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騎士候補生少女譚  作者: 柳生 劣情(文章)&春畑 晴燕(設定)
第三章 祈りの行方
10/71

黒い夜

 深夜。カティは目を醒ます。

「ん……?」

 薄目から見える、窓から漏れ入る月明かりの部屋の景色が、自分が眠る前とは異なっていった。

 眠りに落ちる前から変わらず、左手は確かにイトと繋いでいる。だが、我が身は畳の上に敷いた布団ではなく、ベッドの中にあった。

「夢……?」

 カティは小さく呟き、自身が夢を見ていたことを確認する。十歳の頃、まだ、カラザ地区のヤマノイ別邸で過ごしていた頃の昔の夢。

 呟いた自分の声は、確かに十歳の頃よりも大人びていた――そうだ。今の自分は十七の年で、ここはカラザ地区のヤマノイ別邸の子供部屋ではなく、エイリス地区の女子高等騎士学校学寮。

 夢だ。あの頃の夢を見ていたのだ。あの頃はイトがいて、まだツムギさんがいて、まだ母親がいた。

 そして。

「――――」

 声が聞こえた。イトの声だった。

「イト……?」

 首を左に向ける。イトは目を閉じ眠りに就いていた。だが、その顔は歪み、閉じられた瞼の隙間から涙が零れていた。

「かあさま……」

 イトは、小さく、苦しげに呟いていた。

「かあさま……いっちゃやだ……やだぁ……」

 呻くように、啜り泣くように呟いていた。

「やだよぉ……かあさま……」

 イトは、悪夢に魘されているようであった。

「イト、また……」

 カティは悲嘆に満ちた声を漏らす。

 イトは頻繁に悪夢に魘されている。少なくとも、カティが夜に目を醒ました時のイトは、必ず悪夢を見ているようであった。

 何の夢を見ているのか、カティには察しがついていた。その漏れ出る言葉から、きっと七年前のことを見ているのだろうと。

 いつも、同じ嘆きだった。一度起こしても、再度眠りに就けばイトは同じ慟哭を発していた。

「大丈夫」

「やだ……いかないで、かあさま……」

 だからカティはイトを起こさずに、ただ、彼女と繋いだ手の力を込めることを選んだ。

「わたしが、いるから」

 自分の存在を確認させるかのように、握った手を強める。そうすればイトは、いつも穏やかな眠りに戻ることをカティは知っている。

「かあさま……かあさま……ぁ……かあ、さ……ま……」

 少しずつイトの啜り呻く声が小さくなり、静かな眠りへと落ち着く。

「おやすみ……」

 カティはイトを起こさないように小さく言い、目を閉じる。

 闇の中で、カティは思い起こす。

 わたしたちの生き方が変わったのは、自分が先ほどまで夢を見ていた十歳の年。夏が過ぎて、秋の頃。

 今夜と同じように、満月だった。


    *

 

 七年前の秋の昼過ぎ。カラザ地区。ヤマノイ別邸。

「ツムギお嬢様、レーナ様、誠に、申し訳ございません……!」

 座敷にて、ツムギとその隣に座るレーナを前に短髪白髪で口髭を生やした老人が深々と頭を下げる。使用人のタキガワ翁。彼の右腕には添え木が包帯で巻き付けられていた。

「大丈夫、謝らなくていいよ、爺や」

 タキガワ翁の謝罪を受けて、ツムギは慰めるように言った。

「それに、手は大丈夫なの? まだ痛むでしょ?」

「へえ、まあ、それは……」

 左手で包帯の巻かれた右腕をさすりながらタキガワ翁は口ごもる。ヤマノイ別邸の庭木の剪定をしている最中、脚立から足を滑らせて転落し腕を強打。レーナの見立てでは骨折しており、彼女により応急措置が施されていた。

「ですが、わしのことよりも、このままではツムギお嬢様の通院が……!」

 ヤマノイ別邸からカラザの町までは距離があり、そのためツムギの通院や別邸の生活物品購入のために町へ出る際は馬車を使用していた。その馬車を馭しているのが、タキガワ翁。

 そのタキガワ翁は利き腕を骨折しているため馬車の操縦は不可。彼の老妻や十歳のイトやカティが馬車を馭すことは不可能である。また、肺病を患っているツムギが馬を駆ってひとりで通院することも憚られる。

