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騎士候補生少女譚  作者: 柳生 劣情(文章)&春畑 晴燕(設定)
第三章 祈りの行方
13/71

灯籠流し

 山岳教練から二ヶ月が過ぎた。夏の半ばを迎えた頃。休日の夕刻。エイリス分舎学寮。

「うん……よし」

 イトは姿見で自身の姿を確認する。

 卸したばかりの浴衣。薄青地に夕顔柄。カティと揃いで誂えたもの。色合いが中々好みに合っており、心が少し弾む。

 これから赴くのは、エイリス地区中心街の公園であるロッカ園で行われる“灯籠流し”。毎年夏にエイリス地区庁舎により開催される地元の祭り。

 藁で編んだ小舟に灯籠を乗せ、園内を流れる小川に流す。その灯籠舟は、死者への弔い。身近な死者への祈りを託して流された灯籠舟はやがて、海の彼方の冥府に辿り着き、死者の魂を慰める。そして、慰霊を受けた死者は灯籠舟を流した者に加護を与えるという。

 極東民族の祖霊信仰に由来する行事。しかしながら、現在の灯籠流しは本来の形から大きく変わったものである。

 古書に伝わる極東民族の祖霊信仰では、夏の頃に祖先の魂が現世の子孫の元を訪れるとされている。その常世より現世へ戻る霊を迎え入れる“迎え火”と、現世から常世に戻る霊を送る“送り火”の対になる二つの行事が存在し、灯籠流しは送り火に該当するものである。祖先の霊が灯籠舟に乗り、海の彼方の十万億土へと帰って行く。

 だが、現在では迎え火は失われており、死者の霊を黄泉へと帰すための灯籠流しは、生者の祈りを黄泉の死者へと届けるためのものになった。祖霊信仰を持たないレゼ民族と、本来的な祖霊信仰が失われた極東系レゼ人により紡がれた歴史から生まれたエイリス地区独自の灯籠流しは、遠い祖先ではなく身近な死者のための祈り。舟には灯籠のみならず、祈りを届けたい故人に関わる物を乗せて流す者もいる。縁あるものを乗せれば、祈りを送りたい相手が見つけやすかろうという、素朴な信仰。

 灯籠流しの夜は、川を流れ往く燈火が幻想的な景色を作る。この独特の景色目当てで辺境のエイリス地区に他地区から訪れる観光客もいるという。しかし、本質的には地元の祭りであり、また、王都を中心に極東系レゼ人への蔑視感情を持つ者も多い現状では、灯籠流しを観光収入源にするというエイリス地区政庁の努力は実ることはなく。

「うーん、場所との雰囲気に合うのかな……?」

 後ろを向いて振り返り、鏡に映る自身の背面を見ながら呟く。

 イトは灯籠流しに参加するのは初めてだった。灯籠流しは十歳の頃にイトがエイリス地区に移っていた時期よりも遙か以前から存在している伝統行事ではあったが、イトは中心街に行くこと自体を避けていた。

 中心街のティルベリア遠征記念館前には、ヤマノイ家初代のヒデマサ・ヤマノイの銅像が目立つところに設置されている。没落したヤマノイ家の娘であるイトにとって、偉大なる先祖の栄光を目の当たりにすることへの苦味がある故に、今まで避けてきた。

 とはいえど、そのような後ろ向きな考え方は良くないという自覚は持っている。フィーネに灯籠流しに行かないかと誘われたのを奇貨として、避けていた中心街に行ってみようという気持ちもあった。だが、それ以上に、純粋にカティや新たな友人たちと遊びに行くことへの楽しみが心の内の大部分を占めている。

 前を向き直して鏡面に近づけた顔が、少しばかり自然に綻ぶ。

「髪飾りも、一緒に新しく買えばよかったなぁ……」

 蝶を象った小さな髪飾りを付けながらイトは独りごちる。浴衣を対になるものを見繕ったのだから、髪飾りも揃いのものを買ってくればよかった。

 一応、手元にカティと揃いの髪飾りはあるにはある――椿の髪飾り。六年前、カラザの小間物屋でレーナに買ってもらったもの。母が“特憲(とっけん)”に連れて行かれた日の夜に付けていたもの。

