誓い
「いやいや、エイリス分舎も中々にいいものだね。教官の指導、学舎環境、候補生の質、いずれも他地区とは劣らないじゃないか」
「勿体ないお言葉です、閣下」
来賓室のソファに座りながら上機嫌に話すゲキに、テーブルを挟んで向かい側に座るユキノヲは応対する。
極東武術科道場を初めに一通り学舎を案内した後に分舎長室に戻ったが、まだ分舎長らとゲキの秘書による中央総合演習に関する会議が終わっていなかった。
その様子を知ったゲキ曰く「難しい話は聞いているだけで頭が痛くなる」とのことで、別室での休憩を希望したため来賓室へと案内した。
応接役は引き続きユキノヲ。そちらもゲキの希望である。
閉じられたふたりきりの部屋には、うっすらと桃の香りが漂っていた。ゲキがつけている香水の匂い。
「だからこそ――エイリス分舎が廃校になってしまうのは、わたし個人としては実に残念に思うよ」
「今……なんと……?」
ゲキは変わらぬ上機嫌な調子で放った言葉に、ユキノヲは目を見開く。
エイリス分舎の廃校――
全く以て想像だにしなかった言葉に、ユキノヲは硬直する。
「おやおや? ブラックウッド分舎長からは何も聞いていないのかね?」
ユキノヲの反応を見て、ゲキはテーブルの上に身を乗り出し、にんまりとした意地の悪そうな笑みを作る。
「今、中央ではね、女子高等騎士学校の幾つか廃校・統合をしようじゃないかという話があるんだ。その筆頭がエイリス分舎なんだよ」
「それは、何故……でしょうか……?」
身体に凍り付くような悪寒が走る。言葉が意図せず途切れ、自然と声が震える。
民族や信仰で疎外されること無く生きられるエイリスの地。愛着のある教官職。今の自分の、居心地の良い生活が崩壊する。
そんな恐れが、ユキノヲの内に生じる。顔の熱が引いていき、青ざめていくのがわかる。
しかし、目の前のゲキはユキノヲが動揺している姿を楽しんでいるように見えた。
「まあ、色々理由があるんだよ。我が国も収入が年々減り続けているから、削れるものは削る方針なんだ」
ゲキはソファに背を戻し、薄茶のタイツで包まれた細い脚を組みながら続ける。
「で、そんな中でエイリス分舎が目を付けられた理由は、単純に言えば舐められているからだよ。国内最北の辺境で、候補生数が一番少ない。潰したって騎士団戦力的には影響微細で問題ないと、中央からは認識されている。あと、在籍者には極東人が多いというのも、中央からはマイナス要因として見られているんだ。極東人のために国費を割くのかって」
「…………」
ゲキの言葉を受けて、ユキノヲは顔を曇らす。
彼女の口にした“極東人”という語は、レゼ国内の極東系住民に対する蔑称として使われる言葉。本来的には極東地方出身者を指す、他国でも使用されることのある差別的な意味合いのない言葉であるが、レゼ国内では専らレゼ民族・レゼ国民ではない“異物”という意味合いを帯びた差別的文脈で用いられている。その性質故に、公的な場で極東系住民を示す場合は“極東系レゼ人”乃至は“極東民族”の語が使われている。
極東好みと言われ、特別教育査察官という公職にも就いているゲキが“極東人”という言葉の持つ意味を知らないとは考えがたい。意図的なのか、或いは「王族」という国内最高特権階級の傲慢さから生じる無意識的な言葉か。
「いや、まあ、極東人が多いことについては、わたしはマイナスにはしないさ。むしろ良いことだと思うよ」
にやりとしながら、ゲキは付け足した。
白々しい。
いずれにしろ、ゲキは初対面の時からユキノヲを困惑させる人物であったが、極東民族であるユキノヲの前で“極東人”という言葉を平然と使う彼女に対して幾ばくかの嫌悪感を抱いてしまう。
その一方で、嫌悪感が刺激となりエイリス分舎廃校という言葉から受けた動揺をユキノヲは持ち直した。
