墜落の黒
「あぅ……っ……」
ふたりだけの部屋に、濡れた声が漏れる。
彼女の柔肌に、私の歯が食い込む度に艶やかに喘ぐ。
「ん……」
少しばかりの息苦しさを感じて、歯を当てていた彼女の肩から口を離す。
先ほどまで私が口を寄せていた皮膚に、歯形が刻まれている。
肩。それより前に二の腕、首、脚――
「れーなぁ……もっとして……?」
ねだるように、命令するかのように、彼女は言った。
彼女は目を布で覆い、手首には玩具の手錠が掛けられている。
高等騎士学校の寮で、夜に刻印を付けたときと同じ道具で、同じ姿。
ただあの頃と違う所は、目隠しと手錠に加えて、新たに革製の首輪を彼女が付けていて、首輪のリードは私が握っていること。この儀式が騎士学校の寮ではなく極東式の部屋で行われていること。私も彼女も、少女から大人に――二十五の年の女になっていたこと。
ぼんやりとした行灯の明かりが、彼女の姿に陰影を付け、その姿を目にする私をなおのこと昂ぶらせる。
「いいわ。こっちにきなさい」
「あう……」
首輪に繋がったリードをぐっと手繰りよせると、彼女の躰が倒れるように私の躰に重なる。目隠しがずれて、恍惚に潤んだ瞳が覗いた。
「ひゃ、あっ……ふあぁんっ!」
彼女の首を噛むと、彼女は私にしな垂れかかったまま、ビクビクと躰を震わせて喘ぎ鳴く。
少しして顎の疲れを覚えた私が口を離すと、彼女は息を乱しながら言った。
「はぁ、はぁ……ねえ、そろそろとって?」
彼女は躰を私から離すと、懇願するように手錠の嵌められた両手を胸の前に掲げる。
「そうね。疲れてきたし、外してあげるわ」
彼女の求めに応じて、私は小さな鍵で手錠を解き、布団の脇に投げ出す。
「ふぅ……れーな、だいすき」
手錠を外された彼女は甘えるように言いながら、再度、私の躰にしな垂れかかる。
彼女の躰が私の躰と重ねっていき、その唇が私の肩先に触れた。
「――うっ!」
不意に、躰に痛みを覚えて私は高い声を出してしまう。
彼女が私の肌に歯を立て、弄んでいた。
「れーなも、噛まれて気持ち良さそう。ふふっ」
からかうように彼女が言った。
「……生意気よ、ツムギ」
思わぬ声を出してしまった気恥ずかしさから、私は少しばかり苛立った口調で返した。
今まで出すことのなかった感情が、露わにできた。
幸福だった、少女の頃と同じように。
少女の頃と同じように、幸福だった。
私はずっと求めてきた、失われた日々をこの一年で取り戻していくように感じていた。
もう、一年も経つ。
キドリア地区からツムギの元に戻り、そして、ツムギと再び躰を結ぶようになってから一年が経ち――あの戦争が終わってから四年が過ぎていた。
*
ヤマノイを殺した後、私はすぐに奪還陣地から逃亡した。
あの男を殺してしまったのは衝動で、何の見通しも考えもない。ただ黒く濁った感情が止められずに、殺してしまった。
殺した後、私はあの場所にいたら下手人の私は即時に捕縛されて処刑されるだろうと思い、携行できる糧食と銃などを持って私は奪還陣地から抜け出した。
ヤマノイの死体があって、私が失踪したという状況ならば、誰もが下手人は私だと判断するであろう。
騎士団幹部の殺害という大罪を犯したとはいえど、最前線の陣地に逃亡した私一人を捕まえるために人員を割くかどうかは疑問ではある。だが、仮に追っ手が出され、発見されたら確実な死が待っている。
まだ死ねない。死ぬ訳にはいかない。
だから、私はできる限り早く陣地から離れて北上し、キドリア地区から脱出することだけを考えていた。
北上して、シヨウ関を抜けて、そのまま王都まで行き――ツムギと一緒に逃げて、騎士の家から自由にして、どこか外国で二人で暮らす。そんな夢物語が逃走中の私の頭を支配していた。
今になって思えば、ただの現実逃避である。具体性など何も無い。ツムギと何処かへ逃げるどころか、レゼの最重要拠点として牙兵を含む堅牢な警備体制が敷かれているシヨウ関を抜けるなど、現実的ではない。そんなことすら、あの時の私の頭からは消失していた。
何もかもが狂っていた。
戦場は狂っていて、私は狂っていて、狂ってしまった。
野宿をし、空き家に宿を取り、私はただシヨウ関を目指して逃走を続けていた。だが――シヨウ関に辿り着く前に、私は戦争が終結したことを知った。