「なら、私が馬車でツムギを送り迎えするわ」

 故に、ヤマノイ別邸で唯一馬車を扱えるレーナが、そう自ら提案する。

「ですが、レーナ様は……」

「爺やさん以外だと私しか馬車を扱えないのよ。ツムギもそれでいいわよね?」

 タキガワ翁を制してレーナがツムギに決定を求めた。しかし、レーナの提案にツムギも顔を曇らせる。彼女の顔には、はっきりとした不安が見て取れた。

「レーナ、いいの……?」

「……終戦から八年も経っているのよ。大丈夫」

「そう……かな……?」

「そうよ。ツムギは心配しすぎ」

 レーナはツムギを安心させるかのように、彼女に対して笑んだ。

「それに、爺やさんだってちゃんと医者に診て貰わないと駄目よ。私ができるのはあくまでも応急処置。今日のうちに私が馬車を出すから、町へ行きましょう」

 レーナは立ち上がり、ツムギやタキガワ翁を促すように言った。その声には、何処かしら自分自身を奮わせるようなものも存在していた。

 以降、レーナがヤマノイ別邸の買い出しやツムギの検診の送迎を行うようになる――それが彼女たちの分岐点となった。


    *


 数日後。カラザの町。

 快晴の街路をレーナとイトは並んで歩いていた。保養地として著名で周囲に上士や貴族の別荘地が立ち並ぶカラザの町は、別荘所有者相手の商業や旅客相手の観光業が主要産業であり、全体的に洗練され華やかな土地である。しかしながら、彼女たちが現在する位置する裏通りは人気が少なく、賑やかな表通りとは対照的に静けさの中に古い家々が立ち並んでいた。

 屋外には他に人の姿も無い中で、イトは右手でレーナと手を繋ぎ、左手には金平糖が入った紙袋を提げて歩く。裏通りに入る前にレーナが菓子屋で買ってくれたもの。

「ツムギには秘密ね。それに晩ご飯食べられなくなると怒られるから、全部食べちゃ駄目よ」

「わかりました、レーナさん」

 言われて、後々に母に見つからないよう、予め袖の中へと隠す。帰ってからカティと一緒に食べよう。

 今日は母の通院日であった。イトは薙刀の稽古もなく、母にねだって町へ遊びに行くことを許され、レーナの馭する馬車でカラザ地区の中心街へ。カティも誘ったが、断られた。予想はしていたがやはり少し寂しい。

 母の診察は通常であれば短時間で終わるため掛かり付けの医院内で待っているのであるが、今日は長めの検診があるということなので、終了までレーナとカラザの町を散策すると共に母からの頼まれごとを請け負っていた。

「さて……ここね」

 そう独りごちながら、レーナが朽ちたような木造家屋の前で足を止める。入口には“誠虞堂(せいぐどう)”と書かれた看板が掲げられていた。母からの依頼の目的地。“グ”帝国の伝統医学に基づく薬剤を取り扱う店。ツムギの肺病に効く霊薬を、カラザの町で唯一扱っている場所である。

 処方箋を予め医師からレーナが受け取り、母の検診中に取りに行くような形となっていた。普段は母が検診後にひとりで来店していたため、レーナもイトも誠虞堂に入るのは初めてであった。

「すごく古い建物ですね……」

「そうね」

 周囲の家屋に比較して一際老朽化したような雰囲気故か、イトはどことなく誠虞堂という場所に薄ら寒い嫌悪感めいたものを抱いてしまう。一方、レーナは気にもしてないようで罅の入った曇り硝子の戸を早々に開け、手を繋いだまま共に中に入る。

「う……」

 イトは思わず声を漏らす。暗い店内は、苦味を感じるような独特の鼻につく臭気に満ちていた。白と薄緑の中間のような色をした壁に、墨書きの文字のある古びた札の貼られた壺や硝子瓶が並ぶ棚。

