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騎士候補生少女譚  作者: 柳生 劣情(文章)&春畑 晴燕(設定)
第九章 愛玩される女
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愛玩される女(前編)

 レゼ国王都メキオ。フラルタルコフ傍系王族邸。夜。

「はぁ~~~~……」

 自室のベッドで仰向けになりながら、ナキリ・フラルタルコフ=レーゼスフィーアは深いため息をついた。二十二歳。王位継承権第十位のフラルタルコフ傍系王族姉妹の次女。

 彼女の声には、疲労が色濃く残る。入浴を終え、潰れた右眼を覆う眼帯を外して寝間着のキャミソールに着替えたくつろいだ姿。それでも、疲れは取れることなく。

「つ、つか、れた……」

 自然と、弱々しい嘆きが漏れ出る。

 ナキリは王族としては珍しく王政府での職務に就いていた。彼女はレゼ国の内政最高機関である大政庁に出仕しており、第三位権限者の次官補という役職を得ている。

 ナキリの過労状態の原因は、その大政庁における職務環境の変化によるものだった。

「ううぅ……」

 小さく呻きながら、寝返りを打つ。ずっと同じ姿勢を取るだけでもつらいものを覚えるほど、蓄積した疲労により身体が悲鳴を上げている。

 ナキリは普段、大政庁次官のイワクラァ侯爵を補佐する形で職務に従事し、実地の場で政務を学んでいる。しかし、この数日間はずっとイワクラァ次官は大政庁への出勤ができず、ナキリ一人で日常業務に加えてイワクラァ次官の代行も行っている状況であった。

 大政庁はトップに立つ長官が職務に対する意欲が皆無の、書類に目を通さずに承認印を押すだけの存在である故に、イワクラァ次官が重要案件の最終検討を行う実務上の最高責任者となっていた。

 イワクラァ次官は極めて優秀な官僚であり、その配慮は内外にも及ぶ。事実、イワクラァ次官が長官代行として中央総合演習観覧に出席するために大政庁を留守にする際、イワクラァ次官が大政庁内外に事前に根回しや重要案件の大筋合意の形成を行っていたため、ナキリ一人でも恙なく業務を行えるようにお膳立てがされていたのであるが――問題は、そのイワクラァ次官が本来の復帰時期になってもなお、登庁できない状態になっていることにあった。

 イワクラァ次官は中央総合演習中に急激に体調を崩しており、未だに職務に就ける状態ではないという。同席していた姉に事情を尋ねても、観覧中にいつの間にか気絶していたという詮無き回答のみ。

 長官は州刺史(しゅうしし)対応から戻ってきたものの職務状況は相変わらずの未検討押印。故に、イワクラァ次官復帰までは自分が次官に代わって大政庁を取り仕切らねばならないという義務感がナキリに生じており、それが彼女の連日の過重労働に繋がっていた。

 ナキリの処理する案件は大政庁内の対応に留まるものもあれば、騎士団との調整や法院への法的適正性照会を要するものが多々あった。そのため、各機関との折衝交渉のために直接出向かねばならず肉体的な疲労が従来よりも大きく、脚がぱんぱんとなっている。

 だが、その肉体的な負担以上に精神的な負担がナキリを疲弊させていた。ナキリの交渉相手は各機関に長らく勤務する老練な実務者達。王族という国内最高身分であるが故に慇懃に対応されるが、大政庁の要求をただでは呑むまい、こちら側の意向を最大限反映させようとのらりくらりと弁を弄する狸親父に女狐たち。また、大政庁で完結する案件であっても、各部局間の権限争いや力関係に気を回さねばならず、他機関と同様に根回しが必要となってくる。このように庁内外問わず自分の倍以上の年齢と実務経験を持つ老獪な騎士や貴族に対して利害調整を行い政策目的達成が可能な形を崩さず合意形成をさせる過程で、ナキリの精神は大いに磨り減ることとなった。普段のナキリは政策調整の場の矢面に立つことはなく、これらのプロセスをほぼ一人でこなしてきたイワクラァ次官に自分は如何に守られていたのかを、彼の職務を代行して初めて実感することができた。