シヨウ関近郊の小さな街。その街には、騎士制服を着ている人間の姿が全く見えなかった。王政府が最重要拠点として定めているシヨウ関の近くであれば、戦地から離れた場所であっても警備の為の騎士がいるはずなのに。
不審に思った私は、食料の購入を行った商店の主にそれとなく街の状況を尋ねた時に、戦争の終結を知った。
戦争が終わったのは、私があの男を殺してから数日後だった。
そして、終戦後のキドリア地区はムルガルの統治下に置かれているのだという。王政府による公式見解は戦前の領土を保全する双方痛み分けとされているが、実態としてはキドリア地区はムルガル領同然の状態であり、レゼ側の敗北である――尤も、王政府はキドリア地区がムルガルによって実効支配されていることを王都市民に伏せていたことを、私はツムギの元に戻ってから知ることになるのではあるが。
騎士の姿が見えないのも、ムルガルの統治に依るもの。レゼ側の軍事組織である騎士団をムルガルが支配するキドリア地区に留めておくはずがなく、キドリア地区以北に引き上げが行われた。
その話を聞いて、私の中に安堵感が生じた。
レゼ国騎士団の排除とムルガルの法による統治体制は、キドリア地区にいる限り私はヤマノイ殺しで裁きを受ける可能性は極めて低いことを意味していたのだから。
だが、騎士団排除の話を聞いていく中で、私の安堵感は絶望感に塗り替えられた。
キドリア地区とその北隣のローベ地区を唯一繋ぐ場所であるシヨウ関は、現在は封鎖されている。その事実は、キドリア地区を脱してツムギの元へ帰ることが不可能であることを示していた。
騎士団の撤収後、シヨウ関の巨大な鉄門扉は閉ざされ、常にムルガル軍が駐留して警備しているという。ムルガルによるこれ以上の国土侵入を阻むことを狙ったレゼ側の意向と、キドリア地区統治にあたってレゼ側の間者の侵入を防ぐムルガル側の意向が合致した結果に依るもの。
だが、そんな政治的意図など、私には何の意味もなかった。
空疎であった。ただただ空疎であった。
戦争が終わったのであれば、ツムギの元へ戻ることができるはずであった。夫が死んで、私だけのものになったツムギの元へ。
それなのにシヨウ関の門は閉ざされており、ツムギの元へ戻ることは叶わない。
地獄のような戦場を生き延びてきたのも、ヤマノイを殺して騎士団から脱走したのも、ただツムギと再会するためだったのに――その絶望感が、私の視界を灰色に変えていった。
*
「んっ……やっ……」
ふたりだけの部屋に、濡れた声が漏れる。
私の声。
ツムギの歯が私の肌に食い込む度、布団の上で私はビクンと躰を反応させ、喘ぎめいた吐息を漏らす。
「れーな、かわいい」
ツムギの歯形だらけになった私を見下ろしながら、彼女は愉しそうに言った。
「つむ、ぎ……やめっ……!」
「ダメ。今日は私がれーなにしてあげるんだから」
ツムギは笑うと、私の首皮を唇と歯で挟み、弄ぶ。
「やっ……あっ……!」
「ふふっ、れーな、昔からわたしに噛まれ返されるのに弱いよね?」
「っ……!」
否定したくて、喘がないように堪えながら首を横に振るが、私のその態度はツムギを更に昂ぶらせたようだった。
「本当にかわいいよ――わたしのれーな」
「あっ、やあぁん!」
その言葉に、ぞくりとした快楽を覚える。同時にツムギの存在をより感じてしまい、私は躰を跳ね上げさせながら嘶いてしまう。
私がずっと、求めていた言葉だから。
ツムギは私のモノであり、私はツムギのモノ――そんな関係を、私はずっと望んでいた。
だから、それが叶った今の私の世界は、ツムギの色に充ち満ちている。
私とツムギの、完璧な世界だった。
それは、私にとってはとても幸せな、色彩に満ちた世界だった。
だが、それはそれとして。
ツムギに好きなように弄ばれてしまうのは、少しばかり気に食わない訳でもない。
*
シヨウ関の扉が開いたのは、戦争終結から三年の月日を経てからであった。
この三年の間、私はシヨウ関近くの山村で猟師の真似事をしながら生活をしていた。
銃を使って獲物を仕留め、村や時折は都市部へ足を伸ばして金銭や必要な物資と交換する生活。
キドリア地区の様子は、戦時からすっかり様変わりしていた。
