灰色女の生彩
彼女との出会いは、まさに一目惚れという言葉そのものだった。
彼女と出会った瞬間、灰色だった私の世界は一瞬にして彩られた。
「あぅ、もう、ゆるしてぇ……」
ベッドの上で、私の歯形だらけになった彼女が弱々しく声を出す。
その涙で潤んだ瞳は濡羽色。その上気した頬は薄赤色。その小さな唇は桜色。
色彩豊かに、彼女は乱れ喘ぐ。
「駄目、許してあげない」
「れーなの、いじわる……」
口調は不機嫌そうであったが彼女は可憐に微笑み、私の躰に腕を回して抱き寄せる。
縋るように。縛るように。私に所有されるかのように。私を所有するかのように。
「ねえ、どうされたい? どうしてほしい、ツムギ?」
そう、私は彼女に尋ねる。尋ねなければならなかった。
ツムギ。ツムギ・ダイゼン。
灰色しか知らない私を、鮮やかに染め変えた人。
*
私の世界は、ずっと灰色だった。
歓喜も悲哀もなく。面白味も外連味もなく。迷いも悩みもなく。期待も落胆もない――ただただ、灰色だけの世界。
私は騎士ドレクスラー家の三女として生を受けた。上には兄が一人、姉が二人いた。
長子ではない騎士の子の役目は、長子に某かの問題があった際の予備、現当主や次期当主になる長子の補佐、そして有力他家との縁組みにより一門の繁栄に貢献すること。
兄がドレクスラー家の次期当主に据えられていたため、次子たる長姉が兄の予備としての役目を負って当主と同等の教育を受けており、次姉と私は予備としての役目も見込まれておらず、単なる政略結婚のための駒として両親に扱われてきた。
近衛騎士団に出仕していた長兄が不慮の事故で死亡すると長姉が次期当主となり、次姉がその予備となった。兄の死により姉二人の立場が変わる中で、末妹である私は何ひとつ役割が変わらぬまま。
私は生まれてからずっとドレクスラー家を継ぐことはなく、他家へと嫁がされることがほぼ確定していたが故に、長姉よりも自由を許されていた。ドレクスラー家は弓術の大家として知られているが、私は弓に触りもせず、代わりに工業都市クロンで作られた銃に傾倒する素振りを見せても、許される程度には放任されていた。
銃に傾倒するように振る舞ったのは、弓術の大家の娘らしからぬ奇矯な行いにどう家人達が反応するかに興味があったから。銃自体には愛着がある訳ではなく、その技術を身につけてもなお好悪の情も生まれず、ただ自分にできることが一つ増えただけ程度の認識。
弓術をせずに銃を選ぶ私の行為について、両親や姉たちからは一切咎められなかった。銃について話題に出すことすらなかった。それは、私という“個人”は家中から何の期待もされず、それ以前に興味もすらもさほど持たれず、ただ、ドレクスラー家繁栄のための役目を担う“道具”としてしか見られていないことを改めて理解させた。
そして、私自身もその扱いに不満を持たなかった。疑問もなかった。それが当然のことだと思い、ただ淡々と生きていた。
弓を放棄し銃に選ぶ振る舞いにどう両親達が反応するかというような好奇心も消えていき、意思も感情も希薄になり、世界が色褪せていった。彩りがない、灰色だけの世界になっていった。それが、私の全てになっていた。
十三になる年、中央女子幼年騎士学校に入ってからも、何も変わらなかった。騎士学校も、ただ自分が騎士階級だから行っているという程度の認識で、騎士としての使命感も、国家への忠義心も、名門武家の矜持も何ひとつ抱くことはなかった。
そして、十六になる年、私は中央女子幼年騎士学校から中央女子高等騎士学校へ進学した。
ドレクスラー邸からの通学が許されていた幼年騎士学校と異なり、高等騎士学校は全寮制であるため、私は家を出ることになった。
初めて家から出て生活することについて、特筆した感懐はなかった。新生活への憧れも、楽しみも、不安も無く、ただ、同居する相手が面倒な者でなければよい程度の思いしかないまま、入寮の日を迎えた。
中央女子高等騎士学校学寮。自室前。寮監からルームメイトが既にいることを教えられていたため、私は扉を叩き、入室を求める。
「はいはーい、いいですよー」
軽い声が、返された。
先着していた同居人の許可が出たので、私は扉を開く。
