情動の濁流
ツムギの肌に私は歯を立てていく。
首、肩、腕。
口を開き、彼女の柔らかな肌に私の印を刻んでいく。
「は……ぅ……」
ツムギが甘い吐息を漏らす。
私に噛まれながら、ツムギは甘く囀る。
騎士候補生二年次の冬。卒業が近くなった頃。それでも私たちの夜だけは変わらず。
「ぁん……いい……ひぅ!」
ツムギは変わらず、噛まれるのが好きだった。彼女の喘ぎも反応も、変わることはなく。
ただ、小さく、そして大きな変化があった。
ツムギの左手の薬指に、白金の指輪が輝いていた。ヤマノイが、ツムギに婚約の証として贈った物。
ツムギはヤマノイとの結婚が正式に決定し、卒業後はすぐに嫁ぐことが決まっていた。
つまり、私との関係は卒業と同時に終わることが確定していた。
尤も、私も、ツムギも、今の関係が終わることについて、一切口にしていないのではあるが。
「ん…………」
ツムギの左手が私の顔に当たり、指の一つを口に含む。
薬指。
歯が、指輪に当たった。
私は指輪から歯を滑らせて、ツムギの薬指に歯型を付ける。
「うっ……!」
薬指を噛んだ時のツムギの反応は、快楽より苦痛の色が強かった。
私が意図的に、他の場所よりも強く噛んだから。
強く噛んだのは、こんな小さな指輪よりも強く確かなものをツムギに刻みたかったから。
本当だったら、こんなもの、噛み砕いてやりたかった。
「れーなぁ……」
ツムギの薬指を口から離すと、彼女は甘えるような声を出しながら両手を私の背に回して抱きしめる。
まるで、愛し合う恋人のように。
恋人。そう、ツムギは私の恋人。だけど、同時にヤマノイとの結婚も決まっている。
歪に過ぎる。
ヤマノイと婚約してもなお、ツムギは私と躰の関係を続けている。
その理由は快楽か、私の執着を見抜いての同情か、単なる惰性か。
わからなかった。
私は、私とツムギのことが、何ひとつとしてわからなかった。
「ねえ、ツムギ」
「なあに?」
「私のこと、好き?」
ツムギに問う。
純情な乙女のような台詞に、自嘲してしまいたくなる。
私には、全く似合いはしない。それでも、尋ねたくなってしまった。
「好きだよ」
「ヤマノイよりも、好き?」
淡々と尋ねたつもりだが、もしかしたらその時の私はとても怯えた顔をしていたのかもしれない。
ツムギは私を挑発するかのように、にっと笑って言った。
「レーナの方が好きに決まってるじゃん」
そう言ってツムギは、私を抱きしめる腕の力を強め、耳元に唇を寄せて囁く。
「レーナが一番好き。レーナが誰よりも好き」
ぞくりとした快楽と、痛み。
ツムギの言葉には、おそらく嘘はないのだろう。
この場、この瞬間、私は世界で一番、ツムギに愛されている。
だけど。
ヤマノイと一緒にいる時のツムギは、彼のことを世界で一番愛しているのだろう。
ツムギがヤマノイから同じ問いをされたら、ヤマノイを一番愛していると答えるだろう。
そんな思考が、頭をもたげた。
そんな未来が、容易に想像できた。
だって彼女は、私と恋人でいることと、ヤマノイと結婚することを、両立させてしまえる女なのだから。
ツムギ。ツムギ・ダイゼン。
私のたったひとりの恋人。
なのに、彼女は私を置いて、別の誰かの元へ嫁いでいく。
卒業が近くなるにつれて、私たちがふたりで過ごす時間は減っていった。
私と観るはずだった芝居は、ヤマノイとの時間になった。私と行くはずだった他地区への小旅行は、ヤマノイとの時間になった。
次第に、私との時間は夜だけになった。夜だけは変わらず、ツムギと私はただ躰を噛むだけの儀式を続けていた。
そんな彼女と過ごす時間は、途轍もなく愛おしかった。
そんな彼女と過ごす時間は、今でも私を形作っている。
*
朝が来る。
ひとりだけのベッドで、私は目を醒ます。
寝起きの目には、涙が溜まっていた。
夢を、見ていたのだ。