都市部の市民達はレゼ人とムルガル人が混在し、レゼ騎士団はいなくなりムルガル軍が闊歩していた。政庁の役人達も下級の官吏を除いてムルガル人に変わっていた。商業地区にもムルガル商人が店を構えており、ムルガル産の物品や王都でも見られない南方由来の品物が多く売られていた。中には銃器や弾薬を取り扱うムルガル商人もおり、猟師の真似事をするのには不自由がなかった。
レゼの政治的・軍事的支配力が排除され、ムルガルが実質支配しているキドリア地区での生活は、ヤマノイ殺しと騎士団脱走を犯した私にとっては最も都合の良い場所なのだろうという認識はあった。
それでも、私の世界には色彩が存在していなかった。血と泥で赤黒い戦争の世界は色褪せ、灰色になっていった。
彩りのない、空疎な世界。ツムギと会うことが叶わない世界――キドリア地区にいた三年間、私はずっとツムギを想わない日はなかった。
ツムギは今何をしていて、何を思って生活しているのか。今でも、私や夫のことを待っているのだろうか。夫を殺した私のことを。私が殺した夫のことを――
或いは私も夫も死んだ者として認識しているのか。それとも、私がヤマノイを殺したことを知って憎しみを抱いているのか。
いずれにしろ、私の所在やヤマノイの死がツムギにどのように伝わっているのか、レゼ国から遮断された環境のキドリア地区に留められた私には知ることができない事象であった。
それは、あの奪還陣地にいた部隊が全て壊滅したからであった。
正確な日付はわからないが、私が脱走して程なく、奪還陣地はムルガル軍の奇襲を受けたという。駐屯していた騎士団の反撃も空しく、騎士達は打ち破られ、陣地は焼き払われた。
終戦後、一度だけあの陣地跡に訪れたことがある。焼け焦げた木片や鉄くず、割れた硝子が所々落ちているだけの荒れ地と化しており、その襲撃の苛烈さを残していた。
陣地奪還後すぐに次の戦場へ行軍したハグワナーツ騎士団ハロルド隊を除いて、ムルガルの奇襲により陣地に留まっていた青鹿山岳騎士団の三部隊も、ヤマノイの所属していた雑覇騎士団も、私の率いていた桜花第三銃撃隊も、ほぼ全てが戦死したのだとキドリア地区では伝わっている。きっと、ロンバルドもチェンバレンも、今ではこの世にはいないのだろう。
その話の真偽を確かめる術は、ムルガル統治下のキドリア地区では存在していない。あの陣地にいた者で生き残りが存在しているのか。ヤマノイの死と私の失踪はどのように伝わっているのか。全く以て情報を得ることが、私にはできなかった。
それ以前に、騎士団や役人の引き上げと、シヨウ関と冬以外でも雪を覗かせるほどの高標高の山岳によって政治的・物理的に分断されたキドリア地区ではレゼ国の現状がどうなっているのかすら確度の高い情報を得ることが叶わなかった。
たった一人の人間が、動かせる状況ではなかった。
だから私は、ただひたすら待った。シヨウ関の鉄扉が再び開き、キドリア地区から発てる日が来るのを、ただひたすら待った。
そして三年後、ついにシヨウ関の封鎖が解かれる日が訪れた。
シヨウ関の解放が行われるにあたって、レゼとムルガルの間にどのような交渉があったのか私には知る由もない。
ただ、キドリア地区にいるムルガルの軍人も役人も引き上げる気配も見せず、シヨウ関の警備はムルガル軍人のみでレゼ人は存在せず、そしてシヨウ関を通行する人間ははレゼ人のみならずムルガル人も混ざっていた。その様子は、ムルガル側にとって圧倒的に有利な条件でのシヨウ関解放が行われたことを意味していることは理解できた。
そして、勝者の余裕か、ムルガル側の要求か、シヨウ関の往来には一切の身辺調査は行われずに全くの自由となっていた。
私にとって、それはとても幸運な状況であった。だから私は何の調査も受けず、悠々とシヨウ関を抜けることができた。
シヨウ関を抜けてローベ地区に足を踏み入れた私は、視界が一気に広くなったような感覚を抱いた。
四方を山に囲まれたキドリア地区の景色から、平原の景色に変わったためか。或いは、ツムギとの再会が叶う世界に辿り着いたことによる絶望感から解放されたためか――いずれにしろ、シヨウ関を抜ければ、後は王都まで続く平原地帯しかない。
馬を手に入れれば、すぐに辿り着くだろう。
三年間、片時も想わない日の無かった彼女の元へ――
*