部屋にいた彼女の姿に、私の世界は灰色から極彩色に塗り替えられた。
*
彼女は抱きしめられながら、私の耳元で甘く囁く。
「同じ場所を、もっと強く噛んで、ほしい……」
恥じらうように頬を赤らめて、彼女はそう求めた。
ふたりだけの夜は、常に彼女は私に噛んでくれるようにねだる。
それ以上のことはなく、それ以下もなく。
ただ、私の刻印を自身の躰に刻むことを、彼女は求める。
「いいわ。してあげる」
私は彼女の求めに応じて、その躰に歯を立てる。
肩に、首に、腕に、口を寄せて、私の印を刻む。
「ん、あン……」
肌に私の歯が食い込む度に、彼女は小さく、甘く、艶やかに喘いだ。
*
灰色しかないはずだった世界に、鮮やかな色が生じた。
細身の身体を包む椿絵に彩られた着物の薄紫と上下に濃淡のグラデーションがかかる袴の朱。
肩にかかるほどの光沢ある髪の漆黒。輝きを感じさせる瞳の濡羽。小さな唇の桜色。
目を奪われた。息を飲んだ。一枚の絵画のように、彼女を中心として私の時間は静止していた。
「あ、ルームメイトの方ですか?」
永遠とも思える数瞬が、彼女にかけられた声で正常に動き出す。
私は名を告げて質問に首肯しながら、改めて彼女の姿を視認する。
可憐。ただそれだけであった。彼女の容姿を形容するのに、虚飾的表現は不要であった。
敢えて言語するならば、童女のような幼さ、清純さ、無邪気さ。その中に、どこか情欲を煽るような、艶美な魅力を彼女が放っていた。
そして、独特の装束と容姿を見て私は彼女の出身民族を認識する。
極東人。遙か昔、レゼ最北の地に大陸東方から入植してきたとされる移民の末裔。
極東人はエイリス地区を中心に国内北部に居住し、南部には少ないとされている。国土のほぼ中央にある王都も極東人は少ないが、有力な極東人の騎士の家系は幾つかあると聞いている――尤も、私が名前を知っているのは国内屈指の財産家であるヤマノイ家程度ではあったが。
そして私自身、実際に極東人と出会うのは初めてだった。
少なくとも、幼年騎士学校時代に極東人の候補生はいなかった。私と同年齢であろう彼女は高等騎士学校に進学するにあたり他地区から王都に移ったのか、或いは何らかの事情で幼年騎士学校に通えなかったのだろう。
ただ、そのようなことを深く考える暇はなく。
「ツムギ・ダイゼンと申します。よろしくお願いします、レーナさん」
彼女は私に一礼して、愛らしく、煌びやかな笑顔を私に向ける。
全身が熱を帯びた。胸の高鳴りを抑えられなかった。思考が、眼前にいる彼女で埋め尽くされていた。
灰色しかなかった私の世界は、彼女を中心に鮮やかに彩色されていった。
部屋の壁は白く、窓から見える空は蒼く、半分かかるカーテンは紺で、新調されたばかりであろう机は淡褐色。
様々な調度品が置かれたドレクスラー邸に比べれば格段に簡素な部屋にもかかわらず、多くの色があることに私は気付かされた。
世界がこれほどまで、明るく、眩しく、色彩に満ちていることを私は初めて知った。
私の世界は、出会った瞬間に彼女によって染め変えられていた。
一目惚れという言葉は、まさに彼女との出会いそのものだった。
*
彼女の望むままに、私は彼女の躰に歯を立てる。
「うっ……んぁ……れーなぁ……」
刻印を終える。彼女は潤んだ瞳を私に向けながら、満足そうに笑んでいた。
私に噛まれることを好む彼女の嗜好は理解できない。だが、彼女の躰に私の印を刻み込む行為自体には、私の欲得を満たす背徳的な淫靡さを感じざるを得なかった。
「好きよね、ツムギ、噛まれるの」
敢えて小馬鹿にするかのように言うと、彼女は頬をより赤くして私から目を逸らして小さく言った。
「だって気持ちいいんだもん、それに……」
「それに?」
「れーなのモノになってるみたいで興奮する」
「変態」
口では呆れるように言いながらも、彼女の肌に付いた刻印を、私は指でなぞる。
「くすぐったい」
童女のように、彼女は笑う。
私の歯の形に添って、僅かばかり赤黒く色が変わる彼女の肌。
そう、様々な色を、彼女は私に見せてくれる。
*
ツムギ・ダイゼン。極東系の上士ダイゼン家の長女。華伝流薙刀術の修得者。私のルームメイト。そして、私が一目惚れをした相手。灰色しかない世界の中で、初めて見た色彩。
