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異変 5

 昼食を食べ終え、使用した食器の片づけを済ませた少年は、店の扉に掛けてあった休憩中であることを示すドアプレートを外しに外に出た。

 今日の予約は午前中に一件あっただけで、午後の予定は今のところ決まっていない。店じまいをする夕方頃までに客が来なければ、このままのんびりと一日が過ぎていくのだろう。

 外したドアプレートを持って店に戻った少年が、店の少し奥まった場所にある大きめの机に向かう。ペンや絵の具が置いてあるこの机は、少年が刺青のデザイン画を作製するときに使っているものだった。

 刺青というのは、実際に彫り込む段にいくまでに割と時間がかかるものだ。何度か客と会話をし、求めている刺青のイメージを聞きながらそれをラフ画としてざっと描いてみせる。何枚か描いたラフ画の中から客が納得するようなものを選んで貰ったら、今度はそれを元に、より細部まで描き込んだデザイン画を作製するのだ。特に少年の場合は、そこいらの刺青師では彫れないような細かな意匠を売りとしているため、このデザイン画の段階は非常に重要である。

 こういった作業は客がいないときにしかできないのだが、幸いなことに少年の店は大繁盛と言えるほど人が来る訳ではなかったので、今日のように予約客がいないタイミングを狙ってデザイン画を起こすことができていた。

(飛び入りのお客さんが来るかもしれないけど、それまではデザイン画を仕上げちゃおうかな)

 作業机の近くにある棚から、描きかけのデザイン画を数枚出す。ほとんど終わりかけのものと、まだ描き始めたばかりのものが混じっているが、このまま客が来なければ、今日中に二、三枚は仕上げられるだろう。別に急ぎの仕事ではないけれど、こういうものはできるときにやっておくのが一番である。

 ペンと絵の具の準備を整えた少年が、椅子に座って机に向かう。色合いや形、大きさなどの全体的なバランスを整えつつ、自分がぎりぎり彫れるくらいの緻密な模様を加えていくこの作業が、少年は好きだった。

 そういえば、あの赤の王と会って間もない頃は、こうしてデザイン画を描く時間すら取れなかった。なにせあの王、ほとんど毎日のように店に入り浸っていたものだから、落ち着いて作業をする暇がなかったのだ。最早客なのかどうなのか判らないような存在だったし、気にせず机に向かっていても良かったのだが、そんなことをすればきっとあの王は覗き込んでくるのだ。そして、いやぁ店主殿は素晴らしいデザインを描くなぁとかなんとか言ってきたのだろう。想像するだけでげっそりしてしまう。

 他の人がどうかは知らないが、少年は自分の作業を誰かに見られるのがとても苦手だった。そもそも注目を浴びるのが苦手な性分である。誰かに見られながら作業しては、恥ずかしいやら居心地が悪いやらで、普段はしないようなミスをしてしまいそうだ。

(今ここにあの人がいたら、絶対に僕が何を描いてるか覗いてくるだろうなぁ……)

 そういうことをされるのは好きではないし、それくらいのことは判りそうなものだが、何故かあの王は少年のパーソナルスペースにずけずけと入ってくるのだ。

(最初から随分親し気に接してくる人だったけど、あの頃は僕が嫌がってるの判ってた気がするんだよなぁ。……でも、最近はどうなんだろう……)

 赤の王は他人の心を読むのが得意だというし、実際に少年の胸の内も何度も読まれているのだが、どうにも最近の王は違うような気がするのだ。少年が割と本気で遠慮したいと思っていることをしてくるときも、王は少年が喜んでいると思い込んでいるようだった。まさか自分が内心で嫌がっているのを見透かして楽しんでいるのか、と思わなかったこともないが、恐らくそういうことをするような人ではない。では、なんだってああも遠慮なく少年の困るようなことばかりするのか。

(……やっぱり、変な人だなぁ)

 実はこれは、愛した相手の心の内を見透かすのは不誠実な行いである、という勝手な基準に基づいた判断の元、少年の考えを読むことを王が意識的にやめているから生じている事態なのだが、少年がそんなことを知る由はない。

(…………でも、嫌なはずなのに、なんでか嫌じゃないような気がして、だけど、そうすると胸の奥が痛いような、寒いような、不思議な感じがして、……僕、どうしたんだろう)

 漠然と抱いた不安のようなものに、しかし少年は気のせいだと言い聞かせて、作業に集中することにした。

 そうして黙々と手を動かし続け、どれくらいの時間が経っただろうか。

 不意に扉を開ける音がして、少年はペンを動かしている手を止めた。どうやら来客らしい。

 そっと玄関の方を窺えば、入口に見知らぬ男が立っていた。服装からして、この辺りに住んでいる商人か何かだろうか。

「いらっしゃいませ。ソファにお掛けになって、少しだけお待ちください」

 そう声を掛けてから、さっと画材の片づけをする。あまり待たせるわけにもいかないから、最低限ペンや絵の具が乾いて駄目になってしまわない程度で済ませてしまおう。

 そうやってざっくりとした片づけを終えてから、少年は客が待っているソファへと向かった。

「すみません、お待たせしました。刺青のご注文ですか?」

 例によって白熱電球を思わせる笑みを顔に貼り付けてそう言った少年に、客の男の方もにこりと微笑んできた。

「いやぁ、ここの店主さんはとても腕が良いと聞いてね。是非にと思ったんだよ。ああ、これ、お宅の常連さんからの紹介状ね」

 そう言った男が、二つ折りの紙をすっと差し出してくる。しかし、少年の店は特に紹介がなくても入れる店だ。紹介状があれば値引きするだとか、そういうサービスも特に行っていないから、こんなものはいちいち必要ないはずだが。

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