 カラザの別邸からエイリス邸へ、エイリス邸から高等騎士学校へ移る時も持ってきていた大切なものであり、心が痛む記憶を呼び起こすもの。故に所持はしていても身につける気持ちにはならない。

 カラザの別邸からエイリス分舎まで持ってきたものは他にもある。古びたヒヨコの絵本と、そして――

「イト、そろそろ行こう?」

 既に外出準備を終えたカティが、イトに声をかける。

 カティは黒の地に夕顔柄の浴衣姿。イトの浴衣と同デザインの色違い。

 背が高くスレンダーな体型のカティは、非極東系ながら浴衣のみならず極東装束が非常に似合う。帯に胸が乗ってしまい着崩れやすいイトにとっては、綺麗に着こなせるカティの体型には憧憬と羨望が少なからずあった。

「あ、ごめん、カティちゃん。そろそろ行かないとだね」

 フィーネたちとは現地集合の約束をしていた。余り待たせては申し訳がない。

 イトは外出用の小物が入った巾着を手にし、カティと共に学寮の私室を後にした。


    *

 

 中心街のロッカ園に到着したのは、日も沈んだ後だった。川には既に灯籠舟が幾つか放たれており、光の流れを形作っている。

 園内は軽食や菓子類、遊戯の出店が立ち並び、人が賑わう。

 待ち合わせ場所は、園内北側の管理事務所近く。サヤ曰く、出店が無く灯籠の流れる川が見えづらいと場所。灯籠流しの際にわざわざ訪れる人はおらず、それ故に待ち合わせには好適とのこと。

 実際に、管理事務所の建物が見えたあたりでサヤ達の姿を視認できた。それはサヤ側も同様であり。

「あ、イトー、カティー! こっちー!」

 藍の松葉模様の浴衣を着たサヤが、手を振りながら明るい声をかける。サヤの両隣にマリナとフィーネ。

 マリナは半袖の白ブラウスに黒のジャンパースカートと大人しめ、フィーネは薄緑のノースリーブシャツにショートパンツと涼しげな私服姿。

「ごめんね、みんな。待たせちゃったかな?」

「ううん、平気」

 マリナが自然な笑顔を見せながらフォローする。出会った当初は人見知りでぎこちなさを感じさせたマリナも、今ではそういった素振りは一切見せないくらいには親しくなっていた。

「全員揃ったし、舟流す前に色々見に行こう。まずお勧めはね――」

 サヤを案内役として灯籠流しの出店巡りが始まる。道すがらに聞けばマリナとフィーネも灯籠流しは初参加という。

 マリナは入学一ヶ月前に他地区から越してきたため。どこか彼女には自分と似たようなものを感じていたのは、他地区出身者という事情によるものだろう。以前に住んでいた場所や越してきた経緯は気になるが、尋ねることはしない。彼女がどことなく話したくなさそうな雰囲気であり、また、イト自身が自分の出自を話すことに対して厭う気持ちを持っているためである。

 フィーネは家が厳しくて遊びに行かせてもらえなかったという。エイリスの名門騎士リスト家の令嬢らしい回答。かつてリスト家がエイリス地区に寄進した私有庭園が今現在自分たちのいるロッカ園であるという逸話は同家の歴史と富、権威を物語っている。

 友人達と話を咲かせながら祭りの園内を歩く。その景色はイトに驚きを感じさせた。灯籠流しに赴いた人々は非極東系の容姿であっても極東民族の装束である浴衣姿であった。かつて暮らしていた王都やカラザでは決してみることの無かった、極東系レゼ人が多いエイリス地区ならではの光景。園内を散策している際に出会ったサヤの知り合いだというコクヤ関の警備隊長をしている老人や極東街で甘味処を開いている若い女性も非極東系の容姿だがやはり浴衣姿であった。

 そして立ち並ぶ出店は、見ているだけでも中々に楽しい。菓子の出店は砂糖漬けのフルーツやクレープ、団子や飴と色取り取り。遊戯の出店も種々様々。

 目に入った中では射的の出店に心を惹かれた。口に出す前にフィーネに気になるのと尋ねられて、赤面しながら首肯し、挑戦。使用するのはオモチャの長銃。レーナのことを思い出してしまう。結果は、全弾的外れ。一発たりとも掠りもせずに、サヤもマリナも苦笑。フィーネは変わらずにこにこと笑んでいる。カティからは短く慰められた。先の経緯もあり、かなり気恥ずかしい。

