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騎士候補生少女譚  作者: 柳生 劣情(文章)&春畑 晴燕(設定)
断章 愚者の独白
18/71

泥の戦争

 朽ちかけた公会堂の二階の一室で、古びた椅子に腰掛けていた私は目を開く。

 窓の外に降っていた雨は、いつの間にか止んでいた。

 時計に目を遣ると、自分の体感以上に時間が進んでいた。

 おそらく、少しばかり眠っていたのであろう。

 立ち上がり、固まっていた身体をぐっと伸ばす。同時に、少しばかりの空腹を覚えた。

 私は部屋から出て階段を下り、一階の食料保管室から戦闘糧食用のビスケットをくすね、外へ出る。

 雨上がりの地面は、泥でぬかるんでいた。幾度も踏んでいる、泥土。

 私は公会堂前のベンチに座り、くすねてきたビスケットを口にする。縦長で、ぼそぼそとしていて、嫌になるほど甘ったるい味。

 この一年で、幾度も口にしてきた味。

 一年前、出征してすぐに私は一部隊の隊長に任じられた。

 桜花(おうか)第三銃撃隊。名前だけは立派ではあるが、実戦経験皆無の私が名家出身という理由ですぐに指揮官に任じられてしまうあたり、戦時中にもかかわらず騎士団に真っ当な編制機能が未だに欠けているのだと身を以て知った。

 その上、私の部隊は開戦直後から従軍していた副隊長の騎士と軍医の二人以外は、戦闘経験のない高等騎士学校を卒業したばかりの騎士や、徴発された平民の兵士ばかりだった。

 その副隊長も槍が得物の騎士であり、銃をまともに扱えるのは、私ただ一人だけ。

 だから私の最初の仕事は、部下達に銃の扱い方を教えることだった。支給されたのは、型落ちした安価な旧式銃。

 銃の構造や構え方、基本的なことから一人一人に、教えていった――今ではもう、その時からいた顔は随分と少なくなっている。

「あ、隊長!」

 私の後方から、明るい女の声がかかる。

 部下のカンノ。私と同じく一年前より戦地に出征した女性騎士。銃撃部隊結成当初からの生き残りである古参の一人で、私の身の回りの雑務を任せている副官格。

 東部のダクレイ地区出身で女子高等騎士学校を卒業してすぐに徴兵されたという。今年で十九になる、肩まで切り揃えた黒髪の、明るくよく笑う極東系。

「また糧食をくすねたんですか?」

「そうね」

 言いながら、カンノは私の隣に座る。

「勝手に食料を持ち出したら、副隊長殿や軍医殿に叱られますよ」

 そう言うカンノも、ビスケットの箱を手にしていた。

「カンノだって同じじゃないの」

「あはは、ばれちゃいました?」

 悪戯するように言いながら、カンノは明るく笑う。

 極東系で明るい振る舞いをする彼女に、私はツムギの姿を僅かばかり重ねてしまう。

 尤も、カンノは客観的に見れば愛らしいと言っても異論は出ない容姿であるものの、ツムギにあるような煌めかしい魅力は備わっていないのであるが。

「なので隊長、食事の許可をお願いします!」

「ええ、許可するわ」

 自然にふっと笑みが出る。

 銃技能の習得の早い彼女を目に掛けていたためか、カンノは私によく懐いていた。

 後輩、というのはこういうものなのだろう。騎士学校での上下学年間の交流はその土地の騎士学校毎に個別方針があるが、私の通っていた王都の騎士学校においては学年間交流は避けられていた。

「ありがとうございまーす!」

 軽い調子で言いながら、カンノはビスケットを口に運び、私も一緒に食す。嫌になるほど甘ったるく、どこか癖になってまた口にしたくなる糧食。

 ベンチの先に見える崩れかけた街並は静かで、人影は見られなかった。

「子供達、いなくなっちゃいましたね」

 三日ほど前までは、子供達がいた。

 毛が抜け落ち、皮膚がくすみ、老人のような姿になった子供達。

 この街はレゼ騎士団が奪還する半月前までは占領していたムルガル軍による掠奪が行われていたため、住民達は飢餓に苦しんでいた。否、奪還後も数少ない食料は騎士団に供出されていたので、現在進行形で「飢餓に苦しんでいる」と言うべきであろう。何しろこの街に駐留しているのは桜花第三銃撃隊の他に複数存在しているのだから。

 故に、今みたいに私が外で食事をしていると、飢えた子供達がじっとその様子を見つめてきていた。視線には羨望と、この世界を諦めたような空疎さがあった。居心地の悪さを覚えた私は子供達にビスケットを分け与えていたが、その子供達も日に日に減っていき、三日前から見なくなった。