今日も、鳥の囀りが聞こえる静かな朝だった。人が多く喧噪に満ちた王都とは全く異なる朝。王都メキオ北方郊外カラザ地区にあるヤマノイ家の別邸の、ありふれた朝。
ここで暮らすようになって、一年近くが過ぎた。
「ねえ、レーナ、怒ってる?」
廊下を並んで歩きながら、ツムギが半笑いで尋ねた。
ツムギも私も、寝巻きとして使っている揃いの浴衣姿。極東造りのヤマノイ別邸に似つかわしい姿。
「怒ってないから」
「いや、絶対に怒ってるよね?」
「怒ってないって」
少しばかり険を籠めて答える。
昨晩は散々ツムギにいいようにされてしまった。
気恥ずかしさがあり、悔しさがあり。そして。
「ごめんってば、レーナぁ」
茶化すように、ツムギが私に腕を絡めて笑う。
「謝ってるじゃん、もー」
「全く……」
ふっと私も小さく笑顔になる。
何よりも、ツムギとこうやって過ごすことへの幸福感があった。
こうやってツムギと触れあい、声を聞き、顔を見ることができる日々が何よりも愛おしく思えていた。
ツムギの肌の色。瞳の色。髪の色。唇の色。爪の色――何もかもが鮮やかで、煌めきに満ちている世界。
私がずっと求めていた色彩。
一方で、その鮮やかな世界の片隅に、泥と血の混じった黒い濁りが渦を巻いていた。そして、ツムギの笑顔を見て幸せを感じる度に、心の内で私の薄暗い声が谺していた。
お前は、ツムギの夫を殺したのだと。こうやって目の前で笑う彼女の夫を奪ったのだと。夫を殺した相手の心も躰も弄んでいるのだと。
ツムギは、私がヤマノイを殺したことを知らない。
ヤマノイの死は、公的には戦死として取り扱われていた。それを私が知ったのは、シヨウ関を抜けてすぐ。
ローベ地区政庁で戦争関連の公報を確認したところ、戦死者名簿にはヤマノイの名があり、戦時逃亡者名簿には私の名前が載っていた。
ヤマノイはムルガルの奇襲による戦死者としてみなされ、そして、私は戦時犯罪者として扱われているものの、戦時逃亡罪のみでヤマノイ殺しについては認識されていないことを知った。
実際、戦後すぐにツムギの元にはヤマノイの戦死公報が届いたという。だから、ヤマノイを殺したことを、ツムギは知らない。私が黙っている限り、知る術がない――とは言えども、それはあくまでも公報など表へ出る形における話であり、政庁や騎士団ではヤマノイ殺しの件が把握されている可能性も否めなかった。
だから私は、ツムギの元へ帰った時に、王都ではなく別の場所で暮らすことを彼女に願った。
ツムギには、自分は戦時逃亡だけでなく、同胞殺しもやったと言った。表には出ていないが、王都の役人や騎士団幹部は把握している可能性があるため、王都を出て他の場所で暮らしたいと言った。
嘘はついていない。だが、その殺した相手はツムギの夫であることは伏せていた。
ツムギは、何も聞かずにただ、私の願いに応じてくれた。
少しして、ツムギは肺病療養を名目として、王都の本邸を末妹に任せてツムギはカラザの別邸へと住まいを変えた。その前に、秘密裏に私をカラザの別邸へ移住させて。
カラザの別邸を選んだのは、環境の良さから療養という名目と合致することと、ダイゼン家時代からの使用人である老夫婦が別荘の管理者を務めているから。
移住先を定めた後、早急に準備を進めて、私とツムギはカラザの別邸へと移ることとなる。
それぞれの娘たちを伴って――
*
座敷へ向かう途中の廊下で、私とツムギは二人の少女に行き会った。
「あ……母様、レーナさん、おはようございます」
一人はイト。ツムギの娘。
顎のあたりまで伸ばされた黒髪は所々寝癖が付いており、彼女がまだ起床したばかりであることを示していた。
そんなイトの左手は、もう一人の少女の手と繋がれている。
カティ。私の“娘”。
髪の色は灰色に近い銀色で、所々跳ねている。寝癖ではなく、そういう癖の付いた髪質らしい。
ツムギと私に挨拶をしたイトとは違い、無言。目を閉じて首をこくりこくりと動かしている。眠っている所を、イトに無理矢理連れてこられたのだろう。
カティはイトに好かれているようで、手を繋いで連れ立っている姿を頻繁に見る。
「今日は早く起きたんだ? いい子だね」
「あ、ありがとうございます、母様」
ツムギは屈んでイトと目線を会わせると、優しく微笑みながら頭を撫で、次いでカティの方に視線を向けて言った。
