来訪者
窓から見える風景に、十七歳のユキノヲは目を細める。
煉瓦作りの建物が多い古風な街並みに、桜が咲き花めく。
同じ国で行政区分的にも隣接する場所ではあるが、工場地帯で木々が少なく寒々しさを覚える景色の故郷とは全く異なる世界のように、ユキノヲには思えた。
数ヶ月後には齢十八となる年の春。高等騎士学校を卒業したユキノヲは、女子高等騎士学校の教官養成を行う女子高等騎士師範学校へと進学し、騎士候補生から教官候補生になっていた。
ただし、その場所は故郷のイザシュワ地区ではなく、国土北辺のエイリス地区。
「本当に、何度見ても綺麗よね~」
隣から柔らかい声が、耳に掛かる。出会った頃から変わらず、自分の隣にいるコーデリア。
彼女もまた、ユキノヲと同じくエイリス地区の女子高等騎士師範学校に進路を決めた。ふたりは今春から三年間、教官候補生として歩むこととなる。
故郷を出たふたりは、エイリス地区の教官候補生学寮を宿としていた。高等騎士学校時代とは異なり、部屋は同室。
「ああ……イザシュワとは、本当に違う場所だ」
少しばかりの驚嘆が混じる声で、ユキノヲは答える。
エイリス地区。レゼ国内では最も極東民族が多く住まう土地。イザシュワなどの他地区とは異なり、エイリスではレゼ民族文化と極東民族文化の融合が見られるという話は聞いていたが、実際に目の当たりにすると驚かざるを得ないものがあった。
政庁主催で行われる極東文化由来の行事。地区立極東美術館。極東民族の英雄ヒデマサ・ヤマノイの銅像が目を引くティルベリア遠征記念館。“極東街”と名付けられある種の観光名所と化している極東民族居住区。そして道行く度に、極東民族の衣装を纏うレゼ民族住民を幾度も見かける街路。
官民ともに極東文化に対する蔑視や嫌悪感が無い土地。極東民族は異物ではなく、日常の隣人として当然視する人々。
極東民族を異物とする気風が一切無いエイリスの地は、レゼ民族コミュニティからも極東民族コミュニティからも疎外された、異物の中の異物であるオキ家の娘であるユキノヲにとっては衝撃を覚えるものであった。
そして、その気風はまだエイリス地区に移ってから少しの時間しか経っていないのにも関わらず、どこか懐かしさを覚える居心地のよさを、ユキノヲに感じさせた。
「まだ越してきて少しだけど、エイリスはどう?」
「そうだな、とても居心地が良い場所だ。移住して良かったと思う」
本音であった。
しかし、気がかりなことはあった。
「だが、お前はいいのか?」
コーデリアに目を向けながら、ユキノヲは問う。
地域から疎外されていた自分とは異なり、コーデリアは地域の有力者の家系。
父の商会に入るにしろ、正式任官して伯母が総裁を務めているイザシュワ地区騎士団に入るにしろ、彼女には豊かな暮らしと地位ある将来が約束されていた。
それなのに自分と共に故郷を出る道を、コーデリアは選んだ。
また彼女と一緒にいられることが嬉しかった。だが、負い目もあった。だから、問うた。
「私……? 私もユキノヲと同じ。ここに来て良かったって思ってるわ」
その問いに、コーデリアは笑んで答える。
「正式な騎士になるって目標も、もう無いのだし。教官職が私の第一志望だから。それはユキノヲも同じでしょ?」
幼い日に抱いていた正式な騎士として任官するという夢は、今の二人にはなかった。
コーデリアがその夢を無くしたのは、憧れていた祖父の死が理由だった。
ふたりが出会ってから一年後、八歳の時に勃発したレゼ=ムルガル戦争。その戦争で、コーデリアの祖父フーヴァー卿は戦死した。