 きっと、死んでしまったのだろう。

「ああいう子供達を増やさないように、私たちが戦わないといけないわね」

「そうですね、隊長」

 建前でしかない私の言葉を、カンノは笑って受ける。

 そして、遠い目をしながら、カンノは自分の腹に手を当て、小さく呟いた。

「あたしは、もう、無理ですからね……」

 先ほどまでの明る気な振る舞いから一転し、カンノの声は涙ぐんだものとなっていた。

 出征して半年ほど過ぎた頃からずっと、カンノは生理が止まっている。

 彼女に対し、隊付の軍医は、もう子供の産める身体ではないという残酷な診断を下した。それ以来ずっと、カンノは情緒不安定となっており、泣き出すことが多々あった。

 普段は明るい風に振る舞っているのも、きっと自分を誤魔化す意味合いがあるのだろう。

「カンノ」

 私は俯いて膝に涙を落とすカンノの頭に手を伸ばし、慰めるように撫でる。

「私も、同じだから」

 私も、出征して少ししてから今に至るまで生理が来ていない。

 軍医に診てもらってはないが、きっとカンノと同じなのだろう。それがカンノに対して何の慰めになるのかわからないし、私は子供が欲しいと思ったことがないので、彼女の苦しみを想像できても共感することはできない。

 形だけの言葉。それでも、カンノにとっては意味があるようで、彼女は顔を上げて涙を拭う。

「……すみません、隊長」

「いいの。こんな地獄みたいな場所なのだから、仕方ないわよ」

 戦地は、まさに地獄の色をしていた。

 灰色しかなかった私の世界は、ツムギとの出会いによって彩られ、今は濁った色ばかり。

 血と泥が混じった、赤黒い世界。

 戦場には血と泥の色しかなかった。

 腹を切り裂かれ、首を刎ねられ、手足をもがれた人間の身体が泥中に打ち棄てられていたのを幾度と見てきた。

 レゼ人も、ムルガル人も泥の中で死んでいた。腐乱した死体と泥と吐瀉物と火薬が混ざった臭いは、当たり前のものとして慣れてしまった。

 敵に対してはどこまでも残酷になれる――それは民族や立場が違えど共通する真理のように思えてしまった。

 私も、カンノも、他の騎士達も、殺したムルガル人の身体を解体して泥の中に投げ込んだ。

 残虐に殺すことで、相手の士気を挫く。それが理由だ。

 戦いに勝つこと。生き延びること。その理由で、死者を顧みないことが肯定され、日常化された。

 死者に対する哀悼や敬意など、持つだけの余裕すら無かった。

 ムルガル人に対しても、レゼ人に対しても、

 物資困窮する長期戦の末に奪還したレゼ人の街。民家には、焼け焦げた髑髏が転がっていた。大きな髑髏も、小さな髑髏もあった。空腹の私は黒い髑髏を踏み潰して越えて戸棚を物色し、腐りかけの食料にむしゃぶりついた。

 最初に支給された軍靴が壊れて代えがなかった。だから私は泥の中で騎士の死体を物色し、壊れていない軍靴を死体から奪って自分のものにした。

 そうしなければ、生きていけなかった。

 そうしなければ、死んでしまうことを知っていた。

 両脚を切り落とされ、両手を足代わりにして生きようと這いずり藻掻く騎士がいた。

 傷口から感染症を患い、血と泥で汚れきった床の上で仰向けになりながら、何かを呟き続ける兵士がいた。

 顎が吹き飛び、開いた口から涎を垂れ流しながら、ただ一点だけを見つめていた騎士がいた。

 結局、みんな死んでいった。

 弔ってやることもできず、ただ死体置き場として掘った泥だらけの穴の中に放り込むだけだった。

 血の色と、泥の色と、その二つが混じって濁った黒しかない戦争。

 つと、何故私はここにいるのだと立ち止まり思う。

 勘当されているとはいえど、ドレクスラー家の娘。王都防衛が任務の銀獅子騎士団所属。

 戦地から離れて、安穏に生活することができたのに、私は地獄へ赴いた。地獄だとは、知らなかった。

 だが、こんな場所だと知っていたとしても、私はきっと、出征したのかもしれないのだと思う。

 だって私は――血と泥で黒ずんだ世界でも、昂ぶるものを感じていたのだから。

 ツムギ。私の、ただ一つの色彩。

 出征を告げたあの夜、ツムギは私に「必ず、帰ってきて」と言った。

 その言葉に、私は心臓を握りしめられるほどの恍惚を覚えた。

 その時のツムギの顔、ツムギの声、抱き締めた躰の温度。柔らかさ。匂い。

 今でもはっきり思い出すことができる。思い出す度に私の胸はこの上なく昂ぶる。

 この昂ぶりは、出征することを決めたから、得ることができた。 

 そして、ツムギが私に想いを寄せていると、預けているカティの姿を見る度に私の身を日々案じてくれているのだと思うと――それが何よりも、安穏な生活を打ち棄てて戦場に来たことへ見合うだけの報酬のように思えてしまった。

 狂った結論。理解している。

 だが、それが私の真実であった。


    *

 

 本隊から進軍指令が下された。

 私の部隊が駐留している街から南方にあるムルガル軍陣地の奪取。私たち桜花第三銃撃隊は、青鹿(せいろく)山岳騎士団指揮下の三部隊と合流し、南進。同時に東から雑覇(ぞうは)騎士団本隊を中心とする混成部隊、西からはハグワナーツ騎士団旗下のハロルド隊が進軍し三方向から攻める形となる。

