友情の騎士
夕陽に照らされると、埃もきらきらと輝いてきれいに見えてしまうのだと、七歳のユキノヲは知った。
ロイド・フーヴァー邸から子供の足で行ける程度の位置にある古びた無人の教会堂。この遺棄された教会堂の所在する土地もフーヴァー家のもの。教会堂を取り壊してロイド商会の事務所か工場を建設する予定だったが、諸般の事情で中止となり、今ではコーデリアとユキノヲの秘密の遊び場となっていた。
この場所を遊び場にしているのは、お父様やお母様に知られると怒られるからとコーデリアに言われているため、ふたりだけの秘密。
ユキノヲは、コーデリアに連れられて初めて教会堂という建物の内部がどうなっているのかを知った。
イザシュワの政庁所在街にはリズレア教会の大きな聖堂があるが、父とユキノヲは極東民族という理由で堂内への立入を拒まれていたためである。
ユキノヲと父は日常では家中にある古くみすぼらしい五光架へ祈りを捧げていたが、聖女誕生日などのリズレア教の重要な宗教行事の際は、信徒の集まる教会堂から少し離れた屋外で父娘は地面に膝をついて教会堂の屋根に飾られる立派な金色の五光架に対して祈りを捧げた。
人々が蝋燭を手に持ち、夜の教会堂に集まり賛美歌を歌う儀式の夜は幻想的で、宗教的で、荘厳な景色だった。
だからこそ、その内に加わることが許されない自分達の境遇を改めて思い知ることになり、子供心はただただ惨めな気持ちに埋め尽くされていた。人の輪に加われない侘びしさと夜の寒さは、ユキノヲの心に刻み込まれていた。
「夕方に来ると、きれいよね~」
「そうですね、お嬢様」
コーデリアの言葉を、ユキノヲは首肯する。
確かに、きれいな景色だった。
煤けたステンドグラスから差し込む陽光。光に照らされてきらきらと舞い落ちる埃は、堂の奥に据えられた五光架を神秘的に見せる。そして、五光架の前には楽しそうに笑うコーデリア。
夕方の教会堂はとてもきれいな景色で、コーデリアはとてもきれいな女の子だった。
とてもきれいな女の子。
それが、ユキノヲがコーデリアと初めて出会ったときに胸中に浮かんだ言葉。そして、コーデリアのユキノヲに初めて会った時に浮かんだ言葉もまた、同じものであった。
ユキノヲは優美な所作と上物の衣服を着こなすコーデリアの令嬢然とした雰囲気に、コーデリアは特異な白肌や銀髪、赤く、強い意思を感じさせる瞳を持つユキノヲの容姿に、そう思ってしまった。
お互いが感じる部分が違いながらも、胸中で同じ言葉となっていた。
そのためか、ふたりは程なくして打ち解けた。
将来は正式な騎士に任官したい。ふたりは同じ夢を持っていた。
ユキノヲは正式任官を望んでも叶わなかった父の無念を自分が任官することで晴らしたいと思ったから、コーデリアは大陸統一戦役の“英雄”と讃えられる祖父への憧れから。
その端緒は違っていても、ふたりの夢は同じだった。
初めて友達ができて嬉しい。今までずっと寂しかった。ふたりは同じように孤独を感じていた。
ユキノヲの孤独が、地域から疎外された異物の家の娘であるが故のものであれば、コーデリアの孤独は、彼女の恵まれた境遇故に生じたものであった。
“英雄”フーヴァー卿の孫娘であり、イザシュワ経済界の重鎮ロイド・フーヴァーの娘。名声と財産に満ちたフーヴァー家の人間として、物理的には非常に恵まれた環境にあることを、七歳の少女であってもコーデリアには自覚できていた。
しかし、彼女は日常の中で寂しさを拭えなかった。
ロイドは極東民具を作成する工場の他にも魔術繊維工場やサタク銀加工場などの複数の事業を展開しており、それらの視察や地区内外の有力者、取引先との会合で家に戻ることは殆どなかった。母も父の事業の補佐を行っていたため、やはり家には殆どいない。祖父や伯母は別所で暮らしており、騎士団の仕事故にコーデリアの家に来ることは極稀。
ロイド邸にいるのは使用人ばかりで、その使用人達も父母を過剰に怖れてコーデリアに対しては壁を感じさせるほど丁寧に、或いは阿るように接するばかりであり、コーデリアと「ひとりの少女」として接する者は皆無であった。何しろ、「ロイド夫妻や地区騎士団総裁のフーヴァー卿の逆鱗に触れたら、イザシュワ地区では生きていけない」という共通認識ができるほどの権勢がフーヴァー家にはあったのだから。実際の両親や祖父は、そういうことを絶対しないような穏やかな人物であるにも関わらず。
