屍舞/一年前から
アクア先輩と初めて言葉を交わしたあの日から毎日、あたしは先輩のいる空き教室に通っていた。
一日の座学と教練を終えた後の、夕食と入浴と就寝以外の時間はほぼずっとアクア先輩は空き教室にいて、あたしも同じ時間を一緒に過ごしていた。
そのせいで、余りにも部屋に戻らないものだから同室のエズメからは度々心配されていた。
エズメも家格が比較的低い家の娘で、一緒にいて気が楽な相手ではあるのだけど、それよりも今はアクア先輩と一緒にいる時間を優先したい。
一つ上の先輩は今年で卒業。進路は魔術大学校に決定している。アクア先輩が総大将役を務めた中央総合演習も終わり、この空き教室で先輩と過ごせる時間も後僅か。
だから、先輩といられる時間が日が経つにつれ、愛惜しくなる。
だから、今日もまた、夕暮れの空き教室で、あたしは先輩と一緒の時間を過ごす。
「――って、そんな訳でベアトリスさんが珍しく本気でいじけてたんですよね。あたしとエズメのふたりで宥めるのはめっちゃ荷が重かったですよ」
話をするのはだいたいはあたしだけで、アクア先輩は黙ってそれを聞いている。
相槌もなく、ただただあたしが本を読んでいる先輩に一方的に話すだけ。
それでも、アクア先輩はあたしを咎めないし、それが何故か、あたしにはとても居心地が良かった。
それに、ごくごく稀に、アクア先輩から話の内容について質問したりとか、逆にあたしがアクア先輩に気になることを尋ねたりとか、会話の遣り取りもあった。
決して一方通行では無いけれども、ふたりが望んだ時だけ双方向になるコミュニケーション。
楽しかった。嬉しかった。気が軽くなった。
憧れの先輩と一緒に過ごす時間だけ、本当の自分に戻れていた。その事実に、あたしはときめいていた。
一緒にいられる時間は少ないけども、先輩のことをもっと知りたい。もっと先輩のことを知って、もっと仲良くなりたいという幼い欲求が日々のあたしの行動原理。
「――あの、先輩、お聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?」
「ええ、答えられる範囲で」
今日もまた、あたしはアクア先輩と会話する。
今日の空き教室は、アクア先輩と初めて会った日を思い出させる茜色で、だからあたしはこの質問をしたくなった。
「どうしてあの日、あたしを部屋に入れてくれて、これからも来ていいって先輩は言ってくれたんですか?」
ずっと不思議に思っていた疑問。
あたしの言葉を受けて、アクア先輩は珍しく本から目を離して、あたしの方を見てくれた。
相変わらず先輩は――造形こそは童顔でかわいらしい顔立ちだが、あたしにとっては――綺麗な顔だった。
「どうしてかしらね?」
少し思案した後に、アクア先輩は淡々と言った。
「せ、先輩~!」
先輩の答えに、あたしは思わず脱力してしまう。アクア先輩がこんなとぼけたことを言うのは初めてだった。
「もしかしたら、貴女に同じ臭いを感じ取ったからかもしれないわね」
そんなあたしの様子を見て、アクア先輩はもう一度思案した後に答えてくれた。
「同じ臭い……ですか」
「ええ」
独り言のような小さなあたしの声に、アクア先輩は短く肯定する。それ以上の言葉は、何も加えずに。
同じ臭い。そう、同じ臭い。あたしとアクア先輩は同じ臭いだ――血と屍の臭い。外法使いの臭い。
あたしと同じ臭いを纏うアクア先輩。だからこそ、あたしはアクア先輩に惹かれているのだろう。
穢れた外法の臭気に冒された自分を厭いもせず、卑下もせず、周囲に媚びず、孤高にして毅然とあり続けるその姿が、あたしを憧れさせる。
「……それと、妹のことを思い出したのかもしれないわね」
そして、数瞬の間を置いてアクア先輩はもう一つの答えを述べてくれた。
そのアクア先輩の答えは、あたしにはとても意外なものだった。妹がいることを初めて知ったのもあるが、アクア先輩は今までずっと父親のブライス卿を含めて家族の話を一切口にしていなかったらだ。
「へー、アクア先輩って妹さんがいるんですね。あたしと似てるんですか?」
あたしはアクア先輩に更に尋ねる。
今まで語られることに無かった話題に対する純粋な好奇心。もっとアクア先輩と話がしたいという単純な欲求。そして、何処か燻るような感覚。
「見た目も性格も似てないわ。けど」
「けど?」