 更に抱える案件が国政や文化を大いに影響を及ぼす重要案件ばかり故に、それを一人で裁可するプレッシャーが膨大である。そういった面でも、辣腕の行政官であるイワクラァ次官の判断や意見はナキリの精神的負担を大きく和らげる効果があったのだと自覚する。

 今日、ナキリが確認した案件を挙げれば、無登録街立入許可制の改定案の検討、売春取締強化案の修正、王都に出没している連続殺人鬼“脚食(あしは)みジャック”に関する近衛騎士団監察局からの協力依頼対応、西部サヴィラ地区でのハグワナーツ財団による私立騎士学校の設立可否の検討と予算内容の吟味等々……特に後者は大政庁よりも騎士団が主となる案件であるが故に、騎士団関係者の対応に胃を痛めることとなった。

 明日もまた、同程度の案件処理に負われることを思うと、考えるだけで疲労が増してくる。

「んん~~……」

 ナキリは唸るよな声を出しながら、ベッドの上で身体をぐっと伸ばす。そんな疲弊しきった彼女に対して、心配そうな声が掛かる。

「ナキリさま、ナキリさま」

「ん……?」

 声の方に目を遣ると、ベッドの下からふんわりした赤茶の毛と大きな黄色の瞳の少女がひょこりと顔を出す。

「リィン?」

 ナキリの“犬”である十七歳くらいの女の子。

 彼女は無登録民であり、十年前にナキリの亡父が無登録街より買ってきて以降、常に一緒にいる最愛のペットであった。

「おつかれ、なのですか?」

「そうね」

 肯定しながら、ナキリはふっと微笑む。

 リィンの姿を見て、少しばかり疲労が取れたように感じる。それほどまでに、ナキリはリィンをペットとして溺愛していた。

「あの、ナキリさま、もしよろしければ、肩もみ、しましょうか?」

 首を傾げながら尋ねるリィン。その姿はとても愛くるしいと思いながらも、ナキリは腰を上げてベッドの上に座り直しながら尋ね返す。

「肩揉みって……どこでそんなこと覚えたの、リィン?」

「ナキリさまからもらった絵本でよみました!」

 リィンは嬉しそうに笑いながら絵本をナキリに見せる。

 情操教育のために買い与えた“グ”帝国の昔話絵本。確か、内容としては君臣や親子の忠孝を教えるものであり、それにリィンが影響されたのだろうとナキリは思った。

 いじらしい。だけど。

「ねえ、リィン、こっちにおいで?」

「はい!」

 ナキリに誘われたリィンは嬉しそうに頷いて彼女のベッドの上にあがる。自分の前に座るリィンの頭に手を伸ばして、ナキリは彼女を撫でながら諭すように言った。 

「リィンは私のペットなのだから、そんな召使いみたいなことをしなくてもいいのよ?」

 リィンが自分のことを思い遣ってくれるのは途轍もなく嬉しいが、ナキリにとってリィンは愛玩する対象であって、自分の召使いではない。斯様な召使いがやるようなことを、ペットであるリィンに行わせるのはかわいそうだという思いがあった。

 だが、リィンにはナキリの意図は伝わらず。

「わたしはナキリさまのお役にたてないのですか……?」

 リィンはしゅんと項垂れて、悲しげな上目遣いでナキリを窺う。本物の犬であれば、耳が垂れる仕草になりそうだとナキリは思いながらも、彼女に対して申し訳ないという思いも生まれる。