彼女は幼少の頃に肺病を患い、長らく療養生活をしていたという。“グ”の伝統医学に基づく霊薬の服用により発作を抑えられているものの、幼年騎士学校には大事を取って通わず、自邸にて教養を身につけ、薙刀術を修めてきた。幼年騎士学校で彼女の姿を見なかったのは、そのような事情によるものであった。
そして、長らく病で自邸に籠もっていたことと両親が非常に厳しかったことが重なり、彼女は外部に対する好奇心が強く、休日の度に何処かしらへ外出することを楽しみとしていた。私はそんな彼女の行く先に必ず付き合っていた。
観劇。買物。食事。遊技。水泳。まとまった休日がある場合は、他地区へも足を伸ばす――彼女と共に過ごす時間が、私に様々な色を与えてくれた。
特に彼女は芝居好きであり、新しい演目があれば必ず劇場に通い、気に入った芝居は幾度も鑑賞していた。
観劇の最中、彼女は様々な表情を見せていた。喜劇に笑い、悲劇に涙する。英雄伝に昂ぶり、怪談奇談に怯え、恋愛譚に憧れる。
芝居の進行に応じて千変万化の表情を、彼女は見せる。私は劇そのものよりも隣にいる彼女の表情を見ることが楽しかった。
そう、楽しかったのだ。
歓喜も悲哀もなく。面白味も外連味もなく。迷いも悩みもなく。期待も落胆もない――ただただ、灰色だけの世界だった。その世界に生きていた私は、初めて、“楽しい”と思った。
彼女と共に笑い、涙し、昂ぶり、怯え、憧れる。感情が甦る。褪せていた世界が、輝き始め、色付いていく。
しかし、彼女の色は明るく煌びやかなものだけではない。彼女は暗く澱んだ色を同時に私に認識させた。
彼女のような極東系レゼ人は、最北のエイリス地区以外では蔑視感情に晒されることが多々あるという。
曰く、ティルベリア遠征時の混乱に乗じて極東人はエイリスの土地をレゼ人より奪ったから。
曰く、“グ”帝国の大陸統一戦役の折にレゼ国が戦わずして“グ”に降服をしたのは極東人の内乱工作が原因であるから。
そのような理由が極東系レゼ人への差別を肯定的に語る文脈で出されているが、いずれも史学上は否定される事象である。
ティルベリア遠征の際は、極東移民はレゼ側に協力して武功を上げたというのが史書に記載されるところである。更に、エイリス地区のティルベリア遠征記念館には極東移民の棟梁である人物の銅像が建てられており、国家としてティルベリア遠征における極東民族の功績を認めている証左である。
また、大陸統一戦役でレゼ国が“グ”に不戦降服をしたのは、極東系レゼ人とは無関係である。
戦役当時、レゼやティルベリアを含む複数の国が東方の強国であるゲイト魔導王朝の傘下にあった。そのゲイト魔導王朝は“グ”帝国と交戦し、一ヶ月を待たずして壊滅させられた。ゲイト魔導王朝の急速な崩壊を見たレゼ王政府は“グ”との交戦を選ばず、同国をゲイト魔導王朝による圧政からの解放者として迎え、進んで領邦化したことが“グ”帝国正史である『統一記』に依るところであり、当時を生きた老騎士達の証言するところである。故に、極東系レゼ人は“グ”帝国への降服について一切関係無く、帝国史書のみならずレゼ独自の史書においても極東民族の王政府への反乱を窺わせる記録は存在していない。
だが、そのような学術的見地からの否定が存在してもなお、「極東人がそのように言われるのは、それ相応の理由がある」という旨の言説が堂々と罷り通る程度には、極東民族差別は蒙昧にして根深くあった。
その極東民族に対する差別感情は、彼女にも暗い影を落としていた。
実際、入学当初、彼女は大小、あからさまなものから隠れたものまで様々な嫌がらせの標的となっていた。
しかし、彼女は毅然としていた。彼女は嫌がらせをしていた主犯格の騎士候補生に対して、衆人環視の中で決闘を申し込んだ。
決闘の拒否、逃亡は家名を傷つける騎士の屈辱。故に申し込まれた側は断ること能わず、そして彼女は演舞するかの如き薙刀術を以て打ち倒し、地に伏した相手の眼前に薙刀の切っ先を突き付けて謝罪に追い込んだ。
その時の彼女の姿は、私の記憶に鮮烈に刻み込まれている。