 サヤの熱心に勧められて団子を買った。行儀が悪いと思いながらも食べ歩く。母がいたのなら、おそらく叱られているであろう。僅かばかりの後ろめたさと、一緒に友人とそれを行うことによるある種の昂揚感。食した後にカティが口元に餡をつけたままなだったので、懐紙で拭う。小さい頃と同じで懐かしく感じる一方で、サヤからは母親みたいだと言われてしまった。嬉しくもあるが、不満もある複雑な気分。どうせなら母親ではなく姉みたいだと言ってほしい。

 型抜きという遊びを試してみた。コクヤ関やエイリス大時計塔のシルエットを模した切れ目に添って板菓子を楊枝で刳りぬく。力を込めすぎてイトは早々に真っ二つにしてしまったが、カティが非常に上手にくり抜けた。初めて知る意外な才能。灯籠流しの度に試みては失敗するサヤも驚嘆していた。景品は狐のお面。カティはそれを側頭部に括りつけて少し誇らしげだった。なお、板菓子の味は正直なところ口に合わなかった。半分ほどで持て余す。一方でカティは普通に完食していた。嫌いではないというので、残った部分を彼女に託した。

 シャボン玉セットをサヤが買い、マリナに吹きかける悪ふざけをして叱られていた。いつの間にか同じものを購入していたフィーネが、サヤを叱るマリナに後ろからシャボン玉を吹きかける。結果として、ふたり並んでマリナに叱られる。彼女たちの遣り取りにイトは思わず笑ってしまう。隣にいるカティを見ると、彼女も楽しそうに小さく笑んでいる。

 とても楽しかった。思えば、カティと一緒に賑やかな場所を遊び歩くのは随分と久しぶりであった。カラザの別邸時代は外出を誘っても殆どカティは断っていて、エイリスに移ってからはイトが中心街へ出ることに躊躇っていた。

 祭りの楽しさの中に、一抹の切なさをイトは覚えた。幼い日を思い出す時には必ず、母とレーナの顔が浮かぶ。

 会うことは叶わぬ人。もはや触れ合うこともできず、声を聞くこともできない人。ただ、その死を悼むことしかできない人。だから私は、灯籠流しの夜に――

「ねえ、そろそろ灯籠舟もらいに行く?」

 つと、マリナのお説教から解放されたフィーネが切り出す。お叱りの反省は何処へやら、彼女はキジウ山で出会った頃と変わらずにこにこと笑顔だった。

「そうしよそうしよー」

 サヤがふにゃりとした笑顔で続く。

「わたしは小さいのにするけど、みんなはどうする?」

 灯籠舟は小型と大型の二種類がある。通常は小型の舟だが、故人に纏わるものを乗せて流す場合は大型のものを用いる。大型の灯籠舟と小型の灯籠舟は、園内の別の川から流すことになる。