「年は、貴女と同い年よ。私とは一つ下。その程度のことだけど……それでも私たちと同じ臭いを持つ貴女を見ていて、妹のことを思い出すのには十分なのかもしれないわね」
そう語るアクア先輩の声は、いつもと違うように聞こえていた。
いつもの淡々とした声では無く、懐かしむような柔らかな声。
燻りが少しだけ強くなるが、別の疑問があたしの頭を過ぎった。
「あれ……? あたしと同い年なんですよね? けど初年生にブライス姓の子なんていたかな……?」
「ここにはいないわ。あの子はエイリスにいるの。家を……追い出されたのよ」
アクア先輩は言いながら、あたしから目を伏せていた。
その声にはやはり、いつもと違うものがあった。哀切があった。
燻りが、更に強くなる。
「あの子はブライス家の魔術に馴染めず、お父様に家を追い出されたわ。お父様は見栄えばかり気にする人だから……」
アクア先輩は話し続けて、あたしはそれを黙って聞いていた。あたしが話して先輩が黙って聞くいつもとは逆転した景色だった。
「けど……あの子が羨ましいとも思うわ。あの血塗れの家から、抜け出すことができたのだから」
「先輩……?」
思いもかけない言葉だった。
ブライス家から追放された妹が羨ましい。血塗れの家から抜け出すことができた妹が羨ましい――それは、アクア先輩が内心では家法に対する蟠りを抱いていることを吐露しているに等しい言葉だった。
そして、あたしは更に予想し得なかったものを目にすることになった。
「家にいた頃のあの子に、私は何もしてあげられなかった。あの子が家を追い出されるまでずっと、お父様のいいなり。だから、私にそんなことを言う資格はないかもしれないけど――」
そう語るアクア先輩は、ふっと笑った。初めて見る、アクア先輩の笑顔だった。
その時の、アクア先輩の顔は――
「呪詛魔術を修めるなんて血腥い生き方なんかしないで、あの子が違う場所で幸せに過ごしてくれていたら……それは、とても嬉しいことよ、私にとっては」
――とても優しい、妹のことを純粋に想う姉の顔だった。年相応の、ありふれた少女の顔だった。
「そうなんですね、先輩……」
優しい姉の顔をした先輩の姿に、あたしはそれ以上の言葉が継げなかった。
心中にあった燻りが更に強まり、焦がす。あたしの心を火傷させ、煤けさせ、不快な火を灯す。
ねえ、アクア先輩、そんな顔、しないでくださいよ。
あたしは、あなたの、誰にも媚びない、揺るぎない強さに憧れを抱いたんですから。
血濡れた外法の臭いに屈せず、自分を卑下せず、誰に何を言われようが、自分は自分だと言い切ったその強さに、憧れたんですから。
あたしみたいな、普通の人間にはできない強さに、焦がれたんですから。
だから、そんな、優しいお姉さんみたいな顔をされたら。
妹を想って、誰かを想って、哀しむような顔をされたら。普通の人みたいな顔をされたら。あたしは、どう反応すればいいんですか。
どうして、妹さんについて話す時に、そんな顔をしたんですか。
あたしが幾度話そうとも見せない顔を。
感情を。
ああ、アクア先輩にそんな顔をさせるなんて、そんな顔をさせるほど想われているなんて、妹さんのことが、憎らしくて。
孤高を貫いて強く生きていたアクア先輩に、あたしが憧れた先輩に、あたしだけの先輩にそんな顔をさせるなんて、妹さんが――許せなくて。
もし、アクア先輩の妹さんに会うことがあったのなら、あたしは、自分を抑えることができるのだろうか――
*
ネルクスタ大平原魔術部隊演習場。小陣地。
「……本当に使えないんですか、呪詛魔術?」
レスリーは低く淀んだ声で、敬愛する先輩の妹に――マリナに言葉を投げつける。
彼女の顔には今までに浮かべていた作られた笑みも、それ以外の表情の一切も消失していた。ある意味では、彼女のごく自然な表情でもあった。
しかしレスリーの態度が急変したことに対しマリナは臆せず、彼女を見据えながら毅然と答える。
「ええ、私は……ブライス家の呪詛魔術を全く使えない」
今の彼女の相対するべき敵は、レスリーではなく父親に捨てられた過去から逃げる自分の弱さであるが故に。
「お父様から初めて呪詛の手解きを受けた時に……私は生贄を殺すことができなかった」
六歳の頃。屋敷の地下で父と姉に付き添われて行った初めての呪詛魔術。