 ペットのリィンに召使いのようなことをさせるのは忍びないけれど、悲しそうな彼女を見ている方がより一層つらい。

 それに、リィンが一緒にいてくれるだけで自分は十分癒やされるのも事実。

 そんな思いを巡らしながら、ナキリはリィンに優しく微笑みかけて言った。

「なら、今日は私と一緒に寝てくれる? リィンは何もしなくても、そばにいてくれるだけで、私は疲れがとれるから」

「ほんとうですか!?」

 ナキリの言葉を受けてリィンはぱっと明るくなる。彼女の様子に、リィンに尻尾があれば、嬉しそうに振っていたに違いないとナキリは幻視する。

「ええ、本当よ。だから、今日は一緒に私のベッドで寝ましょう、リィン?」

 リィンは普段、床敷の専用寝床で眠っているが、時折は飼い主に甘えてナキリと一緒のベッドに寝たいとねだることがあった。故に、自身が言うよりも前にナキリから同衾を許可されることはリィンにとってはご褒美を与えられるに等しいものだった。

「わーい、ナキリさま、大好きです!」

「ふふっ、私も大好きよ、リィン」

 ナキリは笑みながら、はしゃぐリィンを愛でるように抱きしめる。柔らかくて温かな身体。自分が手ずから洗ったふんわりとした髪の毛からは、クロン市から取り寄せた高級洗髪剤の落ち着いた香りとリィン本来の匂いが入り交じる。

 それだけで、不思議とナキリの疲労感は溶けるように消えていき、疲労の消失と反比例するように明日も頑張ろうという気持ちが湧き出していた。


    *


 昼。大政庁。次官執務室。

 今日もイワクラァ次官は登庁できず、ナキリは机の上に山積みになる書類をひとりで目に通す。隣のソファにはリィンが眠っており、首輪のリードはナキリの机の脚に繋がれている。

「うーん……」

 ペンの尻で眉間を圧しながら、ナキリは唸る。

 騎士団との折衝が必要な重要案件。この場合は軍政司令部のロットラッファー卿に伺いを立てるべきか、近衛騎士団総裁のカーター卿との調整は必要か――いずれもナキリにとっては苦手な相手であり、頭を抱えざるを得ない。

 しかも、今日のナキリの頭を抱えさせるのはイワクラァ次官抜きでの重要案件決裁に留まらず――

「どうしたのかね、浮かない顔をして?」

 不意にナキリに対して陽気な声が掛かる。ナキリは眉間に皺を寄せ、桜色の左眼を向けながら言った。

「姉さんには関係ないわ……」

「おやおや、つれないなあ、我が愛しき妹よ」

 ナキリの視線の先では、彼女の姉であるゲキが応接用のソファの上でふんぞり返っていた。手にはスキットル。その顔は赤らんでおり、昼間から堂々と官庁舎で酒を飲んでいることを示していた。王族だからこそ許される暴挙。

 今日は何故か姉のゲキが、大政庁次官執務室に来訪していた。リィンと一緒に昼食を外で食べ終えて戻ると、すでに姉が酒を飲みながら居座っていたという予想だにしなかった展開。

 当のゲキの姿は彼女が出仕している騎士団の制服だが、ソファに深く腰掛け、脚を広げてテーブルの上に無造作に投げ出している。ナキリの位置からはタイツ越しに白い下着が垣間見えており、しどけなきことこの上ない。

 普段であればいつも姉が連れている秘書のセヴンがそれとなく注意しそうなものだが、今日は連れておらずにこの有様。

「わたしは、かわいい妹の様子を見るためにわざわざ来ているんだ。少しは愛想をよくしてくれてもいいじゃないか」

「はいはい、悪かったわね、無愛想な妹で……はぁ……」

 酒を飲みながら軽口を叩く姉の姿に、ナキリはため息をつく。

 ただでさえイワクラァ次官不在の激務の中で、酔っ払った姉の面倒まで見る羽目になるのだからたまらない。頭をより一層抱えるしかない。早く家に帰ってほしい。姉の目がある以上、合間を見てリィンと遊ぶことも憚れるから職務中の癒やしも得られない。