「それに加えて、ブラックウッド分舎長のことがある」
「分舎長が、ですか……?」
エイリス分舎廃校の要因として挙げられたのは、ユキノヲにとって意外すぎる名前であった。
ブラックウッド分舎長。エイリス分舎の資金獲得に熱を上げる経営者。
エイリス分舎が中央総合演習の相手校候補となり、こうして特別教育査察官の来訪を受けるまでに至ったのは分舎長の手腕によるものであるが、その彼女がエイリス分舎廃校に結びつくことは考えがたい。
「うん、分舎長。彼女はね、白梟魔道騎士団の生き残りなんだよ。知っていたかね?」
「いえ……」
ユキノヲは頭を振る。
白梟魔道騎士団。王立魔術大学校の卒業者を中心に構成されていたという、かつて存在していたレゼ国の精鋭魔術師集団。
白梟魔道騎士団はレゼ=ムルガル戦争の最中で壊滅し、今でも再編はされていない。その騎士団に、ブラックウッド分舎長が在籍していたことは初耳であった。
「白梟魔道騎士団が壊滅した時の戦いは、まあ、調べれば調べるほど、酷い作戦だったと思うよ。あれは無駄死に以外のなにものでもない。それを命じたのが、外戚のロットラッファー卿だ。だから、生き残ったブラックウッド分舎長は、あんな酷い地獄を見させた国を、恨んでいてもおかしくないって思われているみたいなんだよ。いやいや、自分たちで命じといてこれだよ、呆れた国だ。くっくっく」
「そんな、言いがかりな……!」
思わず声を荒げてしまい、ユキノヲははっと我を取り戻す。王族相手に、礼を逸する振る舞いをしかけた。
だが、ゲキは気にする素振りは一切見せていない。むしろ愉悦めいた薄笑いをしていた。
「勿論、それは要因の一つでしかないさ。ところで、ユキノヲ君はエイリス分舎の通称は知っているよね?」
「“流刑地”や“追放地”、でしょうか……」
「うんうん、正解だ。何らかの問題を抱えた他地区の娘達を積極的に受け入れるが故の“流刑地”であり“追放地”。その分舎方針が中央は気にくわないみたいでね」
ゲキは胸元の内ポケットから手帳を取り出してパラパラとめくる。
「例えば、今の上級生であれば……不出来扱いされて幼年騎士学校に行くことも許されなかったブライス卿の次女、七年前の“ドレクスラーの獄”で取り潰されたヤマノイの跡継ぎと処刑されたドレクスラーの三女の娘……それに、他地区出身者ではないが、子供がいないはずのリスト卿の孫娘と称する素性不明の者までいるね。どの娘も関係する家が家だけに中央からすれば、不穏な存在だ。こういう娘達を分舎長は何年もエイリス分舎に迎え入れている」
ブライス。ヤマノイ。ドレクスラー。リスト。
極東武術科の候補生はヤマノイのみだが、どの顔もすぐに思い出すことができる。
ユキノヲはエイリス分舎の候補生の抱えている事情に立ち入らないという意思があったため、ゲキの言葉で初めて彼女たちの背景を知った。
「国を恨んでいてもおかしくない分舎長が、訳ありの娘たちを集めて関係を結んでいる。まあ、不穏分子が不穏分子を糾合しているように見えてしまうってことだね、中央からは。最近は国内で“クロ”の活動が見受けられるから、神経質になってるんだよ」
ゲキは手帳を閉じて内ポケットに仕舞い、組んでいた脚を戻す。テーブルに両肘を付いて指組みをしながら楽しそうに言った。
「つまりだ、エイリスの女子高等騎士学校を潰してもレゼの騎士団政策には影響微細だし、不穏分子になり得そうな連中も一掃できる。結果として、教育予算も削減できる。中央にとっては良いことずくめってわけさ。くっくっく」
意地の悪い笑い声。先の“極東人”呼びもあり、不愉快な態度であった。
だが、ゲキのもたらす情報はユキノヲにとっては傾聴に値するもので、更に話を求めてしまう。
「その評価は、分舎長も承知で?」
