お嬢様と異物
夕暮れの校舎の裏、十六歳のユキノヲ・オキは一人うずくまっていた。
着用している騎士制服は所々汚れ、顔や腕の白い地肌には傷や痣が残る。
「やっぱり、ここにいたのね」
うずくまるユキノヲの上から、少女の声が聞こえた。
その声を受けてユキノヲが目線を上げると、肩に掛かるか掛からないか程度まで伸ばされた明るい茶髪に薄緑の瞳をした、同じ騎士制服姿の少女がいた。
「コーデリア……」
コーデリア・フーヴァー。
ユキノヲと同じ女子高等騎士学校イザシュワ分舎に在籍している騎士候補生であり、幼馴染み。
「よいしょっと……また先輩方にやられたの?」
コーデリアは隣に座り、ユキノヲの顔を覗き込む。
「ああ……」
コーデリアの顔を見ずに、ユキノヲは頷いた。
高等騎士学校は初年生と上級生の二学年制。初年生と上級生の交流については高等騎士学校によって異なり、一切の交流が無い高等騎士学校もあれば活発な交流が行われる高等騎士学校もある。
女子高等騎士学校イザシュワ分舎は後者のケースに該当していた。非常に、悪い意味で。
イザシュワ分舎の気風は、初年生は上級生に絶対服従。それ故に、初年生に対する上級生の扱いは極めて過酷なものであった。
殴る。とにかく殴る。何かにつけて殴る。理由が無くても殴る。
とく理不尽であった。だが、それはイザシュワ分舎の伝統だからなのだと教官達は放置していた。
イザシュワ分舎の理不尽の象徴は、夕食後の恒例行事。初年生整列からの上級生によるひとりひとりへの頬打ち。
曰くは気合い付け。実際はただの理不尽あるいは先輩方の憂さ晴らし。イザシュワ地区でよく作られている畳に掛けて「初年生と畳は叩けば叩くほど良くなる」などと嘯く上級生が多くいた。
ユキノヲもまた、上級生に殴られているのであるが、彼女は他の初年生よりも殊更多く殴られていた。
その切っ掛けは、ユキノヲが上級生に刃向かったから。
ユキノヲは自分が殴られる分には我慢できた。だが、身体が弱い級友が理不尽に殴られることが我慢ならなかった。
だから、ユキノヲは上級生に抗議した。それ以降、ユキノヲは上級生達に目を付けられて他の初年生よりも多く殴られていた。
態度が反抗的。極東人の分際で。そんな罵声を浴びながら、ユキノヲは上級生に殴られている。それでもめげずに、身体や気が弱い候補生が暴力を受ける度にユキノヲは彼女らを庇い、上級生に抗議し、更に余計に殴られる。
今日もまた、ユキノヲは教練後に態度が悪いと難癖を付けられて、上級生複数人から殴られ、蹴られていた。
ユキノヲは上級生から袋叩きに遭う度に、ひとり校舎裏で包帯や絆創膏で怪我の手当を行っていた。
おそらく、それを知っているのはコーデリアだけで。
「たまにはやり返せばいいのに。ユキノヲの剣の腕なら、勝てるんじゃない?」
コーデリアがそう言うように、実際にユキノヲの剣の腕前はかなりのものだった。同期では敵うものは無く、上級生ですらユキノヲに勝てる者はいないであろう。
それはコーデリアだけでなく同級生も、そして上級生も認識しているようで、それ故にユキノヲが暴力を受けるときは常に複数人の上級生によって行われていた。
「そう言う訳にはいかん……あんな奴らでも、先輩だからな。騎士団で言えば、上官と同じだ。諌言はすれど、手を出すことはできん。上下の分を越える」
「はぁ……ユキノヲは本当に真面目よね~」
少し呆れたように言いながら、コーデリアはユキノヲに手を伸ばし、彼女の頭に付いた土埃を払う。
汚れが落ちていき、銀の髪が夕陽に照らされ、映える。
ユキノヲは美しい容姿の少女だった。その肌の白さと髪の銀色は清廉な新雪を思い起こさせ、顔立ちは極東系らしいものだが、その瞳は極東民族の黒とは対照的な赤い瞳。
特異な美しさを持つ少女であり、そして、この分舎にいる誰よりも、上級生や教官達よりも騎士らしい少女だった。
「それに、そんなことが許されるのはお前ぐらいだろうし……」
ユキノヲは赤い瞳をコーデリアの方に少しばかり向けて、小さく不機嫌そうに呟いた。
特別に殴られるユキノヲとは対照的に、コーデリアは特別に殴られない初年生だった。
コーデリアは上級生に手を上げられたことが一度もない。理由は、彼女の実家であるフーヴァー家がイザシュワ地区屈指の名家であったから。
