罅割れ硝子の執着
「はん……あっ」
ベッドの上で、私に歯形をつけられながら彼女は――ツムギは小さく嘶いた。
ツムギは目を布で覆い、手は後ろに回されオモチャの手錠が掛けられている。
目隠しは、ツムギの好み。曰く、視界を塞がれるとより痛みを感じるらしく、それが好ましいとツムギは言う。
手錠も、ツムギの好み。同時に、私の好みでもある。つけてみたいと言ったのはツムギからだが、彼女を拘束することに、私は精神的な快楽を覚えていた。ツムギを、自分のものにしているかのように思えて、所有欲が満たされていた。
「れーな、はげしっ……んぁっ!」
ツムギの首の付け根を噛むと、ビクンと彼女の躰が跳ねる。
彼女と恋人関係となってから一年以上が過ぎ、私たちは十七の年になっていた。どこをどのように噛むとツムギが悦ぶのか、十分に私が熟知できるほどの経験を重ねるまでになっていた。
「んっ……あぅっ……あはぅ……!」
私は口を動かし、歯をツムギの肌に食い込ませ、力を強める。普段よりも強く、乱雑に。
私の歯の動作に合わせて、ツムギは声を出しながら躰を震わせて悶えた。
「はぁ……はぁ……ねえ、れーな」
顎の力を弛めたところ、ツムギは恍惚に息を荒げながら、私に尋ねた。
「きげん、わるい……?」
「そう? いつも通りだけど?」
何事も無いように、私は答える。
嘘をついた。
真実、私は苛ついていた。
*
中央女子高等騎士学校の二年次において、中央男子高等騎士学校との“交流会”という両校の候補生が参加するパーティが催される。
その目的は、将来の結婚相手の見繕い。家を継ぐ長子の少女は良い聟を見繕い、家を出る次子以下の少女は良き嫁ぎ先となる相手を探す。
中央女子高等騎士学校が最も予算をかけて盛大に催す行事。その事実は、この学舎が名前こそ騎士学校であるが、その実態は結婚準備機関であることを示していた。中央女子高等騎士学校は、「騎士の育成」という騎士学校本来の目的からすれば、最も予算と候補生数が少ない最北辺境のエイリス分舎にすら劣るだろう。
そして、そのような実態を殆どの騎士候補生達は疑問も異論もなく、純粋に交流会を楽しみにしていた。普段は騎士制服の少女たちが交流会の日はそれぞれ煌びやかな衣装で着飾り、同年代の異性と交歓する。騎士候補生とはいえど年頃の少女たちである。彼女たちにとっては、楽しみであることは当然と言えるだろう。
しかし、私は違っていた。
入学前に両親から交流会で良縁を探すように言われていたが、私は既に交流会のことなどどうでもよいと思っていた。
それどころか、交流会で華やぐ空気に私は苛立ち、厭わしく思っていた。
交流会に焦がれ浮かれる多くの候補生には、ツムギも含まれていたからだ。
ツムギは交流会の日に向けて、彼女は幾つもの美しい柄の入った極東の民族衣装を実家から取り寄せ、私に品評させていた。
いずれも似合っていた。悔しい程に、似合っていた。
着飾るツムギを見て美しく、愛おしく感じる程に、悔しかった。
そのツムギの美しい装いが、私をときめかすツムギの姿が、私に向けられたものではないのだから。
私がいながら、まだ顔も名前も知らない男達のために着飾り、浮かれるツムギの姿に、私の胸中は狂おしく掻き乱されていた。
*
交流会当日のツムギは、落ち着いた藍の地に桐や白梅、手鞠などの模様が散りばめられた着物を纏っていた。
恋人である私が贔屓目に見ても、華美で、優美で、艶美なツムギの姿。
そんなツムギに多くの男が惹かれ、彼女に声をかけ、会話をし、歓心を買おうとしていた。
例えば、王都防衛を担う銀獅子騎士団の総裁を代々務めるグラント家の男。
例えば、統一戦争の英雄であるジューコフ将軍の一族に名を連ねる男。
例えば、近衛騎士団の幹部として団内政治に権を振るうヴォルフ家の男。
例えば、国内屈指の財産家であり、極東騎士家系で最も格式ある名族ヤマノイ家の男。
私以外の候補生からは敬遠されていたツムギは、錚々たる家柄の男達に囲まれる交流会の花形となっていた。
あどけなさと淫艶さが同居する、魅力的な容姿。独自の美がある極東装束――まさしく、蜜蜂を恋焦がさせ、誘う大輪の花。
ツムギが男達を惹かせたのは、彼女自身の魅力は勿論のこと、彼女の極東系という属性にも起因していた。
レゼ国、特に王都では極東系レゼ人に対する差別意識がある一方で、極東系の少女には“需要”が存在している。
民族衣装を纏ったエキゾチックな容姿は、物珍しさも相まって魅力的に映るであろう。そして、極東系は被差別の側という弱者であるからこそ、強者の庇護欲、支配欲をくすぐるのだろう。差別をする側である自分達を棚に上げて。
実際、極東系の“需要”は現国王も過去には極東系の女性を非公式に囲っていたという噂が生まれる程度には存在していた。
極東系の少女であり、愛らしいきらめきを放つツムギ。男達に囲まれて笑顔を振りまくツムギ。
その姿を、私は遠くから眺めていた。
ツムギは、交流会をとても楽しんでいた。私は、とても苛ついていた。
私に声をかける男も幾人かいたが、全員無視した。
つまらなく、くだらなく、そして非常に不愉快でしかない時間だった。
だから、私はその日の夜、苛立ったままツムギに刻印をすることになった。
*
刻印を終えて、私たちは一つのベッドに隣り合って伏せる。
「ねえ、レーナ」
「なに?」
「レーナはさ、交流会で気になる人、いた?」
ツムギは私の方に顔を向けて、尋ねた。
「いない。というか、興味無いわ」
私はできる限り、苛立ちを表立たせないよう努めて答える。
それでも、険があることは抑えられず。そしてそれでも、ツムギは気に留めることはなく。
「えー、勿体ないよー」
勿体ないって、何が?
