山にて
ツムギの葬儀から五年近くが過ぎた。
イトとカティが十五歳、高等騎士学校に入学するまで十日切った頃。エイリス邸に併設されている道場では、春の温かみに包まれた日の夕刻に薙刀の稽古が行われていた。
「はぁっ!」
袴姿のヨリが声を張り上げながら先皮のついた練習用薙刀を真っ直ぐに突き出す。しかし相手はそれを巻き絡め、彼女の右手の籠手を打つ。
「くっ……!」
打たれた痛みでヨリは薙刀を取り落とす。しかし表情は誇らしげ。それは、成長した姪の実力と、彼女の才をそこまで伸ばせた自負。自分の修めた華伝流薙刀術の全てを、姪に教え込んだ成果を示された達成感。
「私の負けですね、イトちゃん」
ヨリは相手に、亡き姉の娘であるイトに対し笑いかける。
「手合わせ、ありがとうございました、ヨリ叔母様」
イトは叔母に対して一礼する。五年前に一度も勝てることの無かったヨリと渡り合えるようなった自信を感じさせる、凛とした声と立ち姿。普段は大人しく、気弱な面のあるイトは薙刀を持つ時だけは武人としての胆力を示していた。
「今日の稽古はこれで終わりにしましょう。それと、夕食後に私の部屋に来てもらっていいかしら? お話ししておきたいことがあるので」
「お話し、ですか?」
「イトちゃんはもう少しで高等騎士学校に入るのですから、その前に色々と話しておきたいことがあるのです」
ヨリの言葉には、どこか懐かしむような気色があった。ヨリはエイリス分舎で極東武術の教官職を求めていたが、極東系レゼ人の多いエイリス地区では人数が足りている故に叶わなかった。かつての職に、ヨリは未だに焦がれる姿を見せる。
「あの、騎士学校の話なら、カティちゃんも一緒の方がいいですか?」
「ええ、そうですね……一緒に来てください。では、道場の後片付けをお願いしますね」
「わかりました、叔母様」
一礼して、叔母の薙刀を預かって彼女を見送った後、イトは道場の隅にいるカティに声を掛ける。
「終わったよ、カティちゃん」
「うん」
カティの元まで来ると、イトは彼女の顔を見上げて笑いかける。カティは五年で更に身長が伸び、今では大人のヨリやユイよりも背が高くなっていた。イトとは頭一つ分ほどの身長差。そして、カティは袴姿ではなく平服であった。肩からは水筒を提げている。
カラザの別邸にいた時とは違い、カティは薙刀の稽古を辞めていた。カティから申し出たこと。
一緒に稽古することを楽しんでいたイトには寂しいものがある一方、仕方ないとも思っていた。ヨリは決して、カティを不当に扱っている訳ではない。だが、姉の死と一族の没落の原因となったレーナの娘であるカティに対し、何処かしら壁があるようにイトには感じられていた。
「薙刀、二つとも片付けておく」
「お願い、カティちゃん」
「うん」
叔母と自身の薙刀を、カティに手渡す。今のカティは、イトの従者でありエイリス邸の使用人のような暮らしをしていた。
母の死から一年も経たずしてタキガワ媼は病を得て没した。タキガワ翁は高齢であり、夫婦で取り仕切っていた家事を彼ひとりで全て担うことが困難であるため、カティが自分もタキガワ翁と一緒に家事に参加すると申し出た。
タキガワ翁は恐縮し、叔母二人もそのようなことはしなくていいとは言っていたが、結局はカティ自身の望みと言うことから是認された。今にして思えば、叔母たちの制止は表面上だけで、カティが使用人の仕事をすることを望んでいたのかもしれない。新たに人を雇うよりも、カティにやらせる方が安く付くからである。その選択を暗に叔母たちが望む程度には、エイリス邸の収入は少なくなっていた。
イトら騎士階級の収入源は、大きく三つに分かれている。
第一が身分に基づく俸禄。騎士階級であれば子供でも支給されるが、騎士階級内の序列により格差は大きい。家格の高い上士であれば俸禄のみで贅沢な生活が可能な額が支給される、一方で地方の下士にとっては、俸禄だけで生活することは不可能な少額が支給される。副士降格となったヤマノイ家とダイゼン家の俸禄は、上士だった従来よりも大幅削減されている。
第二が公職に就いている場合に支給される職務給。騎士団への任官や騎士学校の教官職などがその具体例となる。ヨリは中央女子高等騎士学校の教官として職務給を得ていたが、解任した今ではこれも失われている。一方でユイは母の死から二年ほど後にエイリス地区政庁で事務官の職を得て、今では屋敷から出て中心街にある政庁職員宿舎で暮らしていた。ユイは職務給の幾分かをヨリの元に仕送りしており、エイリス邸の収入の一つとなっている。