 奧のカウンターでは顔の長い老店主が新聞に目を落としていた。緩くウェーブのかかった白髪。たるんだ頬の肉。丸眼鏡の下にある落ち窪んだ細い目には薄暗い陰がかかる。

 店主の老人は、イトに恐怖感でも不快感でもない、形容しがたい忌まわしさを覚えさせる空気を滲ませていた。

「こんにちは。これを」

 カウンターまで進んだレーナが医師から預かった処方箋を出すと、誠虞堂店主は新聞を畳み置き、処方箋に視線を移し変えた。

「ああ、ヤマノイさんのか……家の人かね?」

 店主の喋り方はぼそぼそとしていて声は小さかったが、不思議とはっきりと耳に入るものであった。

「ええ、代わりに薬を頼まれて取りに来たの」

「そうかね」

 ぬるりと、丸眼鏡の奥の瞳がレーナへ、そしてイトへと見定めるように動く。

「―――!」

 店主の瞳に、イトは立ち竦む。老人の瞳が、一瞬だけ陰惨な光を発したように見えてしまったからだ。

「ふぅむ……」

 溜息のような声を出しながら店主は立ち上がり、曲がった背を向けながら、店の奥へと消えていった。

「…………」

「どうしたの、イト?」

「え!? あの、その……なんでも、ない、です……」

 イトの様子に某かを感じてレーナが声を掛けるも、イトは口を噤む。

 言葉にできないから。理由など無いから。それでも、ただただ何故か、あの老人に不吉な印象を抱いてしまったから。初対面の人に、それも、母の病に効く霊薬を提供してくれる人に対してそんな悪印象を持ってしまう自分を恥じる思いもあったから。

「そう?」

 レーナは訝しみながらもそれ以上は追及せず、直に店主が紙袋を持って戻ってきた。

「ほら、これだ。ヤマノイさんに渡してやってくれ」

「どうもありがとう。お代は置いておくわね」

「ああ……うむ、丁度の額だな。受け取っておくよ」

 レーナが薬の入った紙袋を受け取って代金を支払い、共に店を出る。

「ふぅ……はぁ。うん」

 自然と、イトは深呼吸をしてしまう。肺中に収まる誠虞堂の澱んだ臭気を、清涼な外気と入れ替える。誠虞堂店内にいたのは短時間ではあり外の様子は入る前と全く変わっていないのにも関わらず、入店前よりも爽やかで晴れ晴れしているようにイトには見えた。それほど、あの店には得体の知れない嫌悪感があった。

 ただし、その嫌悪感はイトのみであるようで、レーナにはそういった色は一切窺えず、事も無げに明るくイトに声を掛けた。

「ねえ、イト、まだツムギの検診が終わるまで時間もあるし、小間物屋にでも行く?」

「え、本当ですか!?」

 レーナの魅力的な提案に、イトは顔を輝かせる。母に頼んでまで町に来た楽しみが、小間物屋。かわいらしい小物や装飾品を飾ることが、イトの数少ない娯楽であった。寄れるかどうかは母の気分次第であったが、レーナが独断で決めてくれた。母に後で叱られる可能性も過ぎったが、イトの内では喜びが勝った。

 丁度、そろそろ新しいものがほしいと思っていたし、折角だからカティと揃いの物を何か買いたい。喜ばしい故に、カティが来なかったことが惜しい。

「ええ、もちろん。イトに似合う髪飾りでもあれば買ってあげようかしら」

「ありがとうございます、レーナさん! 」

 レーナは微笑みながら大喜びするイトの頭を撫でて、もう一度手を繋ぐ。

 小間物屋に行くのがとても楽しみだった。その楽しみで心を覆い、イトは無意識に誠虞堂店主の不気味な記憶を忘れようとしていた。


    *


 更に数日後。ヤマノイ別邸座敷。夜。

 イトは縁側に腰を掛け、夜空を見上げる。煌々と輝く満月に、目を細める。眩しく、美しい。

「綺麗だね」

「うん」

 隣に座るカティは、両手で団子を持ってもぐもぐと頬張りながら返事をした。

 二人は同じ白地に紺の尾花柄が入った浴衣姿。縁側の端には、小瓶に入れられたススキが飾られている。

 この夜は、“観月(みづき)”と呼ばれる極東系レゼ人の行事がヤマノイ家で行われていた。

 秋の頃、月の満ち欠けから満月になる夜を割り出して、その夜に月を観賞しながらススキと団子を供える。

 極東民族には月を愛でる美意識や習慣が古来より広く共有されているとされ、極東系レゼ人にもその独自慣習が受け継がれている。観月に代表される月を愛好する性質から、ほぼ古語・死語の類であるものの、レゼ国においては極東移民の末裔に対し“月愛づる民”という美称もあるほどである。

