から変わらぬ彼女の笑顔は、何よりの救いであったことをマリナは実感する。

 これからもサヤと共に――それはマリナにとっての道標であり、それと同時に自分の未来を彼女に委ねようとする弱さでもあった。

 その弱さを、マリナは自覚する。それでも、その弱さはマリナにとって心地の良いものであり、悪いものではないように思えていた。


(続)

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