 厄介な姉の戯言を軽く流しながらナキリが書類の内容を吟味する中で、つと執務室の扉が叩かれる

「ナキリ閣下、今、入っても大丈夫かね」

 扉の先からは年配男性の声。入室を求める言葉を受けて、ナキリはゲキに言った。

「姉さん、人が来たからせめて脚をテーブルから下ろして。下着見えてるから」

「うんうん、わかったわかった。口うるさいなあ……」

 姉が渋々と脚を戻すのを見届けた後、ナキリは入室を許可する。

「はい、どうぞ」

「うむ、では失礼するよ」

 落ち着いた声を発すると同時に扉が開かれる。

 入室したのは、白髪交じりの灰髪にカイゼル髭、クロン市より買い付けた最高級品の背広を纏った痩身長躯の男性。

 国王尚書(こくおうしょうしょ)ロッソウ侯爵。国王を補佐する王室直属の内廷臣の一人であり、大政庁ら王政府機関の枠外にいる令外官(りょうげのかん)

 そして、ナキリが最も苦手意識を持つ相手だった。

「うっ……酒臭いな……」

 入室したロッソウ侯爵は、ゲキが持ち込んだ酒の臭気に顔を顰める。彼の姿を見ながら、ゲキはつまらなさそうな顔をしながらぼそりと言った。

「なんだ、ロッソウ侯爵か。酔いが醒めるな」

「ゲキ閣下、これはこれは。昼間から大政庁で飲酒とは、良いご身分で」

「うんうん、何しろわたしは王族だからな。身分が良いのだよ、身分が」

 両者が口を開いた途端、ゲキとロッソウ侯爵の間に剣呑な空気が発生する。事実、姉とロッソウ侯爵の仲は極めて悪いことをナキリは知っている。知っていても、胃と頭が痛くなる。

 その要因はレゼ国におけるロッソウ侯爵の立ち位置と、彼の権限行使の在り方に起因していた。

 レゼ国の統治形式としては、政務、法務、軍務についてそれぞれ大政庁、最高法院、騎士団の三大機関が統制し、その上位に国王が位置することで王政府を構成している。

 国王の権限は、各機関より立案された重要政策に対する承認権、実施された政策を独断的に中止させる拒否権、そして国王自ら各機関に対して特定の政策実施を命令する指揮権の三種に大別されており、総称して“国王三権”と呼ばれている――尤も、現王の指揮権については十七年前に三大機関の反対を押し切って対ムルガル戦争を開戦させるために発動されたのみであるが。

 このような王政府の構成上、ナキリやイワクラァ次官が裁可した一定額以上の予算を要する重要案件については、最終決定は大政庁長官でなく国王に帰属している。だが、それら重要案件の事実上の最終決定権は現在では国王ではなくロッソウ侯爵が握っている状況であった。

 現在、国王はレゼ=ムルガル戦争に事実上敗北して以降、国政に対する一切の関心を失ったと囁かれており、その政治意欲を失った国王に承認権を委託され、行使しているのが国王尚書であるロッソウ侯爵。

 国王尚書は本来は各機関と国王の取り次ぎ役であり、各機関の長の決裁後の重要政策案を国王の決裁を受けるために上奏するか否かを判断する権限を有している他、詔勅の立案起草及び璽印管理の責任者でもある。その国王尚書の役割から、ロッソウ侯爵は王より承認権の代行者に任じられたという。

 ただでさえ、王への上奏判断や詔書作成といった大きな事務的権限を有しながら、更に国王三権の一つである承認権の代行者として任じられているロッソウ侯爵は、事実上の政治的な最高権限者であり、彼の許可が下りなければ、あらゆる政策の実施が不可能という状況となっている。

 ロッソウ侯爵の言葉は王命に同じ。自身が王から委託された権限を盾に万機を治めるロッソウ侯爵の実力は身分の差を超えて王族をも上回る。

 姉のゲキが騎士団の幹部として主導して作成した政策案についても、ロッソウ侯爵は頻繁に否決や差し戻しを行っていた。それ故に姉はロッソウ侯爵を毛嫌いしているのであるが、姉の立案した政策は彼女の趣味嗜好が反映された公私混同かついい加減な否決相応のものが多く存在しており、逆恨みに近いとナキリは思っている。その一方で、ロッソウ侯爵の権限行使の在り方も姉と同様かそれ以上に褒められたものでは無く――