そして第三が公職以外の個人業による収入。特に下士は俸禄のみでは生活が不可能なため、帰農や商売など平民と同じ稼業を営む者もいるが、最もポピュラーな業種は私塾経営であった。教官職を得られなかったヨリもまた、私塾の経営を行っている。
幼年騎士学校に入学できるのは原則的に王都に住まう上士の子女であるため、それ以外の騎士の子女は騎士高等学校へ進学するまでは家庭内学習、または私塾で学習するのが一般的である。中級・下級の騎士階級にとっては私塾は欠かせぬ機関であった。エイリス地区へと移住して女子幼年騎士学校への入学が叶わなかったイトとカティもまた、ヨリたちの私塾で騎士としての基礎的な教養を学習していた。
また、平民階級については公的教育機関がないため、騎士の私塾が平民学校としての機能も担っている。近年では、例えば王都の銀行家であるソウユウ家が平民学校の経営を行っているが、王都市民と地方の富裕層が対象となるため、地方都市の中流階級の教育機関は私塾への需要は未だに極めて高く、地方都市であれば騎士階級イコール私塾の先生という身近なイメージを持つ平民も多く存在している。エイリス地区でも私塾を営む騎士がおり、例えば東部の極東街には、王室極東武術指南役を務めたこともある名士が営む私塾があるという。
エイリス邸の収入はイトら身分に基づく俸禄とユイの仕送り、ヨリの私塾が収入源となっているが、その中で最も大きいものがカティの俸禄であった。ドレクスラー家はレーナの処刑以外に処罰を行われず、故にカティも上士階級を維持していた。ドレクスラー家自体はカティの存在を無視していたが、レーナがドレクスラー家の子女として政庁に登録をしていたため、高家格上士としてカティは高禄が与えられていた。かつてユイがカティをこのまま留めていた方が都合がいいと判断した理由が、このカティの俸禄であった。
ヨリ、イトの副士階級二人とユイの仕送り及びヨリの私塾経営収入の合計よりも、子供であるカティの俸禄の方が大きいという状況が、騎士階級内の身分格差を象徴しており、ダイゼン家とヤマノイ家の低収入化を如実に示していた。
そんな状況の中で、カティの扱いにイトは負い目を抱いてしまう。
「いつも、ごめんね」
「いいの。わたしが、好きでしてることだし」
「あ、そうだ、私、モップ持ってくる……んくっ、けほっ」
不意にイトは口に右手を当てて咳き込む。彼女の姿を見て、カティはすぐに水筒に水を注ぎ、丸薬と共にイトに手渡す。
「イト、薬」
「こほっ、んくっ、ん……ふぅ」
薬を飲み、症状を落ち着かせる。イトは母と同じ肺病を患っていた。
母の葬儀が終わって数日後に、イトは病を発症した。幸いにして母の残した霊薬があり、初めて発作を起こした時は事なきを得た。以降、突発的に発作が起こり、その度にカティの助けを借りている。
胸が苦しい。痛い。だが、母も患っていた病。まるで、自分の内に母の一部が残っているように思えてしまう。そして、そう思ってしまう自身は、少し歪んでいるなと自省をする。
病を得てカティの手を患わせてしまうことと、母への思慕をこじらせてしまっている自分に対する羞悪を抱いてしまう。
「大丈夫?」
「うん、ありがとう、もう大丈夫だよ……」
「そう。よかった」
「私、やっぱりカティちゃんがいないとダメだなぁ……」
「……イト?」
小さく自嘲するイトの言葉をカティは聞き取れなかったようだが、心配そうな顔をしていた。
「ううん、なんでもないよ」
「そう?」
「ねえ、カティちゃん」
「うん?」
「騎士学校の寮でも、一緒になれるといいね」
「――うん」
カティは小さく微笑んだ。
心からの言葉だった。その心の内には、カティとずっとそばにいたいという情愛があり、カティがいなければ自分が真っ当な生活が送れないのではという不安があった。
*
夕食後、イトとカティはヨリの部屋を訪れていた。
イトとカティが隣り合い、ヨリと対面する。彼女たちの間には、人の身長ほどの大きさがある縦長の古い木箱が置かれていた。
「イトちゃん、開いてみてください」
ヨリに促されて木箱を開くと、中には薙刀が安置されていた。
銀色に輝く直刃の刀身。光沢のある霊木拵の柄。ダイゼン家の家宝“高砂”。極東の刀匠ヨシミツ・カンゼの作。その刃は欠けることなく、如何なるものでも砂山を斬り散らすかの如く刃を通すことからその名を戴く。