 主力は東西の部隊。私たちの役割は山に陣取る敵側の釣り出しと、主力部隊到達までの攪乱。

「では隊長、今回の指揮は如何いたしますかな?」

 軍議の最中、副隊長を務めるロンバルドが私に尋ねる。

 四十代半ばの、大柄な男性騎士。下士出身で俸給だけでは生活できず、出征前は飯屋の主人をしていたという。

「ええ、いつも通り、ロンバルド殿に一任するわ」

 出自はともかく、ロンバルドは戦争初年から戦い続けていた実戦経験豊富な将であった。私も一年間戦ってきてはいるが、最初から今に至るまで、戦闘の指揮はロンバルドに委任していた。

 私は所詮、家名だけで隊長に据えられた“お飾り”に過ぎない。“お飾り”は“お飾り”らしく、だ。身を弁えない行動は、戦場では悲劇しか生まないことは、この戦争が証明している。

 実際、この戦争がレゼ国にとって悲惨な状況になった要因の一つは、本来は“お飾り”たるべき人間の分を越えた振る舞いにあったのだから。

 火種は、戦争準備の段階から存在してた。

 開戦前、ムルガル国侵攻のために王政府は既存の複数騎士団を糾合し、特別編成騎士団の創設を行った。

 長らくムルガル国境の守備を行っていたキドリア地区騎士団、王立魔術大学校卒業者を中心とする精鋭魔術師団の白梟(はくきゅう)魔道騎士団、猟兵部隊を保有する青鹿山岳騎士団、勇名を誇るハロルド隊を擁するハグワナーツ騎士団等々……これら複数の騎士団により構成される“桜花(おうか)討伐騎士団”。戦意高揚のため、レゼ国花を冠する栄誉ある名を与えられた大騎士団。

 当初、その桜花討伐騎士団のトップである総裁職にはレゼ騎士団全軍総裁のジューコフ将軍が就任し、副総裁にはエイリス地区騎士団総裁のエーリッヒ・フォン・リスト卿が就任する予定であった。

 しかし、編制途上でジューコフ将軍が大病を患ったため従軍不可となり、その代わりとして桜花討伐騎士団の総裁に就任することとなったのが、クリスト・ロットラッファー卿。ロットラッファー家は現王妃の一族である外戚。王妃の弟である若き当主クリスト・ロットラッファー卿は数度山賊討伐の指揮官になっただけの、実戦経験ほぼ皆無の男であった。

 それ故に多くの将兵達はロットラッファー卿はあくまでも“お飾り”であり、実際の総指揮は大陸統一戦役ではかの“グ”帝国のベッカリーア無領公と轡を並べて戦った“英雄”リスト卿が行うと認識していたが――その認識は誤りであった。

 ロットラッファー卿は、レゼ=ムルガル戦争で軍功を挙げる野心を抱いていた。

 レゼ騎士団では、全軍総裁であるジューコフ将軍を初めとして、カーター卿、ゲルラッハ卿、インガルデン卿らレゼ国が“グ”帝国の領邦化した後に、帝国将として大陸統一戦役で戦果を挙げた“英雄”と呼ばれる老騎士達の発言力が非常に強かった。

 “英雄”の権威はリスト卿やフーヴァー卿ら地区騎士団の総裁職であっても中央の騎士団政策に一定の影響力を行使できるほどであった。亡くなった私の祖父も“英雄”と呼ばれる統一戦役従軍者のひとりであり、ドレクスラー家が権威高き名門とされる所以となっている。

 その状況下でロットラッファー卿は、統一戦後世代の騎士達を中心とした反“英雄”派閥を作り、彼ら“英雄”たる老騎士たちに対抗しようとしていた。若年派閥を通して、外戚一党の騎士団政策への影響力を増大させるために。

 “英雄”たちの権勢の根拠が大陸統一戦役の軍功である。そのため、未だに強い発言力と権威を持つ老人たちを押しのけて、若年世代の影響力を高めようとするロットラッファー卿はこのレゼ=ムルガル戦争において“英雄”たちと同等の軍功を欲しており、その政治的野心が悲劇の下敷きとなった。

 リスト卿は“英雄”の一人であると言えど、現王の寵愛を受ける王妃の弟であるロットラッファー卿は無碍にできない存在であった。

 自身の政治的地位を十分理解しているロットラッファー卿は、リスト卿の実利的な進言を却下したり、リスト卿の下した命令や作戦に討伐騎士団総裁の地位を利用して介入したり翻したりするなどして、自身の功績を作ろうとしていた。

 ロットラッファー卿とリスト卿の対立は桜花討伐騎士団幹部に“英雄”派と反“英雄”派の混在も相まって、首脳部の足並みを乱し、指揮系統は攪拌し、現場に大小様々な混乱をもたらすこととなり――戦争から三年目である今になっても、ロットラッファー卿とリスト卿の対立関係が続いている。