「カティちゃんもおはよう」
「う、ん……おはよ、う、ござい、ま……す」
カティは相変わらず目を閉じたまま、眠たげな小声でぼそぼそと返した。
声を聞いたのは、数日ぶりかもしれない。カティは無口で、全然喋らない子供だった。
「あはは、カティちゃんはまだおねむかぁ」
ツムギが困ったように笑うと、イトは少し焦ったように言った。
「あの、母様、これから一緒にカティちゃんと顔を洗ってきますので……」
「うん、じゃあいってらっしゃい」
「は、はい、母様。じゃあ、カティちゃん、行こう?」
「う……ん」
イトはツムギの軽い返事を受けてほっとしたような表情を見せると、カティの手を引きながら私たちの横を通り過ぎて洗面所へ向かっていく。
カティの情けない様子を見て、私はツムギに対して気恥ずかしさを覚えた。
「……なんか、申し訳ないわね」
ほぼ一緒に過ごしたことはないとは言えど、名目上、私は一応はあの子の“親”であり、出征中から今に至るまでずっとツムギに面倒を見てもらっていた。
それがツムギどころかツムギの娘にまで世話を焼かれているのだから、こちらとしても申し訳が立たないように思えてしまう。
「いいのいいの。小さい子供なんだから」
私の感情を察したのか、ツムギは笑顔で気にしないように言った。
そして。
「それにしても――カティちゃんは、全然レーナに似てないよね?」
ツムギは笑ったまま、そう言った。
先ほどまでと同じ笑顔。だが、だが、その瞳はガラス玉のように透明だった。
「――――!」
何の感情も関心も抱いていないことを示す、透明な瞳。
高等騎士学校時代、自身に嫌がらせをした候補生を叩き伏せたときに見せた瞳。
相手を射竦め、怯えさせ、泣いて許しを請うまでに至らせた怖ろしい瞳。
それは、本質的には私に対して向けられたものではないのだが、実際に目線を向けられると、やはり射竦められるような恐怖感を幾ばくか抱いてしまう。
実際、私とカティは髪の色も質も顔立ちも、何もかもが違う。大人と子供の差を考慮しても、第三者から見たら間違い無く親子だと認識はされないであろう。
だから、もしかしたら、ツムギは薄々は気付いているのかもしれない。カティが私の子供ではないことに。
「……父親似なのよ、あの子」
射竦められる感覚を振り払いながら、私は小さく答える。
「そうなんだ?」
「イトだって、ツムギよりも父親似じゃない。それと同じよ」
「んー、それもそっか」
ツムギはにこりと笑い、瞳はいつもの色に戻る。
彼女が私の言葉を信じているのかどうか、わからない。或いは、それこそ関心がないのかもしれない。
「……ツムギは、あの子のことをどう思っているの?」
「カティちゃんのこと? イトちゃんと仲良しだし、いい子だと思う。朝に弱いのは困るけど、お勉強もちゃんとするし、嫌いじゃないよ」
実際、ツムギはカティに対して虐待じみたことは一切行っていない。実子のイトとは程度の差があるとは言えど、カティに対する扱いは決して悪いものではない。騎士としての教育もイトと共にツムギが手ずから施しているので、むしろ格別によいと言うべきである。
ただ、時折、ツムギがカティと相対する時に、あの透明な瞳になることがあった。自分は、カティに対して何の興味も関心もないことを示すかのような瞳を――
ふと、思う。悪意を以て虐待されるのと、優しく接せられる中で無関心であることを示す瞳で見られるのと、あの子にとってはどちらが恐怖を抱くのだろうか。
だが、すぐに私はその自問に結論を出した。
どうでもいい、と。
こうやってツムギと一緒に暮らすことができる今では、カティの役目は既に終わっている。
ツムギやイトや、カティ自身がどう思おうが、それは私にも関心のないことであった。
*
今夜もまた、私とツムギは儀式を行っていた。
私とツムギが夜になると騎士候補生時代と同じく刻印するようになったのは、カラザの別邸に移ってすぐのことであった。
「きもち、いいよぉ……」
ツムギは目を蕩けさせながらも、求めるように私を見ていた。
昨夜と同じように、首輪と手錠。目隠しは今日は使っていない。
娘には、決してみせられない姿。
客観的に見て、ツムギは非常に良い母親だと思う。