「ダイゼン家当主として、家宝“高砂”をイトちゃんに譲渡します。高等騎士学校に行く時は、“高砂”を持っていきなさい」
「ヨ、ヨリ叔母様、どうして、私に……!?」
“高砂”は売却すればダイゼン家の土地屋敷は手放さなくても済むくらいの価値ある逸品。だが、叔母二人もそして母も、財産没収の際に“高砂”の売却を是とせずに所持し続けてたことをイトは知っている。
故に、それほど大切にしていたものを、ましてやダイゼン家の家宝を血が繋がっているとはいえどヤマノイ家の人間である自分が“高砂”を譲渡されることには疑問と憚りがある。
「貴女が、私たちダイゼンの血を引く者の中で最も“高砂”を持つに相応しいからです」
そのイトの疑問に対し、ヨリは簡潔に答えて続ける。
「騎士学校では、武具を持参して使用する教練や、他地区の騎士学校との交流試合もあります。騎士にとって、所持する武具は家の誉れに同じ。ダイゼン家の華伝流薙刀術を修め、極東武門の棟梁を祖とするヤマノイの名を背負う貴女は相応の武具を持たねばなりません。その貴女にふさわしい唯一の武具が“高砂”なのです。“高砂”を携え、貴女はダイゼンとヤマノイの武威を示すのです」
叔母もまた、母と同じようにイトに自身の願いを、ダイゼン家の復興という悲願を託そうとしていた。
「イトちゃん、貴女の薙刀の才は目を見張るものがあります。私がかつて教えてきたどの騎士候補生たちよりも、貴女は薙刀の技量に優れている。その貴女が“高砂”を振るい、華伝流の武によってヤマノイ家の名を上げることは、ダイゼン家の名誉を取り戻すことに同じだと私は考えています――なので、私は“高砂”を譲ると決めました。もちろん、ユイも同意しています。私たちが死蔵するより、若く、優れた才のあるイトちゃんが、ツムギ姉様の娘が持つべきだと」
叔母の言葉はひたすら真摯だった。迷いがなかった。心の底からイトの才を認め、家宝とダイゼン家当主としての悲願を託す毅然とした意思があった。
「承知しました、ヨリ叔母様」
故にイトは、深々と礼をして叔母への敬意を示す。
「ダイゼン家家宝“高砂”、イト・ヤマノイが謹んでお受けします」
血が繋がっているとはいえど、家伝の薙刀術を修めているとはいえど、別姓家の自身にダイゼン家を託す叔母の覚悟への敬意を。
「ありがとうございます、イトちゃん。頭を上げてください。これからは騎士学校の話をします。カティちゃんも、聞いていてください」
彼女の言葉を受け、イトが頭を上げる。ヨリは更に話を続けた。高等騎士学校での教練や座学の内容。教官目線での評定ポイント。寮生活をする上での注意。他地区交流試合等の催し物の種類と内容。そして。
「最後に、高等騎士学校には、首席に対して騎士大学校への推薦入学権を与える制度があります」
騎士大学校。高級将校を養成するための高等教育機関。騎士団内の顕職者はほぼ九割方騎士大学校卒業生であり、騎士大学校の入学は将来のエリートコースが約束されるのと同義である。
騎士大学校は例え家柄の高い上士であっても相応の実力がなければ入学は認められず、逆に家格が低くても能力があれば入学が許され、ヨリの言う通り実際に各地区の高等騎士学校の騎士候補生首席の推薦入学が行われている。低家格の者が騎士大学校の入学を許された場合は家格を上士にまで引き上げる制度があり、実力があれば如何なる出自でも――咎を受けた家系であっても立身出生が叶う狭き門。
「首席を目指しなさい、イトちゃん。首席となり騎士大学校への推薦入学権を得るのです。それが、ダイゼンとヤマノイの名誉を取り戻す、最良の道です」
ヤマノイ家の名誉を取り戻す。母との最後の会話。違えぬと誓った願い。その筋道を、ヨリはイトに示した。
「――わかりました。私は、必ずやエイリス分舎首席となり、騎士大学校への推薦権を手に入れます。それが、母様の願いを叶えるためにもなるのですから……!」
イトは叔母を真っ直ぐ見据え、自身の意を明確に示した。彼女の言葉には、願いを託そうとする叔母を十分安心させるだけの力があった。
「ええ、貴女なら成し遂げられると私は信じています。カティちゃん、イトのことを助けてあげてくださいね」
ヨリの言葉を受けてカティは無言で頷き、そして隣にいるイトの手に自身の手をそっと重ねた。
「イト」
「うん、カティちゃん、二人で頑張ろう!」
互いに瞳を合わせ、笑みを交わしながら二人は各々の決意を抱く。尤も、カティが笑っていることをヨリは認識していないであろうけれども。