呪法の贄とする子犬を短剣で解体するよう命じられた私は、罪のない動物を殺すことに耐えられなかった。刃を突き立てる寸前で短剣を取り落とし、その場で嘔吐した。
思い出す度に、私の心が切り刻まれる。
あの時の、涙と吐瀉物に塗れた私を見る父の失望した顔。
あの時の、私の代わりに生贄を解体して血塗れとなった姉の哀れむ顔。
不出来な娘であり、惨めな妹――だから私は、王都の幼年騎士学校にも通わせてもらえず、エイリスに行くことになった。
エイリスでの生活に不満があるわけではない。血と屍の臭いに満ちた屋敷から出られたことは、むしろ良かったとさえ思う。
それでも、自分が不出来な存在であるという劣等感は私を苛み、直視せずに逃げることで心の安寧を保っていたことは否定できない。
過去からの逃避は私の弱さであり、克服すべきもの――それが、姉のことを知る人間と相対することで定まったマリナの思いであった。
だから、マリナははっきりと言った。レスリーに聞かせると共に、自分にも明確に告げるために。
「だから私は不出来な娘として、お父様から呪詛魔術を全く教えられなかった。屋敷を追い出されてエイリスに来ることになった。私が使えるのはお母様から教わった文書魔術だけ。呪詛魔術は使えない」
「…………」
自分の言葉を隣で聞くフィリパは何も言わない。それが彼女の優しさであり、とてもありがたかった。
そして前にいるレスリーは。
「そう、全く呪詛魔術ができないんだ、アンタ。その上で、暢気に田舎暮らしをしていたんだ?」
マリナを睨み付けるその表情には、強い感情があった。
敵意と憎悪と侮蔑、そしてどこか羨望めいたもの。
「血を浴びることも、死臭を漂わせることも一度もなく? ただただ田舎で安穏と楽しく暮らしてきたって言うんだ? 外法使いの娘のくせに?」
責め立てるようにレスリーは問う。それでもマリナは屈しない。
「……否定しないわ。エイリスに来れたことは、私にとっては幸福なことだと思っている」
マリナの答えを受けて、レスリーはふっと、蔑むように言った。
「そっか。アンタは根本的に、あたしたちとは違うんだ!?」
「…………!」
レスリーの言葉に怒気が混じる。暗く沈みながらも、明確な害意を向けた声。
彼女の言葉を聞いて、マリナは思う――仮説が正しいという確信を得た、と。
エイリス分舎で仲の良い友人たちと過ごす中で決して向けられなかった明確な害意を前にしても、マリナの精神は揺るぎなく、自身の行うべきことを見定める冷静さがあった。
「いいご身分だねー。アクア先輩やあたしは、ずっと死体に囲まれて生きてきたのに、アンタは……綺麗な魔術だけ使って澄まし顔していられるんだからっ!!」
レスリーの怒気が溢れる。もはや感情を抑えることができない様子であった。
それでもマリナは怯まない。真っ直ぐに彼女を見据えて対峙する。
彼女の言葉から、レスリーと姉には某かの関わりがあったということは想像につくが、今はそれは関係ない。
ただひとりの騎士候補生として、魔術師として、戦いに専心するのみ。
「アンタなんかに、あたしの気持ちがわかるかぁぁ!!」
レスリーが叫ぶ。
同時に、“タロウマル”と“ジロウボウ”が飛び出す。その動きは、先ほどよりもずっと鋭敏になっていた。
迫り来る二体の極東武者を前にして、マリナはレスリーに聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「ごめんなさい……わからないわ」
そして隣のフィリパに目配せをしながら告げる。
「フィリパ、さっきの会話で私の仮説が正しいって確信できたわ」
「読みは当たったのね! 任せて!」
隠していた過去を語り、明確な敵意をレスリーに向けられてもマリナが毅然とした態度を崩さなかったことを確認でき、フィリパは快活に笑って応えた。
*
陽光に煌めく刃が振り下ろされる。
レスリーが操る極東武者“ジロウボウ”の太刀の刃が、マリナの携えた紙の大盾に受け止められる。
「っ……!」
“ジロウボウ”の刃を受け止めながら、マリナは歯を食いしばる。
重い。レスリーが激高する前には“タロウマル”の槍を幾度も受け止めていたが、それよりもずっと太刀筋が速く、そして重くなっている。
おそらくは、レスリーが手加減をやめたのだろう。
レスリーの口ぶりからしてマリナが呪詛魔術を使うことを望んでいたようであり、それを使えないことを知ったために本気を出したと見て取れる。