対外的にはフーヴァー卿は名誉の戦死とされているが、実際は無惨な死であった。ムルガル軍に遺体を解体され、陥落したホーシュベルン関の門に四肢や胴体、首を串刺しにして晒される辱め。最後までフーヴァー卿の遺体は取り返すことも叶わず、戦後に戻ってきたのは遺骨代わりにキドリア地区の石が一個だけ入った箱だったという。
その話をコーデリアが知ったのは戦争終結後、十歳の頃。
“英雄”として讃えられた祖父の惨死は、十歳の少女の持つ正式任官への憧れを閉ざすには十分すぎる出来事だった。
「まあ、確かにそうなのだが……なんだか、私に付き合わせているように感じてしまってな……」
「ふふっ、私のこと気にしてくれているのね~」
彼女の笑みを見て、自分が正式任官を目指すことをやめた契機はコーデリアだったことを、ユキノヲは思い出す。
十六の頃、コーデリアから祖父の死によって正式任官の夢を失ったことを告白された。その時、自分は本当に正式任官したいのかと立ち返った。
正式任官を目指したのは、それを望んで叶わなかった父の無念を晴らすため。
だが、それは自分の夢なのだろうか――女子高等騎士学校に入学して初年のユキノヲは内省する中で、気付いた。
自分には、正式任官した後のビジョンが何も無かった。
自分が何をしたいのかわからなくなってしまったユキノヲは、父に手紙を書いた。元より、正式任官の夢を抱いたのは、そばにいた父の姿を見てきたから。自分が今まで抱いていた夢は、父に基づくものだったから。だから、自分の今まで持っていた正式任官への思いを手紙にしたため、初めてそれを父に告げ、進路への迷いを問うた。
返事はすぐに届いた。父からの手紙には短く、「自分の好きなように生きろ」とだけあった。
その短い言葉が、父の心の全てだとユキノヲは思った。虚飾のない短い言葉だからこそ、それが父の本心だとユキノヲは感じ取れた。
自分の好きなように生きる。自分の好きなもののために生きる。
ユキノヲが自省する中で思い至ったのは、剣術だった。
剣が好きだった。父が教えてくれた剣術が好きだった。
好きであるが故か、女子高等騎士学校で専門的な教練を受けるとユキノヲの剣力は凄まじく伸びていき、その腕前はコーデリアや同期は元より傲岸な先輩方や教官も認めるほどであった。
卒業前の高騰騎士学校二年時に王都で開かれた剣術大会に参加し、初戦で高等騎士学校に入る前の少女に敗北はしたものの、かつてない昂ぶりを覚える戦いだったことも相まって、剣が好きだという気持ちは折れるどころかますます強まっていった。
自分は剣術が好きだ。だから、自分が好きな剣術を、父が自分に残してくれたものを、この剣にかける昂ぶりを誰かに繋ぎたい――そう考える至る中でユキノヲが思い当たった進路は教官職であった。
「私がここにいるのはユキノヲと同じで、自分のしたいことを考えた結果。それに、エイリス地区に行こうって言い出したのは私なのよ~?」
くすくすと笑いながらコーデリアは続ける。
極東剣術の教官職になるという進路をコーデリアに話したとき、彼女はエイリス地区への移住とエイリス地区の師範学校進学を勧めてくれた。
その理由の一つは、エイリス地区では極東民族が多く、エイリス地区の騎士学校は複数の極東武術科教官のポストがある国内唯一の地域であったこと。実際、故郷のイザシュワ地区では極東武術科の専任教官は一名のみであった。エイリス地区以外では、極東系騎士候補生の人数や極東民族の国内プレゼンスを鑑みると、教官数を増設してユキノヲが採用される見込は低いと言わざるを得なかった。
もう一つの理由が、学内でユキノヲの評価が極めて低いことに起因している。
ユキノヲとコーデリアが十七歳の頃、上級生に殴られ続けていた初年生は、進級して自分が上級生になった時に新たな初年生を殴るようになった。