イトに対しては、ヤマノイ家の跡取り娘として相応しい教育を施していた。
時折、厳しすぎるのではと思うこともあったが、それは全てイトに対する愛情に基づくもの。だからこそ、イトはツムギを強く慕っていた。
そして、だからこそ、毎晩、同居している女に肌を噛ませていることなど、決して娘には知られたくないであろう。
今のツムギは、私しか知ることのできない姿。それが私の、ツムギに対する所有欲を満たしていった。
「ねえ、もっとかんで?」
命令するかのように、ツムギがねだる。
私はツムギの左手を取り、自分の口元にまで上げさせる。
その薬指には、まだ指輪があった。ヤマノイが、ツムギに渡した指輪。
ツムギの左手に口を寄せ、私は薬指を口に含む。
いつかのように、歯は白金の指輪から滑り、ツムギの指にあたる。
「いたっ」
敢えてまた、強めに噛んだ。
ツムギは私の口から指を引き抜き、苦笑した。
「何でそんなところ噛むの?」
「噛まれるの、好きでしょ?」
「指はあんまり好きくない。別の所を噛んで?」
苦笑しながら、ツムギは再度命じた。
私はツムギを抱き締め、今度は首や肩に歯を立てる。
口には出さないが、ツムギはおそらく、私が未だに死んだヤマノイに嫉妬めいた感情を抱いていることに気付いているだろう。
その感情は、ツムギにとって心地よいものなのだろう。
私がヤマノイに対して嫉妬を見せる度に、きっとツムギは私に対する所有欲が満たされるのであろう。
だから儀式中でも、ツムギは指輪を外さないまま。
「ねえ、ツムギ」
ツムギの首から口を離し、表情が彼女の視界に入らないように耳元で小さく尋ねる。
「なあに?」
「指輪、外さないの?」
「外さないよ。ヒデオミの形見だし」
また、苦笑しながらツムギは言った。
また、私の胸は嫉妬で締め付けられた。
ふたりだけの夜の時間でさえ、ヤマノイが――私が殺したツムギの夫が、顔を出す。
血塗れで、軍服姿の、本来は整っていたのに苦痛と無念で歪んでしまった男の顔。
ツムギの指にあるヤマノイとの証を見る度に、ツムギの夫を殺したという罪業を私は突き付けられるような感覚を抱く。
それでも幸せだった。それが苦しかった。
ツムギが愛おしかった。ツムギが怖ろしかった。
ツムギとの日々に満ち足りていた。ツムギとの夜の度に吐き気がした。
ツムギと一緒にいて笑うことができた。ツムギと一緒にいて泣きたくて仕方なかった。
ツムギを守りたかった。私は毀れたかった。
いや、私はとっくに毀れていた。
ツムギと過ごす日々。まるでそれは、私とツムギが結ばれたようだった。
そして、同時に内なる薄暗い声が頭をもたげる。
ツムギの夫を、イトの父親を殺したのは、お前だと、私の薄暗い声が常に響く。
*
キドリア地区にいた時と同じように、カラザ地区でも私は猟師の真似事をしていた。
時折、別邸裏の小山に赴いては猟を行い、獲った動物の肉は度々食膳に登る。
逃亡者である私は人の多いカラザの街へ出かけることが憚れるので、裏山での狩りが私のほぼ唯一の外出であった。
その狩りに、イトは度々同行していた。
イトから一緒に行きたいと言い出したことで、ツムギも現役騎士の私の狩猟を見ることはイトの教育になるからと容認していた。
イトは、私によく懐いていた。私も、イトのことをかわいがっていた。
ツムギの娘だから。
小山の山道をイトの手を繋ぎなら一緒に歩きながら、様々な話をイトとしていた。
騎士候補生時代のツムギの話。ドレクスラー家の話。ツムギと一緒に見た劇の話。銀獅子騎士団の話。
イトと接する中で、私は彼女が自分の娘のように思えてしまうことがあった。
それは、身勝手な情愛であり、幼稚な妄想であり、逃避であった。
だって、イトは間違い無くツムギ娘であり――ヤマノイの子供であるのだから。
イトの顔立ちはかなり可愛らしいものである。だが、それでもツムギにあった一目で魅了するかのような煌めきはなく、どちらかと言えば父親に似たものであった。
故に、イトにヤマノイの面影を見出す度に、私の内に黒く融解した感情が溢れそうになる。
私はこの子の父親を殺したのだと。この子は私からツムギを奪った男の娘なのだと。
イトに対する罪業と、そしてヤマノイを通じてイトに向けられる嫉妬と憎悪が綯い交ぜとなった悪感情。