紙の盾は鋼鉄並みに強化してあるので断ち斬られることはないが、盾を支える腕が持たなくなる。
その点では、“ジロウボウ”の左腕を破壊できたのは、二重の意味で僥倖であった。この斬撃が二刀で放たれることが無くなったことと――レスリーの扱う魔術の本質に気付く契機となったのだから
「“ジロウボウ”、弾き飛ばせっ!!」
レスリーが命じると“ジロウボウ”右腕を振り上げて太刀を横薙ぎで一閃する。
「く、ああっ!」
更に重い斬撃を受けたマリナは耐えきれずに弾き飛ばされ、地面へと転がる。
演習正装の下には身体強化の魔法句を刻んだ護符を幾つも貼り付けているため痛みはそれほどでもないが、弾き飛ばれた衝撃で紙盾を手放してしまっていた。
このまま追撃が行われた場合、敗北は必至であり。
「“タロウマル”、“ジロウボウ”、とどめを刺せ!」
「マリナ、援護する!」
マリナが吹っ飛ばされたことを認識したレスリーとフィリパが同時に声を発する。
交戦当初はマリナとフィリパに一体ずつけしかけられていた武者は、今ではフィリパを無視してマリナに狙いを定めていた。
「くらえっ!」
フィリパはマリナの元に駆けながら肩掛け鞄から液体の入った三角フラスコを取り出し、同様にマリナのもとへと迫る“タロウマル”と“ジロウボウ”に対して投げつける。
中には液状爆薬。試験管よりも量が多い分だけ、爆発力がより強い。
「邪魔をすんな! “タロウマル”、中空で叩き割れ!」
フィリパが投擲した三角フラスコを“タロウマル”は長槍で叩き割る。
爆発。しかし、長槍と“タロウマル”との間には距離があり、爆破による攻撃は能わず。割れて飛び散ったフラスコのガラス片も、鎧を着込んでいる“タロウマル”には大したダメージにはならない。
「ほいっと!」
しかしながらフィリパも爆薬攻撃の失敗を想定していたかの如く、流れるような手つきで試験管を“タロウマル”らの足下へと放り投げて割る。
すると“タロウマル”たちの足下に飛散した液体から大量の煙が発生し、煙幕を作った。
「ちぃ! 小賢しい……!」
忌々しげなレスリーの声を背に、フィリパの元へと駆け寄る。
「大丈夫?」
「……なんとか」
マリナはフィリパに助け起こされ、煙幕に包まれる“タロウマル”たちから距離を取りながら言った。
「フィリパ、今から作戦、決行できる?」
「了解、いけるよ!」
マリナの問いにフィリパが頷くと同じくして、煙幕が薄くなる。
助け起こされて“タロウマル”たちから距離を置いたマリナの姿を、レスリーは視認する。
「そこか! 行け、“タロウマル”、“ジロウボウ”!」
“タロウマル”と“ジロウボウ”がマリナの元へと迫る。同時にフィリパがマリナの前に立って腕を大きく振りかぶり、液体が充満した大型のメスフラスコを投げつけた。
「よっと、奥の手をくらえ!」
「また爆薬か……! “タロウマル”、防げ!」
レスリーが命じると、先と同じように“タロウマル”はリーチのある槍でフラスコを叩き割り、爆破による被害を防ぐ――それが、フィリパとマリナの狙い通りの動きであった。
「マリナ、今だ!」
「よし……! “風送”!」
マリナが魔道書を開くと、ページから突風が発生する。
大陸中部及び西部で広く普及している地火水風の四元素魔術理論のうち、風を操る文書魔術技法“風送”。
フラスコが割れると同時に生じた突風は、内部の液体を“タロウマル”と“ジロウボウ”の身体に浴びせた。
その想定外の行動に、レスリーに動揺が生まれる。
「爆薬じゃない!? いったい何を!?」
「そ・れ・と……次のを、お願いできる?」
「いけるわ! “紙舞”!!」
次いでマリナは“風送”の魔道書を開きながら、鞄から複数枚の紙を取り出し、前方へとばらまく。
紙は全て硬質化した刃。“風送”の突風で吹き飛ばし、速度と殺傷力を増した“紙舞”と呼ばれる文書魔術の技法の一つ。
加速を付けた紙の刃は先のように防がれることはなく、二体の武者とレスリーの手板とを繋ぐ糸を切り離していく。
「“タロウマル”、“ジロウボウ”!」
手板の糸が切られたレスリーは目を見開き、“タロウマル”と“ジロウボウ”は行動を停止した。通常の操糸人形であれば、もはや動くことは能わず。傀儡術士の無力化に等しい成果である。
「う、嘘でしょ……そんな……」
レスリーは驚愕の表情を作りながら、がくりと膝を落とす。