ツムギと一緒に居られた頃の夢を。幸せだった時の夢を。
二十歳の私はベッドから半身を起こす。
騎士学校を卒業してから、三年が過ぎていた。ツムギと会うことが無くなってから、三年。
卒業の前日まで躰を重ねて、卒業の日は会話することなく、そのまま二度と会うことはなくなっていた。
卒業式に会話をしなかったのは、ツムギとの別れを、言語化したくなかったのだろうと、今になって思う。
無駄な足掻きだ。ただの現実逃避だ。
卒業後すぐにツムギはヤマノイと結婚し、私は騎士に任官した。
銀獅子騎士団。王都防衛を担う伝統と格式ある騎士団。
卒業後に両親から良家の子息との婚姻を望まれていた私の任官は、両親からは猛反対された。だから私は、既に用意されていた縁談を破棄してドレクスラー家を出奔した。
私の意思として。両親に言われるがままに、灰色の世界を生きてきた私の、初めての反抗として。
だが――何故そのようなことをしたのか。あの時の心理は、自分でもよくわからないでいる。
ツムギを失ったことで自棄になっていたのか。それとも、家からの自由を求めていたツムギに影響されて、親の決めた生き方を拒否したいと思ったのか。もしくは、ツムギ以外の人間に躰を許すことに耐えられなかったのか。
いずれにしろ、私の根底には高等騎士学校を卒業しようとも変わらずツムギがあった。
ツムギ。ツムギ・ヤマノイ。
私のただ一つの色彩。
会うことは無くなっても、ツムギは今でも私を形作っている。
今でもツムギのことを想うと、愛おしく感じる。
高等騎士学校を卒業しても、ツムギと会うことが無くなっても、私は未だに彼女の夢を見る。彼女の夢を見る度に、涙を湛えて朝を迎える。
それが今の私の、全てだった。
幸福だった過去の残滓が、私の全てだった。
私は涙を拭い、ベッドから降りて騎士制服に着替える。
銀獅子騎士団制服。騎士候補生時代とさほど変わらない制服。
あの頃から変わった部分と言えば、桜花弁に獅子を象った銀獅子騎士団記章を付けていることと、隣に、ツムギがいないこと。
この部屋には、私ひとりだけ。
ドレクスラー家から出奔して、私は銀獅子騎士団軍営にほど近い集合住宅の一室を借りていた。
両親の持ち込んだ縁談をふいにしたため、ドレクスラー家からは半ば勘当状態となっており、任官以降、一度も実家に戻ったことはない。
とはいえど、親心はあるようで、実家からは金銭の支援があった。任官する騎士団も、新たな住まいも親には告げていなかったが、同じ王都にいる以上、すぐに居場所は割り出せるであろう。
私はひとりだけの部屋と、騎士団軍営を往復するだけの日々を送っていた。
騎士団で行うことは銃の自主訓練と、書類仕事と、時折行われる式典等の警備活動。
王都の治安維持や要人護衛であれば、近衛騎士団が行っている。
不穏分子の監視や処分も、近衛騎士団内部局の警察局や所謂“特憲”の仕事である。
地方の騎士団であれば山賊などの討伐を行っているが、王都に在する銀獅子騎士団にはそのような仕事は回ってこない。
銀獅子騎士団は王都警護という看板だけの、実際は地位と伝統と高給だけのほぼ名誉職に等しい組織であった。
だからこそ、私には自由になる時間が多くあり、その時間を使って私は度々芝居を見に行っていた。
観劇は、唯一、私の趣味と言えるもの。
だけど、芝居が好きというわけではなく――ただ、ツムギとの想い出に浸れるが故であった。
騎士候補生の頃、芝居が好きなツムギと幾度も観劇に行ったのだから。
かつてツムギと行った芝居を観る度に、私は隣にいた彼女の顔を、芝居の後にその内容を語る彼女の声を思い出すことができた。
ツムギのことを思い出すことが、私にとって最も幸福を感じるひと時であった。
そして、私にとって最も不幸を感じる時でもあった。
*
銀獅子騎士団の軍営にて、私は書類仕事を終える。