 他にも極東民族は月と同じく桜花を愛する伝統もあるとされているが、レゼ国自体が桜を国花と定める土地柄であるため、そちらについては極東系レゼ人の独自性を強調する文脈においては余り語られずにいる。

「ほら、カティちゃん、口元に残っているよ」

「うん、ごめん」

 イトはカティの口元に付いた餡の残りを懐紙で拭う。カティの団子を食べる仕種が小動物っぽくてかわいらしく、イトはついついくすりと笑ってしまう。背は自分よりもずっと高くなっているのに、やはり妹のように思えて愛おしい。

 このように満月を眺めながら、ススキを飾って団子を食す観月の由来はよく分かっていない。純粋に満月の美しさを愛でるための風習とも。秋の収穫を感謝するための催しだったとも。或いは、極東神話における極東民族の始祖への求婚譚にて花の女神に敗れた月の女神を慰めるための祭祀の名残なのだとも――いずれにしろ、その由来に纏わる諸説の如何は、イトにとっては些細なことであった。

 綺麗な月を見るのが好き。タキガワ媼が作った餡入りの団子を食べられることが好き。そして何より、カティと共に静かに過ごせる今の時間が好きだった。

「カティちゃん、髪飾り、似合ってるね」

「うん。ありがとう。気に入ってる」

 カティは椿を象った髪飾りを付けていた。同じものをイトも付けている。母の検診日に、レーナと小間物屋で買ったもの。自分が付けているものはレーナに買ってもらったものだが、カティが付けているのはイトの小遣いから購入してプレゼントをした。

 検診を終えた母に、断り無く小間物屋で買い物をしたことをレーナ共々叱られることを覚悟したが、母からは叱られるどころか、椿の髪飾りを付けたイトを見るなり「かわいい」「似合っている」「さすがはわたしの娘」ととても上機嫌であった。どうにも検診でいい結果が出たらしい。

 その後、観月も近いこともあってカラザの町で新しい浴衣も見繕った。今着ている尾花柄の浴衣。母の機嫌がとても良かったため、ダメ元でカティと揃いで着たいと我が儘を言ってみたら母はすんなりと了承してくれた。そのため、イトとカティはお揃いの浴衣にお揃いの髪飾り。尤も、母の検診に同行していなかったカティの浴衣は目測で買ったため、裾が少し短めではあったのだが。

「気に入ってくれて嬉しいな」

「うん。でも」

「でも?」

 カティはイトの方に顔を向けて、ふっと笑った。

「イトの方が似合うと思う。とっても、かわいい」

「え!?」

 カティの言葉に、イトの頬はぼっと熱を帯びたになる。カティに、こんなことを言われたのは初めてだった。

 当のカティは、その言葉を発する前と変わらず小さく笑みながらイトを見つめていた。カティの表情は大人びていて、美しく見えた。

「カ、カティちゃん、もうっ!」

 気恥ずかしさの余り、イトは目を逸らす。自分はどんな反応をすべきなのか、イトはわからず戸惑ってしまう。

 そんな娘のどぎまぎを知ってか知らずか、ツムギは覚束ない足どりで後ろからイトに近づき、不意にしな垂れかかる。

「イトちゃーん、お団子おいし~?」

「わっ、か、母様!?」

 ツムギはしな垂れかかりながら、顎をイトの肩の上に乗せる。酒臭い。母もまた、イトやカティと同じ尾花柄の浴衣。あの日一緒に購入したもの。娘たちと揃いの浴衣を買うという、今にして思うとあの時の母は稀に見る機嫌の良さである。

「ツムギ、イトに迷惑かけないの」

 後ろからレーナの呆れるような声がかかった。

 イトとカティの子供組は団子のみだが、母とレーナは観月だからと珍しく酒を飲んでいた。尤も、レーナは手に杯を持ち酒に口を付けているが、母とは違い酔った素振りはあまり見せていない。普段であれば食事の際も背筋をぴんと伸ばしている彼女が、徳利の置かれたテーブルに肘を置いて少しばかり行儀悪く座っている程度であり、表情も黒いシャツとズボンの服装もいつも通りであった。