相手を見下ろす彼女は微笑んでいて、その瞳は透明だった。顔こそ笑っていたが、その瞳は冷ややかで、ガラス玉みたいで、そこには、何の感情もなかった。勝利の昂ぶりも、敗者への憐れみも、蔑みも、嫌悪も、何も無く――だからこそ、それが相手を射竦め、怯えさせ、震えながら許しを乞わせていた。
憎悪や敵愾心を露わにするのは想定できるが故に、何の感情もない透明の視線は、得体の知れない恐怖心を与えるのだろう。彼女は気に入らない人間と相対する際は、度々そのような透き通った目をしていた。傍から見ている私でも、怖ろしいと感じてしまう目を。
あの日以降、彼女は一切の嫌がらせを受けることはなくなった。嫌がらせを逃れた彼女は、持ち前の快活さで級友達とは明るく接していた。しかし、級友と彼女との間には壁のようなものがあった。
端的に言えば、彼女は敬遠されていた。そして、その状況に対し、私は喜ばしい思いがあった。私以外の人間が彼女との間に壁を作り、敬遠する状況は私の彼女に対する所有欲、独占欲をくすぐった。
私だけのツムギ。私だけのモノ。私だけの色彩――そんな、薄暗い、澱んだ感情が私の内に渦巻いていることを自覚した。
自覚したからこそ、私は彼女に対する狂おしい感情に囚われた。
だから、私は彼女に自分の想いの丈を告白した。
愛おしい。そばにいたい。離したくない。私の恋人になってほしい。
私の告白に、彼女は頬を赤らめながら、頷いてくれた。
私は歓喜した。景色がより一層、鮮やかになった。世界は輝きに満ちていた。彼女と過ごす一分一秒が、途轍もなく価値のあるように思えた。彼女とふたりで過ごす休日が、生きる楽しみとなっていた。
恋人と行く芝居は、同じ演目でも以前より感動的に見えた。恋人と摂る食事は、同じ料理でも以前より美味に感じた。
恋人になって、彼女と手を繋いだ。抱擁を行った。口づけを交わした。そして、夜には――私が彼女の躰に歯形を付けることを求めるようになった。
初めて彼女に躰を噛んでほしいと言われた時には戸惑いがあったが、私は彼女の求めに応じた。
私達の夜は、ただツムギの求めに応じて私が彼女の躰に歯を立て、刻印を残す。それ以上のことを、彼女は求めることはしない。私も、行わない。
歪に過ぎる儀式。まともではない。自覚はあった。
けれど、そんな歪な在り方だったからこそ、私は心も身体も生も、全て彼女に塗り替えられていったのだろう。
*
互いが満足するまで刻印を終えた後、私と彼女は同じベッドで眠りに就いた。
「このまま、自由に生きたいなぁ……」
同衾する彼女は、つと呟いた。彼女は度々、自由への憧れを口にしている。
「私は十分、ツムギはフリーダムだと思うけど?」
「どうして?」
「ダイゼン家の跡取りのお嬢様が、毎晩ルームメイトの女に躰を噛ませてるでしょ。自由すぎない?」
「もう、そういうのじゃないもん!」
私のからかいに機嫌を損ねた彼女は、頬を膨らませて私から顔を背ける。
愛らしく、子供っぽい仕種。だが、彼女は間違い無く騎士の娘であった。
決闘を以て、礼を逸する相手を糾弾する。今では失われた古き騎士の伝統に則った在り方。
彼女は誰よりも、騎士らしい在り方をしていた。その在り方が、彼女が如何に厳しく育てられていたかの証左であり、故にこそ、彼女は自由に憧れているのだろう。
「というか、自由に生きたいって言ってるけど、噛まれると私のモノになってるみたいでコーフンするとか言ってなかった? 矛盾してない?」
意地悪く指摘すると、彼女は私の方を向いて照れたように笑った。
「だって、レーナのモノになったら、わたしはお父さん達のモノじゃなくなるじゃん? だからわたし、自由になれる」
「なにそれ?」
「笑わないでよー! 本気でわたしはそう思ってるんだから!」
めちゃくちゃな理屈に、私は思わず笑ってしまう。
けれども、この胸の高鳴りは誤魔化せなかった。
無邪気に、私のモノになりたいと言う彼女。その言葉に、私は昂ぶり、欲し、澱み、掻き乱される。
卒業後の彼女との暮らしを、彼女の望み通りにダイゼン家から連れ出して、奪って、私のモノにするという欲望を、私は心の内に描く。
この時が、この瞬間が、私にとっては幸せの絶頂だったのだろう。
だからこそ、後は堕ちるしかなかった。
(続)