「敵方の編制に情報はあるかね」

 軍医のチェンバレンが甲高い声で尋ねる。長い顔に口髭を蓄えた五十絡みの男性騎士。

「はい。本隊からの情報によりますと、銃騎兵と軽歩兵中心の構成、規模は南進部隊と同等と見込まれています」

 カンノの報告を受けて、ロンバルドが唸るように呟いた。

「ふぅむ、規模は我らの部隊に増援を加えたものと同等か。東西からの主力を加えればこちらが圧倒的に多数ではありますが……敵はムルガル。侮れませぬな、隊長」

「ええ」

 ロンバルドの言葉を短く首肯する。

 当初は早期にレゼの勝利で終わるであろうと思われていた戦争も、今年で三年目となる。

 現在の戦地ではムルガル軍は油断ならぬ強敵と認識されているが、開戦当初は弱兵として侮られており、その侮りもまた、戦争初期の段階でレゼ国に致命傷を与える要因となっていた。

 ムルガル国は騎馬民族国家であり、騎射の伝統が存在する。ムルガル正規軍は騎射を得意とする騎兵部隊を中心としており、また、度々ホーシュベルン関を攻撃するムルガルの匪賊も騎射での攻撃を行っていた。

 レゼ=ムルガル戦争が勃発するより以前から、キドリア地区騎士団はムルガル匪賊との小競り合いを行っていたが、ほぼキドリア地区騎士団が一方的に打ち負かしていた。

 その要員は、レゼ国の魔法技術に依る部分が大きくあった。

 レゼの騎士団制服には防御魔術が織り込まれている。魔術繊維製の騎士団制服はムルガルの矢を通すことのない強靱なものであり、また、騎射による遠距離攻撃にもレゼ側は魔術を以て弓矢よりも長い射程から対抗することができた。魔術的な素養のないムルガル人はレゼ側に防御面でも攻撃面でも対抗する術を持たず、常にキドリア地区騎士団はムルガル匪賊を容易に討ち取ってきた。

 魔術を知らぬ野蛮で蒙昧なムルガル人は、レゼ人の敵ではない。そんなムルガル人への見下しが、自民族中心主義(エスノセントリズム)的な気風を持つレゼ国に通底しており――その驕りが、開戦直後に多くの死を引き起こすこととなった。

 戦争初年、斥候より報告がされたホーシュベルン関近くに布陣していたムルガル軍の編制は、伝統的な弓騎兵部隊。常にキドリア地区騎士団に撃退されていた匪賊と大差ない兵士達で構成された軍。

 ムルガル軍の編制を知ったレゼ軍側は勝利を確信し、先鋒として対ムルガル人に長けたキドリア地区騎士団が出陣、初戦では想像通り弓騎兵部隊を容易に敗走させることができた。

 キドリア地区騎士団は勝利の勢いに乗じて敗走するムルガル軍への追撃を行ったのであるが――追撃した(誘い込まれた)先で騎士達が見たのは、弓矢ではなく銃を構えるムルガル人の伏兵部隊だった。

 ムルガルは既にクロン市とサタク銀貿易を密かに行っており、クロン製の最新式の銃を軍に配備していたのだった。

 ムルガル軍は旧来の弓騎兵と誤認させ、伏兵にしていた銃兵による一斉射撃。レゼ側はムルガル策に嵌められた。そして、最新鋭銃器を持ったムルガル兵たちは、レゼ国の将兵を血祭りに上げた。矢を通すことの無かった防御魔術が織り込まれた騎士団制服は、容易に銃弾を貫通させ、騎士達の身体を貫き、殺し、キドリア地区騎士団は壊滅した。

 先行部隊壊滅の報せを受けた首脳部は混乱し、そして対立が発生した。

 数少ない生還者は重体または錯乱状態であったため、ムルガル軍が銃器で武装していることが正確に伝わらなかったこともあり、リスト卿はホーシュベルン関の防備を固め、ムルガル軍の装備の見極め及び派遣要請を行った牙兵(がへい)の到着するまでは防戦をすべしと提言。

 しかし、ロットラッファー卿はこれを拒否。たかがムルガル如きと切り捨て、壊滅したのは地区騎士団が惰弱だからと誹り、精鋭である白梟魔道騎士団の出陣命令を下した。対ムルガル人戦に慣れていたキドリア地区騎士団の壊滅を重んじ、敵方の兵力や武装を見極められていない現段階では徒に戦力を減らすことになるというリスト卿の反対を押し切って。

 その結果は、惨憺たるものであった。

 白梟魔道騎士団が相手取ったのは、ムルガル銃騎兵団。高機動の騎兵隊による攻撃魔術の射程外からの射撃。最新技術により射出された銃弾は、キドリア地区騎士団の物よりも遥かに高度な防御魔術が織り込まれた騎士団制服ですら容易く貫通し、王立魔術大学校卒業者中心で構成されるエリート部隊は数瞬にして屍の山と化した。

 そして、白梟魔道騎士団の壊滅の報せは桜花討伐騎士団を恐慌状態に陥れた。

 銃騎兵団を中心とするムルガル軍により、首脳陣の対立と恐慌で指揮が乱れきったレゼ騎士団は散々に打ち破られ、ホーシュベルン関は陥落。守将を務めていたイザシュワ地区騎士団総裁のフーヴァー卿も戦死。更にフーヴァー卿の遺体はムルガル兵により四肢と首が切り離された後に、関門に串刺しに掛けられ辱めを受けた。