「はーい、ねえ、レーナぁ、もういっぱいちょーだい」

「駄目。ツムギ、あなた弱いんだから」

「むー、レーナはやっぱり意地悪だなぁ」

 ツムギは立ち上がり、頬を膨らまして抗議する。その様子を見上げて眺めるイトは、やはり我が母ながら大人げないなと苦笑してしまう。

「イト、ツムギみたいなのになっちゃ駄目よ」

「あはは……」

「ひどーい! イトちゃんはわたしの娘なのに~!」

「きゃっ! もう、母様ったら……」

 再度、ツムギが後ろからイトに抱きつく。レーナはその様子を笑いながら眺め、カティはイトの隣で黙々と団子を食す。

 賑やかであり、穏やかな夜だった。

 今日も幸せな時間が過ぎ、そしてまたいつも通りの明日が来る――はずだった。


     *


「イトちゃーん、レーナがいじめるー」

「か、母様、あわわ……」

 酔ったツムギはイトの背中を抱きながらぐずり出す。普段よりも変なテンションの母親に、イトは困惑する他無く、隣にいるカティはいつの間に眠たげにうとうとしだしている。

 そんなイトとツムギを見かねてか、レーナが助け船を出した。

「はいはい、私が悪かったわ。ツムギこっちおいで」

「ぬー、全然謝られている気がしないんですけどー」

 レーナに言われて、ツムギはイトへの抱擁を解き、彼女の元へ。

「カティちゃん、わたしたちも行こう」

「う、ん……?」

 母がレーナのいる座敷の方へ移るに伴い、縁側にいるイトとカティも同じ場所へ。眠い目をこするカティの手を引きながら、テーブルを挟んで母とレーナの向かい側に付く。

「ほら、お酌して」

「わたしから言うんじゃなくて自分で言っちゃうの、それ。まあ、いいですけどー」

 ツムギは徳利を持って、隣に座るレーナの杯に酒を注ぐ。

「はい、どーぞ」

「どうも」

 いつの間にか、母はレーナにぴたりと肩をくっつけていた。肩を寄せ合う彼女たちの様子を、イトは何故か見てはいけないようなものを見るような気分となってしまう。

「おいしい?」

「ええ」

「でしょー。お酌する人が良いもんねぇ」

「そうかもね」

「わ、珍しい。レーナがデレたー」

 酔った母とレーナが他愛のない遣り取りをする最中、突如として座敷の襖を貫いて廊下の先から玄関戸を激しく叩く音が響いた。

「んー? 誰か来たのかなぁ?」

 その音を聞いてツムギが緩んだ声を出す。

「こんな時間に……?」

 イトが無意識に抱いた疑念を口に出す。自分の言葉が耳に入ると同時に、ぞくりとしたものを感じた。薄寒い嫌悪感。どこか似た感覚を少し前に覚えた記憶がある。あれは確か――

『へい、どなたで』

 襖で隔たれた廊下の先から、使用人のタキガワ翁の声が聞こえた。彼が応対に出たらしく、戸が開かれる音が聞こえる。そして。

『な……! お、おやめくだされっ! 何をなさいますか!?』

 何かがぶつかり合うような音。硝子の割れるような音。そして、タキガワ翁の怒声。

「え……?」

「イト!」

 廊下から聞こえてくる異様な音にイトは絶句する。彼女が怯える姿を見たカティは、イトの左手を握る。不安な時に、繋いでくれるカティの手。それでもイトの薄寒い嫌悪感は拭えなかった。

「カティちゃん、怖いよ……!」

 怯えて震えながらカティに身を寄せる。カティは右手でイトの手を繋いだまま、守るように左手を彼女の背中に回した。

『ここはヤマノイ家の私邸ですぞ! このような非礼、許されるはずが……ぐ、ぬ、がああああっ!』

 タキガワ翁の悲鳴があがり、複数人の荒い足音が聞こえた。

「レーナ、爺やが!」

「ええ、これは賊かしら。それとも……!」

 母の声を受けてレーナが素早く立ち上がり、ベルトに備えられたホルスターから拳銃を取り出し、弾を込める。

 彼女の主武装は長銃だが、予備として拳銃を携行していた。この穏やかな時間になるはずの観月の夜であってもそれを手放さないのは現役騎士としての職業意識か。或いは。

『ひぃ、なんですか、あんたら!?』

 廊下を駆ける複数の足音に、タキガワ媼の悲鳴じみた声と陶器が割れる音が混ざった。おそらく、酒か何かを座敷に運ぶ途中で侵入者と遭遇したのだろう。

「か、母様ぁ……」

 耐えられずにイトは、助けを求めるかのように母親を呼ぶ。

「イトちゃん、大丈夫。大丈夫よ」

 母の声は力強かった。その眼差しは警戒するものがあり、既に酒気が完全に抜けていた。いつも幼げな振る舞いをする母を、初めて頼もしいと感じた。

 それでもやはり、薄寒い嫌悪感は消えるどころか強くなっていく。そうだ、この感覚は――誠虞堂という建物に、そこの老店主に感じたものと同じだ。どこか不吉な空気を滲ませる老人の顔が、イトの脳裏に過ぎった。