「私も小さい方で。それが普通のなのでしょ?」

「じゃあ、私もサヤ達と同じにする」

 サヤとマリナとフィーネが小型舟と決める中で、イトはおずおずと言った。

「……私は灯籠以外のものも乗せるから、大きい方、かな……」

「わたしはイトと同じで」

「ふたりは大きいのなんだ?」

 イトとカティは大型舟。全員の意向を確認すると、サヤが思案顔となる。

「となると流し場が違うから、あとで合流かな? 場所は管理事務所前でいい?」

「うん、そうだね、サヤちゃん」

 合流場所を取り決めると、イトとカティ、サヤとマリナとフィーネで二組に分かれてそれぞれの流し場へと向かう。

「カティちゃんも灯籠以外のものを流すの?」

「ううん、違う」

「そうなの?」

「うん。イトをひとりにしておけなくて」

「あはは、ありがとう、カティちゃん」

「うん」

「確かにみんなが小さい方で、私だけが別だったら嫌だったかなぁ……」

 カティと話ながら歩く内に、流し場へと到着する。灯籠舟の受け渡しはエイリス地区政庁が行っており、流し場近くには政庁舎の紋章がある簡易テントが設置されていた。

「カティちゃん、灯籠舟もらってくるね」

「うん」

 イトはテントへ向かい係員の女性に声をかける。 

「あの、二つお願いします」

「はい、わかりました――ん?」

 係員の女性の声に聞き覚えがあった。釣り目がちで勝ち気な印象を与える顔は見知ったもの。

「ユイ叔母様……?」

「イト! 久しぶりじゃない!」

 係員の女性は、地区政庁の職が決まってエイリス邸から中心街へと移った叔母のユイであった。


   *


 地区政庁のテント近くのベンチにイトとユイが並んで座る。カティはふたりから少し離れたところに立ち、灯籠舟を眺めていた。

 地区政庁勤めのユイは灯籠流しの事務局として駆り出されているという。久しぶりに会った姪と話がしたいということで、ユイは同僚に頼んで少しばかり時間を作ってもらった。

「イトと会うのは久しぶりね」

「四年ぶり、でしょうか……?」

 ユイが地区政庁の職が決まってエイリス邸から出て行ったのは母の死から二年後、イトが十二歳の頃。

「となると、イトは十六歳か。今は高等騎士学校に行ってるのね」

「はい。ダイゼン家の華伝流修得者として、ヨリ叔母様やユイ叔母様のご期待に添えるよう、頑張りたいと思います!」

 イトの言葉受けて、ヨリは苦笑しながら手を振る。

「いいのいいの、そんなこと。あたし達のことなんか気にせず、イトはイトのために生きなさい」

「ですが、私はダイゼン家の“高砂”まで受け取っていて……ユイ叔母様もそれには賛成していると……」

「あー、あれね。あたしがイトに“高砂”を譲ることに賛成したのは、多分、ヨリ姉さんとは違う理由よ」

 曰く、ヨリはイトをダイゼン家家法の華伝流薙刀術の後継者、つまりは実質的なダイゼン家の後継者とみなしていたことが“高砂”を譲渡した主因。一方でユイは単純に“高砂”が勿体ないというのが理由という。没落したダイゼン家に死蔵するよりかは、才ある若いイトが所持するのが武具の正しい在り方だとユイは考えていた。

「だいたいね、ヨリ姉さんは自分のことを棚上げして、イトにダイゼン家のことまで背負わせるのは酷いと思うんだよ、あたしは」

「棚上げ……?」

「そう、棚上げ。ヨリ姉さんはね、自分がダイゼン家の跡継ぎを残すって考えがないの。それでいて家名だけは伝えたいって気持ちがあるから、イトに華伝流を教え込んで後継者扱いしてるのよ」

「ヨリ叔母様が、ですか!?」

 ユイの言葉は、イトにとっては信じがたいものであった。

 血筋の存続は歴史と格式に重きを置く極東系騎士の価値観からすれば、国家への忠誠に次ぐ優先すべき使命。それをヨリが放棄している。ヨリは控えめ人柄ではあるが、伝統を重んじる極東騎士らしい人物だと思っていた。少なくとも、幼げな言動だった母よりはずっとそれらしい人物だと。

「どうして、ヨリ叔母様は、そんな……?」

「ヨリ姉さんはね、高等騎士学校時代に恋人を亡くしているの。その人のことをずっと忘れられないみたい。だから誰かと結婚して、跡継ぎを残すっていう生き方を拒否したのよ」

 そのヨリの意思を知っているのは、ヨリの姉である母と妹のユイのみで、イトの祖父母にあたる彼女らの両親には没するまで隠し通していたという。

 イトの母方の祖父母、特に祖父はユイ曰く“悪い意味で騎士らしい人間”。ユイたち三姉妹をダイゼン家の繁栄と存続のための道具としか思っておらず、親子の情愛を感じたことは無かったと、ユイは忌々しげに言った。そんな両親に対して、母は強く反発しており、それが本来はダイゼン家の家督を継ぐ立場であった母が、ヤマノイ家に嫁いだ理由にもなっているという。

「まあ、ツムギ姉さんやあたしと違ってヨリ姉さんは“いい子”だから、跡継ぎを残せずともダイゼンの家名や華伝流は何らかの形で残したいって気持ちはあるみたい。でも自分は死んだ恋人に操を立てていたい。その結果が、イトへの華伝流伝授と“高砂”の譲渡って訳。身勝手でしょ、あの人」

