無名の贄子
朽ちかけた公会堂の二階から見える景色は、雨と、荒廃した町並みと、遠く南に見える山地だった。
レゼ国最南方キドリア地区。レゼ=ムルガル戦争の最前線。
盆地であるキドリア地区は本来であれば雨が少ない土地であるが、去年と今年は雨の降る日が殊に多いという。
キドリア地区に出征してからずっと、私は雨にぬかるんだ戦場で泥に塗れてきた。
一年間ずっと、私はこの最前線であるキドリア地区で泥に塗れてきた。
出征して戦地の実際を知る前の私にとっては信じがたい話であろう。
私は、私たちはずっと、騎士団はムルガル領で戦っているのだと思っていたのだから。
レゼ国の騎士団がムルガル領で戦うどころか、戦争初年の段階で既に“レゼの南門”と称される堅牢なホーシュベルン関が突破され、キドリア地区が主戦場となっているなどとは、想像だにしていなかったのだから。
戦地に来て初めて知ることが余りにも多く、王政府の情報操作能力にはただただ呆れるしかない。
私は溜息を付き、窓から離れて古びた椅子に座る。
ぎしりとした嫌な音を耳に、椅子に背を預けて目を閉じる。
様々な顔が浮かんだ。
部下の顔。上官の顔。市民達の顔。ムルガル人の顔。
男の顔。女の顔。老人の顔。子供の顔。
みんな、死んでいた。
多くの死が、そこにあった。
敵が殺した。味方が殺した。私が殺した。
目の前で死んでいった。気付いた時には死んでいた。死んだことを他人から聞かされた。
全ての顔が、泥と血で、赤黒くなっていた。
灰色だけしかなかった私の世界は、赤と黒と、その二つが混じった色ばかりの世界になっていた。
その世界の中で、赤でも黒でも灰色でもない、色彩があった。
ツムギ。
一年前、私が出征する前に再会したツムギ。
もう一度だけ、ツムギに会いたい。
生きて、戻って、ツムギに会いたい。
だってツムギは、私に戻ってきてほしいと言ってくれたのだから。
その言葉を得るために、私は名前もない子供まで買ってしまったのだから。
*
王都の南端には、公的には存在していない街がある。
地図上では空白地とされているが、実際にはそこには崩れかけた家が建ち並び、人間が住んでいる。
“無登録街”。そんな通称が、そこには名付けられていた。その通称が示す通り、無登録街の住人達は国民登録を行っていない者達である。
レゼ国では、出生と同時に所在地区の政庁に出生児の国民登録を行うよう法により定められている。国民登録することにより法の下の保護を受けられると同時に、徴税対象となる。また、騎士や貴族であれば国民登録により俸給対象として認められる。
出生児の国民登録を行わない場合、両親乃至それに類する立場にある者に対する罰則規定は設けられているが、単純に人頭税だけが増える平民階層や、子供を国民登録することで得られる俸禄より徴税額の方が多い下級の騎士階級では生活苦から登録前の赤ん坊を殺す、または貧民窟への遺棄が密やかに行われているという。
後者の捨てられた子供達を“無登録民”と呼び、彼らの住む貧民窟の一角が無登録街と称されている。
貧民窟の存在すら明示する国定地図からも抹消された空白地。政庁の統治が及ばず、犯罪組織の根城となる無法の街。
無登録街と呼ばれる場所は国内各地に存在するが、王都の南端が最も“著名”な無登録街であり、世人が“無登録街”と特段の注記無く口にする場合王都の南端を専ら指すという。
無登録民は、レゼ国においては公的には存在していない人間。法の保護は無く、一切の人権は元よりその存在すらも否認されている故に、彼らに如何に非人道的な扱いをしようとも国内法上は処罰を受けることはない。
そのため無登録民には特殊な需要が存在していた。“グ”帝国により領邦各国に禁止令が出されている私娼や奴隷としての需要。無登録民の人身売買は犯罪組織の収入限となり、また、公的に存在しない人間であるが故に、犯罪組織の構成員の供給源にもなっていた。
特に王都に住む上士や貴族の中には、無登録民の奴隷を抱えている者は多くいるという。王都の無登録街が最も国内で大きく“著名”であることが、レゼ国上層の無登録民需要の大きさを示唆している。
それ故にレゼ国の上流階級は、無登録民をある種の必要悪と嘯いて看過してきた。人間として扱われない無登録民や、無登録民を利用する犯罪組織の被害に遭う一般民衆など顧みることがないからこそ言える必要悪。
無登録民需要はレゼ国内だけでなく国外からもあり、無登録街は人身売買を行う他国の犯罪組織も出入りしているという。