 襖が荒々しく開かれる。丈長の青墨色をしたフロックコートに同色の官帽を被った男を先頭に、七人の男女が座敷に闖入する。先頭の男は腰に剣を納めているが、それ以外の者達はそれぞれ武器を手に携えていた。槍、クロスボウ、短剣、打刀、ハルバード、錫杖。

 先頭に立つ浅黒い肌をした男のみならず全員が同じ服装をしており、コートの襟には五つ花弁の桜花を象った記章を付けている。レゼ国の騎士団所属者を示す記章。記章の形や種類により、その所属を区別できる。彼らが付けているのは、鈍色の桜花記章。それは。

「レーナ・ドレクスラー……だな」

 先頭に立つ浅黒い男が、レーナに視線を向けながら低い声で言った。銃を向ける彼女に対し、一切臆する様子を見せていない。彼が集団の頭目らしく、男が声を発すると同時に後ろに控えていた男女が武器を構える。

「見ての通り、抵抗は無意味だ。まずは武器を下ろしてもらおう」

「この制服と記章は……“特憲(とっけん)”ね。わかったわ」

 レーナは言いながら、力なく肩を落とし拳銃を投げ捨てる。

「私もここまで、か……」

 彼女の声は溜息に似ていて、はっきりとした諦念があった。

 “特憲”。正式には“近衛騎士団(このえきしだん)監察局(かんさつきょく)特別憲兵隊(とくべつけんぺいたい)”。戦時逃亡を初めとする軍法違反者の捜査・取締や諜報活動を行う騎士団内部警察たる監察局。その監察局に所属する、不正を犯した騎士の制圧・逮捕を任務とする急襲部隊が特別憲兵隊――通称“特憲”。

 かの仰々しき“特憲”の騎士がヤマノイ別邸に踏み込み、レーナを名指しした。それの意味することは、つまり。

「レーナ・ドレクスラー。貴様は戦時逃亡犯として監察局に登録されている」

 浅黒い男が令状を広げて見せる。令状に綴られた文字の後ろには、騎士団公文書を示す桜記章の透かしが入れられていた。間違い無く、この男達は“特憲”の騎士であり、少なくとも令状に書かれている内容は()()()()()()()()事実である。

「我々に素直に同行するのであれば、手荒な真似はしない」

「レーナ……!」

 母が声をあげると同時に、男性騎士の持つクロスボウの矢先が向けられた。レーナはツムギに動かないよう手で制し、告げる。

「抵抗はしません。従います」

「そうか。連れていけ」

 浅黒い男の指示を受け、ハルバードを持つ男性騎士と打刀の男性騎士がレーナに手錠を付ける。レーナは一切抵抗せず、言葉通り騎士達の拘束に従った。

 イトはカティと抱き合いながら、それをただ黙って見つめるしかなかった。唖然としていた。信じられなかった。現実離れしていた。身体が全く動かなかった。声が発せられなかった。思考が停止していた。ただただ、身を竦ませる以外のことができなかった。

「フィルモア主監、もうひとりの方は如何いたしますか?」

 副官らしき槍を持った女性騎士が、フィルモアと呼ばれた浅黒い男に尋ねる。何故か彼女の口調は予め決まった台詞を棒読みしているかのような違和感があった。

「逃亡犯蔵匿の嫌疑がある以上、そちらの女も調べなければならん」

 レーナの拘束決定を下した時とは異なり、フィルモアも副官と同様に演技のような喋り方であった。彼らの口調も相まって、イトは目の前で繰り広げられている様相が現実とは思えなかった。思いたくなかった。