そして更に日々が過ぎ、イトとカティは高等騎士学校入学の日を迎えていった。
*
ふたりが高等騎士学校エイリス分舎に入学して二ヶ月が過ぎた夏の初め。エイリス分舎では山岳教練が実施される時期となった。
エイリス地区の北部には隣国ティルベリアとの国土を分けるエイリス山脈があり、かつて山岳民族と戦った歴史が存在している。エイリス分舎の山岳教練は、その歴史に由来する伝統行事でありながら、現在でも南方のキドリア地区等で出没する山賊討伐が騎士団の職務となっていることから実践的な教練とも言える。
但し、エイリス山脈は険峻に過ぎるが故に実施場所はエイリス地区北東にあるキジウ山。エイリス山脈に比較すれば低高度であるが、それでも頂上を目指すには経験の薄い騎士候補生には厳しい難易度である。山岳教練は学寮にて同室の候補生同士が一つの班を組み、規定時間内に頂上を目指すという形式。キジウ山頂にはエイリス分舎所有の山頂宿舎があり、教練後に宿泊するその建物がゴール地点の目印となっている。
但し、頂上へ到達する候補生は例年ごく少数のため、基本的には時間経過後の位置で成績評定がされるという。携行物は簡易的な地図、時計、食料と水、そして規定時間後や何らかの事情で進行不可になった場合に教官への救助依頼のために自身の場所を示す魔術式発煙筒が必携とされている。その他、専攻分野によって自由に道具を持ち込むことが許されている。例えば、魔術科であれば魔術具や魔術杖、剣術科であれば木々を切り開いたり野生の獣に対処するための剣等々。
イトが山岳教練で班を組む相手、即ち同室の相手はカティであった。彼女たちは望み通り、学寮では同室になれていた。後からイトが知ったことではあるが、叔母が教官時代の人脈を使いイトの持病から彼女と長い付き合いのカティを日常の場でもそばに置いておくべきだと根回しをした結果である。
但し、術式科の専攻は別々になってしまった。薙刀術を修めているイトは極東部術科であるが、カティは薙刀術の実力がないためイトと同じ術式科を取るという希望は叶わず、代わりに短剣術及び体術に高い適性を示していたことから、二科を同時に学んでいる。ドレクスラー家は弓術で知られているが、カティはそちらについての適性は無かったという。
極東部術科の教練はイトの得意とする薙刀術のみならず剣術等広範であったが、幸いにして極東武術科主任のオキ教官は複数分野で最も適性を示したものに基づいて評定をしていたため、イトは成績優秀者であった。
それでも現状に甘んじず、休日であろうとも学内の道場での自己鍛錬を欠かさない。
首席を目指す。首席には王都の騎士大学校への推薦が行われる。没落し、副士降格をしたヤマノイ家の娘であるイトにとっては、騎士大学校への推薦権は自身の願いのために必須。ヤマノイ家の再興。死に往く母に誓った願いのために。
だから、多少は無理をしでも、優秀な成績を修めなければならない。それが、今日のように極めて体調が悪い日であっても。女として生まれたことを恨みたくなるような痛みを抱えた日であっても――
「イト、大丈夫……?」
「う、うん、平気……」
右隣に立つカティに気遣うように小さく声をかけられ、イトは引きつった笑顔を作って返す。顔は若干青ざめていた。
下腹部の内側を締め付けられるような痛み。腰が重い。頭が痛い。軽い吐き気がする。朝、重苦しい痛みで目を醒ましてから最悪の気分であった。ベッドシーツの血痕が、自分の状況を明示して精神的にも陰鬱となる。カティには言葉に出して伝えていないが、ぎこちない自分の姿を見ればまず間違い無く察しているだろう。彼女は自分と比較するとかなり軽いようで、心底羨ましく思う。
早朝。キジウ山麓。山岳教練前の教官の訓示。それを起立して聞く候補生たち。叶うことならば、起立をせずにこの場に座り込みたいが、流石にそうする訳にはいかない。
夏の初めだが北方のエイリス地区は気温が低めであり、しかも小雨である。その低気温が、イトの体調をいっそう悪くしていた。雨降りのため、イトもカティも、他の候補生たちも騎士制服の上に合羽を羽織っていた。極東武術科専攻の候補生は袴姿でも平時は過ごすことを許されているが、同期にはまだそのような候補生がいないため、イトも教練以外は騎士制服姿で通していた。いつかは、日常も着慣れた極東装束で過ごしたいという思いはある。