「レーナは美人なんだし」
違う。
「スタイルもいいし」
違う。違う。
「銀髪はこんなに綺麗なんだし」
違う。違う。違う。
「男の人は放っておかないと思うよ」
ツムギは、私に無邪気に笑いかける。
その笑顔が眩しく、輝かしく、愛おしく、そして、突き刺さる。
化粧を覚えたのも。ぞんざいに決めていた私服にも気を遣うようになったのも。伸ばすままにしていた髪の手入れも行うようになったのも。
そんなことのためじゃない。
それは全て、ツムギのため。ツムギのそばにいたいがため。全て、きらめくあなたの隣に立つのに相応しい自分でいたかったから。
それなのに、ツムギは。
「もう今年で卒業だし」
一年前、恋人になってほしいと私は告げた。ツムギは、はにかみながら私の願いを受けてくれた。
けれども、それは永遠の誓いではなく。
「わたしたちもちゃんと将来のこと考えないとね」
困ったような笑顔で発せられたツムギの言葉は、言外に私との関係は一時的な遊びなのだと示していた。
窘めるような声で発せられたツムギの言葉は、自分は遊びなのだから私もそうなのだと言い聞かせようとする意思があった。
実際、在学中だけの一時的な遊びだと割り切って、候補生同士で心身の関係を結ぶことは、女子高等騎士学校では珍しいことではない。その上、私達の行いはそれ以下だった。
ただ、ツムギの求めに応じて、私が彼女の躰に歯を立てて跡を残すだけ。
時間がたてば、彼女の躰にある歯形は消えて、何も残らない――それはまるで、私達のこれからを端的に示しているような儚い儀式。
だけど。
だけど、私は割り切れなかった。
ツムギが愛おしかった。ツムギを離したくなかった。ツムギを自分だけのものにしておきたかった。
灰色の世界にあった、たった一つの色彩が、私の手から失われることを、想像すらしたくなかった。
その可能性を、直視することをしたくなかった。
「そうそう、レーナ、わたしはね、今日、ヤマノイさんに声をかけられたんだよ」
嬉しそうに、ツムギは交流会で出会った男のことを私に語る。
ヤマノイ。ヒデオミ・ヤマノイ。
交流会にいた男では唯一の極東系。ティルベリア遠征の英雄ヒデマサ・ヤマノイを祖とする名家。国内の複数地区に土地を持つ財産家。
穏やかで柔和な印象を与える優男。美形という言葉を用いても申し分なく、容姿の面でツムギと釣り合っていると客観的に言えてしまえる。
「ヤマノイさん、これからもわたしに会ってくれるんだって」
頬を赤らめるツムギに応える一切の言葉を、私は見つけられずにいた。
私の中には嫉妬があった。愛情があった。憎悪があった。欲望があった。諦観があった。それら全てが渦を巻き、凝り固まり、融解し、侵食していった。
そして、ツムギの言葉に、どこか罪悪感を誤魔化すような後ろめたさを感じ取った。
だから、何も言えずに、ただツムギを見つめる他無かった。
「ヤマノイ家は家格はダイゼンよりもずっと上。ヤマノイさんと結婚すれば、わたしもきっと自由になれるんだろうなあ……」
憧れるように、ツムギは言った。独り言のように。私のことなど、視界に入っていないかのように。私から、目を背けるように。
「自由に……ね」
無意識に、私は呟いていた。
ヤマノイと結婚すれば自由になれると、ツムギは言った。
本当に、そうなのだろうか。
それは、ダイゼン家という鳥籠から出て、ヤマノイ家という鳥籠に入るだけではないか。
騎士の家に生まれたことを厭い、解放されたがっているツムギにとって、それは本当に自由と言えるのだろうか。
違うと、私は思った。
私なら、私であれば、ツムギを本当に自由にしてあげられるのに、と。
卒業したら、お互いの家から逃げよう。何もかもを捨てて、緑豊かで静かな場所にある家で、私とふたりで暮らそう。そうすれば、ツムギは本当に自由になれる、と。
そんな夢を私は描いていた。
だけども――夢見る私に、もう一人の私が投げかける。
どうやって? どこで暮らすの? 生計はどうやって立てるの? そもそも、ツムギはそれを望んでいるの?
否。否。否。否。
様々な内なる声が、薄暗く響き、私の夢を灰色に塗り潰していく。
だから私は、その夢を、ツムギを自由にするという夢を、言葉に出すことはできなかった。
所詮は、十七歳の子供の思い描く空疎な夢。そんな未来など存在しないことは、夢を見る私自身が気付いている。
だからこそ。
「ねえ、ツムギ」
「なあに?」
「もう一回、しない」
「うん、いいよ、レーナ」
ツムギは笑う。
無邪気に笑う。淫靡に笑う。
いつもと同じように、私に笑う。
今日この夜の私にとって、それが何よりの救いだった。
男の話をしながらも、あっさり躰を噛ませるツムギを、私は貪った。
ツムギを貪ることで、私は全てから逃避した。
永遠に、昨日までの夜が続いていけばいいと願った。
(続)