「それはそれとして、いったいどういうことかな。ゲキ閣下は騎士団にお勤めでしょう。それがどうして勤務時間中に大政庁にお越しで」

「うん、仕事は全部セヴンに委任した。暇だから妹の執務姿でも眺めようと思ってね」

「姉さん……」

 秘書に仕事を押しつけているのは暇と言えるのかとか、暇ならここではなく屋敷に帰って遊んでいてほしいとナキリは内心などと思うが、ややこしいことになるのが目に見えているため、口には出さずにナキリはロッソウ侯爵に尋ねる。

「あの、ロッソウ侯爵、どのような御用で?」

「ああ、すまない、少し再考を願いたい政策案があってだね」

 ロッソウ侯爵はゲキとの遣り合いを打ち切って、ナキリの執務机へと向かい書類を差し出す。

「これは……先日に長官承認を受けた売春取締強化案、ですね」

 書類を目にしながらナキリは言った。昨日に自分が決裁した政策案の一つ。騎士団から提供された情報や他国の書物から得た知見に基づいて必要な修正をナキリ自身が行った案件。

「特に問題はないと思うのですが、どのような不備が?」

「うむ、この案件について、宮廷対策費の増額を願いたいと思ってな」

「宮廷対策費、ですか……」

 ナキリは思わず眉間に皺を寄せる。

 レゼ国の政策案はどのようなものであっても一定の宮廷対策費を予算として計上する慣行が存在した。

 宮廷対策費は名目としては国王が政策決裁にあたって調査、判断するための経費であるが、その実態は国王に対する献上金の一類型……と今までは見なされていたもの。だが、その建前と実態すらも今のレゼ国では崩れている。

 現在のレゼ国では、宮廷対策費の殆どがロッソウ侯爵の懐に入っていると確実視されている。実際に、ロッソウ侯爵の財は彼の貴族としての身分給や国王尚書としての職務給では説明できないほど年々目に見えて増してきているという。一方で王宮や王室の人々の暮らしぶりは従来より変化がなく、ロッソウ侯爵のみが富み続けている異様な状況にあった。無論、名目上の政策決裁を行うための調査が行われた形跡など勿論存在しておらず、ロッソウ侯爵の承認可否は宮廷対策費の計上額や割合の多寡で決定されると言われている。

 国内ではグルワンベリエフ侯爵家やハグワナーツ財団、ソウユウ財閥といった大富豪が存在しているが、それぞれ歴史的経緯や展開する事業による富の裏付けが存在する中で、ロッソウ侯爵家のみそのような要因は見いだせずに彼らと肩を並べる事実と年々要求額が増えている宮廷対策費から、多くの貴族や騎士達はロッソウ侯爵による宮廷対策費の私財化を噂されている。

 宮廷対策費は元より王室への献上金という実態がある以上、その使途について王室側に公表義務は存在しておらず、ロッソウ侯爵が国王より承認権の代行を認められているが故に、その調査もままならない。元より国王尚書という重職に就いている以上は相応に事務能力には優れているようで、ロッソウ侯爵家の調査に及びえるものについては悉く彼によって否決されている。

 王命を笠に着て国家の禄を蝕み、それを誰も咎めることはできない――必死に労働して税を納める民衆のことを考えると、ナキリはロッソウ侯爵に対する嫌悪感が拭えずにいた。それが、ナキリの彼に対する苦手意識。

 然れども、ナキリはその嫌悪感を表に出さないように努めながら、ロッソウ侯爵に対応する。

「予算総額に対する宮廷対策費の比率は、他に遜色なく同等に計上しています。少ない、ということはありません。また、この政策案は州刺史より改善指摘を受けた案件対応の一環で、他の政策案との兼ね合いがあります。ですので、全体予算を増額するのも極めて難しいかと……」