私が“娘”を買った相手も、国外に本拠がある組織の人間だった。
注文したのは一歳くらいの子供。注文して五日ほど経った夜に、無登録街の人身売買業者事務所で私は一人の赤ん坊を引き取った。
薄墨を挿したようにくすんだ銀色の髪をした女の子。注文に際しては年齢と、ある程度は私の子供として通用するような似たような髪色であること以外の条件を付さなかったため、出自は知らない。平民の子か、騎士の子か、もしかしたら生まれがレゼ国ではないのかもしれないが、どうでもいい話である。
いずれにしろ、私は“子供”自体に一切の興味を持っていなかった。
その時の私の関心は、ツムギだった。
この子をツムギに会わせた時、ツムギは果たしてどんな顔をするのだろうか。どんな感情を抱くのだろうか。
知りたくなったのだ。
あの日、私はツムギが子供を産んだことを知って、胸に煮えたぎるような不快感を覚えた。
熱く、黒々と濁った感情。
ツムギが私以外の誰かに抱かれているという、私がずっと目を逸らし続けていたことをこの上なく突き付けられた悪感情。
狂おしいほどの嫉妬と、独占欲。
それをツムギが、私と同じように抱いてくれるのだろうか。
ツムギが、私にも子供がいることを、ツムギ以外に誰にも触らせなかった私の躰が別の誰かに抱かれていることを思って、身を焦がすような嫉妬を覚えてくれるのだろうか。
私がツムギに執着するように、ツムギが私に執着してくれるのだろうか。
私がツムギに対して抱いているように、彼女が私に対して濁りきった情動を抱いてくれるのだろうか。
ただそれを知りたかったがために、私は人買いに手を染めた。
赤ん坊一人の値段は、思った以上に安かった。
*
赤ん坊には「カティ」と名付けた。
人身売買業者からこの子を引き取って、集合住宅の自室に戻った時に目についたテーブルの上に放りだしていた芝居のパンフレット。そこに載っていた名前を、赤ん坊の名前にした。
見たこと無い芝居であったため、役者の名前か役の名前かすら、覚えていない。
“娘”と初めて過ごす夜は、怖ろしく静かだった。赤ん坊は夜泣きするものだという思い込みがあった私にとっては、静かに眠り続けるカティは意外に思えた。それが私が唯一、カティに向けた関心だったのかもしれない。
次の日、私は集合住宅の隣人に幾ばくかの金を渡してカティを預からせた後、政庁に赴いた。
カティの国民登録を行うため。一年前に生まれた私の子供として。
担当官に賄賂を支払ってカティの国民登録を行わせると同時に、父親は戦死した縁者のいない騎士ということに記録の改竄も行わせた。
購入した無登録民を奴隷として手元に留めておく騎士や貴族は何人いるかは知らないが、無登録民である購入者のメリットを捨てて我が子として国民登録を行う者など、おそらくは私くらいであろう
権威高きドレクスラー家の出身であり、栄誉しかない銀獅子騎士団に所属している人間だからこそできた荒技。国民登録改竄にかかる賄賂は、カティの値段よりも上だった。
そして私はその足で銀獅子騎士団軍営へ赴き――出征志願を行った。
レゼ=ムルガル戦争への出征。
その日は珍しく酒を飲んでいないグラント卿は意外そうな顔をしていたが、あっさり出征願いの承認を出してくれた。
出征志願が通った私には、奇妙な満足感を抱いていた。
これで私も、ヤマノイと同じ立場になれた。ツムギを置いて戦地へ赴いた、ヤマノイと同じ立場に。
ツムギとヤマノイの夫婦仲は、良好だったという。おそらく、ツムギは日々、戦地にいる夫の身を案じているのだろう。夫のことを想わない日はないであろう。
そんな想像するだけで、燃えさかる嫉妬が私の中で渦を巻く。
羨ましい。妬ましい。憎らしい。
だから私は、ヤマノイの立場と同じになろうとしていた。
同じ立場になれば、きっとツムギは私のことを日々案じてくれるだろう。
同じ立場になれば、きっとツムギは私のことを想わない日はなくなるであろう。
私たちは、愛し合ってきたのだから。私とツムギは、唯一の恋人として同じ時を刻み、躰を重ね、心を通わせてきたのだから。
ツムギと愛し合ったのは、ヤマノイよりも私の方が先なのだから。
後から来て私からツムギを奪った男に、負けたくなかった。対抗したかった。同じように想われたかった。ツムギの心を私に向けさせて、彼女を取り戻したかった――だから私は、出征を志願した。
今にして思えば、狂った選択以外の何ものでもない。だけれども、それが私の全てだった。