負の連鎖。ユキノヲはその弊習に反抗し、初年生を殴る同期を非難し続けていた。同期の中で最強の剣士と認められていたユキノヲが咎めれば暴力は一応止むことになる。しかし、自分が見ていないところでは初年生への暴力が横行していたであろうことは想像に難くない。
また、教官達は初年生に対する虐待を伝統として肯定していたため、それに反抗するユキノヲは集団の和を乱す者として評定が悪く付けられていた。
暴力の伝統を否定するユキノヲは教官からは嫌われ、リズレア教との極東民族という出自からレゼ民族・極東民族の同期両者から味方を得ることもできず、学内では疎外される存在となっていた。そんな彼女が仮に教官職を得たとしても、真っ当な職務環境に置かれないであろうとコーデリアは懸念していた。
コーデリアの提案は、幼い頃よりイザシュワ地区で生きづらさを感じていたユキノヲにとってとても魅力的な選択肢であった。だが、ユキノヲは父の元を離れることが気がかりであった。
男手一つで自分のことを育ててくれた父をひとり残して自分だけエイリス地区へ移ることに対し、心内で咎めるものを感じていた――実際に、教官職という進路とエイリス地区への移住話を聞いた父が、それを肯定して娘を後押ししてくれていたとしても。
その父は、ユキノヲが十七歳になる直前に病を得て亡くなった。静かで、穏やかな最期だった。
父は死ぬ前に、ユキノヲに対して遺言を残していた。ユキの好きなように生きてほしい――いつかの手紙と同じで、短い言葉だった。
父の死と、父の言葉が決め手だった。ユキノヲはエイリス地区の女子高等騎士師範学校への進学を決め――そして、コーデリアもそれに倣った。
「何よりも、私はユキのそばにいたいからエイリスに行くって決めたの。故郷で暮らすよりもユキとエイリスに行く方がきっと楽しいって思ったのよ?」
コーデリアは左手の人差し指をくるくると回して毛先を絡めながらくすくすと笑う。
ユキノヲをからかう時にする態度であり、彼女の本心を隠すための仕草。
彼女の言葉は、コーデリアの本心であった。
ユキノヲは馬鹿正直に過ぎるほど生真面目で、不器用過ぎるほど真っ直ぐな在り方をしていた。そんな彼女をそばで支えたい――ユキノヲと一緒に過ごす中で芽生えた想いであり、今のコーデリアの夢であり、生きる指針。
だから、教官職自体にはそれほど魅力を感じなかったが、ユキノヲのそばにいるために同じ進路を選んだ。そのことに一切の後悔も迷いも、コーデリアにはなかった。ただ、それをユキノヲに知られることは少しばかり恥ずかしいため、本音を言いながらもわざと本心ではないとアピールする仕草をとって誤魔化す。
「馬鹿を言うな、全く、お前は……」
それでもユキノヲには感じるものがあったようで、雪のように白い肌に朱を差しながら、小さな笑みを見せる。
十年前の、いつかの廃教会での戯れと同じ笑顔と気持ちが、そこにあった。
*
剣術が好きだった。父が残してくれた剣術を大切にしたかった。剣を振るう楽しさを知ってほしかった――それが教官職を目指した理由であり、だからこそ、こんな政治的な仕事を行うことになるなんて教官候補生の頃は想像すらできなかったのだろうと、二十五歳のユキノヲは自嘲し、嘆息する。
女子高等騎士学校エイリス分舎。分舎長室。
本日は特別教育査察官が来訪があり、ブラックウッド分舎長、ファンファーニ教官統括、対応担当者のユキノヲの三名が控える。
分舎長は青墨の法衣、ファンファーニ統括は騎士制服、そしてユキノヲは上下紺染めの袴姿。
事前の打ち合わせにて分舎長曰く、特別教育査察官は極東文化に強い関心を持っているという。
その言葉に合点がいった。