今日やるべき仕事は、全て午前中で片付いてしまった。後は、退勤時刻まで適当に時間を潰すだけ。
仕事がすぐに終わって手持ち無沙汰になるのは私に限った話では無く、多くの銀獅子騎士団の騎士に共通している。
仕事を早々に終えて自主訓練に励む者もいれば、黙々と読書する者もいる。
居眠りをする者がいれば、盤上遊戯に興じる者もいる。
更には人目に付かない場所であるのをいいことに禁制の賭博に興じる者までいる。
銀獅子騎士団総裁のグラント卿ですら、昼日中から執務室で酒を飲んでいる始末である。
怖ろしいほどに緩やかで、弛んだ空気が銀獅子騎士団軍営を支配していた。
今のレゼ国は、戦時中であるというのに。多くの騎士が、南方の戦地で命を賭した日々を送っているというのに。
昨年より、レゼ国は南方隣国のムルガルと戦争状態となっていた。
原因はレゼ国最南のキドリア地区で略奪行為を行ったムルガル人盗賊団の引渡をムルガル側が拒否したため――とされている。
王政府曰く、キドリア地区騎士団の討伐を受けてムルガル領へと逃亡した盗賊団の中にムルガル正規軍所属者が確認されており、ムルガル国に当該人物の引渡要求を行った。しかし、ムルガル側がレゼの引渡要求を拒絶。この拒絶は盗賊を装ったムルガルの国家的な領土侵犯行為があったが故だとレゼ王政府は宣言し、盗賊討伐並びにムルガル国への報復措置としてムルガル北方のコダシュ地方に騎士団を進軍させた。
だが、それは建前に過ぎない。
レゼ王政府の本当の狙いは、コダシュ地方にあるサタク銀鉱の奪取にあった。
サタク銀は工業都市クロンの作る機械部品として重宝される鉱物である。レゼはサタク銀が豊富に採掘できるプレーリア銀山を国有しており、クロン市にサタク銀を輸出することで多額の利益を出していた。
しかし、近年ではプレーリア銀山の採掘量が激減し、クロン市との銀貿易による利益が減少し続けていた。更にその状況下で、ムルガル国北方のコダシュにてサタク銀の鉱脈が確認された。
ムルガルはレゼと異なりサタク銀の加工技術を所持していないが、プレーリア銀山の減少した採掘量と増え続けるクロン市のサタク銀需要は乖離する一方であり、また、クロン市の高い工業力から独自の加工技術を開発してサタク銀輸入をレゼからムルガルへ切り替えることも想定ができ、王政府はサタク銀貿易に対する危機感を抱いていた。
南方国境のキドリア地区に盗賊が出没していたのは事実である。しかし、実際に捕らえた盗賊はレゼ人ばかりであったという。
キドリア地区は四方を切り立った山脈で囲まれた盆地であり、北方にシヨウ関、南方にホーシュベルン関の二つの関塞が築かれている。
その地形故にムルガル領とキドリア地区を往来するにはホーシュベルン関を通らねば非常に困難であり、更にホーシュベルン関には堅牢な国境警備体制が敷かれている。
それ故に戦争の原因となった「ムルガル領に逃亡した盗賊団」自体が存在したのか、甚だ怪しいところである――が、レゼ王政府の狙いがコダシュ地方の銀鉱占領である以上、仮に盗賊団が実在していても歯牙にも掛けないであろう。
このレゼ=ムルガル間戦争は、一年を過ぎてもなお終息する気配が無かった。
レゼ国もムルガル国も、双方が牙兵を派遣されているが故に、南方では苛烈な戦闘が行われているであろうことは想像できる。エイリス地区出身の極東系レゼ人を中心とした部隊が、ムルガル側の牙兵により壊滅させられたという話も聞いている。
だが、戦地から離れた王都には、戦時という空気は希薄であった。戦争が起きる前の騎士候補生時代から、王都の空気は何も変わっていなかった。
私自身も、任官先である銀獅子騎士団の気風も相まって、レゼ国が戦争を行っているという実感を抱くことはなく、関心すら皆無であった。自分とは無関係の、遠い場所の出来事程度の認識であった。