「令状はないが、我々には緊急拘束特権がある。自ら協力してくれることが望ましい。だが、そうでなければ――」

「待ってください! ツムギは……彼女は私の罪とは無関係です!」

 フィルモアの言葉の途中でレーナが叫ぶ。自身が拘束される最中も冷静さを失わなかった彼女が取り乱す。こんなレーナの姿は初めて見た――それ故にやはり、現実感がない。

「……それは我々の判断することだ。行け」

 フィルモアの指示を受け、短剣、錫杖、クロスボウの三人の騎士がツムギを囲んだ。

「やめて! やめなさい! ツムギは無関係よ!」

 レーナが悲鳴を上げる。しかし、ツムギはレーナを諭すように言った。静かに、そして、はっきりとした強さのある声で。

「いいの、レーナ」

「ツムギ……!?」

 母は真っ直ぐにフィルモアを見据えた。凛とした、騎士の家系に生まれた女の立ち姿。初めて見る母だった。

「フィルモア殿、でしたか。わたしも抵抗はいたしません。同行します」

 母は淡々と告げる。その言葉を聞いた瞬間、イトは一気に現実に引き戻された。

「母様、ダメ! 行かないで……!」

 イトはカティから身体を離してツムギに駆け寄り、母親の浴衣に縋り付く。この瞬間になって、イトは声を出すことができた。涙を零してしまった。

「やだ! 行っちゃやだ、母様!」

「イトちゃん……」

 十歳の娘とはいえど、騎士の娘として教育されていたイトには最低限の状況が理解できていた。フィルモア達の任務。レーナの戦時逃亡という罪。そのレーナをずっと留め置いていた母が“特憲”に連れて行かれる理由。

 そして十歳の娘だからこそ、イトは母に縋り付いて泣いた。行かないでと、叶うことのない望みを母に求めて泣いた。知識だけ無く母親やレーナが連れて行かれたら、もう二度と会えないのではないかという予感めいた恐怖があった。

「大丈夫、イトちゃん、泣かないで。わたしは、戻ってくるから」

「だって、母様ぁ……」

「いい子だから、ね」

 母は微笑み、指でイトの涙を拭い頭を撫でる。

 顔は優しかったが、母の強い意思を、覚悟をイトは感じ取った。

「わかり、ました……」

 イトは母に拭われた涙を再度零さないよう堪え、従う。娘の言葉を受け取ったツムギは、イトからフィルモアの方へと向きを変える。

「フィルモア殿、同行をする前に一つお願いがあります」

「何かね?」

「着替えを、させてください。わたしも上士の身分。このような格好で公の場に赴くことはできません」

「……不許可だ。時間が惜しい。カーター、ウェン、拘束しろ」

 指示を受けて槍の女性副官と短剣の女性騎士が母に手錠を付ける。願いを聞き入れられず“特憲”に拘束されるという辱めを受けても、母は動揺する素振りを一切見せなかった。

「そんな! ヤマノイ家は上士の中でも高家格のはず! こんな粗雑な扱いをするなんて――」

「レーナ」

「くっ……」

 抗議するレーナを、ツムギは再度制す。彼女の声を受けてレーナは沈黙した。抵抗は無意味どころか、ツムギの立場を却って悪くするのだと認識したようだった。

「失礼しました。では、参りましょう」

「……ドレクスラーの言うことにも理がある。監察局へ到着したら然るべき衣服を用意しよう」

「お心遣い感謝いたします」

 横にふたりの騎士が就き、レーナと共に母は連れ出される。

「ごめんね、イトちゃん。必ず帰ってくるから、待っていてね」

 座敷を出る直前、母は振り返りイトに言った。普段通りの、幼さの残る笑顔と明るい声。少しでもいつも通りの自分を見せて、娘を安心させようとする母の姿。

 その母が、座敷から騎士達に連れて行かれ、見えなくなる。

「母様……やっぱり、やだよぉ……」

 母とレーナがいなくなった座敷で、イトは嗚咽めいた声を漏らす。

「イト……」

 隣にはカティがいて、自分の左手を握ってくれていた。カティの温かさを感じた瞬間、イトの心が弾けた。

「カティちゃん、母様が……母様がぁ……!」

 感情があふれ出す。母に涙を拭いてもらったのに、再度涙を流してしまう。

「母様も、レーナさんも……やだ、そんなのやだぁ!」

 イトはカティの胸に縋りながら、慟哭し続ける。カティは何も言わず、ただイトを抱きしめ続ける。

 いつの間にか満月は雲に隠れていた。縁側から見える外の景色は、黒い夜だけが広がっていた。


(続)

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