極東文化に関心を持つ相手であれば、極東武術科の視察を必ず行うであろう。それであるならば、極東武術科主任教官である自分が対応者として選定されるのは一応の理に適う。
しかしながら、袴姿で迎え入れるのは少々行き過ぎではないかとユキノヲは内心苦々しく思っていた。
確かに、極東武術科を専攻する候補生は制服ではなく袴姿で日中過ごすことも可とする独自慣習がエイリス分舎にある。極東武術科教官も同様ではあるが、教練日以外のユキノヲは騎士制服で過ごしていた。
いくら相手が極東文化への関心があるからと言えど、そのためにわざわざ自分が着替えるのはいかがなものかという蟠りをユキノヲは拭えなかった――のであるが。
「いやあ! いいねえ、素晴らしいねえ!」
自身と相対する査察官のにこやかな姿を見ると、分舎長の判断は誤りではなかったのだろうとユキノヲは不服ながら思う。
部屋に入って開口一番、査察官はユキノヲの姿を見るなり驚嘆の声をあげ、ブラックウッド分舎長やファンファーニ統括を無視して真っ先に自分の元に駆け寄りながら嬌声をあげた。
分舎長室の扉の前では、査察官を分舎長室にまで案内したコーデリアが苦笑いを浮かべて立っており、その隣には長身の女性がにこにこと笑っていた。
「袴だろう、これは! いやいや、本当に良いものだね、生で見る極東の装束は!」
査察官は上から下、下から上へと左目を動かしてユキノヲの姿を舐め回すかのように見入る。
騎士制服姿で、黄色みの濃い金髪に、切り揃えられた前髪の下の右眼は桜の花弁の刺繍が入った眼帯で覆われ、左目の瞳は桜の色をした年若い女。
「あ、あの、査察官閣下……?」
「おやおや?」
彼女のはしゃぎっぷりに圧倒され、かろうじてユキノヲが声をかけると査察官は自分が夢中になっていたことに気付き、きまりが悪そうに笑った。
「失敬失敬、名乗るのを忘れていたよ」
視線をユキノヲの顔に合わせて咳払いをしながら、査察官は右手を胸に当てて気取った姿勢で言った。
「こほん……特別教育査察官のゲキ・フラルタルコフ=レーゼスフィーアだ。よろしく頼むよ」
査察官の名を聞き、ユキノヲは元より場に居合わせているコーデリアやファンファーニ統括、ブラックウッド分舎長も反射的に強ばった表情を見せた。
レーゼスフィーア。王家の血を受け継ぐ者であることを示す尊姓。ゲキはそのレーゼスフィーア姓が示すように王族であり、王位継承権を持つ人物。
ただし、ゲキは傍系のため王姓レーゼスフィーアの前に家系の祖となる王の伴侶の姓が入っている。彼女の場合は六代前の女王の夫となったフラルタルコフ公爵を祖とする傍系王族。王位継承権を持つといえど、その順位は第九位と現実的には王位継承は想定し得ない立ち位置であった。
それでもレーゼスフィーアの名を持つ者は国内最上階級の「王族」であり、騎士としては忠義を尽くすべき尊き血を持つ存在であった。幼少の頃より王家に忠義を尽くすべしという素養を身につけさせられるレゼの騎士階級は、レーゼスフィーアの名を出されると反射的に緊張感を覚えるようになる。
「ようこそお越しくださいました、査察官閣下」
王姓を出された緊張感を最初に破ったのは分舎長の恭しい言葉。
「おやおや、ブラックウッド分舎長ではないか。すまないすまない、わたしとしたことが目の前の極東美人に気を取られていて気付かなかったよ!」
「まぁ、極東美人ですか! 閣下にお褒め頂けるだなんて、光栄ですよ、オキ教官」
「はあ……」
ゲキと分舎長の遣り取りに、ユキノヲは曖昧な返事をする。助けを求めるかのように、後方にいるコーデリアへと視線を向けると、彼女は彼女で笑顔ではあったが心配の色が見受けられた。
「ところで、そちらのお方は……?」
「おお、分舎長と会わせるのは初めてだったな。秘書のセヴンだ」