イトのことはツムギの娘であるからこそ愛おしく、ヤマノイの娘であるからこそ嫌悪めいたものを感じていた。愛憎が密接不可分で表裏一体となっていた。
ある日の狩りのこと。
その日も同じようにイトと手を繋ぎながら歩いていると、イトは父親のことを私に尋ねてきた。同じ戦場にいたのか、と。
イトは自分の父親と私に面識があるのかを知りたがっているようであった。
知っている。会ったことがある。なにせ、私が殺したのだから――うっすらと白雪覆う景色とは対極的な、泥と血が混ざった濁った黒い情動が私の中で沸き立ってきた。
それを私は押さえ付け、騎士候補生時代に顔を見たきりだと嘘をついた。
イトは時折、寂しそうな表情を見せる。それはきっと、父親がいないことへの哀切。
ヤマノイを殺した直後に感じなかった罪悪感を、私はツムギやイトと一緒にいる度に思い起こすようになっていた。同時に、殺してもなお消えないヤマノイに対する狂おしい情動が再起するようになり、私を苛んだ。
それでも、私は幸せだった。
ツムギやイトと過ごす日々は、その泥のような妄念を覆い隠して余りあるほどの幸福が存在していた。
この夢のような日々がずっと続いてほしいと、私は思っていた。
*
ツムギの元へ帰ってから五年が過ぎ、あの戦争が終わってから八年が過ぎたある日。
屋敷の使用人であるタキガワ翁が怪我を負った。右腕の骨折。
タキガワ翁は馬車を使っての屋敷の物品の買い出しや、ツムギの通院の送迎を務めていたが、腕の骨折によりその職務に従事することが困難となっていた。
屋敷にいる人間で馬車を扱えるのは、タキガワ翁を除くと私だけ。
だから私は、馬車を使う仕事をタキガワ翁の代わりに行うことを申し出た。
当然のことながら、ツムギは難色を示した。私自身も不安はあった。
だが、もう、あの戦争から八年、カラザ地区で暮らしてから五年が経っている。
五年の間、安穏と暮らすことができていた。きっと大丈夫。そうツムギと自分に言い聞かせ、馬車を馭して度々カラザの街へ出るようになった。
時にはツムギや、イトを連れ立って。
それが、転機だった。
私がカラザの街へ出るようになってから少しした後、観月の夜。屋敷に複数の“特憲”の騎士達が踏み込んだ。私を捕縛するために。
不正を犯した騎士の捕縛を主目的とする武闘派集団たる“特憲”相手に私一人では敵う訳もなく、下手な抵抗はツムギの立場を悪くするだけ。
ここまで、だった。
夢の終わり。報いの時。
もう二度とツムギやイトと会えなくなることは口惜しいが、私は覚悟を決めた。私はそれだけのことをしたのだと。ツムギの夫を、イトの父親を奪ったのだからと。
だが。
「逃亡犯蔵匿の嫌疑がある以上、そちらの女も調べなければならん」
フィルモアという一団の長と思しき騎士の言葉に、私は取り乱してしまった。
「待ってください! ツムギは……彼女は私の罪とは無関係です!」
フィルモアの言葉の途中で私は叫ぶ。だがフィルモアは関係無いとばかりに、部下へと指示を出し三人の騎士がツムギを囲んだ。
「やめて! やめなさい! ツムギは無関係よ!」
私は悲鳴を上げる。私はどうなってもいい。全ては私の罪なのだから。ツムギは関係無い。ツムギだけには触れて欲しくない。
「いいの、レーナ」
ツムギは私を諭すように言った。静かに、そして、はっきりとした強さのある声で。
「ツムギ……!?」
私はツムギの姿に愕然とした。
ツムギは真っ直ぐにフィルモアを見据えていた。凛とした、騎士の家系に生まれた女の立ち姿がそこにあった。
ツムギは、間違い無く騎士の娘だった。ツムギは、ずっと騎士の娘という生き方を変えられなかったのだと、私はこの瞬間に悟った。
ツムギはずっと、騎士としての生き方から逃れたがっていた。自由に生きたいと望んでいた。それがツムギの願いだと、私は知っていた。
だから私は、ツムギに騎士としての生き方を求めるヤマノイを殺した。
ツムギの願いを叶えるために。ツムギを自由にするために――ツムギを、私のモノにするために。
だけど、ヤマノイが死んで八年が経っても。私とツムギが一緒に暮らすようになって五年が経っても。
ツムギは騎士の娘だった。
私は、ツムギの願いを叶えることが、騎士としての生き方から自由にさせることが、最後までできなかったのだと、その夜に知った。