動かなくなった武者と、愕然とする術者の姿を見てフィリパは歓声をあげ、背を向けて両掌をマリナに差し出しハイタッチを促す。
「イエーイ! 作戦成功! 大勝利ー!」
「い、いえーい?」
フィリパのノリに困惑しながらも、マリナはフィリパにハイタッチを返し、勝利の喜びを示す。
そのふたりの姿を密かに見ながら、レスリーはぼそりと呟いた。
「……油断、したな……!」
はしゃぐ彼女らの背後で、糸を切られた“タロウマル”と“ジロウボウ”はぎしぎしと音を立てながら、ゆっくりと動き出した。
*
魔術の中には、人間を含む生物の血や屍を用いる術式が存在する。
そのような術式はレゼのみならず大陸の多くの地域で外道の術として畏怖され、時には迫害されることもあるという。
外法外術と蔑まされる魔術分野の一つに屍具術と呼ばれるものがある。
主に人間の遺体を原料として、武具や魔術用品を作成する、人々の目を背かせる術式。その屍具術の内に、人間の死体を利用した傀儡を作成する“屍傀儡”と称される技法が存在している。
人形を作り操る傀儡魔術の屍具術版。傀儡魔術で作られる人形が魔術句を刻んだ回路を核とし、鉄や土、木片で身体を作り上げるのならば、“屍傀儡”の人形は死体の脳を核とし、身体もそのまま死体のものを利用する。
“屍傀儡”は死体の脳を術士が改造し、擬似的に蘇生させて奴隷として使役する。
その性質上、プログラムされた動作しかできない傀儡魔術の自動人形よりも、脳に蓄積された生前の経験に基づく自律的な状況判断が可能となる――例えば、大盾を構える相手を攻撃するために、槍で地面を抉り取って飛礫とし、盾の上から降り注がせる戦法を用いる、など。
人形の制御に死体の脳や筋肉、神経を利用する性質上、鍛え抜かれた肉体や高度な修練を積んだ高名な武人の死体を材料とすれば――屍であるが故に生前よりも技量が落ちてはいるが――強力な奴隷を得ることができる。
故に、古来より“屍傀儡”を扱う屍具術士は人々に敬愛された武将の墓を狙い、暴き、遺体を盗む。時には豪傑を罠にかけて謀殺し、自らの手駒に作り変える。
彼ら彼女ら屍具術士の所行に善男善女は眉を潜め、忌み嫌い、その存在を善性の外の者として排斥する――故にその魔術は“賤”なる外法。
そして、その外法たる屍具術を家法とする一族が――フォード家であった。
*
「……油断、したな……!」
レスリーが呟くと、ハイタッチをしてはしゃぐマリナらの背後で、糸を切られた“タロウマル”と“ジロウボウ”はぎしぎしと音を立てながら、ゆっくりと動き出した。
フォード家の長女レスリー・フォード。忌み嫌われる屍具術士の娘。
外法の屍具術を家伝の術式とする、魔術大学校総長である輝かしき“英雄”インガルデン卿とその一族の影となり汚れ仕事を担っていた暗殺魔術師団フォード家を継ぐ者。
故に、彼女の操る魔術は傀儡魔術に留まらず――否、まさにその本領こそが屍具術にあった。
“タロウマル”と“ジロウボウ”は、ふたりの極東系レゼ人騎士の死体を利用した屍の傀儡。
屍武者たちは本来であれば術士の命令に従い自律的に動く存在。傀儡魔術の操糸人形のような手板と糸など不必要であり――操糸人形と欺罔させるための装飾品。
糸が切れようとも、二体の屍武者が動くことには何の支障も無い。
普通に戦って勝てるのであればそれでよし。仮に強者であれば操糸人形と思わせて、糸を切らせて勝利したとの油断を突いて仕留め討つ。それが屍具術使いレスリーの策。
「行け! “タロウマル”、“ジロウボウ”!!」
策を成らせる好機とみて、レスリーが命じる。
同時に停止していた屍武者が武器を携えながらマリナとフィリパの元へと馳せる。
「あたしの魔術は傀儡魔術だと思った? 違う! あたしが使うのは人間の屍を材料にした人形を作る、忌み嫌われる卑しい外法の術! 気付かなかったでしょ!?」
屍武者が再始動したことに気付いて顔を向けるマリナたちに、レスリーが叫ぶ。
「小さい頃からずっと死体に囲まれて、汚いモノを見るような目で蔑まれてきたあたしやアクア先輩の苦しみがわかる!? わかるわけないよね? それなのに、アンタは――!」
「ええ……本当に、申し訳ないけど、わからないわ、追放された私には」
絶叫の如く言葉を放つレスリーとは対照的に、マリナは静かに言葉を発する。レスリーと、自分自身への哀切を含めた言葉を。
そして。