「特別教育査察官秘書のセヴン・メイフィールドと申します。本日はよろしくお願いいたします」
ゲキに促されて、長い黒髪の秘書が一礼をする。髪色こそ極東民族に多く見られる黒色だが、顔つきは非極東系。細身の長身であり、小柄なゲキと並ぶと頭一つ分程度の身長差があった。
ブラックウッド分舎長とファンファーニ統括がセヴンへの会釈を済ますと、分舎長は本題を切り出す。
「では、閣下、中央総合演習の相手校選定について――」
「あー、そのことは全てセヴンに任せてあるから、彼女と話してくれたまえよ」
分舎長の言葉を遮り、ゲキはにやりと笑いながら言った。
「左様ですか。では閣下は?」
「うんうん。前から分舎長には言っているが、わたしはエイリス分舎の学舎内を是非とも視察したいと思っていてね。なので早速視察をしようじゃないかと。それで、頼んでいた案内役は誰かね?」
「それでしたら、こちらのオキ教官が担当でございます」
要望を受けた分舎長がユキノヲを示すと、ゲキは満面の笑みを浮かべてユキノヲに桜色の左目を向けた。
「おー、彼女か! うんうん。いいねいいね。流石はブラックウッド分舎長だ。わたしのことをよくわかっているな!」
「これは、勿体ないお言葉でございます」
上機嫌の査察官を見て、分舎長も会心の笑顔を零す。このふたりを見ていて、ユキノヲは自分が生贄にされたような何とも言えない気分になった。
だが、これが今日の自分の任務である。気を奮い立たせ、ユキノヲはゲキへと向かい一礼する。
「女子高等騎士学校エイリス分舎極東武術科主任教官ユキノヲ・オキです。本日は査察官閣下の案内役を仰せつかりました。よろしくお願いいたします」
「うんうん。ではユキノヲ君、案内をよろしく頼むよ」
査察官の声にねっとりとしたものをユキノヲは感じ、少しばかりの寒気を覚えた。
*
ゲキ・フラルタルコフ=レーゼスフィーア。二十三歳。フラルタルコフ傍系王族。王位継承順位第九位。一つ下に妹があり。そして、王族ながら極東文化を好む変人――訪問日前日にブラックウッド分舎長から渡された書類に記されていた査察官の人物像。
「いやあ、北方の辺境とは聞いてはいたが、ここは花が多くていい。まさか学舎内にも桜並木が植えられているとは」
楽しそうに笑うゲキと共に、ユキノヲは極東武術科教練が行われる道場に続く渡り廊下を歩く。ゲキが評したように学内には桜が植樹されており、渡り廊下はさながら桜の並木道となっていた。
「ええ。桜の多さはエイリスが他地区に誇れるものの一つです」
ゲキの言葉に応答しながら、ユキノヲは彼女の様子を窺う。
ゲキは平均的な二十代女性よりも小柄で、ユキノヲの身長は先ほど分舎長室で会ったセヴンという秘書と同程度のため、彼女は頭一つ分ほど背が低い。
その小さな体躯故か、ゲキは自分とそれほど変わらない年齢とはいえど、騎士制服姿は師範学校や騎士大学校に在籍している言われれば疑えない印象を抱かせる。
「ところで、今日の極東武術科教練は何をやっているのかね?」
桜色の左目をユキノヲに向けながら、ゲキは問う。
その瞳の色は、王位継承権の証。王族の血筋に生まれたとしても、桜色の瞳を持たざれば王族から貴族へと臣籍降下が為されて、レーゼスフィーア姓を剥奪されるという。
「本日の教練は薙刀です。ニシザキという教官が担当を行っています」
本来の日程であればユキノヲの剣術教練であるが、彼女が査察官対応のために代役として後輩の教官であるニシザキの薙刀教練が行われていた。
「うんうん。それで、薙刀が一番得意な候補生は?」
「イト・ヤマノイという名の候補生です」
「ヤマノイ? ほー、ヤマノイかあ」