フーヴァー家は代々イザシュワ地区騎士団総裁を務めている、格の高い上士の家系。現騎士団総裁はコーデリアの伯母である。また、先代総裁であるコーデリアの祖父は大陸統一戦役で“グ”帝国の将として従軍した“英雄”であり、先のムルガルとの戦争では名誉の戦死を遂げたことで“イザシュワ第一の騎士”と讃えられ、郷土の誇るべき人物として祭り上げられている。更に、コーデリアの父は騎士階級ながら商才に恵まれており、イザシュワ地区の経済に大きな権勢を誇る有力者であった。
イザシュワ地区の軍事と経済を取り仕切るフーヴァー家の令嬢に対しては、如何に理不尽な先輩方であっても、決して手を出すことはなかった。
その事実が、上級生が初年生を殴るイザシュワ分舎の“伝統”が如何に馬鹿馬鹿しいものであるかを却って引き立たせることとなっている。
「ひがまないの。えいっ」
コーデリアはユキノヲの顔を寄せて、自身の額に彼女の額をくっつける。
「コーデリア……?」
きょとんとするユキノヲに、コーデリアは優しく微笑みかける。
「元気のない時のおまじない。私かユキのどっちかがしょげてるときにするって約束でしょ?」
「むぅ……」
小さい頃の愛称である“ユキ”と呼ばれて、ユキノヲは気恥ずかしげに頬を赤らめる。
父と離れて高等騎士学校の寮で暮らしている今では、そう呼ぶのはコーデリアしかいない。
「えー、『例えふたりが同じ日、同じ時に――』」
「先に言うな」
コーデリアの言葉を、ユキノヲが遮る。
「ふたりで言わないと、意味がないだろ……」
そう言って口を尖らすユキノヲを見て、コーデリアはふっと笑みを零した。
「そうだったわね、じゃあ、一緒に」
「ああ」
ユキノヲは頷きながら、思い出した。
そう言えば、初めて一緒にあの言葉をコーデリアと一緒に口にしたのも、今みたいに夕暮れだった。
「せーの――」
コーデリアの合図。
ふたりの声が重なり、夕暮れの校舎裏で誓言が紡がれていく。
「『例えふたりが同じ日、同じ時に生まれずとも、これより互いに慈しみ――――』」
*
「全く、面倒で敵わんな……」
エイリス地区の夜、自室で緑茶をすすりながら二十五歳のユキノヲは愚痴をこぼす。
「そんなこと言わないの。分舎長が大事な仕事をユキノヲに任せるって言ってくれたのよ」
ユキノヲを窘めるように、座卓を挟んで向かい側に座るコーデリアが言った。
女子高等騎士学校イザシュワ分舎を卒業して八年。ユキノヲとコーデリアは故郷から出て、現在は女子高等騎士学校エイリス分舎の教官を務めていた。
ユキノヲは極東武術科の主任教官。コーデリアは歴史担当の座学科教官。
ふたりはエイリス分舎近くにある教官用宿舎に同居している。部屋の床は板張りだが、その上にござが敷かれ、座布団と座卓が置かれる。ふたりの部屋は極東風に設えられていた。
「分舎長か……」
口にして、ブラックウッド分舎長の顔を思い浮かべる。
丸眼鏡を掛けた物腰穏やかな老婦人。だがその外見的印象に反し、彼女はエイリス分舎の資金獲得に対して並々ならぬ情熱を持つ人物であった。
分舎長は教育者と言うよりも経営者という言葉が似つかわしい、というのがユキノヲの評。
エイリス分舎が家や個人の問題を抱えた少女たちを積極的に受け入れているのも、ブラックウッド分舎長の方針によるもの。受け入れの代わりに、その家より寄付や資金援助を分舎長は引き出していた。
エイリス地区が他地区や中央の教育関係者から“流刑地”“追放地”などと呼ばれているのも、国内最北の辺境という土地柄と、分舎長の受け入れ方針が合わさったことに依っている。
「それにしても、エイリス分舎が中央総合演習の相手校候補に挙がるなんて、それ自体が名誉なことよね~」
自分専用のティーカップに紅茶を淹れながら、コーデリアは和やかに言った。
“中央総合演習”とは、王都の中央女子高等騎士学校が他地区の女子高等騎士学校と行う大規模模擬戦である。
毎年行われる中央女子高等騎士学校の伝統行事であり、かつ、将来的には騎士団の要職に就くであろう名門の娘たちが数多く参加するが故に国家的な行事にもなっていた。
演習にはレゼ国王、或いは王位継承順位の高い王族を初めとして、王政府や騎士団の高官が観覧する他、国外からはティルベリア侯爵やクロン市副市長、リズレア教会の“聖女”などが賓客として招かれるという。
そういった国賓を持て成すことも含めて、中央総合演習の相手校に対しては演習準備費として多大な補助金が支給される。その金額は、エイリス分舎に宛がわれる年間教育予算の三倍にも相当するという。