この日の昼に、ヤマノイ家の話を耳にするまでは。
*
午前に仕事を終え、銃の自主訓練をする内に正午となり、私は軍営内の食堂で昼食を摂る。
上質なパン。ローストされた大きな肉。新鮮な野菜と卵のサラダ。高価な香草入りのスープ。
おそらく、前線では口にできないであろう食事。そうは思いながらも、私は特に何の感傷も抱くことはなく、昼食を運んで長テーブルに着く。隣には、二人の年若い男性騎士が先に昼食を摂っていた。
パンを千切って口に運び、匙でスープを掬って口に含む。不味くはない。美味な方であろう。だが、それだけだ。
何の感情も抱くことはない、いつもと変わらない食事。
何の感情も抱くことはない、いつもと変わらない時間。
そうなるはずだった。
「――しかし、ヤマノイ家の若当主も変わった人間だな」
隣に座っていた騎士の会話から発せられた言葉に、私は身体を強ばらせた。
久しく聞いていない名前。耳にすることを避けていた名前。認識するだけでも嫌悪してしまう名前。
ヤマノイ家。ツムギの嫁ぎ先。その若当主と言うことは、まず間違い無くツムギの夫であることが察せられる。
「ええ、信じられませんな。わざわざ志願して最前線へ出征するなど」
会話相手のもう一人の騎士の言葉に、私は驚愕する。
ツムギの夫は出征をしたという。
この時代での出征先は一つだけ。南方のムルガル国との戦地。牙兵同士が相争う激戦の地。そんな地に、ツムギの夫は志願して出征しているのだと。
ヤマノイ家と言えば、極東武門の名家中の名家。極東系レゼ人を軽んじる風潮があると言えども、王都の上士に、ましてやヤマノイ家のような名家には最前線への出征命令は決して下らない。
仮に出されたとしても、出征逃れする手段など幾らでもある立場である。
つまり、戦時に安穏に過ごすことができるという立場でありながら、ツムギの夫は敢えて戦地へ赴いたということになる。
ツムギを置き去りにして。私からツムギを奪っておきながら、そのツムギを放り出して。
沸々と、腹の底から滾るような憤怒が生じてくる。
「子供も去年生まれたばかりと聞く。赤子と妻を残して戦地へ行くなど、何を考えているのか……」
「騎士としての矜持が無駄に強すぎるのですな。ヤマノイ家の若当主は正義感が強いと、殊更有名でしたが故に」
「確かに立派ではあるが……奥方の心労は甚大であろう。他家から嫁いで、乳飲み子を抱えて、その上、夫まで戦地に行くのであれば」
二人の会話を聞いて、私の中で憤怒とはまた別の感情が生じ始めて来る。
ツムギの夫が志願出征したことよりも、ツムギの子供の存在に、私の内に黒いものが湧き溢れる。
ツムギが子供を産んでいた。
それはつまり、ツムギが私以外の誰かに抱かれて、そして――ヤマノイの顔を知っている私は、その光景が容易に想像できた。
胸に、煮えたぎるような不快感が生じた。
ツムギは私の恋人だったのに。私のものだったのに。
腹の底から湧く憤怒と胸に溢れる不快感が混ざり、私の全身に黒々と濁ったもので充満していった。
吐き気がする。
忌々しいほど、吐き気がする。
目の前の食事をひっくり返したくなる。
大声で叫びたくなる。
匙を持つ手の震えが止まらない。
そして、真っ黒に濁り、塗りつぶされてた私の内から、声が響いてきた。
もし私が、ツムギと同じ状況だったら――ツムギは私と同じような、身体の内が暗く焦げるような感情を抱くのだろうかと。そんな欲望があった。
もし私が、ツムギの夫と同じ立場だったら――私のことを同じように憂いてくれるのだろうかと。そんな嫉妬があった。
だから私は、狂った決意をしてしまった。
ツムギのことを聞いて、私は狂おしいほどの情動を甦らせていた。
高等騎士学校を卒業して以来、ずっと抑え込み、溜め込んでいた黒い情動の濁流が、私を突き動かしていた。
(続)