今回の教練責任者である教官統括ファンファーニが大きな声で訓示を行っているが、正直なところ頭に入ってこない。ファンファーニ統括は大柄で筋肉質の猟兵であり、教官になる前は南方でムルガル人の山賊討伐を行っていたという女傑。その彼女の訓示内容はきっと有用かつ貴重なものだとわかるのだが、それを惜しむ気持ちも生じず、ただ痛みに堪えて立ち続けることで精一杯だった。
ファンファーニ統括の後に、体術科主任教官シウによる諸々の説明が交代で行われるが、やはり耳に入らない。そのまま話が終わることだけをひたすら待つ。
「――以上で説明は終わりです。では、山岳教練に入ります。各班、移動を開始してください」
シウ教官の言葉を受けて、直立静止から解放された喜びがイトにあった。姿勢を崩し、歩き出そうとする。
「う……」
しかし、直立状態から少し足を動かしたイトは、呻きを絞り出し顔を顰める。下腹部と腰に鈍い痛み。じっと動かず立つのもつらければ、動くのもつらい。
イトが痛みで足をすくめている最中、左隣にいた黒髪眼鏡の騎士候補生が深い溜息をついた。
「はぁ……気が重すぎるわ……私、体力無いのに……」
「大丈夫だよ、フィル。いざとなったらあたしが背負ってあげるから!」
独りごちる彼女の背中を、長身赤毛の候補生がバンバン叩きながら軽い調子で言っている。
「カティちゃん」
「うん?」
「いざとなったら私のこと背負ってもらっていい、かな……?」
二人の騎士候補生の遣り取りを見たイトは、ぎこちない笑顔をしながらカティに言った。半分冗談であり、半分本気。
下らないことを言った自嘲からか、痛みが少しだけ和らいだ――気がする。
「うん、任せて」
一方イトの言葉を受けた、カティは頷き答える。本気の口調。いざとなったらカティは本当に自分を背負ってキジウ山を登るかもしれない。
細身ながらも背が高い彼女が、とても頼もしくイトには見えた。
*
山中、雨は更に激しくなった。合羽や魔術繊維性の騎士制服越しでも、雨露の冷たさが染みいる。下腹部の痛みが強まる。頭痛も更に酷くなる。
自分を背負うカティの息が荒い。背中越しに、彼女がとても疲労していることがわかる。それがつらい。
ああ、私はなんて馬鹿なことをしているのだろう。カティに、こんなことまでさせてしまって。
「カティちゃん……ごめんね」
謝罪が口に出る。涙声になっていた。
最初は良かった。教練前の訓示や説明の時よりも、痛みはかなり軽くなっていた。少しだけ我慢しながら、山道を歩き続けられた。
だが、甘く見ていた。波があった。徐々に、下腹部を殴りつけられるような痛みが強まっていった。それでも山道を歩き続けた。
雨が強まり、身体が冷えた。肩に掛けていた雑嚢が異様に重く感じられた。それでも山道を歩き続けた。
無理が祟った。痛みが更に強まった。歩くのが耐えられずにうずくまった。強い吐き気を催した。途中で口にした携行食糧も全て吐き戻してしまった。もはや山道を歩き続けることができなくなった。
痛みでうずくまる中で、カティが自分を背負ってくれると言った。麓で、自分が頼んだからと。
言った時は半分冗談半分本気。だが申し出を受けた時は、心からをカティにそれを頼んだ。
甘かった。甘えていた。
自分とイトの二人分の雑嚢を肩に掛け、動けなくなったイトを背負って進むカティ。
彼女の足どりが、少しずつ、重く、遅く、力が無くなっていくのが如実にわかってくる。
情けなくて。申し訳なくて。悔しくて。恥ずかしくて。
緊急用の発煙筒を使うことも少し考えた。
それでも、諦められなくて。
山岳教練は単なる行事ではなく評定に影響すると叔母から教わっていた。首席を目指す。騎士大学校の推薦権を得る。母様の、死に際の願いを叶える。だから、発煙筒を使うことは有り得ないという結論になった。
その一方で、カティに自分を背負って山道を歩かせるという無理なことをさせていることに罪悪感を抱く。
結果として、自分の望みを叶えるためにカティを利用することに対する罪悪感。押し潰されそうだった。
「わたしは、大丈夫」
イトの気持ちを察したのか、カティは慰めるように答えた。彼女の声は、優しく、掠れていた。
「ごめんね……本当にごめんね……」
「イト、泣かないで」
振り向きもせず、カティはイトを背負いながら前へ進んでいく。
山林は更に深まっていく。雨が強まる。道がぬかるむ。曇天で暗くなる視界の先に、先に大きめの倒木があるのが見えた。
「イト」
「どうしたの?」
「少し……休憩していい?」
「も、勿論だよ!」
イトの答えを得ると、カティは少しばかり足を速めて倒木の所に辿り着く。