だから、コーデリアは大きな屋敷に住んでいても、上質の衣服で身を包んでいても、周囲に使用人はいたくさんいても、常に満たされない寂しさが、孤独感があった。
ユキノヲとコーデリアのふたりの少女は、その過程は違っていても感情は同じ孤独感へと帰結していた。
ふたりは違っていて、同じだった。
互いが違っているからこそ惹かれ合い、互いに同じだからこそ共感し合えた。
「ねえ、ユキ」
コーデリアはふたりきりの時はユキノヲを“ユキ”と愛称で呼んでいた。
父以外で“ユキ”と呼んだのは、コーデリアだけ。それ故に、コーデリアにそう呼ばれるとユキノヲは気恥ずかしさを覚えて、自然と頬が赤らんでしまう。
雪の野の如き白肌に差した朱は映えて、普段の彼女とはまた違う美しさをコーデリアは感じ、恥じらう様子は可愛らしいと思ってしまう。
だから、もっと彼女と仲良くなりたい、距離を詰めたいという欲求が生まれる。
「ふたりきりの時は、“お嬢様”だなんて言わないでほしいわ~」
頬を赤らめるユキノヲに対して、コーデリアは冗談を言うかのようにふんわりとした声で行った。
その言葉に、命令や強要の色は一切無い。単純に、対等な相手としてコーデリアはお願いをしていた。
「ですが……」
しかしながら、コーデリアの言葉を受けてユキノヲは口ごもる。
コーデリアの父から娘の友達になってほしいと要請されてロイド邸に出仕するユキノヲは、立場上はフーヴァー家の使用人という扱いになっており、給金も出されていた。
「騎士は上下の分を弁えるべし」「主君に対しては礼を逸せず忠義を貫くべし」といった騎士階級として一般的な教育を父親から施されたユキノヲにとっては、高家格の上士であり、かつ、父や自分に禄を与えてくれるフーヴァー家の人々は主君たる存在であり、その令嬢であるコーデリアを呼び捨てにするなどと分を越えてしまうのは騎士としてあるまじき振る舞いのように思えてしまった。
けれども、一方でコーデリアと身分の差を越えて友達になりたい、もっと仲良くしたいという気持ちも抱いていた。
父以外では初めて自分を一人の人間として扱い、気にかけてくれるコーデリアはユキノヲにとってはそばにいて居心地の良い相手であり、彼女と過ごす時間は父とはまた別の手放しがたい温かさがあった。
「私たち、お友達じゃない、ね? お父様達がいない、ふたりきりの時だけでも普通の友達みたいに接してくれると、嬉しいの」
「……わかりました、コーデリア」
「ふふっ、ありがとう、ユキ」
少しだけ間を置いて、決心したかのようにユキノヲはコーデリアを名前で呼んだ。呼んだ後に、頬は更に朱色となり、彼女の白く美しい顔を映えさせた。
本当は両親や祖父のように“ディリィ”と愛称で呼んでほしいのだけど、それを口にはしない。
出会ってまだ一年も経っていないけれども、自分とユキノヲの立場や家格の違いはわかっている。その差が、自分の言葉が彼女にとっては重みになり得るのだと理解している。
それでも、もう少しだけユキノヲに甘えてみたい。フーヴァー家の令嬢ではなく、ひとりの七歳の女の子として、もう少しだけわがままを言ってみたい。
「あと、堅苦しい言葉遣いもなしにしてくれたらもっと嬉しいかも~?」
「…………あ、ああ、わかった、コーデリア」
名前で呼ぶときよりも更に長い間の後に、ユキノヲはぶっきらぼうな口調で答えた。不慣れで、辿々しさがあって、それでもコーデリアの意に添いたいという想いがそこにあった。
「あら、それって……」
ユキノヲの口調に、コーデリアははっとするような表情を見せる。
その口調はコーデリアの知っている口調であり、思い当たる名前があった。
「アシルの口調?」
「はい、そうで……ああ、そうだ」
丁寧に答えそうになったところを、途中でぶっきらぼうな口調に戻し首肯する。
アシルとは、ユキノヲとコーデリアが共通して好きな小説『クリストフ王物語』の登場人物。
『クリストフ王物語』はクロン市出身の作家ローデンスの作であり、架空の国の騎士王クリストフが配下の十三騎士を率いて邪悪な魔法使いの王と戦う物語。原典は大人向けの作品であるが、児童文学として翻案もされており、彼女たちが読んだのも児童向け版。