「うんうん、当然、ブラックウッド分舎長だって承知しているよ。だから、中央総合演習の相手校になるという奇策を思いついたのだろうね。中央総合演習でエイリス分舎の実力を見せることで、低評価を払拭できるし、賓客としてくる要人達に直接顔を売って忠誠を示せば、自身の悪評価も覆されうる。それで、相手校の決定権限を持つわたしの所に頻繁にロビーしに来ていたわけだ」
分舎長がエイリス分舎にいるより王都へ出張する方が多かった背景を知り、ユキノヲは自身の浅慮を思い知る。
中央総合演習は単なる資金獲得では無く、エイリス分舎の存続が懸かった重大事項。エイリス分舎や自身の悪評といった逆境の中で、相手校候補にまで引き上げたその手腕に、ユキノヲは分舎長へ敬意めいたものを抱く。
そして、彼女の努力は成果を得られそうなのか――ユキノヲはゲキに尋ねる。
「……閣下はいかが思いますか、エイリス分舎の存続は……?」
ユキノヲの言葉を待っていたとばかりに、ゲキは薄笑いしながらわざとらしくため息をつき、言った。
「そうだね……まあ、わたしは良い学校だと思うよ、エイリス分舎は。だが、その所感をそのまま伝えたところで、廃校の流れは変わらないだろう。それに、相手校に選定するのも、少し厳しいかもしれないね。だけど……」
ゲキは桜色の左目でユキノヲ見据えながら、ニヤリと笑って言った。
「条件次第では、格別な便宜を図ってやらないこともないよ?」
その桜色の瞳で見られた瞬間、ユキノヲの背に形容しがたい感覚が走る。
ゲキという女から度々感じさせる不快感なのか。王族という絶対的上位者に対する畏怖なのか。
そして、それでも彼女の言葉にユキノヲは問い返さざるを得ないものがあった。
「条件、ですか……?」
「うん。それはだね、ひとり、わたしが好きなように扱ってもいい候補生を貰い受けたいと思ってね」
*
ゲキの言葉を受けて、ユキノヲは慄然とする。耳を疑う。
「今、なんと……?」
ゲキは変わらず、桜色の瞳をユキノヲに向けながら笑みを浮かべていた。
「自由にできる候補生をひとり貰い受けたいと言ったんだ。単純に言えば、新しい女が欲しいってことだよ」
ゲキは肘をテーブルから離して再度脚を組み、話を続ける。
「今日連れてきた秘書のセヴン、いるだろう? アレはわたしが最も巧く“仕込んだ”女でね」
長い黒髪の、すらりとした従順そうな女をユキノヲは想起する。
――わたしが最も巧く“仕込んだ”女。
セヴンを評するゲキの言葉の意味が、理解できない。否、理解したくない。
だが、ゲキの口調と笑顔には、下卑たものを感じざるを得なかった。彼女の言わんとする意味が、わかってしまった。
「で、何人か仕込んでみて思ったんだよ……わたしは完成させたモノを愛でるよりも、完成させるまでの過程が楽しくてたまらないタイプなんだって。くっくっく」
先と同じような意地の悪い笑い方だったが、その声には下劣なものを感じざるを得なかった。
目の前にいる女が、途轍もなく醜く見えた。
端麗な金髪と、眼帯をしているとはいえど整った顔立ちのゲキは十人いれば十人が美女と認める容貌をしているが、彼女の人格によって、人間としての品性によって、たまらなく醜悪にユキノヲには見えた。
「次は、極東人の娘がほしいと思っていてね。エイリス分舎の候補生は中々、かわいい子が揃っているじゃないか」
「…………」
ゲキの言葉に、ユキノヲは無言を貫く。
どう反応するべきかわからない。怒り以外の感情が湧かない。罵倒以外の言葉が思い浮かばない。
辺境の地であっても、国内最小の学舎であっても、“追放地”や“流刑地”などと揶揄されようとも、教え子達はそれぞれ問題を抱えながら、騎士候補生として日々を励み、生きている。
そんな彼女たちを侮辱し、あまつさえもその心身の蹂躙を欲するようなゲキの言葉は、教官として、それ以前に一人の人間として、許されざるものがあった。