カティは背中からイトを下ろし、倒木に座った後に彼女に膝枕をして伏せらせる。横になると、少しばかり楽になる。
「はぁ……ふぅ……」
カティが呼吸を整える。見上げる彼女の顔は、疲労が色濃く見えていた。
雑嚢から水筒を取りだし、口を付ける。
「あ……ない……」
カティが小さく呟く。幾度かの給水で、既に水筒が空になっていた。
「カティちゃん、あのね」
「うん?」
「私のお水、飲んで?」
「いい」
「けど、カティちゃんが……」
「イトは肺病もあるから、薬飲むための水を残しておかないと、ダメ」
カティの言葉には、有無を言わせぬものがあった。
それがカティ自身の望みなのだと、イトに言い聞かせるようだった。
「わたしはもう、大丈夫。イトは行ける? まだ、休む?」
「行く……」
再度、カティに背負われて進む。
山林は更に深くなる。視界は更に暗くなる。雨は更に激しくなる。傾斜は更にきつくなる。
「う……んぅ……」
傾斜がきつくなるのと比例するかのように、下腹部の鈍痛が大きくなる。全て吐き出したはずなのに、また吐き気がぶり返す。呻きめいた声を、漏らしてしまう。
視界が揺らぐ。それは自身の体調不良によるものではなく、カティの足どりがはっきりと覚束なくなっているため。
もう、彼女は限界かもしれない。このままでは、カティの身体に取り返しが付かない傷を負わせてしまうと直感した。
停止するしかない。山岳教練の成績を諦めるしかない。発煙筒を使おう。
そう決めようとする一方で、ここで諦めたら、取り返しが付くのだろうかという疑念が湧き出てくる。死に往く母の願いが頭を過ぎった。葬儀の日に自分が死んでも泣かないでと言う母の願いを違えてしまった。だから、他の母の願いは決して違えぬと誓った。
だけど、このままだと――
「…………」
カティは、こちらが言葉を発しない限りは無言だった。
どうすべきなのか。どうしたいのか。
「カティちゃん、私は――」
「――ねえ、大丈夫? ふらふらしてるよ?」
「ひゃ!?」
カティに声を掛けようとしたのと同時に、不意に別の少女の声がかかった。
声の方を見ると、左側の木々の間に騎士制服姿に合羽を羽織った少女が立っている。同じ山岳教練に参加している騎士候補生だとイトは見て取った。
山頂へのルートは各班が独自で決める方式であり、どうやら簡易地図に記されていない脇道があるようで、彼女はそこを通ってきたらしい。
少女はカティほどではないが同い年の女子では長身であり、合羽のため正確な長さはわからないが白金色の髪をしていた。琥珀色の瞳をした切れ長の釣り目の美しい顔立ちで、にこにこと笑いながらイトとカティの元に歩き近づく。
見覚えのある顔。確か、座学科で同じ教室にいた子だった。
「あ、ごめん、名乗ってなかったね。私はフィーネ。フィーネ・フォン・リスト」
彼女の姓は代々エイリス地区騎士団総裁を務めている地方名族のもの。確かに名族の娘らしい高貴な雰囲気を感じさせる立ち居振る舞いであり、そして何処か高級人形めいた印象を与える少女であった。
「フィーネ、誰かいたのー?」
リストの後ろから快活な声がかかり、もう一人の少女が姿を現す。
黒髪や顔つきは極東系の容姿だが、極東系らしからぬ蒼い瞳の少女。顔に覚えがある。同じ極東武術科の騎士候補生で、確かイフジ、サヤ・イフジという名前だったはず。
「あの、大丈夫ですか……? 背中の子、すごく顔色が悪そうですけども……」
更にイフジの後ろから、宙を浮く絨毯のようなものに乗った少女が続く。翠眼に薄茶のお下げ髪。小柄で童顔の少女であり、幼年学校の生徒と言えば信じるかもしれない。彼女も座学科教室で覚えがある顔。おそらく魔術科を専攻しているのだろう。リストの班は自分達と異なり三人編制であった。
「ふたりとも、すごくつらそうだし少し休憩した方がいいと思うよ。私たちもこの道に出たら休憩しようって決めていたし、一緒にどう?」
リストが笑顔で申し出る。彼女の言葉には屈託が無く、そしてイトにとっては天啓であった。
「あの、お願いします! カティちゃんも、いいよね?」
「うん。わたしも、お願い、します」
カティの言葉は、相変わらず短いながらも安心したかのような落ち着きがあった。
*
山道に簡易的な休憩場所はすぐに作られた。