ブラックウッド分舎長は、エイリス分舎が演習相手校となるために熱心なロビー活動を行っていた。その熱心さは、月にエイリス分舎にいる日も王都に出張している日の方が多いほどであった。
その分舎長の努力が実を結び、来週に演習相手校の選定権を持つ特別教育査察官がエイリス分舎に来訪することが決定したという。
「ああ、名誉なことだというのは私にもわかる。だからこそ、分舎長の考えていることがわからん……何故私が査察官の対応担当なんだ……」
そして、その特別教育査察官の対応担当を、分舎長はユキノヲに命じていた。特別教育査察官対応は、多額の資金獲得が懸かっている高度に政治的な業務である。故に、高等騎士学校に入学してから今に至るまで武芸一辺倒に生きていたユキノヲにとっては、自身が査察官対応の適役とは決して思えない。
「そうね。確かに、ユキノヲが適役だなんて、私も思えないわ」
「だろう? お前の方がずっと向いていると思うよ……はぁ」
資金獲得に血道を上げるブラックウッド分舎長のことである。多額の補助金が懸かるこの仕事に、不向きであろうユキノヲ選ぶだけの理由が必ずあるはず。
だが、それが皆目検討もつかない。査察官対応自体は元より、分舎長の目論見が全く見えてこないがためユキノヲは不安を抱き、ついコーデリアに愚痴をこぼしてしまう。
教え子達の前では、峻厳な教官であらんと努めるユキノヲが決して見せようとしない姿。
「ま、分舎長のご指名なのだし、当日は私がユキノヲのこと、全力でサポートするから。頑張って!」
浮かない顔をするユキノヲに対して、コーデリアは明るく楽しそうに声を掛ける。
「……コーデリア、お前、私が困っているのを見て楽しんでいるだろ?」
「え~、別にそんなことないけど~」
くつくつと笑いながら、コーデリアは左手の人差し指をくるくると回して毛先を絡める。コーデリアがユキノヲをからかう時の仕草。
「嘘をつくな。全くお前は……ふぅ」
呆れるように言いながらユキノヲは湯呑みを座卓に置いて一息ついた後、気怠げにその場で寝転がった。
身体を仰臥させると、幾ばくか疲労が軽くなる。
日々候補生達に武術を身につけさせながら自己鍛錬も必須な術式科の教官職は体力を使うが、通常職務に加えて査察官対応業務までやっているのだから、ここ最近は特に疲労感を覚える。
あまり行儀のよい態度ではないが、ユキノヲが不慣れな仕事を行っていることを知るコーデリアは咎めもせず、彼女の好きにさせている。
「こんな姿、あの子たちには見せられないわね」
候補生の間では規律に厳しい教官だと評され、自身もそうであらんとするユキノヲがだらけた姿を見せるのは、自室でコーデリアとふたりきりの時だけであった。
「……そうだな」
コーデリアの言葉に苦笑しながら、ユキノヲは仰向けにしていた身体を横へ向かせる。
顔に近くなったござから、藺草の匂いがした。
イザシュワ地区の実家と同じ匂い。ユキノヲにとってはなじみ深く、懐かしい匂いだった。
*
ユキノヲとコーデリアが生まれ育ったイザシュワ地区はレゼ国の北部に位置している。北隣はエイリス地区であり、国内の鉄道網という観点ではエイリス地区まで線路が敷設されていないため最北となる。
国内で最も極東系レゼ人が多く住むエイリス地区に隣接するためか、イザシュワ地区は比較的多く極東系レゼ人が住む地域であった――尤も、エイリス地区と比較すると格段に少数ではあるが。
ユキノヲはイザシュワ地区の下士の娘。母は二歳の頃に亡くなり、以降は高等騎士学校に入るまで父と二人暮らし。
下士の俸禄では父娘二人が食べていくことはできず、公職にも就くことができなかったユキノヲの父は極東民具を作る職人の仕事を行っていた。
その父の仕事場が、コーデリアの父ロイド・フーヴァーが経営する工場であった。
ロイド・フーヴァーの工場には父を含めて下士や平民の極東系レゼ人が多く勤めており、畳や襖、屏風に行灯といった様々な極東民具が作られていた。ユキノヲの父が主に担当していたのが畳。そのため、父には藺草の匂いが染み付いていた。
工場で作られた極東民具の取引先はエイリス地区、ヤマノイ家やダイゼン家などの王都の極東名家、更にはクロン市等の国外にまで渡り多くの利益を上げていたという。
父の仕事がある日には、ユキノヲも一緒に工場に連れて行かれた。母親がいない家で幼子をひとり残しておくことはできないだろうと、ロイドが厚意を示してくれたためだ。