子供を買ったのも。政庁の役人を買収して記録改竄を行わせたのも。出征志願をしたのも。
全てはツムギの感情を私に向けさせたいという願いによるものだった。
愚劣に過ぎる。
わかりきっている。
だが、その欲望が私を突き動かしていた。
*
ヤマノイ邸に到着したのは夜になってからだった。夕刻に家を出る頃に雨が降りだし、今も続いている。
ツムギと会う約束は、既に取り付けていた。
大切な話をしたいから、会いたい。
カティを買うより前からそう手紙に書いて、ツムギとの面会を取り付けた。
――突然手紙をもらって驚いたけど嬉しい。ずっと会えずに寂しかった。わたしもレーナに会いたい。いつでも来てほしい。
ツムギからの返事は、私の心をくすぐる言葉ばかりであった。
幾度か手紙を遣り取りする中で、“娘”の購入と国民登録、出征志願を行っていき、今日この日にヤマノイ邸を訪れる約束をしていた。
ヤマノイ邸に着いた後、使用人の案内で客間に通された私は、雨の音を聴きながらツムギを待っていた。
極東造りの客間。高等騎士学校時代、同室のツムギが極東民具を持ち込んでいたが故に、部屋の調度に懐かしさを覚える。
連れてきたカティはぐっすりと眠っていた。ツムギと会う直前までずっと隣人に金を払い預からせていたことも相まって、カティが起きている所は記憶に残っていない。
つと、雨音に混じって部屋の外から小走りするような足音が聞こえた。
私のいる部屋の前で足音が止み、襖が開く。
「レーナ? 本当に、レーナなの?」
開かれた先には、ツムギの姿があった。
薄青から白に濃淡に色調変化がかかる、静かな優美さを放つ着物。
あの頃より少しばかり大人びた雰囲気を纏っているが、未だに高等騎士学校の候補生と言っても通用しそうな幼さが残っていた。
肩にかかるほどの光沢ある髪の漆黒は変わらず。輝きを感じさせる瞳の濡羽は変わらず。小さな唇の桜色は変わらず――私が出会った頃の、煌めく色彩はやはり変わることなく、三年間灰色だった私の世界を再び鮮やかに染め直していく。
「久しぶりね、ツムギ」
事も無げに装いながら声を掛ける。
その実、胸に、込み上げるものがあった。今すぐ強く抱きしめたかった。顔を寄せ合い、口づけを交わしたかった。
普段と変わらぬ表情に努めながら、私の内には燻り続けていた恋心が燃え上がる。
「うん、久しぶり。三年ぶり、だね」
少し恥じらうように笑みながら、ツムギは私の前に座る。
「レーナ、卒業からずっと連絡くれなかったんだもん、酷いよ」
「悪かったわ。騎士団に入ってから忙しくて」
「騎士団に入ったんだ?」
「ええ。銀獅子騎士団に」
「あの銀獅子騎士団? すごい、エリート騎士団じゃない!」
「エリートって……名前だけよ、あそこは」
他愛のない話が続いていく。それが、何よりも愛おしかった。
幸せだった日々の記憶が、感覚が、甦って行く。
「ところで、レーナ、この子は……?」
雑談の区切りがついた所で、ツムギは私の隣で眠っているカティに目を遣りながら尋ねる。
会話する中でツムギは度々カティに視線を移していたため、気にしていたのだろう。
「私の娘。カティって言うの」
その短い答えに、ツムギははっとした表情を一瞬見せ、少し寂しげな口調で言った。
「レーナ、結婚していたんだね」
ぞくりとした快感があった。
ツムギは未だに、私に対する特別な感情を抱いている――そう認識した私の内に薄暗い充足感が生じ、ツムギへの被独占欲が満たされていく。
騎士候補生の頃、躰を噛まれることで、私のモノになっているみたいで興奮すると言っていたツムギの心情が、今になって理解できた。
私はツムギを「自分のモノ」にしたいと思っていると同時に、ツムギが私のことを「自分のモノ」にしたいと思っていて欲しかったのだと。
「年はいくつ?」
「一歳よ」
「あ、じゃあわたしの子供と同い年だね。イトちゃんって名前の女の子なんだ」
ツムギに子供がいることは知っていたが、それが娘であることも、名前がイトであることも、初めて知った。
知ろうと思えば知ることはできただろう。だけど、私はこの時までツムギの子供については無意識的に知ることを避けていた。
この部屋にツムギは娘を連れてこなかったのは、幸いだっただろう。
もし、ツムギの子がヤマノイの血が色濃く出していたら、縊り殺されていたかもしれない。ツムギがヤマノイに奪われた結果をまざまざと見せつけられ、妬み狂った私によって。