膝に置かれた両手は無意識に力が籠もり、指が袴に食い込む。もし彼女が騎士が仕えるべき王族では無く、この場に刀があれば斬り殺していたかもしれない。
しかし、憤怒を抱くユキノヲを余所に、ゲキは更に言い放つ。
「だから、ユキノヲ君に選んでもらいたいんだよ。わたしが自由にしてもいい極東人の娘をね。極東武術科主任のキミが一番詳しいだろう?」
「は……?」
彼女の言葉に、ユキノヲは唖然として思わず声を発する。やはりゲキは一切気に留めず、むしろユキノヲの感情を弄んで愉悦するような薄笑いをしていた。
「ユキノヲ君が薦めてくれた娘をわたしが気に入ったら、エイリス分舎には格別な配慮をしよう。廃校方針は潰すし、中央総合演習の相手校への決定もしよう。どうだね、悪くないだろう? 極東人の娘ひとりで、エイリス分舎の存続が決まるし、多額の資金も得られるんだ」
「そんなこと、できるはずがありません!」
来賓室に、怒声が響く。
権力を示し教え子を取引道具として要求する彼女に対し、ユキノヲの我慢の限界を超えた。
思わずその場で立ち上がり、ゲキを睨み付ける。もはや彼女が王族であり、教育行政に多大な影響力を持つ要人であることは、頭から抜けてしまっていた。
しかし――ユキノヲが直接的に怒りを見せてもなお、ゲキは態度を一切崩さず、ユキノヲの怒りを掣肘するかのように、わざとらしいほど楽しそうな声を出す。
「ほほう、やっぱり教え子は駄目か」
ゲキは薄笑いを変えず、すっと立ち上がり。
「うんうん、そうか。なら、仕方ないね」
ソファからかつかつと歩いて。
「いやいや、結構なことだ」
ユキノヲの背後に回って、両手を彼女の肩に置き。
「ユキノヲ君は教え子想いだね。教官の鑑じゃないか」
両手に力を込めて、ユキノヲの腰をソファに下ろさせて。
「うんうん、ますますキミのことが気に入ったよ。だから」
ユキノヲの背にぴったりと身体をくっつけて。
「キミでも、わたしはいいんだよ?」
耳元に口を寄せて、挑発するように囁いた。
「!!?」
ぞくりとした。
声は小さいが、強大な力が言葉から滲み出ていた。
彼女に囁かれた言葉に、身体の芯から冷えていくような感覚がした。
怒りが一気に冷めていき――別の感情へと少しずつ、すり替わっていく。
「キミでもいい。いや、違うな。正確には、キミがいいと思ってね」
ゲキは肩に置かれた両手を離し、ユキノヲの隣に座る。
「どうだろう。教え子の代わりに、キミがわたしの相手をしてくれるかね」
「私、が……?」
身体が硬直してしまい、かろうじて言葉を発することができた。
ゲキは、ユキノヲの顔を見ながらにたりと笑う。
「うん、キミがだよ。なんせ、キミは顔立ちがまさに極東美人なのに」
ゲキは右手を伸ばし、ユキノヲの左頬に触れる。
「肌は雪のように白くて」
親指でユキノヲの左目の下部を撫でる。
「瞳も極東人らしからぬ赤い色をしていて」
つと、頬から手を離して髪を掻き上げる。
「髪だって、こんな綺麗な銀色だ」
どこかうっとりとするように、ゲキはユキノヲの容貌を褒め愛でる。
褒誉の言葉に全くの喜びはなく、ただただ悍ましさだけがあった。
「正直なところ、他の娘達よりも、ユキノヲ君の方がわたしにとってはずっと魅力的なんだよ」
顔から離した右手は、ごく自然にユキノヲの脚の上へと置かれた。
「だから、キミが相手をしてくれるなら、候補生には手を出さないし、便宜を図ってあげよう」
「な……」
硬直した身体は、自然と震えていった。
「公職に就いているキミを手籠めにして連れ帰るわけにもいかないから、ま、わたしがエイリスに来る時に相手をしてくれればいいさ。エイリスに来る度にキミが相手をしてくれるって言うのなら、わたしが廃校方針を潰すインセンティブになるだろう?」