アシルはクリストフ王の十三騎士の一人であり、王を「主君」ではなく「友」と扱う“友情の騎士”。普段はぶっきらぼうに振る舞いながらも、クリストフ王を「主君」ではなく「対等な一人の人間」として尊重するキャラクターとして描かれている。小説内の王とアシルは終生の友であり、「共に死す日が来れば、それは同じ日であってほしい」と互いに願うほどの固い絆で結ばれていた――尤も、王への絶対的忠誠と身分差の遵守に価値観を置くレゼ国の騎士階級にとってはアシルは受けの悪いキャラクターではあった。それでも、ユキノヲにとってはアシルは憧憬を抱かせるお気に入りのキャラクター。
ユキノヲがアシルの口調を真似たのは、アシルが彼女のお気に入りであることと、コーデリアから友達として振る舞ってほしいと願われた自身がどうあるべきかという論題に、君臣でありながら王と友情を築いたアシルが回答になると思ったこと、そして、王とアシルのような強い絆をコーデリアと結びたいというユキノヲ自身の願いによるものであった。
「その口調、ユキに似合ってると思うわ~」
「そ、そうか? ……コーデリアにそう言われると、嬉しいか、な」
気恥ずかしさと喜びが混じって不器用に笑むユキノヲを見ながら、コーデリアはくすくすと笑う。
本当は、七歳の女の子の口調としては似合うとは思わないのだけど。
だけど、アシルがユキノヲのお気に入りだと知っているから、そう言うと喜ぶだろうと思った。そして、何より自分のわがままに応えてくれたことに、そして、物語の中の王とアシルのように自分と対等の関係を築きたいというユキノヲの想いを感じ取れたことが、コーデリアにとっては本当に、この上なく嬉しかった。
「これからは、ふたりきりの時はその口調でいてほしいわ、私の“アシル”様」
「あ、ああ、そうしよう。アシル、か……ふふっ」
夕陽差す廃教会で、ふたりの少女は笑いあった。
*
「ユキノヲ、このまま寝ると、風邪引くわよ?」
「……ああ、すまない」
コーデリアの声を受けて、藺草の匂いに自然と在りし日のことを想起していたユキノヲは上体を起こす。故郷の記憶を顧みていく中でぼんやりとし始めていた意識が覚醒する。
起き上がったユキノヲの顔を見て、コーデリアは尋ねる。
「もしかしてイザシュワにいたときのこと、思い出していた?」
「よくわかったな」
「わかるわよ~。ずっと貴女と一緒に居るのだから」
ユキノヲの意外そうな顔を見て、コーデリアはからかうように笑った。
「……そう言われると、少し恥ずかしいな」
小さな声で俯きながら、ユキノヲの白雪の肌に朱が差し込む。
その姿に、コーデリアは出会ったばかりの頃の七歳の少女だったユキノヲの姿を幻視した。
自分のことを名前で呼んでほしいとお願いしたあの時も、彼女は頬を赤らめていて、私はそんな彼女がとてもきれいな女の子だと思えてしまっていて。
「ねえ、ユキノヲは故郷に戻りたいって思ったことはある?」
幼い日の故郷を思い出した懐かしさから、コーデリアはユキノヲに尋ねる。十七の年に故郷から離れ、それ以降の八年間ふたりはイザシュワ地区に戻ったことがなかった。
自分は両親と手紙の遣り取りをする中で、離れたといえども故郷を身近に感じる瞬間は日々あった。だが、ユキノヲは違う。
「そうだな……」
コーデリアの問いに、ユキノヲは内省する。
故郷。ユキノヲの心の中には、その言葉と結びついた二つの原風景が存在していた。
リズレア教の祭事に参加することも許されず屋外から五光架に父と祈りを捧げた、夜の寒々しい景色。
ふたりだけの教会堂でコーデリアと笑いあった、夕暮れの温かい景色。
どちらも、幼い頃に体験した同じ故郷の景色であり、今のユキノヲを形作っている景色であった。
そのどちらの景色にも、大切な人が隣にいた。
父がいた。コーデリアがいた。
だが、今では。
「……父さんが生きていれば、そう思うこともあったかもしれん。だが、父さんはもうこの世にはいない。戻っても、あそこに私の居場所はない」
父との想い出はあるが、それ以外には何も無い。
あの寒々しい景色の中で自分の隣にいた人は、もう二度と触れ合うことができない。
それでも――それでも、もう一つの原風景に存在する大切な人は、今でも自分のそばに居続けてくれる。
「それに、コーデリアがそばにいてくれるからな。お前がいる場所が今の私の居場所だよ。だから、故郷に戻りたいとは思わないな」
きらきら光る夕暮れの廃教会で笑いあった温かさは、コーデリアと共に暮らす今でも同じように感じ続けている。それが何よりも、ユキノヲにとっては愛おしかった。
そのユキノヲの真っ直ぐな言葉を受けると、コーデリアは頬を赤らめて座卓に突っ伏しながら呻くように言った。