 かつての“英雄”が無残に殺され、その遺体が慰み者にされる。この光景が、レゼ国側の士気を更に激減させたのは言うまでもないだろう。

 ホーシュベルン関を突破されてからは、ムルガルのキドリア地区蹂躙が始まり、一時期はキドリア地区最北のシヨウ関に迫るまでの攻勢が繰り広げられていた。

「それと、敵陣には牙兵の存在は確認されていないそうです」

 報告を続けるカンノの口から出た牙兵という言葉を受け、ロンバルドもチェンバレンも反射的に顔を強ばらせた。

 牙兵。大陸を支配する“グ”帝国が持つ最大軍事力。領邦間戦争において、高額の報酬と引き替えに帝国より派遣される、文字通り一騎当千の勇者たち。

 この戦争においてもレゼは牙兵の派遣を開戦前より依頼していたが、到着したのはホーシュベルン関陥落後であった。牙兵を以て、占領地及びホーシュベルン関の奪還、そしてムルガル領への侵攻を目指し反撃を開始する。

 しかし、そのレゼの目論見はムルガル側の牙兵によって破綻した。

 ムルガル軍に派遣された、黒い甲冑の牙兵。たった一人の黒騎士により、レゼ軍の進軍は停止した。

 双方の牙兵同士の戦いにより戦線は膠着したが、その熾烈な争いは将兵の多くを巻き込み、エイリス地区の極東系レゼ人部隊を初めとした戦死者を出し続け、レゼ軍を疲弊させていった。

 そして、最終的にはムルガルの黒騎士がレゼの牙兵を討ち取ったことにより戦線は瓦解。黒騎士の武力と牙兵撃破で勢い付いたムルガル軍によりレゼ軍は後退を続けていき、キドリア地区最北のシヨウ関近くまで侵攻を許すこととなった。

 シヨウ関を抜けると広大な平原地帯。高機動のムルガル騎兵軍であれば、王都メキオまで容易に攻め込まれるであろう――大きな危機感を抱いた王政府は、“グ”帝国に二人目の牙兵の派遣依頼を決断した。

 牙兵は一人派遣するだけでも多額の資金を要する。二人目の派遣依頼を行うのであれば、その資金は市民への多大な戦時増税や強制徴収が存在しているのは想像に難くない――尤も、戦地から離れた王都で安穏と暮らしていた人間は、レゼの牙兵が討ち取られ二人目が派遣されていたことや、シヨウ関までの侵攻があったという情報は王政府に統制させていたが故に知らなかったのであるが。

「牙兵の所在は未だに掴めないとのことですが、他のムルガル陣地からの出陣も見受けられないと報告されています。今回の戦いでも、牙兵が介入してくることはないと、本隊は判断しているようです」

「うむ。となると、未だに敵の牙兵の傷は癒えぬようだな。重畳重畳」

 牙兵に関するカンノの報告を聞き、チェンバレンが安堵するような笑みを見せた。

 多額の派遣費用を捻出した甲斐もあり、二人目の牙兵が派遣されて以降、戦況は好転することとなる。

 二人目に派遣された牙兵は、かなりの手練れであった。

 赤黒い斑模様のコートに奇妙な槍を携えた女。シヨウ関の絶対死守を命じられた女槍術士は、到着早々に関に迫るムルガル兵達を容易に殺し尽くし、更にムルガル側が切り札として出陣させた黒騎士を撃退するという戦果を上げた。

 討ち取ることは叶わなかったものの、最初に派遣された牙兵を討ち取り、数多くのレゼ国騎士達を屠った黒騎士に重傷を負わせて戦闘不能に追い込んだ事実は、レゼ国の将兵の士気を多いに高めることとなった。

 この黒騎士撃退が、レゼ国の反撃の端緒。

 二人目の牙兵である女槍術士自体は、自分の依頼はシヨウ関の守備だけでそれ以外をする筋合いはないと称して、以降の戦闘には一切参加していなかったものの、レゼ軍の恐怖の象徴たる黒騎士が戦場に出なくなったという事実は騎士団を勇気づけた。

 山地が多いというキドリア地区の地の理はムルガルの主力である騎兵隊の機動力を落とし、前年、今年と続いた多量の降雨は疫病を発生させ、駐留していたムルガル軍に仇を為した。

 更に、レゼ王室が長らく帰依していたリズレア教会聖女派の支援を取り付けることに成功し、聖女庁領から出陣した教会騎士団がムルガル領南東を攻撃して兵力を削いでいった。

 そういったムルガル側の負の要因も相まって、青鹿山岳騎士団のファンファーニ部隊によるゲリラ戦やハグワナーツ騎士団の勇将ハロルドの進撃、更にリスト卿自らが騎士団を率いて前線に赴き将兵を鼓舞したことでレゼ軍は持ち直していき、徐々にムルガルから占領地の奪還が進んでいった。

 それでも決して、レゼは優勢ではない。仮に優勢であったとしても、戦いを決して楽観視はしない。

 例えば、今回の作戦ではレゼ側の兵力がムルガル側よりも圧倒的に多く、勝算は極めて高いだろう。だが、その勝算の高さは私自身の確実な生還とは決してイコールとはならない。

 成功した作戦。勝つことができた戦い。その結果を得る為に死んだ味方が多く存在しているのを私は知っている。

 だから私はどのような戦いでも絶対に油断することはなく、勝利することよりも生き延びることだけを考えていた。

 必ず、帰ってきて。その言葉を、ツムギは私に贈ってくれたのだから。

 