*
捕縛された後の取り調べにて、私は二つのことを知った。
一つは、“特憲”でも、私の本当の罪は把握されていなかったこと。
取り調べの担当となったフィルモアからは、私の罪状は戦時逃亡であることが聞かされていた。
そしてもう一つは、私は戦時逃亡罪で処刑されるということだった。
戦時逃亡罪は、確かに法定刑では最高で死刑と定められているが、騎士階級についてはほぼ免除か、形式的な軽微な罰しか下されなかった。
それでも、私は処刑されるという。
フィルモアは言った。国家としての方針が変わった。法に基づいた適正な処罰が行われる。名家であるドレクスラー家の人間でも、法に基づく刑罰が等しく下されるのは当然だと。
何一つとして、彼は間違ったことを言っていなかった。正しかった。正しきに過ぎていた。
同時に、父も私の処刑には同意をしていることをフィルモアから聞かされた。
その情報は、私の処刑には某かの政治的な意図があることを示していたが、どうでもいいことであった。
ただ一つ気がかりだったのは、ツムギだった。
戦時逃亡の罪で私に死刑に処されるのであれば、戦時逃亡者蔵匿の罪を負ったツムギはどうなるのか。
死ぬことが確定しているためか、或いは何らかの情か、フィルモアはすぐに教えてくれた。
財産没収が課せられる。死刑は元より、その身柄を傷つけるような処罰は行わない。
フィルモアの言葉を聞いて、私は少しだけ安堵した。ヤマノイ家は屈指の財産家。財産没収であれば、今後もツムギは今まで通り暮らしていけるだろう。
楽観的な見通しかもしれないが、私はそう思いたかった。そう思って、自分を納得させた。ツムギの身が無事であれば、それでいいと。
だから私は粛々と、抵抗もせず取り調べに応じ、そして処刑台に立つことになった。
レゼの処刑は絞首刑である。目隠しをされた私には何も見えないのであるが、おそらく、私の前には首吊り用の縄があるのだろう。
「言い残すことはあるか」
暗闇の中、フィルモアの声が聞こえた。逮捕から取り調べ、死刑に至るまでこの男が私の担当だった。
父。母。死んでしまった兄。姉たち。騎士候補生時代の同期。銀獅子騎士団の同僚。キドリア地区での戦友。カティ。様々な顔が浮かんでは、一瞬にして消えた。
ヤマノイの顔が浮かんだ。今になっては、もはや黒い感情は湧くことはなかった。ただただ空疎な感覚があった。結局、私はヤマノイ殺しについてはフィルモアにも話すことはなかった。ツムギは、ヤマノイの死の真相を永遠に知ることはないであろう。そう思い至った時、ヤマノイの顔が消えた。
イトの顔が浮かんだ。彼女に対して言い残す言葉はなかった。イトに対しては様々な感情がある。だが、その泥のように溶け混ざった感情は言語化することが困難で、仮に言語化できたとしても、誰かに言うべきものではないのだから。だから私は、イトのことを振り払った。
そして、最後に残ったのは、ツムギだった。
ツムギ。ツムギ・ダイゼン。
私の、初恋の人。
照れ隠しのように笑うツムギ。機嫌を損ねて頬を膨らますツムギ。ベッドの中で淫らに喘ぐツムギ。
私のことを、一番好きだと、誰よりも好きだと言ってくれたツムギ。
彼女との日々は、とても幸せだった。良かった。本当に、良かった。
ツムギと一緒にいられたことが、私の全てだった。本当に素晴らしい、人生だった。
この想いも、私の胸の内に留めておくべき言葉だった。
「何も、ないわ」
だから私は、短く、そう伝えた。
「……では、執行する」
フィルモアの僅かに震えた声が聞こえ、私の首に縄が掛けられる。
これで、私の全てが終わる。
私の全て。
ツムギ。
もう二度と、私はツムギの肌に触れることができない。
ツムギ。
もう二度と、私はツムギの声を聞くことができない。
ツムギ。
ただ一つの色彩を、私は永遠に失うことになる。
そう思い至った瞬間、私の全身が凍り付いた。
声にならない叫びが、私の内の奥底から湧き上がる。
「――――」
口から何かが発せられるよりも早く、身体が宙を浮いた。
世界が、目隠しによる暗闇とは異なる黒色に塗り替えられていく。
その黒は、戦場で見た泥と血が混ざった色とも異なる、純粋な黒だった。
死の色だった。
死が、私の全てを塗り潰していった。
(断章 了)