「う~、そんなこと正面から言うなんて、ユキはずるいわ~」
「ん、ずるいのか? よくわからんが……まあ、褒め言葉として捉えておく」
コーデリアの仕草に、ユキノヲは思わずふっと笑みを見せた。
*
コーデリアの父であるロイド・フーヴァーがユキノヲを娘の友人にしようと決めたのには、二つの理由があった。
一つ目の理由は、娘が孤独感を抱いていることを確信していたから。
多忙な事業のために家に帰ることができず、父母と過ごす時間を持てない娘にどれほど寂しい思いをさせているのだろうと、ロイドも妻も気に病んでいた。だから、せめて同年代の友人をコーデリアのそばに置いてやることで、娘の心を癒してやりたいという気持ちがあった。娘の友人候補として、ロイドは自身の経営する工場などの雇人の家族構成を調べていく中で、ユキノヲが自身の娘と同じ年の少女であることを知った。
二つ目の理由は、ユキノヲが極東民族の少女であったから。
レゼ国では少数者である極東民族に対する差別感情が広く存在しており、特に王都の貴族や騎士を中心とする上級階級にその傾向が強く存在していた。だが、ロイドは有力な上士階級出身ながら極東民族への差別意識を持たない――むしろ、極東民族差別は糺すべき悪弊と捉える稀有な人物であった。
実際にロイドは、自身の事業活動の中で極東民族への待遇改善策を実践してきた。
レゼ国内での一般傾向として、同じ仕事内容であってもレゼ民族労働者より極東民族労働者の方が賃金を低くされる場合が多い。極東系レゼ人の家系は貧しい平民や下士階級が多く、そのため生きていく上では不平等な待遇にも甘んじて労働に従事せざるを得ないという事情があった。
そして、賃金が安く済む極東民族は商会や工場の経営者にとっては有用な存在であった。
経営者たちは給料がより安価な極東系レゼ人に優先的に雇用することで、人件費を抑制し利益追求を目指す。だが、その裏では極東民族より賃金が高いレゼ民族労働者が仕事を得にくくなるという弊害が発生していた。それ故に、下級階層のレゼ民族にとっては極東系労働者は自身の仕事を取り合う競合相手であり、極東民族に対する敵愾心が生じることとなった。上級階層の差別感情の根底が自民族中心主義の思想傾向であれば、下級階層の差別感情は「極東民族は自身の食い扶持を取り合う相手」という実生活的な敵対心に立脚していた。
その状況下でロイド・フーヴァーは自身の展開する事業において、レゼ民族労働者と極東民族労働者に同一の賃金を支給していた。無論、支給額は一般的なレゼ民族労働者のもの。
賃金格差を無くして民族を問わない雇用を行うロイドの方針は、より高い賃金をもらえるということで多くの極東系労働者が彼の元を訪れ、また、高賃金故に職を失った熟練レゼ民族労働者の受け皿となった。人件費は大きくなったが、民族問わず集まった優秀な職人達によるロイド商会の製品は国内外から高く評価され、結果的には多大な利益を上げることとなった。
ロイドの元では極東民族は不当に低い賃金で労働に従事させられることはなく、レゼ民族は優れた技能を持ちながらも賃金差によって理不尽に職を奪われることはない。そのため、両者は不満を抱きにくく、ロイドの経営する工場では両民族は友好的関係とまでは行かずとも、重大な対立が生じることはなかった。
しかしながら、ロイドが自身の事業内で差別解消的施策を行おうとも所詮は一地方の有力者に過ぎず、国土全体に広まる差別的傾向への影響は小さいものである。自身の拠点であるイザシュワ地区ですら、未だに上級階層を中心に極東人差別の空気は色濃く残っている。
故に、我が子の教育に対して無為であれば、娘が悪しき差別感情に染まってしまい得るとロイドは危惧していた。その娘の教育に対する考え方から、ロイドはコーデリアのそばに置く友人に極東民族出身の少女であるユキノヲを選定した。
幼い頃から極東民族の友人と共に過ごせば、民族が違っていても同じ人間であること、民族の違いによって相手を見下し不当な扱いをすることは誤りであると娘はきっと分かってくれるだろうと。
そして、ロイドの願い通りに、コーデリアはユキノヲと過ごす中で民族差を気にすることのない感覚を持つ少女として成長した
極東民族のユキノヲと、極東民族への偏見無く育ったコーデリア。
そんなふたりだからこそ、故郷を出て国内で最も極東民族が多く住むエイリス地区で生きていくことを、十七の頃に決めることとなった。
(続)