 ナキリが難色を示すと、ロッソウ侯爵は右手の指で髭の毛先を整えながら事も無げに言った。

「ふうむ。であれば、この元娼婦の就職斡旋や生活保障に対する予算を削ったらどうかね。吾輩としては不要だと思うが」

「な……それは……!」

 ロッソウ侯爵の提案に、ナキリは言葉を失う。この予算こそまさに、ナキリ自身が修正した箇所であった。

「売春取締強化は元娼婦の社会復帰と合わせて行わなければ意味がありません。必要な予算です!」

 ナキリは強い口調でロッソウ侯爵に抵抗を示す。

 売春取締強化は、州刺史より問題視された国内の人身売買についての対応施策。当初は騎士団警察局による取締強化と法院による厳罰化を核とした政策であったが、それにナキリが元娼婦への生活保障等を盛り込み、騎士団と法院と調整した上で最終案が策定されたもの。ナキリ自身の判断のみならず他機関の了承を得た箇所に対する修正はナキリにとっては受け入れがたい話であった。

 だが、ナキリの抵抗にロッソウ侯爵は全く動せず、落ち着き払いながら言った。

「しかし娼婦は犯罪者だろう? どうして国費でそのような人間の世話をしなければならんのかね?」

「娼婦の多くは生活苦となった人たちです。娼婦を捕らえて罰するのは簡単ですが、彼女らの困窮状態を改善しなければ、売春をせざるを得ない状況は変わりません。再犯防止のために必要な施策です」

 事実、騎士団警察局の調査では捕縛した娼婦の多くが困窮した女性であったという。困窮になった要因は様々だが、中には金融業者と人身売買組織が手を組んで、弱みにつけ込んで膨大な借金を負わせた上で、その返済代わりに売春させるという悪質な事例も少なからず存在している。

 娼婦の中には遊び半分で売春を行う貴族や騎士、裕福な平民の娘もいるにはいるが、ごく少数であり、実質的には娼婦の殆どが罪を犯しながらも国政の不備や違法組織の被害者的な側面が存在していた。故にナキリは、ロッソウ侯爵のように犯罪者と断ずることはできないと認識していた。

「元娼婦の就職斡旋と生活保障を行わねば、売春取締強化は片手落ちとなります。その予算を削っては、州刺史の指摘事項の改善という政策目的は為し得ません」

 ナキリは机から騎士団の調査内容や“グ”帝国やクロン市で刊行された刑事政策論文を取り出して、ロッソウ侯爵に指し示しながら再犯防止策としての元娼婦の生活改善対策の意義を説明する。

 しかしロッソウ侯爵は聞いているのかいないのか、つまらなそうな顔をしてナキリに言った。

「君の言わんとすることは吾輩にもわからんでもない。だが、我らの使命は王に仕えること。そこは君ら王族も我ら貴族も違いはない。だから、そんな犯罪者に使う経費があるのなら宮廷対策費として王室のために――」

「あー、しつこいなー! わたしのかわいい妹が必要だって言ってるんだから、認めてやりたまえよ、ヒゲ男!」

 ナキリとロッソウ侯爵が論戦する中で、いきなりゲキが怒声を発する。

「ヒ、ヒゲ男!?」

 唖然とするロッソウ侯爵とナキリの視線が同時にゲキへと向けられる。見ると彼女は顔を真っ赤にしており、酩酊していることをはっきりと示していた。

「ね、姉さん、ちょっと落ち着いて……」

「まー、妹よ、わたしに任せておけ」

 ナキリが諫めるのを聞かずにゲキはソファから立ち上がり、ふらふらとした足取りでロッソウ侯爵の元へ近づき言った。

「なー、ロッソウ侯爵よー。ナキリの言っていることはわたしにもよくわからんが、多分、正しいのだろう。何せナキリはしっかり勉強していて、キミよりずっと政治に詳しいからな。だからつべこべ言わずに黙って判子を押したまえよ、ヒゲ男」 