    *


 軍議後。夜。

 小腹が空いてきたので私は昼にくすねてきたビスケットを持ち、食堂として利用している部屋へと向かう。

 室内に入ると先客がいた。

 ロンバルドとカンノ。二人はテーブルに向かい合って座っており、ロンバルドは手に写真を持ち、カンノは呆れたような笑顔をしていた。

「おや、隊長ではないですか……むむっ、また糧食をくすねてきたのですか?」

「そういうロンバルド殿も、また家族の写真を?」

 手にビスケットの箱を持つ私を見咎めたロンバルドに少しばかりの皮肉を交えて返しながら、私はカンノの隣に座る。

「そうなんですよ、隊長ー。また副隊長殿、写真見せながら家族の話を聞かせるんですよー」

「むぅ……」

 うんざりするように言うカンノに、ロンバルドはしょんぼりとした反応を見せる。

「戦争なんてさっさと終わらせて、早く家族の元へ戻れるといいわね」

「そうですな、隊長。そのために私はこの場所にいるのですから」

 写真に目を遣りながら、ロンバルドは力強く言った。ロンバルドとその妻と一人娘が写る、幾度も見せられた家族写真。写真の中のロンバルドは、目の前にいる彼よりもふくよかな体型だった。

 ロンバルドの出身はキドリア地区の北隣であるローベ地区。ムルガルにシヨウ関を抜かれたら、真っ先に蹂躙を受ける土地。それ故にロンバルドは、この戦争には家族を守る為という並々ならぬ決意で臨んでいた。彼が常に家族写真を持ち、カンノがうんざりするほど家族の話をするのも、戦わねばならない自分を奮い立たせる意味があるのだろう。