ゲキは脚の上に置かれた手を、すっとユキノヲの手の上に重ねる。
「存続が決まったらエイリスに理由を付けて来るから、その時に相手をしてくれれば……ね?」
「…………」
ゲキが誘うように笑いかける。
彼女に従えば、エイリス分舎は存続される。教え子達は無事でいられる。自分は彼女に弄ばれることになるが、今の生活は維持できる。
「本当に……廃校は回避されるのでしょうか……?」
「誓ってもいいよ。わたしは王族だ。どうにでもなるさ」
絞り出すように発したユキノヲの問いに対し、さも当然のことのようにゲキは答える。
自分が頷けば、全てを守ることができるのだと、ユキノヲは悟った。
分舎を。教え子達を。コーデリアとの、穏やかな生活を――
「わかり、ました……」
ゲキの要求を、ユキノヲは首肯する。
その瞬間、ユキノヲは自分の感情が言語化できた。
恐怖。ゲキという女に、ユキノヲは恐怖感を抱いた。
自分が怒気を示そうとも一切反応せず、醜悪な行為を要求する超然的な精神性と、それが許されてしまう絶対的な権力。
イザシュワで疎外されていたことには、恐れを感じなかった。
高等騎士学校で先輩方に集団で暴力を受けた時も、恐れを感じなかった。
剣術大会で圧倒的な力量を持つ相手と戦った時も、恐れを感じなかった。
だが、目の前にいる桜色をした隻眼の女が、たまらなく恐ろしくて、逆らえなかった。
「うん、嬉しい返事だね。ふふっ、じゃあ、早速、楽しむとしようか」
心底嬉しそうに笑いながら、王家の血を示す桜色の瞳をした女は自身の騎士制服のボタンを指で弾いて外していった――
*
その時間は、まるで他人事のようだった。
躰の上を、白く繊細な女の指が這う。悦しそうな、ねっとりとした女の声が囁かれる。
何も感じない振りをする。何も聞こえない振りをする。
ただ、吐き気を催す桃の匂いだけが、強く印象に残っていた。
*
「いやいや、堪能したよ」
テーブルの上に脚を置き、タイツを履き直しながらゲキはユキノヲに薄笑いを向ける。
「…………」
ユキノヲは沈黙したまま、ソファに座り乱れた襟元を整えていた。
身体に染みついた桃の香水の匂いに、吐き気を覚える。
「ああ、エイリス分舎の存続の件、任せてくれたまえ。中央総合演習の相手校にも、選定しよう」
スカートを履き、上着を着ながらゲキは軽い調子で言った。
その軽さが、却ってゲキの言葉は確実なものなのだとユキノヲは感じた。
「……感謝します、閣下」
「なんなら、誓約書でも書くかね?」
重く、暗く、苦しい声で謝意を述べるユキノヲに対し、ショートブーツを履きながらゲキはからかうように返す。
「いえ……」
「まあ、書くまでもないか。わたしが提言すれば、それで終わりだ」
「……よろしくお願いいたします」
「うんうん、任せたまえ」
元の姿に着替え終えたゲキは、またユキノヲの背に回り肩に両手を置く。
ぴたりとユキノヲに身体をくっつけながら、ゲキは耳元で囁いた。
「今度来た時は、また頼むよ」
心臓を握りつぶされるような、媚声だった。
*
特別教育査察官対応から数日後。女子高等騎士学校教官用宿舎。夜。
「……ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした」
夕食を終えるユキノヲに、コーデリアは笑顔で返す。
しかし、視線を彼女の皿に向けると、まだ多くの食べ物が残っていた。
最近、ずっとそうだ。
食欲がなく、普段以上に口をきかず、どこかぼんやりとしていたり、思い悩んでいるような素振りを見せることが、ユキノヲは多い。
学内ではいつも通りに過ごしている。候補生達には厳格な極東武術科主任教官の顔を見せている。
だが、どこか彼女が無理をしているように、コーデリアは見えてしまう。