「それで、旦那さんは?」
「死んだわ。戦死」
冷たく、突き放すように、拒むように短く切り捨てる。
これ以上、その話題を続けないため。ツムギと会うことに舞い上がっていたせいか、カティの父親として記録改竄した人間のことなど気にも留めていなかった。縁者のいない戦死者であること以外は、名前すら知らない。カティの“父親”について尋ねられても、私には答える術がない。
「……ごめん」
「いいの。もう慣れたから」
カティの“父親”に関する会話を逸らし、私は本題を切り出す。
「ツムギ、それでね、私、出征することになったの」
「え……?」
出征。
私の言葉を受けて、ツムギは目を見開いた。
少しばかりの沈黙の後、ツムギの小さな唇が動く。
「何で、レーナも……?」
その声は、少し震えていて、僅かに怒りの色があった。
「ドレクスラー家のレーナが戦争に行く必要、ないよね……?」
そこにはいない誰かを、私を通して責めているようだった。
前線に行くことのない上士階級にもかかわらず、ツムギを置いて出征する。
ツムギはきっと、夫と私を重ねているからだろう。
「……ツムギの夫だって、出征したんでしょ。行く必要のない立場だったけど、志願して。私も同じよ」
意識せず、皮肉な言葉が口から出る。
ツムギの夫への嫉妬。
私も同じになりたかった。ツムギが夫を想うように、私も想われたかった。
そして、私がいない間、ツムギを私で縛り付けていたかった。
だから。
「それでね、お願いって言うのは、出征している間、ツムギにこの子を預かってほしいの」
カティの方に目を遣る。私たちの会話中も起きることなく眠り続けていた、私の欲望を満たすための道具。
カティをツムギの元に預けておけば、この子を見る度にツムギは私のことを思い出してくれるだろう。
「……どうしてわたしに? ドレクスラー家に預けないの?」
「実家とは縁が切れちゃってるのよ。私、騎士に任官すること、両親に反対されていたから家を飛び出したの。用意されていた縁談を蹴ってね。だから、それきりずっと家には戻ってない。戻れる訳ないし、カティのことだって知らせてない」
「そっか」
私の言葉を聞き、ツムギは柔らかく、どこか寂しげに笑んだ。
「レーナは、自由に生きているんだね」
羨望。自嘲。祝福。諦念――そういった色が綯い交ぜになっていた。
騎士候補生時代、自由になりたいと言っていたツムギにとって、家に逆らい、そこから飛び出した私の生き方には思うところがあるのだろう。ダイゼン家から出て、ヤマノイ家に嫁いだ今も変わらず。
「家から出て、自分のやりたいことを決めて……すごいな、レーナは」
だけど、私はツムギが思っているような生き方はしていない。
だって私は、ずっと、卒業してからずっと、ツムギに囚われているのだから。
きっと、これからも、ずっと。
「だから、騎士団でも変わり者だって白い目で見られてるわ。そもそも、仕事以外の人付き合いも薄くて子供を頼めるような相手はいないし……だから、頼れる相手がツムギしか思い浮かばなかったのよ」
「いいよ。カティちゃんは、わたしが預かる」
私がカティをツムギに預ける理由付けを述べ終わるのと同時に、ツムギは了解の意を示した。
ヤマノイ家の財力やツムギとの会話の中で、カティを預けるという願いは断られることはないとは思っていたが、想像していたよりも早くツムギは容れてくれた。
かつての恋人への情か。ツムギが求めていた自由を手に入れているように見える私に某かの思いを抱いたのか。
いずれであっても、これで私の目論見は叶うところとなった。
「……感謝するわ、ツムギ」
「カティちゃんの面倒を見る余裕はあるし、何より、レーナの頼みだもんね」
ツムギは嬉しそうに笑い、目を伏せる。
少しばかりの沈黙の後、ツムギは目を伏せたまま、言葉を発する。
「あのね、レーナ」
そして、ツムギは目線を私の方に向け直す。少しばかり、その瞳は潤んでいた。
「必ず、帰ってきてね」
縋るように、ツムギは言った。
「ツムギ――」
その言葉に、私は心臓を握りしめられるほどの恍惚を覚えた。
「わかってるわ。必ず、私はツムギの所に戻ってくるから」
私はツムギを抱き寄せて、約束を交わす。
ツムギの躰の温度。柔らかさ。匂い――やはりあの頃と、変わっていなかった。
変わることのない、私のたったひとつの色彩。
私のただひとりの、愛おしい人。
改めて、思い至る。
あなたさえいてくれれば、私は――
(続)