「あたしも早く帰りたいなー。隊長もそう思いますよね?」

「ええ。一刻も早くこんな所からおさらばしたいって心から思うわ」

「あはは、やっぱり」

 顔こそ笑顔であったが、カンノの笑い声には軽さが一切無かった。

「死にたくないのは当然ですが、死ぬとしてもこんな泥だらけの場所なんて嫌ですからね。だから、次の作戦もしっかりと生き延びましょう。ね、隊長、副隊長」

 出征して一年、私もカンノも惨めな死を多く見てきた。

 あんな死に方はしたくない。自分が死ななくてよかった。隣にいた人間が死んだ時、哀切よりも自分が生き延びたことへの安堵が先立ってしまう。

「そうね。まあ、仮に死んだとしても、私が遺骨だけは持って帰ってあげるから安心していいわよ?」

「えー! それはひどくないですか、隊長!」

 子供のようにふざけながらカンノは私の身体を揺すり、私たちの姿を見ながらロンバルドが目を細めて笑った。

「隊長、流石にブラックジョークに過ぎますなぁ。はっはっは!」

 賑やかな笑い声が、夜の食堂を色付かせた。


    *


 叩きつけるような雨が降っていた。屋根に落ちた雨粒が、絶え間なく音を立て続けていた。

 雨音に混じり、この部屋には呻き声が満ちていた。

 ムルガル軍から奪取した陣地の砦。負傷者達が蠢く一室。部屋には泥と血に濡れた不衛生な簡易病床が幾つも並び、その上で呻き悶える人間は見慣れた顔が殆どであった。

 決行された作戦自体は、端的に言えば成功という他無いものであった。ムルガル陣地の奪取。東西主力部隊の損害は微少。

 だが、主力部隊到着前に交戦を開始していた、桜花第三銃撃隊を含む南進部隊は多くの被害を出していた。

「あぁ、リタ……エリ、ザ……」

 病床の一つには血塗れになったロンバルドが寝かされていた。虚ろな目で天井を眺めながら誰かの名前を呟き続けていた。きっと、妻と娘なのだろう。

 ロンバルドは戦闘の最中、銃で胸と腹、左脚を撃たれた。左脚は切り離す他無く、更に傷口から某かの病気に感染したようで、既に正気を失っているようだった。

「……ロンバルド殿は、もう駄目かもしれん」

 ロンバルドの左脚の傷口付近を這う蛆虫を除去しながら、チェンバレンが呟く。

 チェンバレン自身も先の戦闘で右眼を失っており、頭の半分を包帯で覆っている。それでも彼は軍医としての務めを果たそうとしていた。

「しかし、ここでちゃんと看取ってやることができるだけでも、救いかもしれんな……」

 そうチェンバレンが嘆くように言った。

 実際、カンノは看取ることすらできなかったのだから。

 土砂降りの雨の山道を行軍中、ムルガル側の斥候と遭遇し交戦。その最中で、カンノは胸に銃弾を受けて泥の中に倒れ、動かなくなった。

 目前の敵は撃破できたが、動けなくなったカンノを運ぶことは作戦に支障をきたす。彼女は、この場に遺棄せざるを得ない。

 だから、せめて遺骨だけは持って帰ってやるのだとチェンバレンの進言を受けて、私はその場でカンノの右手の小指を切り落とした。

 遺骨を作るためにカンノの手を取った時、彼女はまだ生きていることに気付いた。だが、チェンバレンは、もう助からないと断じた。

 だから私は、カンノの指だけを切り落として、彼女を置き去りにした。

 雨でぬかるんだ地面に倒れ、泥と血と涙でぐちゃぐちゃになったカンノ。それが私が見た、カンノの最後の顔だった。

 いたい。いやだ。しにたくない。あたしを、おいていかないで。それが私の聞いた、カンノの最後の声だった。

 泥土と豪雨の中に置き去りにされたカンノは、もう生きてはいないだろう。看取ることはできなかった。

 そして、その遺骨も乱戦の中で失われた。きっと、カンノの家族の元に届くのは戦死公報の紙切れ一枚と、遺骨代わりにキドリア地区の石ころが一つだけ入った箱だろう。

 カンノという人間はこの地獄では何も残らず、死を顧みられることも無く、看取られることもなく、消失してしまった。

 この地獄であっても、自分の身体がボロボロになっても、明るく努めようとしていた彼女が永遠に失われてしまったことに、僅かばかりの哀切はあった。だが、それ以上に自分が生きていることへの安堵感があった。

 私は死ねない。死ぬ訳にはいかないのだから。

 生きて帰って、私はツムギと――

「――――」

 ツムギとの再会に想いを巡らせる中、私は心臓が握りつぶされるような、冷たい衝撃を受け、私の身体は凍り付いたように動けなくなる。視界が、一点に固定される。

 負傷者の様子を見に来たのであろう、東進部隊を担った雑覇騎士団の幹部たち。その中の一人が、私の知っている人間だった。

 忘れられるはずがない顔だった。忘れることなどできない顔だった。

 存在を認めたくない人間だった。できる限り思い出すことがないように努めていた人間だった。

 黒髪に黒い瞳の、極東系の容姿。戦地でもなお高等騎士学校時代に顔を見た時と変わらず、穏やかで柔和な印象を与える優男。

 ヒデオミ・ヤマノイ。

 ツムギの夫が、そこにいた。

 ツムギを私から奪い、そして、ツムギを置いて戦地へ赴いた男が、私の視界に存在していた。


    *


 奪還陣地で合流した騎士達から聞いた話では、ヤマノイは雑覇騎士団で一部隊の長に任じられているという。

 優れた作戦立案能力で戦果を挙げている優秀な指揮官。同胞への慈悲と国家への忠義を持つ騎士の鑑。そんな評価が、雑覇騎士団内でされていた。

 雑覇騎士団は戦中に壊滅した騎士団や志願兵を糾合して創設された、複数地区の出身者が同居する騎士団とはいえど、極東系であるヤマノイのことを不当に貶める者がなく高い評価を得ているのは、彼の有能さと人徳を端的に示しているように思えた。

 騎士の鑑。騎士達がヤマノイを評する時に最も多く聞かされた言葉。

 その言葉を聞く度に、私は一年前の銀獅子騎士団軍営での出来事を思い出す。ヤマノイが妻と子を置いて戦地へ発ったことを話題にする騎士の会話。

 私からツムギを奪って、抱いて、子を産ませ、そして、そのツムギを放り出して出征した男。

 あの時の、沸々と、黒く濁った情動が甦っていく。この薄暗く、粘り着くような不快感を、直接ぶつけたくて堪らなくなってしまった。

 だから私は、その夜に砦でヤマノイが私室としている部屋を尋ねた。夜になっても雨は未だに強く降り続け、砦の屋根を叩く。

 許可を得て、入室する。先ほど見た時とは異なり、ヤマノイは眼鏡を掛けていた。

 所属と名前を告げると、ヤマノイは何かに思い当たったような表情を見せて言った。

「もしや、君が……?」

 ヤマノイの反応に、私も少しばかりの驚きがあった。

 ツムギは私の話をヤマノイにしていた。かつての恋人で、夜には躰を重ね続けていた相手のことを、夫に話していた。

 私は自ら、ツムギとは中央女子高等騎士学校の同期であったことを告げる。

「うん、ツムギから話は何度も聞かされているよ。まさかツムギの親友と戦場で会うだなんて」

 ヤマノイの穏やかな反応と“親友”という言葉に、ツムギが彼に私をどのように言っていたのか察しがついた。

 当然のことである。かつての恋人であり、歪な行いをしていたなど、話すはずがない。

 それでも、ツムギが私のことを“親友”だと誰かに言っていたことを思うと、胸にささくれ立つものを覚える。

「もしかして、僕の所を訪れたのは、ツムギの話をするためにかい?」

 首肯する。そして、尋ねる。

 何故、ツムギと、ツムギの娘を置いて、出征をしたのか。その口調は抑えきれるはずもなく、非難めいたものになっていた。

 私の言葉を受けて、ヤマノイは少し沈黙した後に口を開く。

「……国難に際して、剣を持って戦場に赴くのは、騎士として当然の義だ。実際に、戦地では多くの騎士達が戦っている。同じ騎士として、僕が王都で安穏に過ごしている訳にはいかない。そう思ったんだよ。家格なんか関係無い。祖国の戦いに馳せ参じる。それが騎士だ」