 言葉としては非難めいたものがあるが、その声には非難はなく、代わりに憐憫があった。

「ま、あたしも男と結婚する気なんて更々無くて、薙刀の才能がないことをヨリ姉さんは承知している。だから、ヨリ姉さんがイトをダイゼンの後継者扱いする理由は、あたしのせいでもあるのだけどね」

 肩を竦めながら皮肉っぽくユイは笑う。声は憐憫に加えて、自嘲と罪悪感がない交ぜとなっていた。

「けど……あんなに自由に生きているように見えたツムギ姉さんが、結局は家に縛られる生き方をしていて、騎士としての伝統を重んじているように見えるヨリ姉さんが、実際はダイゼン家を終わらせる選択をしているんだから、よく分からないわね、人間って」

「ユイ叔母様……」

 イトは言葉を継げずにいた。ヨリの真意。母と祖父母の関係。初めて知ることであった。

 自分は母に愛情を注がれていたという自覚がある。だからこそ、母と祖父母の間に親子の情愛が希薄だったというユイの話は、とても寂しく悲しいものだと思えた。

 幼い頃は、親子の間には互いに想い合う愛情があるのだと当然のことだとイトは思っていた。だけど、今は違う。長じるに連れて、イトは知ることに――否、気付くことになった。親子であっても、冷たい関係は存在しうるのだと。

「……って、ごめんね、イト、変な話をして。とにかく、あたしはね、ダイゼン家のことやヨリの考えに囚われたりしないで、イトはイトのために生きてほしいって伝えたいのよ。貴女は、真面目すぎるからね」

 イトの様子に気付いたのか、ユイは申し訳無さそうに笑いながらベンチから立ち上がる。

「ちょっと長居しすぎたわね。じゃあ、お祭りを楽しんでってね、イト」

「はい、叔母様……」

 市庁舎テントに戻るユイを見送った後も、イトはベンチから立てずにいた。カティが待っていることをわかっていながらも。

 ダイゼン家やヨリの考えに囚われないようにと言うユイの忠告。それが、イトの心に突き刺さっていた。

 死んだ恋人を想い続けて“家”の存続を放棄する一方で、イトをダイゼン家の後継者扱いするヨリ。それは、家督を継ぐ立場でありながらヤマノイ家に嫁ぐことでダイゼンという“家”を放棄する一方で、イトにヤマノイ家の再興を託した母の姿と鏡写しに思えてしまった。