「な……!?」
レスリーが絶句する。
“タロウマル”と“ジロウボウ”はマリナたちの元に辿り着いて刃を振るう前に、再度動きを止めた。今度は、レスリーの意図に基づかない停止。
「何故!? どうして動かないの!? あたしの命令が聞けないのか、極東人の分際で!!」
想定外の動作停止をした“タロウマル”たちに、レスリーが高圧的に命じる。しかし、屍武者は動かない。
「レスリーさん、だっけ? マリナが気付いたのよ、この人たちは普通の人形じゃないって」
狼狽するレスリーに対し、フィリパが哀れむような視線を“タロウマル”と“ジロウボウ”に送りながら言った。
レスリーがただの傀儡魔術師だとすれば、違和感が多くあり、その全ては彼女が操る人形が人間の死体であるという解で説明できることをマリナは気付いていた。
“影捉”中にヴィルヘルミナが混乱したのは、人間の影を捉える彼女の術式で、動く人間の死体の存在を見てしまったから。
気配もなく迫ることができる射手人形“サブロウスケ”が、わざわざ音を立ててその存在に気付かせたのは、レスリーを傀儡魔術の使い手だと誤認させるための布石。
操糸人形にしては単純だが、自動人形では考えがたい武者たちの動作は、正に“屍傀儡”の特徴。
フィリパの放った紙弾の軌道は、人体の弱い部分を自動的に攻撃する性質であるが故に、死んだ人体を持つ“ジロウボウ”の損傷箇所を攻撃対象とした。
手板を動かすのみならず、屍武者に命令を下すような言葉を発していたレスリーの姿は、実戦経験のない騎士候補生という未熟さにより傀儡魔術と見せかける欺罔に徹しきれなかったが故のもの。
マリナが武者たちの正体を推定できた契機は、自身が作成者である紙弾の動き。無機物である傀儡魔術の人形に命中することはありえない。
そして、確信を得たのは呪詛魔術を使えないマリナを「あたしたちとは違う」と――姉やレスリーら外法使いとは違うと発言したこと。
つまり、レスリーが用いるのは外法に区分される術式で、かつ、傀儡魔術と類似したもの――即ち“屍傀儡”であり、彼女は傀儡魔術ではなく屍具術の使い手であるという仮説をその言を以て裏付けることとなった。
「あと、この人たちが動かなくなったのは、マリナが糸を切る前にこの人たちが浴びた薬のせいよ。あれ、筋肉を動かさなくさせる薬なのよね。クロン市の病院で使われるような高級品をベースに作った、触れただけで効果が出ちゃう超劇物」
軽く説明して、フィリパがおどける風を装いながら言った。
「いやー、万一転んでフラスコ割れたりしたら、私が自滅しちゃうから怖いし、しかも材料の調達費嵩んだのよねー、これ――だから元をとって、マリナ!」
「わかったわ! 決着をつける! “火葬刑典”!」
マリナが魔法句を告げると、鞄の中から分厚い大型本が手も触れずに飛び出し、宙を舞う。
本は空中でページを自動的に捲りながら、火炎を放ち、動かなくなった二体の屍武者を火の渦に包む。
火の文書魔術の大技“火葬刑典”。焚き火や明かり取りなど生活利用の火術とは一線を画す威力を持つ、戦闘特化の術式。
「ま、まずい……引け、“タロウマル”、“ジロウボウ”! 引けぇーー!!」
レスリーが青ざめながら、動かなくなった屍武者に無為な命令を重ねる。
通常の傀儡魔術に基づく土塊や金属で作られた人形であれば、耐火加工は容易。だが、人間の死体が核となる屍具術に基づく“屍傀儡”では炎は決定的な弱点となる。
マリナの用いた火炎術は、火葬の名を負うまさに屍魔術を打ち破るに相応しい浄化の炎。炎に包まれた二体の武者は、業火の中で崩れ落ちていく。
「くっ……けど、まだ戦える! まだ終わりじゃない!」
歯噛みをしながらヘイゼルは絞り出すように言った。
屍武者は燃やされ、“サブロウスケ”のような欺罔用の自動人形を今から組み立てるのは非現実的。他に自分が扱えるのは指銃術のような簡易的なものだけ。
嘘ではないが、負け惜しみに近く――そして、相対する敵には油断がない。
「――同感よ。あなたが倒れるまで、終わりじゃないわ!」
マリナは魔術具を詰めた鞄を放り投げて、駆ける。
駆ける。駆ける。駆ける。炎を縫って駆け、レスリーの元へ。
「何を……!?」
「はぁ!」
マリナは軸足たる右足で強く地面を踏み抜く。
震脚。本来であれば重心沈墜により力の集中した軸足へ更に重力をかけ、打撃のための反作用を倍加させる“グ”国拳法の動作。だが、マリナは重心沈墜を行っておらず。