 ヤマノイの言っていることは間違っていない。何ひとつ間違っていない。

 正論に過ぎる。正論に過ぎるからこそ、特権的地位に甘んじて堕落した王都の騎士達には奇異に語られる。そして、戦地にいる将兵からは騎士の鑑と讃えられる。

「それに……極東民族はレゼ国内では厳しい立場にあることは、君も知っているだろう?」

 極東系レゼ人に対する蔑視感情の存在は、王都に住んでいた私にとっては馴染み深いものであった。

 実際に、ツムギも極東系という理由で高等騎士学校時代には嫌がらせを受けていた時期があった。ツムギが主犯格を決闘で打ち倒したことで嫌がらせ自体は止まったが、それでも最後まで私以外の級友とツムギとの間には壁があるように感じていた。

「ヤマノイ家は、極東武門では最も名の知られた家系だ。この戦いで、極東武門のヤマノイ家の者として戦果を上げることで、少しでも極東民族に対する待遇を良くすることに繋げたいんだ。ヤマノイ家の祖がティルベリア遠征で功績を立てたことで、極東民族が騎士階級を手に入れた時のように」

 やはり、ヤマノイの言っていることは正しかった。

 苦境に立たされている自民族のために戦う。それは一つの正義だ。その正義を、私は否定することはできない。

 だけど――私はツムギよりも、騎士の忠義や民族のための正義を選んだヤマノイのことを、理解も、同意も、許容もできなかった。

「……ツムギは騎士の娘であり、騎士の妻だ。騎士の本分は戦いにある。戦争が起きれば、家族が戦地へ行くのは騎士としては当然のこと。その覚悟は、ツムギにだってできているはずだよ」

 その言葉を聞いて、私の胸の内にあった黒ずんだ濁流が沸騰し、爆発した。

 自由になりたい。騎士の家に縛られず、騎士としての生き方に縛られず、自由になりたい。

 幸せだった頃、ベッドでツムギを抱いた後に幾度となく聞かされたツムギの願い。

 ヤマノイと結婚して、ダイゼン家から出ていけばきっと自由になれると、ツムギは私に言った。

 だけど、ツムギは結局、自由になれなかった。

 ヤマノイは間違い無く騎士で、ツムギは未だに騎士の家に、騎士の生き方に縛られている。

 出征する前に会った時、ツムギが私の生き方を羨んでいるような素振りを見せていたことを思い出す。

 ツムギは未だに、自由への憧れを抱いている。きっと、自由になることを今も望んでいる。

 だから、私が――

「僕だってツムギやイトには負い目がある。それでも、騎士として、極東民族として、戦うと決めたんだ」

 ヤマノイもツムギと娘を置き去りにしたことに自責の念があるようで、それを隠すように私に背を向けて窓の外に顔を向けながら言った。ヤマノイの言葉には、自分自身に言い聞かせているような含みがあった。

 そんなことは、もはやどうでもよかった。

 許せなかった。ツムギの願いを叶えようともしないこの男が許せなかった。

 だから、私が――ツムギの願いを叶えてあげないと。

 ツムギを自由にしてあげないと。

 だって、私は、ツムギに必ず帰ってきてほしいと言われたのだから。私はツムギに必要とされているのだから。

「――な……!? ぐっ? な、何を……」

 ヤマノイが驚愕したように呻き声を上げた。

 接近戦用に支給されていた短刀を、私はヤマノイの背中から心臓に目がけて突き立てていた。 

「く、ぐっ……やめ……っ! んぐっ……んんっ!!」

 振り返ったヤマノイの口を即座に塞ぎ、もう一本短刀を取り出して、今度は腹に刃を抉るようにねじ込む。

「……っ! がっ――」

 数度短刀の柄を捻って奧に突き刺していくと、ヤマノイは白目を剥いて、力が抜けたようにどさりと倒れ込んだ。

 腹と背には短刀が突き刺さったまま、床に血が広まっていく。私の手と、騎士団制服も血塗れになっていた。

「………………」

 暫くの間、私は茫然と立ち尽くす他無かった。

 胸をかきむしるような、黒く狂おしい情動は消失していた。

 そして、達成感が一瞬だけ過ぎり、後は虚無感だけが続いていった。

「ツムギ、私は……」

 ヤマノイの死体を見下ろす私の脳内は、徐々に、徐々に真っ黒になっていった。

 殺した。殺した。私が殺した。この手で殺した。ツムギの夫を殺した。ツムギを私から奪った男を、殺した。

 そんな言葉で埋め尽くされていた。そして。

 ツムギの為に殺した。ツムギを奪い返した。ツムギを自由にしてあげられた。ツムギの願いを叶えられた。

 そんな言葉で、塗りつぶされ、覆い隠されていった。

 そうだ。私は、ツムギの願いを叶えてあげられたのだから。

 だから、きっと、ツムギは――私の帰りを待っている。


    *


 そして私は、ただ一人、砦から出奔した。

 ヤマノイを殺したことがわかれば、私は即座に処刑されるだろう。

 まだ死ねない。死ぬ訳にはいかない。

 ツムギが私の帰りを待っているのだから。

 だから私は、逃げ出した。

 激しく降る雨の夜を、ただ一人、北へと走り続けた。


(続)

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