 故に、ヨリやダイゼン家のことを気にせずに生きていくべきと言うユイの言葉は、母のヤマノイ家再興という願いを至上としているイトに対する警告として突き刺さる。

「母様、私は……」

 母様の願いを叶えたい。ヤマノイ家再興という願いを。

 けれども、それは本当に私自身の願いなのだろうか――わからない。

 イトは瞼を下ろす。私にとって、本当に大切なものは何なのだろう。

 母と、カティの顔が浮かんだ。

 カティ。幼い頃から一緒にいる、姉妹のような女の子。

 母と同じくらい、大切な人。そして、私のことをとても大切にしてくれる人。

 キジウ山での山岳訓練。自分を背負って歩くカティ。疲労が限界に達してもなお、何も言わずに私を背負って歩いてくれた。

 あのことを思い出すと、胸が潰れそうになる。

 フィーネたちに助けられる直前、雨の冷たさと体調の悪さでぐちゃぐちゃになっていた自分はカティに何か声をかけようとしていた。今はもう、再現できない思考。

 あの時の自分は、カティと母の願いを天秤に掛けていた。

 あの時の自分は、カティに何を言おうとしていたのだろうか。わからなかった。

 あの時の自分は、カティと母の願いのどちらを選ぼうとしていたのだろうか――


    *


 川を流れていく灯籠舟を眺めている内に、ユイさんとの話を終えたイトが戻ってくる。

「ごめんね、カティちゃん、待たせちゃったね」

「ううん、平気」

 イトはどこか哀しそうな顔をしていた。

「イト、何かあったの?」

「え……その、うん、大丈夫、心配しないで」

 口ごもった後、イトは笑顔を作る。無理矢理な笑顔。

 イトとユイさんの間にどんな会話があったのだろうか。気にならないと言えば嘘になるが、わたしはそれ以上は踏み込まない。イトにはイトの事情や理由があるのだから。

「はい、カティちゃんの灯籠舟、もらってきたよ」

「うん……うん?」

 手渡された灯籠舟を見ると、手製の吹き矢が乗せられていた。カラザの別邸に住んでいた頃、母がイトに対して手作りしたものだ。

「レーナさんのために流す舟だよ。私は、母様のための舟」

 イトの持つ灯籠舟には、“誠虞堂”の文字が入った古い薬袋があった。ツムギさんが使っていたもの。

「いいの? これ、イトのだよね?」

「気にしないで、カティちゃん。レーナさんのものは、これしかないのだから」

 寂しそうに、イトは笑った。キジウの別邸から、エイリスの高等騎士学校まで持っていた想い出の品を、イトはわたしのために灯籠舟に乗せてくれていた。

 その彼女の善意が、温かくて。苦しくて。

「一緒に流そう」

「うん」

 流し場へ行き、舟を流す。

 イトは掌を合わせて目を閉じていた。極東民族の祈り方。自分も同じようにする。

 瞼を閉じた暗闇の中で、わたしは思う。

 イトはツムギさんへの祈りを託して、灯籠舟を流している。

 だけど、わたしは祈りの言葉が浮かばなかった。母に対して祈る言葉を、わたしは持ち合わせていなかった。母に対して、何も想いを抱いていなかった。

 イトの流した灯籠舟は、きっと海の彼方まで、ツムギさんのいる場所にまで届くのだろう。

 だけど、わたしの流した灯籠舟は、何処へ行くのだろうか。

 わからない。

 空白の祈りを乗せて、何もない想いを乗せて、母に届くことすら願われないこの舟は、何処に流れて行けばいいのだろうか。

 わからない。わからない。

 少しだけ、瞼を開く。隣のイトは、まだ目を閉じたまま祈っている。

 川に目を向ける。光の舟が浮かぶ川は、綺麗な景色だと思った。だが、それだけだった。

 再度、目を閉じ、手を合わせる。形しかない祈り。

 結局、自分には母を弔う思いも、母の霊に縋る願いもなかった。

 この何も無い祈りの行方は、何処なのだろうか。

 わからない。わからない。わからない。

 大切にしていた母との想い出の品を、イトはわたしのために手放してくれたというのに、わたしには何も無かった。

 イトしか、いなかった。

「ねえ、カティちゃん」

「うん?」

 声をかけられて目を開く。イトは小さく笑んでいた。

 懐かしむように。悼むように。

「私はね、レーナさんのこと大好きだったよ。私に、とても優しくしてくれた」

 愛おしむように。悲しむように。

「けど、レーナさん、カティちゃんのことは――」

 言いかけて、イトはかぶりを振って俯く。

「ごめんね、カティちゃん。私、何を言っているんだろ……」

 イトの横顔は髪にかかって覗えない。だけども、その声は泣きそうなものだった。

 わかってしまった。

 イトが何を言おうとしていたのか、わかってしまった。

「いいの」

「カティちゃん……?」

 イトの左手に、右手を重ねる。

「それだけで、いいの」

 重ねた手を握る。

 自分の裡にある、澱のような黒いものが消えていった。

「うん……ありがとう」

 イトは頷く。横顔は相変わらず覗えないが、泣きそうな声は穏やかなものになっていた。

「イト、もう一回、お祈りしよう?」

「そうだね、カティちゃん」

 俯けていた顔をわたしに向けて、イトは微笑んだ。

「もう一回だけ……うん」

 イトはもう一度、目を閉じて合掌する。わたしも同じように。

 瞼を閉じた暗闇の中で、わたしは思い直す。

 わたしには、イトしかいなかった。

 だからこそ、祈るべき言葉が見つかった。

 母さん、どうか――あなたが大切にしていたイトを、幸せへと導いてほしい。

 わたしではなく、イトの幸せを、どうか。

 それがわたしの、母への祈りの言葉だった。初めての祈りだった。

 わたしの祈りは、灯籠舟で母の元に届くのだろうか。

 わからない。わからない。わからないのだけれども。

 届いてほしかった。

 イトのために。

 わたしのことを想ってくれる、ただひとりの人のために、この祈りが届いてほしかった。


(第三章 了)

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