ヤマノイの姓を聞き、ゲキは何かに思い当たったような素振りを見せる。極東好みと言われる彼女がヤマノイの姓を聞いて想起するのであれば、きっとティルベリア遠征の英雄ヒデマサ・ヤマノイと、彼の末裔でありかつては王都で栄華を誇った上士のヤマノイ家であろう。
尤も、王都のヤマノイ家は七年前の“ドレクスラーの獄”で没落している。ヤマノイ家の没落に際しては、極東民具の主要取引先の一つを失ったコーデリアの父ロイドを娘にまで嘆息の手紙を送ってしまうほど消沈させ、彼女を苦笑させたことをユキノヲは記憶していた。
だが、ヤマノイ姓を必ずしも由緒正しきヒデマサの血筋という訳ではなく、王都の旧ヤマノイ家以外は信憑性のない自称ヒデマサの家系が殆どだという。実際、ヤマノイ姓を持つ極東系レゼ人は平民階級から騎士階級までエイリス地区に多く存在している。
故に、教え子の一人であるイトがヒデマサの子孫であるとは限らない――のであるが、彼女は王都出身であり、問題ある家柄の娘を積極的に受け入れる分舎方針を鑑みると、或いは本物の血筋かもしれないとユキノヲは思ったことがあった。
「そのヤマノイ君の腕前は?」
「特筆すべきものです。彼女の薙刀の腕は私は元より、薙刀担当教官のニシザキすら勝るものです。薙刀だけではなく座学も熱心に取り組んでおり、今期の首席は彼女になるかと」
「優秀な候補生だね。よしよし。では、今日はヤマノイ君の薙刀の腕を見るとしよう。楽しみだね」
「む……」
ゲキがにんまり笑う一方で、ユキノヲは進路側からふたりの袴姿の少女が歩いてくるのを認めた。
「あー、オキ教官!」
快活な声がかかる。黒髪に蒼い瞳の少女。サヤ・イフジ。極東武術科専攻の候補生。
サヤは片手で同じ袴姿の少女を抱え、その少女――イト・ヤマノイはサヤの左肩に縋りながらよろよろと歩いていた。
「どうしたんだ、イフジ。まだ教練終了前だろう」
「イトが具合悪いので、医務室に連れて行く途中です。あ、勿論、ニシザキ教官の許可は得てますんで」
「あぅ、オ、オキ教官……?」
ユキノヲがいることに気付き、イトは顔を上げて絞り出すような声を出す。
彼女の顔は青ざめており、痛む部分を庇うかのように左手で下腹部をさすっていた。その姿に、ユキノヲはイトの苦境の原因を察した。
「……そうか、イフジ。早く医務室で寝かしてやれ」
「了解です、オキ教官……と、えーと?」
訝しむような表情をするサヤに対し、ゲキは楽しそうに言った。
「あー、わたしはただの客だよ、客。それより早くお友達を運んであげたまえ。かなり苦しそうだよ」
「あ、はい。失礼しまーす!」
「うっ……し、失礼、しま、す……」
苦悶するイトを抱えながらサヤはユキノヲたちの横を通り過ぎる。その最中、ゲキはユキノヲの顔を見てからかうように笑む。
「うんうん。イフジ君だっけ? 元気でいい子じゃないか」
「申し訳ございません、査察官閣下に無礼を……」
「いやいや、わたしは気にしてないよ。それよりもヤマノイ君の薙刀を見に行こうじゃないか」
ゲキの言葉に、ユキノヲの表情が曇る。
「それが、今日はもう無理そうで……」
「おやおや?」
ゲキは右手を顎に当てて考えるような素振りを見せた後、小さく尋ねた。
「うん。もしかしてさっきの具合悪そうな子がヤマノイ君かね?」
「……はい、彼女が首席候補のイト・ヤマノイです」
ユキノヲの回答を得たゲキは目を丸くした後、吹き出すかのように笑って言った。
「あー、うん、これは仕方ないね。仕方ない。なら、他の子たちの薙刀教練でも楽しく見るとしようか」
「本当に申し訳ありません、閣下……」
「いやいや、ユキノヲ君が謝ることはないよ。くっくっく」
この状況をどこか愉しんでいるような、意地の悪い笑い方だった。
(続)