余暇時間も、無言で剣を振っている時間が多くなっていた。そして、その剣筋も、剣術には疎いコーデリアから見ても雑に見えた。
まるで、見えない何かを振り払うかのように。
「ねえ、ユキ」
「どうした」
「……何か、あったの?」
意を決してコーデリアが尋ねると、ユキノヲは一瞬だけ泣き出しそうな顔になったが、すぐにいつもの険しい表情を作る。
「……心配するな」
「そう……」
コーデリアは確信する。
ユキノヲに、何か良からぬことがあった。
彼女の答えは「心配するな」だった。つまり、彼女に何かがあったことは否定されなかった。
思い返せば、そうだ――確か、査察官対応を行った日から、ユキノヲは何処か変わってしまった。
理由はわからない。不安がないといえば嘘になる。
だが、ユキノヲがそれを言わない以上、コーデリアは追及する勇気を持てなかった。
ユキノヲが、自分にそれを話すことを望んでいないように思えてしまったから。
このまま追及したら、何かが壊れて、取り返しがつかなくなってしまう予感めいたものがあったから。
具体的に何故そう思ったのかと問われれば言葉に詰まるが、長らく彼女と共に過ごしてきたからこそ、認識できるものがあった。
それでも。
「ユキ、こっち来て」
「ああ」
ユキノヲが向かい合う位置に来ると、コーデリアはこつんと自分とユキノヲの額をくっつける。
「コーデリア……?」
「元気のない時のおまじない。私かユキのどっちかがしょげてるときにするって約束でしょ?」
自分の言葉に、コーデリアは懐かしさを覚える。
確か、高等騎士学校時代に、校舎裏で同じ言葉をユキノヲにかけた気がする。
「ユキが言いたくないのなら、言わなくてもいいわ。けど、せめて、少しでもあなたの心が軽くなるなら――」
「……すまない」
ユキノヲの声には、弱さがあった。これほど弱々しい声を、コーデリアは聞いたことがなかった。
だからこそ、あの日の言葉が必要だった。
「じゃあ、一緒に。せーの――」
ふたりの声が重なり、誓言が紡がれる。
『例えふたりが同じ日、同じ時に生まれずとも、是より互いに慈しみ、愛し、同じ日、同じ時に死すことを願いながら共に終生を過ごすと、女神クラリザの名の下に、我らは是を誓わん――』
彼女たちが紡ぐのは『クリストフ王物語』の、王とアシルが終生の友であることを誓う言葉であり――彼らの真似をして、あの夕日の廃教会で誓い合った言葉。
ずっと一緒にいたいという願い。変わらぬ絆で結ばれていたいという想い。
ふたりでいれば、何もつらいことなどない――だから、この言葉を、元気のない時に一緒に紡ぐおまじないにしようと、七歳の少女達は決めた。
目の前でどんなにつらいことがあっても、これからずっと共に過ごせることが決まっているのであれば、それは些細のことのように思えるのだと――
「コーデリア……」
「ユキ……?」
言葉を紡ぎ終え後、ユキノヲはコーデリアに縋るように抱きついた。
表情は見えない。だけど、ユキノヲは泣いているのだとコーデリアにはわかった。
「……まだ、私の中で整理が付かないんだ。だけど、そのうち、ちゃんと話すから……」
「そう」
涙ぐんだ声で告げるユキノヲを、コーデリアは柔らかく抱き返す。
彼女の身体は、怯えるように震えていた。
初めてだった。震えるユキノヲを抱きしめるのは、初めてだった。
「ユキが言えるようになったら、話してね。私はずっと、待ってるから」
慰めるように言おうとしたコーデリアの声も、自然と涙ぐんでいた。
変わってしまった。
ユキノヲと過ごしている日々は温かく、幸せで、哀しみとは程遠い時間だったのに。
どうして、今はこんなにも、心が寒く、痛く、哀しく思ってしまうのだろう。
自分たちは、以前のように穏やかに笑い合えるだろうか――そんな疑問がコーデリアの胸中を巡り、傷んだ。
(第四章 了)