工場では事務員に預けられながら、時折、職人達の仕事風景を覗いていた。
だから、ユキノヲは工場での父の姿を知っている。父は工場で常にひとりぼっちであったことを。
父はレゼ民族からは元より、同じ極東民族からも疎外されているようにユキノヲは感じていた。
その理由は父の、オキ家の特殊な事情に起因している。
そも、レゼ国で極東民族が異物扱いされる要因には、レゼ民族と異なる外見的特徴や衣装、習俗など複数あるが、その内の一つに信仰の違いが存在している。
王室を初めとしたレゼ民族が主に信仰している宗教はリズレア教。創世女神クラリザと“女神の代弁者”たる聖女リズレアを主な信仰対象とする教義を持ち、レゼ国のみならず大陸全体として最も信徒の多い宗教である。
一方で極東民族の主たる信仰は固有名を持つ宗教はなく、独自の祖霊信仰であった
そのリズレア教と極東民族の祖霊信仰において、死後の魂に関する考えに大きな隔たりが存在していた。
リズレア教においては、良き魂は天の女神の元へ召し上げられ、悪しき魂は地の底の煉獄にて罪科を贖いながら女神の元に召し上げられるのを待つとされる。そして、救い難き最も悪しき魂は煉獄に行くことも許されず、地上にて朽ち果てるまで死苦を抱きながら彷徨い、最後には地獄へ向かうとされている。
一方で、極東民族の祖霊信仰においては、死者の魂は海の彼方にある黄泉の国――図らずとも、死後の魂の在処についてはリズレア教も極東信仰も海の彼方とされている――に行くとされているが、特定の時期に祖先の霊魂は現世の子孫の元を来訪する、という思想があった。
この祖霊の現世帰りという思想はリズレア教徒からは理解しがたいものであり、逆に極東民族からすれば現世にある霊魂が最も悪しきものだとするリズレア教の思想が理解しがたいものであった。
その信仰上の違いからリズレア教徒と極東民族との軋轢が生じ、時にリズレア教の魂の在り方の視点から「極東民族は女神に召し上げられない地上の悪しき魂を信仰している」という悪意ある解釈が行われ、レゼ民族による極東民族蔑視の要素となっていた。
極東民族が特に多いエイリス地区では祖霊の現世帰りに関する極東民族の独自行事である“灯籠流し”が、地元の祭りとして受容される程度にリズレア教と祖霊信仰が習合しているのであるが、イザシュワ地区の極東民族の大多数は本来的な祖霊信仰を現在でも保持している。だが、ユキノヲの家は例外であった。
ユキノヲのオキ家は、極東民族ながらリズレア教徒の家系であり、父もまた敬虔なリズレア教の信徒であった。
極東民族という理由でイザシュワ地区の教会に入れてもらうことができない父は、家にある古びた“五光架”――半円の下方から放射状に五つの直線が引かれた形状をした、リズレア教の宗教的象徴――に日々祈りを捧げており、ユキノヲはそんな父の姿を見て育っていった。
古くからリズレア教を信仰しているオキ家の人々の姿は、祖霊信仰を行う大多数の極東系レゼ人からは奇異の目で見られている。
つまり、オキ家は少数者の中の少数者であり、異物の中の異物。信仰の一致があるレゼ民族からは民族の違いから爪弾きにされ、民族の一致がある極東系コミュニティからは信仰の違いから疎外される。
リズレア教徒の家柄と元より無口な気質が相まって、父は常に孤立していた。そしてそれは、オキ家の娘であるユキノヲも同じ。
ユキノヲの家の近くには同じ年頃の極東系の少女達がいたが、オキ家に近づかないよう親から言い聞かされていたのか、彼女たちは決してユキノヲに話しかけることはなかった。
そのため、幼いユキノヲに真っ当な関わりのある人間は父親だけであった。
ユキノヲは、父のことが好きだった。無口であったが、優しい父親だった。騎士階級としての素養も、家伝の剣術も父が教えてくれた。リズレア教の信仰については教えられなかったが、父がそれを大切にしていることは分かっていたし、自分もそれを大切にしたいという気持ちがあった。
それでも、自分を仲間外れにして楽しそうに遊ぶ同年代の子供達の姿を見ていると、胸が締め付けられるような寂しさがあった。
そんなユキノヲに初めてできた友人が、コーデリア。
年が七つの頃、自身の娘とユキノヲが同じ年であることを知ったロイドが、ふたりを引き合わせたのが始まりであった。
(続)