「せいやぁ!!」
「ぐぅ!?」
大声を発すると同時に、マリナは左脚を大きく前へと踏み出すと同時に、左拳をレスリーの腹部に目がけて突き出し、冲捶を繰り出す。
正しい動作で行われれば拳を通して収斂した全身の運動量を発し、強い衝撃を与える必殺の一撃となるが、鍛錬が圧倒的に足りないマリナの放つそれは形だけの套路。
然れども。
「こ、この程度じゃ――!?」
非力なマリナの拳では、レスリーに大したダメージは与えられない。
だが、レスリーは気付いた。彼女の左拳には魔法句がびっしりと刻まれた紙片がバンテージの如く巻き付けられていることに。
「発勁!」
「ごふっ!?」
魔法句を告げると、レスリーはマリナの左拳が触れた部分に強い衝撃を覚えた。
視界がぼやけ、何かが腹から込み上げる感覚を得て、両足の力が抜けていく。
「ふぐふっ……がっ……!」
レスリーは逆流した胃液を口から吐き出すと、そのまま膝を崩した。
*
中央総合演習開催より二月前。夕刻。女子高等騎士学校エイリス分舎体術科訓練場。
「はぁ……はぁ……」
カティとの体術特訓を終えて、マリナは息を切らしながら仰向けになって木床にへばる。
「マリナ、疲れてる」
マリナの顔を覗き込みながら、カティが言った。
青息吐息のマリナとは対照的に、カティは疲れの色を全く見せておらず、普段通りの表情。
「き、厳しい、わね……」
「うん。厳しい」
カティは頷く。
今日も、昨日も、一昨日も、カティとの体術鍛錬は冲捶と呼ばれる“グ”国拳法の動作をひたすら行うというもの。
体力的にも厳しいのみならず、同じ鍛錬内容を延々と続けることは精神的にも厳しい。
「ねえ、もっと、こう……必殺技、みたいなものってないの……?」
「ない」
マリナの問いに、カティは首を振った。
「通門拳は冲捶に始まり冲捶に終わる」
言いながらカティは震脚からの冲捶を繰り返す。
「基本は冲捶。ひたすら冲捶」
会話する内に体力を回復させたマリナは息を整えながら腰を上げ、訓練場の床に座り直しながら自嘲するように言った。
「ふぅ……体術なら私でもできると思ったのに……」
「マリナは甘い」
カティは冲捶を中断し、マリナを見ながら言った。
「な、何が……?」
「武器が重くて持てないから、体術という考えが」
「うっ……」
カティの言うとおりであった。
中央総合演習に備えて、魔術以外の戦闘方法を身に付けたいと思った。最初は同室のサヤやフィーネに稽古をつけてもらおうかと思ったが、実際に彼女らの武器を持つと重く、これは無理だという安易な考えで武器が不要な体術を選択した。
甘い、以外のなにものでもない。
「仰る通りです……」
反論の余地もなく、マリナはしょげる。
「だから、ひたすら鍛錬」
カティは頷きながら言った。
「鍛錬かぁ……」
「うん。鍛錬は裏切らない」
「やっぱり、中央総合演習までに体術を使えるようになるなんて、無理かしら……」
「うん?」
弱気なマリナの呟きを聞いて、カティは少し思案して言った。
「マリナは魔術を使えるから、鍛錬不足を補える、かも」
「どういうこと?」
カティの意外な言葉に、マリナは食いついた。
「優秀な拳法家は優秀な魔術師でもある、らしい」
カティ曰く、“グ”国拳法の達人は闘気を放出して敵を打ち倒すことができるという。
論理的にはまだ解明されていないが、魔術の源泉である人の想念を具現化する因子“リョーデニウム”の働きによるものと推察され、魔術と武術の一体化理論が“グ”帝国の研究機関で構築がされつつあるという。
実際、“グ”国拳法の達人には優れた魔術師も多いとされている。
また、拳法家ではないものの、大陸最高の騎士と謳われるかのベッカリーア無領公であれば、気炎万丈の文字通り、その闘気が炎をとなって剣を振るまでもなく敵対者を焼殺する――との真偽不明の伝説まで存在している。
「魔術と拳法、か……」
「うん。マリナの場合は、套路を身に付けて、勁を魔術で補うといい、かも」
勁とは、“グ”国拳法における力の概念。
単純な筋力とは異なる、修練を積み重ねることで得られる技術の力。
全身鬆開により余分な力を削ぎ落とし、重心沈墜して必要箇所に収斂した運動量。
勁を拳を通して発するその威力は、引き絞られた弦より放たれる矢の如きと喩えられる。