マリナ・ブライスという名の魔術科の候補生が雑嚢から小さな紙を二枚取り出して短めの魔法句を詠唱すると、五人が収まるに十分な広さのシートと、雨よけの天蓋を形作った。魔力を籠めた紙に古代文字を刻み特定の効力を発揮させる文書魔術。知識として存在は知っていたが、実際に見たのは初めてだった。先ほどまで彼女が乗っていた絨毯のようなものも紙であり、“風送”という文書魔術によるものという。
紙製のシートの上にイトは横たわり、痛む身体を休める。少しだけ、雨が小降りになってきた。
「ふぅ……」
一息つく。すぐ隣にはカティが座っている。先に倒木で休憩した時よりも目が虚ろで、疲労を色濃く見せている。
「ヤマノイさん、水とかいる?」
イフジが覗き込んで尋ねる。
「あ、あの、私は大丈夫ですけど……カティちゃんに、お水を分けてくれませんか……?」
「だって。マリナ、いいかな?」
「ええ、任せて。水筒、渡してもらっていいですか?」
「あ、じゃあ、カティちゃん、水筒を……」
「うん」
イトに促され、カティが空となった水筒を出すと、ブライスは蓋を開けて注ぎ口の上で文庫本を開く。
「“水送訴法”」
ブライスが魔法句を告げると、文庫本から水が滴り落ちて水筒の中身を満たした。
「えっと、ドレクスラーさん、ちょっと出し方に抵抗あるかもしれませんが、ちゃんと飲める水だから安心してください」
ブライスがカティに対して少しぎこちなく笑いかける幾ばくか緊張しているように見える。もしかしたら人見知りするところがあるのだろう。自分も似たような気質だから、何となく通ずるものがある。
カティはブライスから水筒を受け取り、こくこくと水を飲む。相当喉の渇きを覚えていたのだろう。それでも、肺病薬の服用のためにと自分の水を飲むことを拒んだカティの想いが、重く、痛く、嬉しい。
「ふぅ……あの、ありがとう、ございました」
カティが頭をさげ、ブライスが問題ないと返す。
伏せていたため少しばかり痛みが弱まってきたので、イトも半身を起こして改めて礼を述べる。
「その、私とカティちゃんを助けて頂いて、本当にありがとうございました」
「いいの、気にしないで。それにしてもヤマノイさん、すごく具合悪そうだけど何があったの?」
出会った時と同じ笑顔で、リストが尋ねた。
「え!? あ、あの……私……」
答えづらい。言いづらい。けれども、恩人に尋ねられて答えないというのは礼に逸するように思えてならない。
「その……生理が、重く、て……」
おずおずと言った瞬間、イトは恥ずかしさで頬を真っ赤にして手で顔を覆ってしまった。
しかしながら。
「あー……それは確かにつらい」
イフジは自分を省みるように苦笑した。
「うん、なら仕方ないね」
リストは変わらぬ笑顔で納得するように頷いた。
「わかります。すっごいきついですよね……身体が冷えると特に……」
ブライスは真摯に共感を示した。
反応は三者三様ではあるが、イトに同情するのは一致していた。
「あの……なんか、ごめんなさい……」
理由もなく、何となく謝ってしまうが、彼女たちの反応にイトは心が軽くなるような安心感を抱いた。
「じゃあ、ドレクスラーさんはヤマノイさんをずっと背負って?」
「うん。途中から、だけど」
ブライスの言葉をカティが首肯すると、イフジが驚嘆するように言った。
「マジかー。これはわたしも負けてられないかも……ところで、ふたりはもう歩けそう? そろそろ出発しようかなって」
「わたしは大丈夫。イトは……」
「わ、私も……うくっ!」
吐き気は収まった。頭痛も軽い。だが、立ち上がろうとするとまだ鈍痛が下腹部に響く。イフジとマリナは心配そうにイトの様子を見て言った。
「ありゃあ……これは、きっと寝てる方が楽だよね。マリナ、“風送”にヤマノイさんを一緒に乗せられる?」
「うーん、一緒には無理ね、一人用だから。でも、操作なら私が乗る必要ないし、私が降りてヤマノイさんに乗ってもらうわ」
「そんな! だって、私たちは会ったばかりで……」
「い、いえ、ここで会ったのも縁ですし、同じ騎士候補生仲間ですから、助け合わないと!」
ブライスの言葉はどこか固かったが、それは初対面のイトと会話する緊張感。それ以外の無理は感じられず、ブライスは本気でイトの体調を慮っていることが伝わった。
「じゃあ、マリナの次はわたしがヤマノイさん背負うねー」
「え」
イフジの提案に、カティがぴくりと反応する。それに気付いたリストが、やはりにこにこと笑みながらカティに言った。
「確かに、サヤに任せた方がいいかも。ドレクスラーさんだって疲れが溜まっているみたいだし、無理するのはよくないと思う。ね?」