 ゲキの余りの言い草に、ロッソウ侯爵はわなわなと震えながら声を荒げる。

「ですがゲキ閣下、これは王命ですぞ! 宮廷対策費の増額は王より言付かった吾輩の使命だ!」

「王命? 使命だぁ? 何を言うか。今の王がそんなことに関心を持つものかね? どうせ宮廷対策費は横領されてキミの懐に入るんだろう?」

「な、なんだと……!?」

 ゲキの言葉を受けたロッソウ侯爵は顔を真っ赤に染め上がる。侯爵の顔は酔いが回ったゲキよりも赤く、彼が激高していることを示していた。

「無礼な! 横領犯扱いするなど、聞き捨てならん! 吾輩を侮辱するのか!?」

 だがゲキは一切臆することなく、長身のロッソウ侯爵を見上げながら言い放つ。

「ああん、無礼なのはどっちだ!? 国王尚書だか黒胡椒だか知らんが、貴様は所詮、貴族だろう? 王族であるわたしが貴様に何を言おうが問題あるまい! レーゼスフィーアの臣下の分際で大口を叩くな! 身の程を弁えろっ!!」

「ぐ、ぬ……!!」

 逆上したゲキに、ロッソウ侯爵はたじろぎ、歯噛みする。

 見たところ姉の方が優勢であるが、これ以上放置しておくととんでもないことになると考えたナキリは、ふたりの間に割り込んで姉を再度諫める。

「姉さん! いくら何でも……!」

「おや、ナキリ? 今、いいところだから邪魔しないでくれたまえよ」

 ナキリの介入にゲキが気を取られたのを見て、ロッソウ侯爵は吐き捨てるように言った。 

「ふ、不愉快極まりない! これではまともな議論にならん!」

「わざわざ足を運んでいただけたのに申し訳ありません。姉には私から言っておきますので……」

「ふん! 今日の所は失礼させていただこう、ナキリ閣下!」

 去り際に姉妹を睨み付けると、ロッソウ侯爵は踵を返してナキリの謝罪を背に執務室より退室した。

「もう二度来るなよ、バーカ!」

 激怒したロッソウ侯爵により荒々しく閉められた執務室の扉に向かって悪態をつくと、ゲキはどさりとソファに座り、スキットルの蓋を開けて酒を口にする。

「はぁ……姉さんは、全く……」

 相変わらず昼間の大政庁で酒を飲む奔放な振る舞いをする姉を見ながら、ナキリはため息をつく。

 王の代行者であるロッソウ侯爵に、とんでもないことをしてくれた。傍若無人に過ぎる。去り際の反応からして、姉に巻き込まれる形で自分もロッソウ侯爵の印象を格段に悪くしただろう。考えただけで、胃と頭の痛みが増してくる。

 だが、姉がロッソウ侯爵を面罵したのは、どこか痛快なものがあったのは確か。少しばかり、爽快な気を感じなくもない――尤も、姉もロッソウ侯爵と同じように公私混同を糾弾されても仕方ない人間には違いなく、その性癖も悪趣味極まりないものであるが。

「……ありがとう」

 それでも無意識に、ナキリは姉に対して感謝の言葉を口にする。

「おやおや?」

 小さな声であったが、ゲキは耳ざとくそれを聞いていた。普段つれない妹から発せられた意外な言葉にゲキは目を丸くした後、ニヤリと嬉しそうに笑って言った。

「ふふーん、気にすることないさ、我が愛しき妹よ」

 そしてすっとソファから立ち上がり、つま先を伸ばして長身の妹の頭に右手を届かせて撫でる。

 姉の急な振る舞いにナキリは動揺して言った。

「ね、姉さん! もう私は子供じゃないんだから……」

「なあに、わたしにとってはナキリはいつまでもかわいい妹さ。くっくっく」

 姉から頭を撫でられるなど少女時代以来であり、ナキリは気恥ずかしさの余り頬を赤らめる。

 そして、ゲキとロッソウ侯爵の激しい口論があってもなお、リィンだけは無邪気にすやすやと昼寝を続けていた。


(続)

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