「カティの言うケイっていうのがまだ、いまいちよくわからないけど……やってみるわ!」
「うん。その意気。じゃ、鍛錬の続き」
「うっ……も、もう少し休ませて!」
マリナが引きつりながら懇願する。
その会話を行った鍛錬の日以降、マリナはカティから拳法の鍛錬を受けると同時に、自身の非力さと鍛錬不足を魔術で補う方法について思考を進めていった。
套路のみならず拳法理論を教わり、学内図書館で書を紐解き、“グ”国拳法への自分なりのイメージをつかみ、掴みかけてきた勁の概念を魔法句として紙片に刻む。
魔法句を刻んだ紙片を拳に巻いて、相手と接触した瞬間に魔術を発動し、擬似的な発勁と為す――それが、カティから教わった“グ”帝国の拳法理論と文書魔術を組み合わせた彼女独自の魔術。
本物の“グ”国拳法の技には遥かに劣化するが、それでも威力はそれなりのものが見込まれる自己評価。
ただし、完成したのは中央総合演習直前で試験不足であり、また、任官前の騎士候補生である十七歳の少女が作ったものであるが故に――
*
「あぐぅ! いたい……!」
魔術発勁を行うと同時に拳に巻き付けた紙片が弾け飛び、マリナが苦悶する。拳が割れるように痛い。
マリナ自作の文書魔術は、敵を打ち倒すと同時に術者自身も反動により大きくダメージを与えるものであった。
端的に言えば、失敗作。玉砕前提の自爆攻撃以外には用を為さない未熟な代物。鈍化魔術が無ければ、手の骨が完全に砕けていたかもしれない。
それでも、この場で相手を確実に仕留めるという決意があった。
歯を食いしばり、痛みを堪える。眼前の敵は動くことはできないようだが、まだ演習正装の飾緒は切れておらず、決着は未だつかず。
「ごほっ、ぐぅ……!」
対するレスリーは膝をつき、両手で身体を支えながら何とか地に伏せることを堪えていた。
だが、もはや立つこともできず、戦闘の継続は不可能だという自覚はあった。
自分は負けた。敗北したのだ――アクア先輩の妹に。
孤高を貫いて、揺るぎない在り方をしていた先輩に、普通の姉の顔をさせた人に。
それが憎らしくて、悔しくて。
「はぁ……はぁ……いや、さすがは……アクア先輩の妹さん、ですね……」
顔を上げてマリナを見据えながら、皮肉を込めて言った。
初対面の時から、彼女は姉に劣等感を抱き、彼女の話題に触れられたくないという意思があったことにレスリーは勘づいていた。
だからこれは、最後の悪あがき。
「……私は私よ」
「…………」
ほんの僅かばかり躊躇うような間を置いて告げられたマリナの答えに、レスリーは目を伏せる。
一瞬だけ、彼女の姿に、茜色の教室で共に過ごした人の姿を幻視してしまったから。
彼女はとても、先輩に似ていた。
同年代の少女に比較して小柄な体型。幼げでかわいらしい顔立ち。薄茶のお下げ髪。
違うのは瞳の色と、眼鏡の有無、表情がとても豊かなこと。そして――アクア先輩に感じた美しさ。
彼女にはアクア先輩に感じた美しさはなかったが、それでも重なるものが確かにあった。
胸が、締め付けられる。
「そう、ですか……」
小さく、レスリーは呟いた。
悔しいなあ。忌々しいなあ。
けど――良かったかもしれない。
自分は知ることができた。
アクア先輩が心配していた妹さんは、自分たちのように死体に囲まれて血に塗れることもなく、外術使いと蔑まれることもなく、友達に囲まれて幸せそうに暮らしているのだと。
そのことを、先輩に話したら、きっと――
(喜んで、くれる、よね……あたしの話を、聞いて、笑って、くれる、よ、ね……)
心中で独りごちながら、レスリーは気付いた。
羨ましかったのだ。
毅然とした先輩に憧れた自分にとって、彼女に普通の少女のような顔をさせる妹の存在が悔しくて、憎らしかったけど。
それ以上に、あたしは羨ましいと思ってしまったんだ。
誰に何を言われようとも揺るぎなく表情を変えない先輩に、何よりも大好きな先輩に、優しい笑顔を向けられることが、羨ましかったんだ。
あたしにも同じように、優しく笑いかけてほしかったんだ――
「ふふっ……なに……やってんだろ……あたし……」
自分の憧れを自ら否定するような願望に自嘲しながら、レスリーは静かに瞼を下ろす。
腕も足も力が抜けていき、地面へと伏せる。意識が薄まっていき、演習正装の飾緒が切れ落ちる。
その表情は、憑き物が落ちたかのように安らかだった。
(続)