「……うん」
どこか圧のあるリストの言葉。思わずそれを肯定してしまったカティは、少しだけ悔しそうな表情だった――間違い無く、イト以外は気付いていない表情変化。
「ごめんなさい、リストさん、ブライスさん、イフジさん、お願いします……」
「気にしない気にしない。マリナも言った通り、同期の誼」
イフジはへにゃりとした笑顔を見せて手をヒラヒラと振り、先頭に立って言った。
「よし、じゃあ行こう、みんな!」
そして、イトとカティの二人から、イフジ、ブライス、リストを加えた五人編制で山道を進む。
イトは最初はブライスの飛行文書の上で横になりながら、次にイフジに背負われながら、次にカティに背負われ、後半では魔術を行使する体力を失ったブライスもイフジに背負われて進んでいった。
雨は既に止み、雲は晴れて夕陽を見せ、傾斜は少しだけ緩くなり、視界が開けてくる。
夕焼けの中に、ゴール地点を示す山頂にある宿舎のシルエットが見えてきた。
「やった! もうちょっとで頂上だ!」
ブライスを背負って先頭を歩くイフジが、明るい声を上げる。
「ねえ、サヤ、下ろしてもらっていい? 流石に背負われたまま教官に会うのはみっともない……」
「はいよー」
ブライスに請われ、イフジは彼女を背から下ろした。ふたりの様子を見て、カティも背中にいるイトに尋ねた。
「イト、どうする?」
「私も下ろしてもらっていいかな……?」
「うん」
カティの背から下り地面に足を付ける。下腹部はまだ痛む。けど、歩けそう。
「あう……」
少し足を動かしたらふらついた。ずっと歩いていなかった反動かもしれない。
「支える。わたしの腕に掴まっていて」
「ありがとう、カティちゃん」
カティの腕を掴みながら、五人で歩く。山頂までの距離を縮めていくと、宿舎の他に人影が見えてきた。
「うむ……?」
雪のように白い肌と銀の髪。赤い瞳の年若い女性。ユキノヲ・オキ教官。24歳の若さで極東武術科の主任教官を務める剣客。
待機していたオキ教官が、山頂に到達したイトたち騎士候補生を迎え入れた。
「まさか、今年は頂上到達者が出るとは……しかも五人も」
「はい! 第十六班、サヤ・イフジ、マリナ・ブライス、フィーネ・フォン・リストの三名、山頂に到着しました!」
オキ教官の前に辿り着くと、イフジは快活に報告を行った。結構な時間、自分やブライスを背負って歩いていたはずが、彼女は疲れを見せる気配が無い。相当、イフジは体力があるようだ。
「だ、第十八班、イト・ヤマノイ、カティ・ドレクスラーの二名、山頂に到達しました!」
イフジに負けじと、できる限り大きな声でイトも報告を行う。
二班の到達を確認し、オキ教官が、ふっと笑う。
「うむ。素晴らしい成果だ。良くやった」
いつも険しい表情をしている印象の彼女だったので、イトには意外性があり――そして、そのオキ教官がイトの顔を訝しむように覗き込んだ。
「ところで、ヤマノイ、お前、すごく顔色が悪いが……何かあったのか?」
「あ、きょ、教官……私、その……」
「ヤマノイさん、途中で歩けなくなるほど生理痛が酷くて、具合が悪いそうです」
「はわ!?」
イトが言い淀んでいる所に、リストがにこにこと笑いながら事も無げに答えた。
「馬鹿者! それなら何故教練を続けた!」
「ひゃうっ!?」
その言葉を受けて、オキ教官が怒鳴った。事情を知ったオキ教官に、五人はたっぷりとお叱りを受けた。
生理が重くて体調が厳しい時にはしっかり申し出て休養するようにと、オキ教官から厳命を受けた。ちゃんと理由を申告すれば、その分、評定には考慮すると付言して。
ただ、オキ教官は一方的に叱るだけでなく、そういうことをしっかりと説明しなかった教官側の落ち度も述べ、その点については謝罪をした。
教官に叱られたのは、怖かった。母以外の人に怒られたのは、初めてだった。だけど、オキ教官が怒ったのは、候補生たちの身体を慮ってくれた情によるものだとイトは理解できていた。信頼できる教官だと認識した。
オキ教官の叱責が終わって山頂宿舎に移った後、イトは第十六班の面々に慰められたり、五人で叱られたことを反省したり、各々の騎士学校生活の話をして笑いあったりした。つらかった。きつかった。カティに対して申し訳なかった。それでも、最後は楽しい記憶で上書きにされた。
山岳教練を通じて、イトは家族以外に初めて信頼できる大人に出会い、カティ以外に初めての友人と得ることになった。
(続)
 




